『古代の霧の中から -- 出雲王朝から九州王朝へ』 (古田武彦)
講演記録「磐井の乱」はなかった 古田武彦(『古代に真実を求めて』8集) へ
古田武彦
古田でございます。雨模様の中を遠路おいでいただきまして、私の話をお聞きいただくのを恐縮に存じております。
雑談めいた話から入りますけれど、さっき、ここに並べてございます『市民の古代』第三集を拝見しておりまして、非常に内容が充実といいますか、高度になって一驚しておるわけでございます。私等を乗り越えて、どんどん研究を推進して下さっている様子に驚きかつ喜んでいるわけです。
本日お話し申し上げる点は二つのテーマに分かれておりまして、前半は四・五十分ぐらいかと思うんですが、これは、従来私が申しておりました論証、いわゆる九州王朝というものの存在をめぐって、或いは邪馬壹国の存在をめぐっての論証に、新しい決め手となる論証で、再確認するというわけです。結論は従来と同じで、論証方法が私の新しく発見したと思うものである。こういうテーマが前半の四・五十分でございます。そして後半の方は一時間余りになると思いますが、今まで私自身も全然思っていなかった新しいテーマ、九州王朝にも風土記が存在したんだ、天皇家の風土記に先だって存在したんだという非常にこわい様なテーマに挑戦してみたい、これが後半でございます。そういう段取りでお聞きいただければ幸いと存じます。
まず前半のテーマでございますが三つの確証という風にプリントの方で書いておいたものでございます。この第一番目は「闕の論証」という名前をつけてみました。これは実は一昨年の終りから今日まで、足かけ三年、三木太郎さんという方と論争しているわけでございます。場所は京都新聞でございますので大阪のほうの方は御覧になる事はないと思いますが、京都新聞が意欲的に繰り返し繰り返し論争を扱ってくれています。三木太郎さんは北海道の駒沢大学の教授をしておられる方なんですが、原稿を寄せてこられると、それに私が又、お答えするという形でやってきております。でも中にはいささか感情を交えた非難めかしい事も無いではないんですが、それは問題外としまして、論争しておりますと、私自身も気がつかなかった新しい局面が出てきて、非常な収獲を得るという経験を最近いたしました。それは今年の(一九八一年)四月一日に載った三木太郎さんの論文がもとであります。
それに対して私の方で答えた論文が四月七日の京都新聞に載ったわけでございます。
先ず、前からのわたしの論点を要約させていただきます。いわゆる「邪馬臺国」の「臺」は神聖至高文字である。だからこんな字を陳寿(『三国志』の著者にして魏晋朝、正確には西晋朝の史官)が使ったはずはない。なぜなら中国人が言う夷蛮の固有名詞に彼らは好んで卑字を当てている。例えば、卑弥呼の卑がいやしいという字ですし、又邪馬壹国、或いは邪馬臺国の邪も、よこしまという字である。馬も人間や国名に当てるのにはあまり上等な字といえない。「ヒ」に当たる、「ヤ」に当たる、「マ」に当たる音の漢字は幾つもあるにもかかわらず、わざわざこういったあまりイメージのよくない卑しい字を当てているのが事実である。これは、中国人の当時の中華思想、大国主義というんでしょうか、その立場から周辺の夷蛮は中国人からみると、格下でいやしい蛮族であるというイメージが基本になってこういう字が当てられているということは疑いない事と思う。これは私が別に初めて発見した事ではございません。従来からいわれている事を、再確認したにすぎませんが、そうするとその中で「ヤマト」という音を表す場合でも、「ト」に当たる漢字は幾つもあるんだからその中で、天子の宮殿、さらに天子その人を意味する「臺」という字を当てるはずがない。こういう事が私の論旨であることは、私の『「邪馬台国」はなかった』をお読みいただいた方には先刻御承知でございましょう。その端的な例としましては卑弥呼の場合には、「天子に詣(いた)らんことを求む」という形で書いてある。それに当る個所が次の女王壱与の時には、「臺に詣る」という風に書いてある。これは同じ意味と考えざるを得ない。そうするとやはり「天子=臺」という風に倭人伝の中でも使っている(『三国志』全体でもそうですが)ということが疑えないということを述べたわけでございます。さらに魏朝の高臣である高堂隆という人が「魏臺雑訪議」という本を書いておりまして、ここで魏の天子、明帝の事を、「魏臺」と呼んでいる。これも「天子」その人を「臺」と呼んだ明確な証拠である。こういう風な事実からしますと、先程いった「卑字の大海」の中で、こういう神聖至高文字「臺」を使うのは有りえないというのが私の論点でございました。これは先刻御承知の事を復習めいて申させていただいたわけです。
ところがこれに対して三木太郎氏は、それは違うと、その証拠にあげられた例が、非常に面白いわけですね。それは、「闕」という字の意味です。「闕」という字は三国期をさかのぼる漢代においては「天子の宮殿」を意味する言葉である。さらには「天子そのもの」をもさしていた。例えば、「闕下に詣る」という表現、これは「天子の所に詣る」という意味の時に「闕下に詣る」となるわけです。「闕」というのは本来は“天子の宮殿の門”をいうわけです。実際に門の下に天子がいるわけではないんですが、天子の前に拝謁を願うことを「闕下に詣る」と表現しているわけです。又天子を表すのに、「魏闕」(この魏は国名ではなくて、“はるかに大きな”というのが字の本来の意味)、“はるか大きな闕”という言い方で天子をさす言い方が漢代に使われているわけです。むしろ三国時代の「魏臺」というのは、「闕」に替えるに「臺」をもってしたということでございます。
三木氏は私との論争の中でそういう事実は確認しているわけで、その上にたってですが、鮮卑というグルーブがございますね。いわゆる「夷蛮」です。その鮮卑の大人、倭人伝にも出てきます大人、豪族ですね。その大人の名前、人名(固有名詞)を表記するのに「闕」の字を使っている例がある。つまり具体的には「闕機」という人名が出ている。“これは古田氏によると「閾」は「神聖至高文字」であるはずじゃないか、ところが「夷蛮」の人名に使われているではないか”、という論点が四月一日の京都新聞の反論の最後のところに決め手の様にして載ったわけです。
これは私は非常に鋭い議論だと思うんです。今まで色々論争、榎一雄さんとか、尾崎雄二郎さんとか、いろいろな人達とやってきましたが、大抵不思議と「邪馬台国」の国名問題ばかりで、それが物足りないんですが、ところがその国名では今度の三木太郎さんのが、最も鋭い論点ではないかと思ったわけです。皆さんもお聞きになって、成程と思われるでしょう。
ところが実はこの最も鋭い論点の裏に、私にとっての決定的な証拠がひそんでいるのが見いだされたわけです。といいますのは、三木さん、これがどの資料にあるか明記していらっしゃらないので、こちらで調べてみたら分かりました。これは『三国志』ではないのです。だから何処の資料と書かなかったのかもしれませんが、どこにあるかというと、王沈の『魏書』の中で、『三国志』とは本も著者も違うわけです。王沈の『魏書』の中にでてくる、鮮卑の人名なわけです。王沈の『魏書』の全体は実は現存しておりません。なんでそれが分かったかといいますと、三世紀にできた『三国志』には五世紀の裴松之という人が注釈をつけた。略して裴注。現代われわれが知っている「三国志」はみな、この裴注付き、つまり、裴松之が注を付けた形の『三国志』を使っている。紹煕本とか紹興本といった形で使われているのがそれでございます。その裴松之の注というのは、自分の意見も若干ございますが、殆どが、五世紀の時に実在していた、いろんな本、歴史書が主ですが、それを『三国志』の各条の所につけているわけです。いいかえますと、扱った事件が同じ事件である、或いは同じ人物であるという時に、『三国志』でこういっているが、だれだれのこういう本では、同じ事件をこう書いてある。その人物について、こう書いてある。対照、コントラストさせる形で注をつけるわけです。だから非常に客観的な手法である。もちろん選んで、選択して付けるというのには、裴松之の物の見方、考え方がバックにあるでしょうが。しかし話そのものからいえば対照の例をそこに付けるという中国伝来の客観的な注のつけ方なのですね。時として自分の意見があることもございますが、大体はそういうやり方をしている。その裴松之注に沢山の、おびただしい本が使われている。その殆どの本が、現在は伝わっていない。だから、非常にありがたいわけですね。そこに引用されているものによって、現在は亡んでしまって、伝わっていない本の部分を知ることができる。そういう裴松之が引用した本の中で、一番沢山引用されているものが、実は王沈の『魏書』でございます。この点は私が朝日新聞社から出しました『邪馬壹国の論理』という分厚い本の中に、尾崎さんらと論争した時と思いますが、『三国志』裴注で一番沢山引用された本のベストテンだか何だか挙げた表を書いてありますが(一六〇頁)、それを御覧になっても分かりますように、一番先頭に出ております。だから今問題の『三国志』の東夷伝の中の鮮卑伝、これは倭人伝より少し前でございます。この鮮卑伝の所に裴松之注として、王沈の『魏書』が引かれている。そこに出てくる鮮卑の人名に「闕機」というのがあるわけでございます。この王沈の『魏書』は、『三国志』より少し前に書かれたもので、陳寿が王沈の『魏書』を見ている可能性がある、というより、間違いない。なぜかといいますと王沈が死んだのは、魏から西晋に禅譲の形で国が移りましてまもなく、西晋の初め頃死んだようですね。言い換えますと壱与が貢献してきた頃、王沈は死んでるんですね。陳寿は、呉も滅亡した後、『三国志』を作りますから、王沈と陳寿は同時代人ということもいえますが、しかし明らかに王沈の方がちょつと前の世代に属するわけでございます。王沈は魏朝の人でもあるし、西晋の人でもあるわけですから、同じく魏朝の時に青年時代を、蜀で過し、蜀が滅亡して、洛陽で魏を継いだ西晋の史官になった陳寿からみますと、まさに直前の世代の人であるという事がいえるわけでございます。いってみれば、現在の私からみて、戦前に著書を書いていた人という、そういう感じでございます。
そこで問題は『三国志』の鮮卑伝に裴注が付いて、王沈の『魏書』が引用されている。そこに「闕機」という名前が出てくるわけです。ということは、いいかえますと、『三国志』の本文にも、鮮卑伝にも同じ人物が出てはいないかという事です。で、実は出ているわけです。すると、そこはどうなっているかと申しますと、「闕機」の「闕」が、「突厥」の「厥」に書いてある。“門がまえ”の「闕」でない。「厥」に換えられているわけです。ということは、この「厥」は『書経』なんかで古く使う場合は、「其の」という代名詞の字なんです。これによく出てきます。これは三世紀からみても古い書物なんです。この「厥」に書き直している。書き直しを裏づけますことは、前後が全く同じ漢字表記を使っている。王沈の『魏書』は、「弥加」、弥は卑弥呼の弥ですね。「闕機・素利」となっております。ところが『三国志』の本文では順序が変わっておりまして、「素利・弥加・厥機」と同じ人物が書かれている。そして「素利」も「弥加」も全く同じ表記で書かれている。「厥機」の「機」も同じ表記で書かれている。ところが、問題の「ケツ」だけが違っているわけです。
ということは、明らかに偶然というよりも、陳寿は『魏書』を見ているわけですから、この“門がまえ”の「闕」にかえて、突厥の「厥」に陳寿は直したと考えざるをえないわけです。なぜ直したか、ここは推察になりますが、おそらく間違いはないと思いますが、「闕」という字は漢代においては天子の宮殿、天子その人をさすのに使われていた。事実「三国志」の魏の初めの頃は、その「闕」が使われていたのではないかという感じがありますけれど、少なくとも「臺」が使われるまでは、「闕」が「臺」の役目をしていた。そういう字を曳蛮の人名に当てるのは不適切と考えて、前後はいじらずに、ここだけを替えたと考えざるをえないわけです。これに対して、『三国志』で使った「厥」の方は、意味の方からすると「其の」です。『書経』等の例です。
ということで、従来、私が『「邪馬台国」はなかった』でしたのは“推論”だったわけですね。卑字の大海の中で、天子をさす字を使うはずはない、しかも晋朝の史官で、下級官僚である陳寿がそんな事を、なんでするだろうか、他にいっぱい漢字があるのに、と。いわば、道理というか、理屈論だったわけです。実際に陳寿がそうしているのを、私が見たわけではないんですから。ところが今度の場合は、まさにそのケースのサンプルが出てきたわけです。ここで陳寿は、「臺」と同じく、少なくとも前の時代まで天子をさしていた字をぬき去って、「夷蛮」に不適切ならぬ字に替えている例がみつかってきたのでございます。そうしますと、『三国志』に関して議論しているわけですから、陳寿は一時代前の天子をさした「闕」さえも、「夷蛮」に使うのは不適当だ、表音に使うのは不適当だとこう考えた。まして、現在まさに、宮殿の中で使っている、「臺」という字、一言でいえば天子を意味する、そういう「臺」を夷蛮の国名表記に使うことは全くありえない。こういう非常にコンクリートなかたい証拠、というわけでございます。
この点、私は正直にいわせていただきますと“よかったなあ”と思ったのです。なぜかといいますと榎一雄・尾崎雄二郎さんらと議論している時に、王沈の『魏書』がさかんに出てきたんです。この問題ではないですが、例えば「壹衍[革是](いちえんたい)」。これは「壼衍[革是]」(『漢書』)を間違えたものだが『魏書』にある。だから中国の歴史書には間違いはありうるんだという議論がされた。ところが私は、“字は一般に間違わないなど”とは考えていない。あくまでも今は「壹」と「臺」が間題である。これが第一。“中国の歴史書は、字が間違わないんだ。”などという事を議論しているのではなくて、あくまでも『三国志』の「邪馬壹国」が間違いか、間違いでないかを議論しているんです。それを王沈の『魏書』を、裴松之が引いた形のものに間違いがあるかということ、「壹衍[革是]」が本当か「壼衍[革是]」が本当か、確証はいえません。むつかしいんですが、しかしどちらかが間違っている例が、王沈の『魏書』に関してあったからといって、だから『三国志』の「邪馬壹国」も間違いであるだろう、というような議論は、やはりおかしい。
壹衍[革是](いちえんたい)の[革是]は、革編に是。JIS第3水準ユニコード番号97AE
この『三国志』について議論してもらわなくては困るという事でして、王沈の『魏書』と『三国志』を一緒にしてもらっては困る。『三国志』において議論をすべきだ、という事を強調したわけです。これは先程いいました『邪馬壹国の論理』に載った榎一雄さんや尾崎雄二郎さんへの反論で出ております。そういう、ちょつと考えると潔癖すぎるようにみえた“『三国志』に問題を限るべし。”といったその立場がよかった。中国史書一般とか、魏晋朝あたりの話は、皆これに決まっているといったような議論をしていると、やはり正確ではなかったわけですね。このような議論が出てくるのを予想したわけではないですが、事の道理から『三国志』というものについて厳密に議論するということが必要です。その時代全般論も一応はいいですが、いよいよとなったら、『三国志』という、その文献で勝負をすべきなんだという事をいっていてよかったなあという感じを持つわけでございます。
ここでちょつと余分なことを申しますと、王沈の場合は、“「臺」という字を果して夷蛮に使ったか”といいますと、これは分からないですね。つまり王沈は“「臺」だって表音で使うんだから、ちっともかまわない”という一種の純表音主義者であったかもしれない。或いは“「闕」は過去の王朝の話であって、現在は「臺」を使っている。現王朝に使っている「臺」を、夷蛮に使うのはふさわしくないけれど、前の王朝に使った「闕」は、使ってもかまわない”という、立場かもしれません。そこのところは引用例の数は多いけれど、断片的な引用しかないので、そこまでは分からない。しかし陳寿に関しては、“前の王朝に使った「闕」ですら、夷蛮の表音表記に使うのをさけている。まして現在、天子をさして使ってる、倭人伝でも使っている「臺」を、表音表記に使うことはありえない。” この論証が成り立つわけですね。だから、仮にもし陳寿が「臺」という字にあたる音を、表音表記で使いたいとしましたら、ふさわしい字はいくらでもございます。たとえば、ちょつと簡単にみまして、今の「至」の入った旧漢字の「臺」ですね、これに“手ヘン”をつけますと「擡」、もう全然意味が違うわけですね。下に頭をつけますと、“擡頭(台頭)する”、“頭をもたげてくる”という意昧で、こうなると、天子の宮殿とは全然関係なし。手ヘンをつけた「擡」も、音はもちろん「タイ」です。音韻とも全く同じなわけです。これを使えば問題ないわけです。もう一つ例でいいますと、「臺」に“馬ヘン”をつけるわけです([馬臺])。そうすると音韻は同じだ、少なくとも広韻・集韻のところでは「至」が入った臺と同じ音韻としてあつかっているんです。その意味は“駕馬”、つまり“のろい馬”なんです。のろい馬なんかは「夷蛮」には非常に適切であろう、「邪馬壹国」に「馬」を使うくらいですから。こんなのを使ってもいいわけで、音韻上は同じであるというんですから、そういうのを使えばいいんで、それをわざわざ“単純に「盛土」の意味の時もございますから”とか、他の意味の場合にも使う事もありますからといって弁明しながら、日常使っている“天子を指す字”をあてる必要は、全くない、というのが私の結論でございます。
色々申しましたが、これは私にとって非常に嬉しい、「邪馬臺国」はやっぱり駄目だという、決定的な一つの論証ではないかと思うわけです。だから「いや、邪馬臺国はいいんだ」或いは「邪馬壹国でも邪馬臺国でも、どっちでもいいんだ」と、今後なおいおうとする方は、この問題について、今、私がいったことが“こう間違っているんだ。”という反証をあげずにいわれることは、無理なんではないかと、こう思うわけでございます。そういう意味で、長らく続いておった、邪馬壹国問題に対する決定的な反証が、三木さんのおかげで現われてきたということを皆さんに、御報告させていただきたいと思います。
それでは次のテーマに入らせていただきます。
[馬臺]は、馬編に臺。
次は「衙頭(がとう)の論証」というものでございます。これは倭の五王、ご存知の讃・珍・済・興・武が近畿の天皇家の王者である。応神から雄略にいたる、その中のどれかである。応神・仁徳・履中、この辺から始まって、反正・允恭・安康・雄略にいたる誰かであるということは、私及び若干の人を除いては、「定説的」になっている、とこういってよろしいかと思います。
ところがこれに対して私は、それはおかしい。これは近畿天皇家の王者ではない、ということを『失われた九州王朝』(朝日新聞社・角川文庫刊)以来申しているわけでございます。この問題についても、必ずしも私から見ますと、充分な反論を得ていないと感じているわけです。
この問題は、ちょつと復習になりますが、整理させていただきますと、従来、江戸時代前期の松下見林以来、私以前まで、一番大きな論証点にしてきたのは、人名比定でございますね。例えば、松下見林は讃は履中である、こういった場合、去来穂別(いざほわけ)という風に、遣使が中国に行って叫んだんだか、つぶやいたんだか知りませんが、とにかくそういう風に言った。それを中国側が聞いて去来穂別なんて長ったらしい、まあ第二音の「ザ」をとってやれ、しかし「ザ」って音があまりよくないから「讃(さ)」にしておけというような事で、讃と記録した。珍は、こちらが書いていった「瑞歯別」の「瑞」の字を見まちがえて、王ヘンの共通している「瑞」を「珍」にしてしまったとかいう調子で、理屈づけをしていたんです。
しかし、私はそういう考え方はおかしいんだ、これもくだくだしくいわず、ズバリ申しますと、倭の五王はいずれも中国に国書を送っているわけです。上表文を送っているわけです。倭王武の上表文は有名で、名文が長く出ております。しかし武だけではございませんで、最初の讃のところですでに「表を奉り貢献す」という言葉が出てまいります。もう讃がすでに上表文を送っているわけです。“あの文章は向うが嘘を書いたんだ”といわない以上は、ちゃんと明記してあるわけですから、確かに国書を送っている。雄略の時に、あんな名文を送れるのに讃の時に送れないという話はないですからね。名文かどうかは別にしましてもね。ですから讃も上表文を送っているんです。
そうしますと国書ないし上表文というものには、必ず自署名がいるわけです。自分の署名が。我々だって人に手紙を出すのに、自分の署名なしに手紙を出したら、どういうことになるでしょうね。受け取った方は困るだけです。まして国書というような最も公的な文書をですね、こちら側の名前を書き忘れて出すというようなことは、まず無いでしょうね。ですから必ずこちら側の自分の署名があったはず。いわゆるし表文の最後か、表書きか、おそらく両方に有ったでしょうね。これは想像であるけれど、当然のことなのですね。これは動かしようのない証拠だと思うのです。その自署名に、讃とあり、珍とありましたから向うが、そう書いたとみるのが当然の事だと思うのです。去来穂別を聞いてどこをとろうかと、聞き書きするといった状況白身が、実は今から思えば考えるのも奇妙な事でしてね。それは上表文と自署名によって書いてある、当り前の事ですね。我々あの親鸞の文書なんかをやっていたら、当然文書を扱う場合の常識であるわけです。この常識が古代で通用しないはずはないわけで、親鸞なんか以上に、さっきいったように、最も公的な文書に自署名がないはずがない。その自署名を手にしておる、中国の史官がそれをぬきにして、使者がこうしゃべったから、こう間違えて書いたという事は有り得ない。これは非常に簡単明白な反論であるわけですね。
こういう風に天皇家に結びつけた、確実な証拠と思ってきた事が、実は全然、証明になっていない。この点については反論は誰れもできてないわけですね。学者達も反論しえていないわけです。
ところが、倭の五王が積極的にどこの王者か。私は九州の王者と、こう考えたわけですが、その証明があるかというと、これも又、必ずしも充分でないんですね。少くとも濃密ではないといってもいいですね。全くないとはいえませんのは、倭王武の上表文の中に、東に毛人、西に衆夷とならびまして、北のことを「渡りて海北をたいらぐ、云々」という言葉が出てくる。朝鮮半島方面を「海北」と表現している。ところが『古事記・日本書紀』では、先程の応神から雄略まで、或いは、その他をとりましても朝鮮半島南端部をさす場合、新羅とか百済をさす場合、必ず「海西」と表現している。ところが、地図で見ますと、確かに大和とか大阪湾あたりから見ると、釜山あたりは、ほとんど真西に近い。真西とまでいわなくても、いわゆる東西南北でいえば、当然西になるわけですね。ですから「海西」と表現するのは非常に的確であるわけです。その中で「海北」と表現した例は、一例もないわけです。
ただ一例あるといわれるのは「海北道中」と言う言葉が『日本書紀』の神代の巻に出てくる。これは九州北岸部の、その場所で「海北道中」という話が神話の中で出てきているんで、近畿天皇家の四世紀なり五世紀なり六世紀なりの、そういう現在時点における、近畿を原点としての表現でないことは当然です。「海北道中」はね。だから「海北道中」とあるから『古事記・日本書紀』にも、海北があるんだというのは、やはり議論として筋違いというか、“すりかえた”議論になる。その「海北道中」を除けば、いわゆる近畿天皇家が朝鮮半島南部をさす場合は、「海西」に決っている。それ以外にないわけです。
ところが今のように倭王武は、朝鮮半島南端部とみえる所を「海北」と表現している。と、違うわけですね。それに対して、もし倭の五王を九州筑紫の王者と考えますと、これはどう見たって、朝鮮半島南端部は「海北」以外ありえないわけですね。と、いうことですから、倭の五王は九州の王者ではないか、という問題を提起したわけです。だからこれ自身も一つの論証になり得ていると思いますが、まあしかし、充分な論証というわけにいかない。特に次の七世紀の隋書倭国伝のような「阿蘇山あり」というような印象的な文句はありませんからね。宋書倭国伝の場合は、一つの徴候がある。九州の王者らしき徴候があるというにとどまっていたわけでございます。
ところがこれに対して、実は非常に確実な論証が成立するんだということを、これも今年の三月一日の夜明けですけれど、発見しまして、それを皆さんに御報告したいと思うわけです。倭の五王の記事といいますのは、今のように否定するにも、肯定するにも、充分な論証ができないというのは当然である。なぜかといえば、三国志の倭人伝、或いは隋書の倭国伝と違いまして、中国南朝劉宋の使いが日本に来た、行路記事であるとか「阿蘇山あり」というような風土・産物をしめす記事は一切ないんですね。で、あるのは殆ど、称号に関する記事である。つまり、官職の称号です。つまり倭の五王はやたらに中国の称号をほしがっておりまして、或いは自分で自称、自分で勝手に名乗っておりまして、それを追認、承認してくれと中国側にいっている。この称号問題が殆ど90パーセント以上占めている、といっていいわけですね。だから、それ以外の倭の五王の都のありかを決める記事自身があんまりないという事に基づくわけです。
そこでですね。この倭の五王の称号問題をみていきますと、どういうことがいえるかといいますと、倭の五王は中国の称号に詳しいし、又それをうまく名乗り、又要求している、そういうことになる。例えば「安東大将軍」等というのを自称して、向うに要求していますが、確かに、中国側には「安東大将軍」というのがあるわけですしね。とんでもないトンチンカンな称号じゃあないんです。それだけではございません。「開府儀同三司」と倭王武が自称して、追認してくれ、これは承認されてませんけれど。これもちゃんと『三国志』以来ありまして、宋書にも盛んに中国側に出てくる。中国側の帝紀や列伝だけじゃなくて、高旬麗王は「開府儀同三司」にすでに任命されております。それを真似して、それにせりあって、肩を並べようとして倭王は自称し、追認を要求したようにみえます。それだけではございません。あの例の新羅・百済とか、任那・秦韓・慕韓とか並べて「六国諸軍事」とか「七国諸軍事」とか「倭国王」につけて長ったらしいのを書いておりますね。あれは東夷伝・夷蛮伝では倭国しかないんですよ。高句麗伝や百済伝では、あんな長ったらしいものは出てこないんです。じゃあ倭王は勝手に名乗っているか、というと、そうじゃあないんです。といいますのは、末書の帝紀・列伝、つまり夷蛮伝以外の所をみますとね、まさにあのスタイルが出てくるのです。この場合は国。何々国。中国内部の何々国、何々国、六国とか七国とか、或いは何々州、六州とか七州、六とか七がなぜか多いんですが、その“諸軍事大将軍誰れ誰れ”というのが出てくる。それはいずれもですね、南朝劉宋の天子の第一の弟とか、二番目の弟とか、三番目の弟とか、そういう連中がそういう称号を名乗っている。だから、かなりいい称号です。その称号の名乗り方をちゃんと倭国王は知っていて、それを朝鮮半島、日本列島型に手直しして、ああいう名のりをしているんです。だからちゃんとお手本を知った上で、それをメイド・イン・ジャパン版にうまく書き替えているんですね。なかなかこれは中国内部の称号通である、という事がいえるんですね。
なおこれは、白分の称号だけではございません。部下にも「司馬」という官職名を置いていたようです。「讃、又司馬曹達を遺わして表を奉り、方物を献ず」が出てまいります。これは、一体「司馬」が姓で「曹達」が名なのか、司馬遼太郎さんって方がいますからね、「司馬」が姓であってもいいだろう、或は「司馬」が官職名で「曹」が姓で「達」が名であるのか、というんで、正直いいますと、『失われた九州王朝』では、まだ答が出なかったんです。それで、この問題に触れなかったんです。しかし今は、もうはっきりしています。といいますのは、この「司馬」は官職名、「曹」が姓であり「達」が名なんですね。中国入は姓は一字、名一字というのは普通ですね。なんでかといいますと、実は高句麗王がすでに、四世紀の終り、讃の直前くらいの時に、すでに「司馬」の官を下に置いているんです。「司馬」だけじゃあなくて、「長史」とか「参軍」とかいう調子の官職名を置いている。その中に「司馬」があるわけです。だからやはりこの「司馬」にせり合って、倭王も置いたという風にも考えられる。しかし“せり合って”なんて、この場合はあんまりいわなくてもいいのです。一番はっきりした証拠は、宋書自身に「百官志」というのがあるわけです。三国志には、これはないので困るんですが、宋書にはちゃんとある。つまり南朝劉宋の官僚組織が、官職名によってちゃんと一覧になって出ているわけです。それを見ますと、大将軍が配下に置くべき官がちゃんと書いてある。その中に「司馬」があるわけです。だから、大将軍というのはちゃんと「司馬」を配下に持つべきものなのです。 そうすると高句麗はもちろん、大将軍です。鎮東大将軍でしたね、大将軍をもらっております。ところが倭王も「安東大将軍」をもらっていますね。自称してかつ、追認を受けていますね。そうしますと、当然、自分の配下に「司馬」があって当り前なわけです。むしろ、なきゃあおかしいわけです。という事ですから、讃が遣わしたのは「司馬」という官名の「曹達」を遣わした。こう考えざるを得ないわけです。
この点、実は最近、二月頃ですが、京大の「史林」という雑誌がございます。学術雑誌でございますが、この第64巻第1号(一九八一年一月)に京大の中国関係の先生だと思うんですが、湯浅幸孫という方が論文を書いておられる。その中に倭の五王問題を扱っておられて、なかなか面白い論文なんですが、その中で、「司馬曹達を遣す」を取り上げて、これは部下ではなく「遣わす」というのは「介して」という意味だろう。その場合は「司馬曹達」は中国の中の将軍である。中国にはもちろん「司馬」という名の官職名は当然ある。大将軍は一ぱいいますからね。その「司馬曹達」という人物を仲介にたてて、この上表文や貢物を持ってきたんだ、こう解釈しておられる。それでまあ「遣わす」の用例を一所懸命挙げておられるんですが、しかし挙げておられる例を見ても、どうも「介す」ズバリに当る用例がないんですね。
これは結局、私が思いますのには、この方のイメージとして「司馬」などの官職名を倭王なんてのが、自分の国内に持っているはずはない。中国には当然あるんだから、そうすると“「遣す」を「介して」と理解すれば何とかいける。”とこう思われたのですね。しかしこのイメージの働き方は失礼ながら、いささか主観的であって、客観的ではないと思います。なぜかならば、さっきいったように、宋書百官志に大将軍は「司馬」を配下に持つ、とあるわけだし、高句麗王はすでに四世紀、東晋の時にはもう「司馬」をちゃんと置いているわけだし、これは梁書の高句麗伝に書いてあります。「安(高句麗王)、始めて長史・司馬・参軍官を置く」と過去(東晋代)の歴史を書いているところに出てきます。ですから、その後に続いた、五世紀の初めですが、讃が「司馬」を、「大将軍」(自称、もしくは「将軍」)として配下に持っていて、別に不思議はないわけですね。自称であるか、追認を受けたかは別にしましてもね。と、いうことですから、これを無理して、大体、「遣わして」なんかは、三国志では夷蛮伝にしょっ中でてきますがね。「AがBを遣わして」という場合は必ず、BはAの家来ですね。これはもう普通でしょう。「倭の女王、大夫難升米等を遣わし」というとき、「倭の女王」(卑弥呼)が主人、「難升米等」は家来です。それは当り前ですからね。それをあんまり変わった「遣わし」の意味にとっていこうとするところに実は無理がある、という風に思うわけです。この点は、学術論文に書いていらっしゃるのですから、私の方もはっきりした論文で批判をさせていただかなくてはいけませんが、今、関連していわせていただければ、そう思うわけです。ですから、これは明らかに倭王が配下に「司馬」という官を持っていたという事になるわけです。
もう一つ面白いのは、すると「曹達」という中国風の姓と名を持つ人物が配下で「司馬」の官についていたという事になるわけです。これも一見不思議に思われるでしょうけれど、しかし、それは充分有り得ることではないか。東アジアの状況としていいますと、まあ想像が入りますが、あり得ることではないかと思うんです。といいますのは、ご存知のように、東アジアを一変した事件は、三百十六年に起こりました。北方の「夷蛮」、中国人がいう「夷蛮」、これが一挙に長安、洛陽に侵入して、夜にして西晋は滅亡する。“一夜にして”というのは、だいぶ文学的表現ですけれどね。そこで、滅亡する。そして、当時の建康に都を置いて、東晋として晋朝は存続するわけです。しかし、中国全土にまたがっていた魏・呉・蜀を統一した、その西晋が一ぺんに、南半分になるんですから、そっくり人間がずーっと移ってしまうという事は有り得ないんです。権力者だけとりましてもね。殺された人もおれば、逃げたのもおれば、行方不明のも、いろんなそういう惨擔たる状況が十年、二十年、三十年にわたって展開されまして、そのあげく、南北朝という、我々が知っている二つの王朝にまとまったわけですね。それを三百十六年というメルクマールのある年をとってその年に滅亡した、と表現するだけの事です。そうしますと、今の西晋朝の人々は、死んだ者もいれば、亡命したのも色々いるわけです。「曹」というのは大変な姓でありまして、例の魏の天子が「曹」ですね。この三月の終りから四月の初め中国に行ってまいりましたが、中国の博物館では、三国時代の三世紀の魏をいう場合には、「曹魏」といっていますね。これは、後に出た五世紀の北魏と区別しましてね、我々が魏といえば卑弥呼の時の魏を思いますが、中国の人はそれを「曹魏」と呼んでいる。「曹」は魏の国の天子の姓だったわけですね。西晋になると天子の姓じゃありませんけれど、かなり名門には違いありません。もちろん、天子直系以外にも幾らでも「曹」はあるわけですからね。そういう「曹」を名乗る一派が亡命して倭国に入ってきて、配下にいたという、こういうことは小説の領域に入るかも知れないけれど想像できるところです。もちろん楽浪郡、帯方郡にいた「曹」を名のる人物が倭国へきたと考えても結構なんですけれど。とにかく、状況は想像ですけれど、中国姓を名のる中国人、朝鮮人かも知れませんが、それが配下にいて何の不思議もない。
むしろ、さらにいえば、倭王武の上表文のような漢文として大変な名文、それが書けたということは、もちろん倭王武本人が、書いたわけではないんでしょうからその配下にかなり、中国文に熟達した人物がおったということを意味するでしょう。倭人の青年弟子にもこの段階には、かなりの漢文を扱う人間がいたと思いますけれどね。しかしそういう「曹達」といった人物がおれば、なおさらよかったでしょうね。こういう事を考えましても、「曹達」という中国式の姓を名乗る人物が配下にいたという事は、疑う事はできない。想像は色々にできるけれど、事実としてこれを“遣わして”いるんだから。讃の配下に「司馬」の官にある「曹達」というのがいたという事実を、やはり否定する事はできない。こういう訳でございます。
だいぶ脇道のような事になりましたが、もう一ついいますと、「倭隋等十三人 ーー平西・征虜・冠軍・輔国将軍」というのを中国から貰っているんですね。だから倭王だけではなくて、部下も中国式称号というよりも、中国称号そのものですが、それを貰っているわけです。ですから倭の五王というのは、自分にも家来にも中国式の、或いは中国の称号を貰ったり自称したりしていた存在であるという事がいえるわけです。この事は別に五世紀になって初めて、始まったものではございません。例えば三世紀の倭人伝において、すでに先例がございます。「親魏倭王」という卑弥呼が貰った称号。あれは明らかに中国の称号ですね。倭名じゃあございませんね。なお、難升米の「率善中郎将」、牛利の「率善校尉」という風に中国称号そのものを貰っております。
又、自称の例もございます。難升米が行く時にすでに、「大夫」と名乗って行ったと書いてあります。「大夫」というのは周代の称号といいますか「卿・士・大夫」、あの「大夫」、これは明らかに自称ですね。「大夫」にも任命されたわけじゃないんですからね。自称して中国に行っております。ですから、中国式の称号を自称するとか、貰うとかいう例は三世紀にある。いや、もっといえば、一世紀の志賀島の金印がすでに、明らかに中国の称号ですね。「漢委奴国王」。そういうバックを持って、五世紀の倭の五王は、それを一段と大がかりにしたというだけの事でございます。
次に論証に入ります。では倭の五王に、私以外の殆どの学者があてている“応神から雄略まで”の時代の『古事記』『日本書紀』の官職名・称号を、全部抜き出してみますと、いずれも皆、和名称号ばかりでございます。つまり漢字では書いてございますね。「海部(あまべ)」とか「山部」とか「臣」とか「連」とか皆、漢字ではありますよね。しかしこれは、「オミ」や「ムラジ」であって「シン」や「レン」とかいう中国称号じゃあないんですね。漢字はいわば“借りて”書かれたものにすぎない。これは本居宣長が、一所懸命力説した通りですね。つまり、ここに出てくる官職名は、和名ばかりである。中国式称号は一切見あたらない。大体、王者自身が「安東大将軍」だとかいって、自称して威張ったり、追認してもらって大喜びしているんですから。それが『古事記』『日本書紀』に表われないこと自体、この王者が、天皇家の人物なら、本当はおかしいんですよね。しかしその事は仮に抜きにしましても、今いったように部下にまで、ちゃんと「司馬」とか何とかに任命してやっているんですから、それまで全部消してしまわなきゃあならんという話はないですわね。ところが「司馬」という称号も一切ありませんし、中国称号のかけらも、そこには存在しない。和名称号ばかりである。そうすると、この近畿天皇家は“和名称号の王者の王朝”である。 ーー正確には分王朝ですがーー そう確認できると思います。
じゃあ日本列島の中では皆和名称号だけであるか、というと、ノー。といいますのは『筑後風土記』、例の筑紫の君・磐井の有名な記事ですね。その中に「上妻の県、県の南二里に筑紫の君磐井の墓墳あり ・・・ 東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衙頭と日う。衙頭は政所なり。其の中に一つの石人あり。縱容に地に立てり。号けて解部と曰う」有名な一節があるという事はよくご存知と思います。
ここでまず面白いのは「解部」という言葉ですね。これは明らかに和名称号ですね。それを漢字で当てたものと考えていいでしょう。ただこの場合も、あとで出る議論に関連しますが、注目すべきは、「解部」というような名前は、この段階の『古事記』『日本書紀』にはないわけです。だから、天皇家が任命した官職名じゃあないんです。これは司法官、裁判官を意味するようなものらしいんですが。だから、天皇家とは別個に、磐井が官職名を任命していたことが、ここで分かるわけです。しかも「解部」だけのはずはないんです。つまり、何々部、何々部というのがズーとあって、その中の司法を司るのが「解部」。こう考えるのが筋じゃあないでしょうか。外の行政等は一切なしで、司法だけ、「解部」を一つだけ作るなんてのは、ちょっと、とっぴ過ぎますわね。これはやっぱりそうじゃなくて、何々部、何々部ってのがズーとあった、そのワン・オブ・ゼムがここに表われている。こうみるのが、筋だと思うんです。そうすると、これも同じ理屈によって、天皇家と別個に磐井が、何々部、何々部という官職名といいますか、称号を任命して、それを配下に持っていたという事で、これも非常に重要なテーマが出てまいります。
しかし今、この問題はさておきまして、現在、一番問題になりますのは、「衙頭」でございます。これはどうにも和名に読みようが無いわけです。だから、皆さんがどの風土記の本をご覧になっても、これを和名に読んだものはまずないと思います。仮名がふってある場合は、「ガトウ」となっております。政所というような注がついているんですが、要するに政治の中心を意昧するもののようです。これが漢語である。これも筑紫の君の政治中心に関する重大な用語ですね。
そうすると、回りは全部和名ばっかりで、中心だけ漢語ってのもなんとなく落ちつかないわけです。中国では、回りの小さな官庁名を呼ぶ漢語もちゃんとあるわけですからね。ちょつと脇道に入りますが、例の太宰府に対して周船寺。周船寺は、糸島郡の入口にございます。現在では福岡市に入っています。“周船寺ってお寺は何処にあるのか”初めて行った人は、聞くことがよくありますが、お寺ではございません。これは役所の事を「寺(じ)」という。しかも府の下にある役所が「寺」なんです。ちゃんと中国風の称号を持った官庁名があの辺にあるわけです。
「解部」の場合と同じように、中国風の官庁名、役所名みたいのが少くとも若干はあって、その一番中心にあたるものに関連して「衙頭」のことが述べられている。と、こうみるのが常識的な線だろう。まあ最低限にいっても「衙頭」が漢語であることは疑えない。そうすると、“筑紫の君は、漢語で一番重要な中心官庁名を呼んでいる権力者である”と、こうなるんですね。
そうすると、日本列島に少くとも当時二種類の権力者がいる。近畿天皇家は和名称号の王朝である。それに対して筑紫の君は、中国風の漢語で自分の中心官庁、おそらくはその他をも呼んでいた権力者である事がわかる。これに対して、倭の五王は、漢語で自称し、或は称号を貰う事を喜んでいた存在である。又自分の配下にも漢語で官職名をつけていた。この二つの命題を対照させますと、倭の五王はそのどちらかというと、これはやはり近畿天皇家ではなくて、筑紫の君の方向を指すという、この方向指示器が一つできるわけです。
しかしこの方向指示器だけでも重要ですけれど、問題はこれだけにとどまらない事を見いだしたわけです。それは「衙頭」の意味なんですね。頭は“あたま”の意味でありますが、それ以外に“ほとり”という意味がございますね。だから「衙のほとり」という意味でございますね。「衙のほとり」の意味のキー・ポイントは「衙」という文字の意味になってくるわけです。ところが「衙」という言葉は、ズバリ申しますと、“大将軍の本営”を意味する言葉だったのです。この「衙」を前の『失われた九州王朝』の時に、辞書を引いた事があるんですが、頭がそこまでいっていなかったのか、先入観に迷わされたのか、そこまで行けずにストップしてしまったのです。今度、あっ、これは何んだ、こんなにはっきり示してあるじゃないかと、なったわけです。
調べてみると、そういう例は幾つも出てきました。この「衙」は「牙」と同じ意味で使われている事は、くり返し辞書、その他で出てまいります。例えば、『三国志』にも、もうすでに出てきておる。呉志の周瑜伝、有名な赤壁の戦の戦闘開始のところで周瑜が偽って降服を申し込む。揚子江の北岸の魏の曹操に対して。その時に大将軍の旗、「牙旗」を立てて船が向う岸に近ずいて行くわけです。ところが実際には、その下に薪が一ぱい積んであって、北岸に曹操の沢山の船が、流されないよう鎖でつないである。そこへ近づいたころ、いきなり火を放つ。風が南から北に吹く季節と時間を選んでいるわけですね。そして火を付けてパッと突っ込んだ。向うは鎖をはずす間も無く炎上しはじめている。先ず緒戦に大混乱を生じた。そこで呉の孫権と蜀の劉備 ーー実際は諸葛孔明が参謀の中心なんですが、大勝利をおさめる有名な話が、吉川英治の三国志を読まれても出てくるところなんです。ここに現われているのが大将軍の「牙旗」なんです。又「牙門」という言葉がありまして、晋書(西晋・東晋の晋書)。これは西晋の段階だと思いますが、「衙門の将、李高 ・・・ 臣、衙門将軍、馬潜」という言葉が王濬伝に出てまいります。今問題の宋書の礼志でも「牙門の将」という言葉が出ております。「封氏聞見記」によってみますと「公府を称して公牙と為し、府門を牙門と為す」。いい替えますと、結局大将軍の居る所を「公府」と称するんだ、「公牙」といういい方もする。なぜかというと、それは「牙」を前にして、“本営の前にある門”を「牙門」というから。何んで「牙門」というかというと、大将軍の旗、「牙旗」を立ててある門だから「牙門」というんだ。「牙門」の所だから「公牙」というんだ。府のある所を「公牙」というんだ。こういう説明になっているわけです。
つまり磐井の墓の別区が「衙頭」といわれたという事は、この墓そのものが、政治の中心という事ではないですから、“政治の中心である「衙」のほとり”という意味です。近くに「衙」があるという事です。それは「府」と呼ばれた、あの太宰府でしょうね。という事で筑紫の君は自らを中国式の大将軍と自称し、或いは与えられていたかもしれませんが、そういう存在である、ということになるわけです。
そうすると「大将軍」を称した倭の五王というのは当然、「筑紫の君」であるという事になってくるわけです。だから磐井は、倭王武がものすごく長生きしたとすれば、倭王武=磐井である可能性も絶無ではございませんでしょう。倭王武は六世紀の始め、五〇二年くらいですかな、そこで称号を貰っているのが梁書に出てまいります。磐井が出てくるのは五三〇年前後のところですからね。ですからものすごく長生きすれば武でないこともないでしょうが、まあ普通に考えれば、武の次か、その次ぐらいの代にあたるのが磐井だと思われるわけです。それが要するに中国の「大将軍」を称していたという事でございます。
以上の論証によりまして倭の五王が従来の「定説」、現在も教科書を支配している「定説」の、近畿天皇家ではない、筑紫の君であるという事が証明できたと、私は考えるわけでございます。
だからこの点も、いやそうじゃない、依然として近畿天皇家だ、とおっしゃる学者、研究者があれば、今の私の論証はどこがどう間違っている、という風にハッキリ言っていただければいい、という事になります。
倭の五王、九州王朝説の影響ー考古学の年代
この事が及ぼす影響は非常に重大でございます。その一例を申しますと、例えば考古学、これは今日来る時に考えながらきた問題なんですけれど、従来、日本の考古学の場合、宿命ともいうべき弱点は絶対年代が書いてない。つまり土器なんかをみましても何年に作ったなんて、西暦であるとか中国の年号であるとかいう類の年代が刻んであるものがないわけです。ないからそれにかわって、日本人独特の器用さでもって、前後関係を精密につけてきたわけですね。だからある中堅の考古学者の言によりますと、前後関係は“十年とはズレない、まあズレても五年でしょうな。”という事を私は聞いた事があります。それくらい自信をもって言われる程、これより前これより後と精密に前後関係の体系を作っておられるわけですね、土器を中心にしまして。こういう技術に関しては世界屈指じゃあないか、私は世界をよく知らないんですが、想像しておるんですがね。ところがそれは、あくまで前後関係に、つまり相対年代にとどまって、絶対年代は分からないわけです。
その絶対年代にあたるのが二つありまして、一つは、鏡、三角縁神獣鏡・漢鏡とかいう鏡ですね。これが根底にある。もう一つは、いわゆる「天皇陵」と呼ばれる“応神から雄略にいたる”この「天皇陵」の年代である。何で決めるかというと「倭の五王=天皇家」であるから、という事です。倭の五王はハッキリ絶対年代を書いてありますからね。「讃」なり「珍」なり、そういうのが出てまいりますからね。治世年代が分かる。だから「応神陵」はこの頃「仁徳陵」は・・・。或いは雄略陵はこの頃というようにやっていきまして、それを基にして埴輪であるとか、色々な土器その他の編年をたてていくので「倭の五王=近畿天皇家」というのが、日本の考古学で絶対年代を決めるための二つの柱の一つとなっている、という事は有名な話でございます。
しかしその場合もよく考えてみますと、鏡の場合よりこちらの場合はもっと、“有力”なんです。なんでかといいますと、鏡の場合「何年」か分かりませんね。何年に作った鏡で、何年に日本にきた鏡かを書いた、そんな鏡はないんですから。大体のおおまかな「弥生中期」とか、「中期後半」であるとかといった大まかな推定にとどまるわけです。それに対して二つ目の柱が“非常に有難い”のは、「倭の五王=近畿天皇家」の定式でありまして、これは絶対年代が分かるわけです。
しかしこのたてられた体系に対して疑いをもつ考古学者もあるわけですね。例えば森浩一さん、今日も大阪で講演しておられるそうですが、森浩一さんは、“どうもおかしい”いわゆる「仁徳陵」古墳」、大山(だいせん)陵古墳ですな。ここから出てきたといわれる鏡がある。これはボストンの美術館にいつのまにやら云わっていた。それがどうも、今考古学者があてている「仁徳陵」の年代からみると合わない。少なくとも五十年は下げなければおかしいという事を、かねがね言っておられ、私も直接お聞きした事があります。この前、この鏡がボストンからきて堺市立博物館に陳列されまして、そこでくわしい鏡の写真をいただいて私も持っておりますがね、という事だったんです。“おかしい”しかし“そうなっているんだから、しょうがない”ということだったんですが、今のように「倭の五王=近畿天皇家」の定式がはずれますと、普通今まで考古学者が考えていた「仁徳陵」、大山陵古墳の年代が五十年下がっても、全然不思議はなくなるわけですね。
そこで、これから先を今日、考えながらきたんですが、これは大変な事になるかも知れません。というのは、下がるのは一体何を意味するか、さっきいったように五年と狂いませんという精密な前後関係を作っていたとして、それを信用しましたら、全体が五十年さがったら当然始めも五十年さがるわけですね。だから古墳時代の開始は、通説では四世紀の初め頃になってますね。それも五十年さがって四世紀の半ばになるかもしれないという事になるわけですね。いいかえると四世紀の半ばまで弥生時代になる可能性があるわけですね、“五十年”としましたら。森さんは“少なくとも五十年”といっておられたから、五十年よりもっとさがるかもしれないけれど。そうしたら先頭ももっと下がるかもしれないことになるわけですね。これは大変な問題になってきます。
そうすると今まで漢鏡、前漢鏡はいつだ、後漢鏡はいつだといっていたのが、下がってくる可能性があるわけですね。そういう問題にも発展するわけです。それに卑弥呼との関係。卑弥呼の絶対年代は分かってますから、三世紀の半ば近くと分かっていますから、それとの関係も、今まで考古学者が考えていたのとは、ズレてくるという問題にも発展するわけです。
以上のようにいろんな所に影響をおよぼしていきますが、影響がどうあろうと、倭の五王と近畿天皇家を結んできた定式はまず御破算。私がここで述べました「衙頭」の論証を否定しない以上、御破算といわざるをえない。こういうわけでございます。
「宝命の論証」に代えてー北京の邂逅
最後は「宝命」の論証。これはこの前の会で申しました問題です。『市民の古代』三号に私の講演として載っておりますからここではくり返しませんが、要するに従来聖徳太子の「遣隋使」といってきたのが間違いで遣唐使である。そして隋との国交を結んだ多利思北孤は九州の王者であるというテーマでございます。
この問題に関しまして、この四月二日でございますが、私にとって非常に重要な経験をしました。簡単に申しますと、中国に三月二十三日から四月の三日まで行ってきたわけです。ここにいらつしゃる今井さんも御一緒でございましたが、その最後の日、四月二日に北京大学にまいりました。これは私一人で他の人と別れ、タクシーに乗ってまいったわけです。通訳の胡さんと二人で行ったわけです。その北京大学の日本語科の学者である潘金生(ハンキンセイ)さんという方にお会いしたわけです。私の目的は去年、東北大学で講演した「日本書紀の史料批判」の論文を抜き刷りにして持っておりました。それを五部ばかりお渡しして、日本と中国の関係の歴史に興味をお持ちの北京大学の学者に渡していただきたい、という事を依頼するつもりで行ったんです。
だから、正直にいいまして、講師さんでも助手さんでも、お会いしてそれを依頼すればいい、とささやかな望みで行ったわけでございます。しかし、おもいがけなく潘金生さんが授業の前に、私を九時に待っておられたわけです。そして研究室に招いて下さいまして、そして話し始めますと、これもくわしくは言いませんが、要するに潘さんも私を迎えて私に聞きたい事があった。
何かといいますと、「少なくとも隋書、旧唐書というものには大きな間違いがあるとは思われません。」こういう事を向こうから言い出されたわけです。なぜかというと「お国(日本ですね)から我が国(中国)へ沢山の人が来ています。そして又お国へ帰っています。それから我が国からもお国へ行っています。裴世清です。又帰っています。だからそういう事を基にして書かれたのが隋書や旧唐書です。もちろん沢山の人が往ききした事がバックにあって書かれたものであっても、人間ですから部分的には間違いはあり得ると思います。しかし大きな事で間違いがあるとは思われません」とこう言われるわけです。
で、「大きな事」とは何かというと、「例えば旧唐書、そこにお国の事が書いてありますね」と。ここで私が「倭国と日本国です。」と言いますと、潘さんが「そうです。二つ別々の国として書かれています。そして、日本国の方は西南が海である、東北に大山がある、と書いてあります」と。私が「これは本州の西日本だと思います」と言ったら、潘さんが「そうです本州です」と、こう言われるんですね。それから今度は「倭国の方は島であって、その周りに小さな島がとり囲んでいる、と書いてあります」と。今度は私が「九州です。」と言ったら潘さんが殆んど同じタイミングで「九州です。」と言われたわけですね。“だから倭国は九州、日本国は本州の西半分の国だと書かれています。”というわけです。つまりこれが「大きな事」なわけですね。人間だから間違える事はあるが、それは部分的な事で「大きな事」“国が一つか、二つか。”これ程大きな事はないのです。だからそこに間違いがあろうとは思われません、というのが潘さんの言いたかった事だったのです。
もう一つの隋書もそうです。「裴清(裴世清)が行ってお国の王に会っています」「それは多利思北孤という男の王さんです。」と私が言ったら、向こうが「そうです、奥さんは鶏弥(きみ)ですね。」と言われた。「キミ」と発音されました。日本語科の先生ですから日本語がすごくうまいわけです。私と同じ、私よりうまいかもしれませんが、日本語でしゃべって、そばで通訳の胡さんが手持ちぶたさでおられましたね。それに対して「推古天皇は女です。女帝です。そういう大きな事を間違うとは思われません。」こう言われるわけですね。そこで、私が「その通りです。」と言ったわけです。こっちが言いたかった事ですからね。それで、私が潘さんの机に置いてある紙に「九州王朝」と書いたわけです。その言葉は初耳というか初目というか、初めてのようでしたけれど、「九州王朝、そうです。」と非常に嬉しそうに何度もうなずいておられました。という事で潘さんと私が完全に意見が一致したんですね。
これは考えてみれば、当然の事でありまして、中国の学者やインテリは中国の歴史書、自分の国の歴史書を最初読むわけです、歴史をやりたい人は。そこに書いてある「倭国」なり「日本国」の事を読むわけです。それで第一のイメージを得るわけです。大抵の学者は、そこでストップしているわけです。「ああ、こうなんだな。」とこう思っているのです。疑問を別にもたないわけです。
ところが、潘さんの場合は、日本語科の先生ですわね。それに日本語科というのは、我々が考える日本語科じゃなくて、日本語を基礎にしながら歴史、風土、産物、地理全般をやる、いわば日本文化学科だと後でわかりました。私にとって幸せだったんです。通訳の方はやはり、それを誤解しておられまして、通訳の方は北京第二外語学院の日本語科を出られた方で、「北京大の歴史学科へ行くのじゃないんですか。歴史学科の方がいいんじゃないですか。」といわれたんです。ところが私は歴史学科へ行っていきなりしゃべれればいいけれど、その人が日本語ができなかったら、通訳の人の日本語だけでは、 ーー失礼ですがーー とても歴史上の術語なんか無理なようでしたから、日本語の通じる日本語学科へ行こう、とこう思ったんです。それが予想以上に、よかったわけです。今のように「日本文化学科」だったわけですから、だから潘さんは古事記・日本書紀に詳しかったわけですよ。一般の歴史家、インテリは古事記・日本書紀をやるまでいかないわけですよ。だから、矛盾に気がつかない。ところが潘さんは古事記・日本書紀を読んだんでしょう。するとそこには二つの国どころか、神武天皇からズーッと、天皇家中心のスタイルで書いてある。それでおかしい、という疑問を持っておられたんです。
それで最初はこういう話から始まったわけです。潘さんが「あなたは何をおやりですか。」「私は日本の古代史をやってます。」「中国の古代史はやられないんですか。」こういわれますから、「いや中国の歴史書からみた日本の古代史を先ずやっています。その次に古事記・日本書紀からみた古代史をやりました。そして、最初の立場から後の立場を批判するという方法をとっております。なぜかというと、別に日本人が書いた歴史書が信用できるか、中国人が書いた歴史書が信用できるかというような問題ではありません。そうではなくて、中国の史書の場合は、三世紀の日本の事を三世紀の歴史書に書いている。五世紀の日本の事を五世紀の歴史書に書いている。七世紀の事を七世紀の歴史書に書いている。こういう同時代史書ですから。」と。すると、藩さんは「そうです。同時代史書です。」といわれた。「それに対して古事記・日本書紀は八世紀に成立した。」「八世紀の初めですね。」と潘さんが言われる。「そこからズーッと以前の事に遡って書かれた後代史書です。」とわたし。「そう、後代史書ですね。」潘さんがこう言われるわけです。「そうすると同時代史書で描かれた日本の古代史像をまずとらえて、それを基盤にして後代史書にかかれた日本の古代史像を批判する。その中には正しいものもあり、正しくないものもあるから、それを批判する、という事が歴史学の正しい方法だと私は思っています。」と最初にわたしは言ったわけです。
そうしたら、その時潘さんが大変喜ばれて「そうです。それこそ唯物的です。唯物主義の立場です。」こういう風に言われたので、私はビックリしたのです。こんなの私は生れて初めてです。自分が唯物主義の歴史研究家である、なんてことは、いまだかって思ったこともないし、言われた事もなかった。ところが「本場」で、そんなことをいわれたから、ビックリしたんです。その時とっさに思いましたのは、“これはおそらく中国では最高の「褒め言葉」ではないかと。「忘れてはいけませんから、カセット・テープとらせていただけませんか。」「結構です。」ということで話が始まっていったんです。
私が先程から述べましたように“自分の国の歴史書だから矛盾があってもこれでいい、そんな手前勝手を言うんじゃあなくて、同時代史書を基本に考えるべきだ。”ということ。潘さんの目からみると“古事記・日本書紀の後代史書に書かれたものはおかしいんじゃないか、日本の学者は一体どう考えているんだろうか”というのが潘さんのかねてからの疑問だったわけです。だから打って返すように話が一致しましてね。九時に始まって十時半まで。十時半に潘さんの授業が始まったので、十時半ギリギリまで実に濃密な、言っている事が互にパッ・パッと通じる時間だったわけです。お別れする時にはわたしが「初めてお会いしたようには思われません。」と言い、潘さんからは、くりかえし「本当に有難うございました。」とお礼を言われてしまったんです。これは、潘さんにしたら、“年来の疑問”に対して意見が一致したので、非常に嬉しかったんじゃあないかと帰り道のタクシーの中で想像したんです。
で、私もそのとき言ったんです。「日本では私の説は殆どの学者から反対されています。そういう意味では正に『異端』の説です。しかし、今日お会いして本当に方法から結論まで一致したので、今までにない喜びを感じました。」ということをいいました。
そしたら潘さんは「歴史は、人間の理性で理解できる歴史でなければなりません。」といっておられました。最後に「人間の理性」という言葉を使われたのです。これが今度の思いがけない収穫でした。大体自分ひとりで考えてみて、どうも人間の理性からみて、私のように考えるのが本当だと思う。それなのに古事記・日本書紀を基盤にして、それを基に歴史を作っておいて、それに合わないのにぶつかったら、あれは嘘を言っているとか、旧唐書は倭国、日本国は二つに分かれている、あんなデタラメ書いていると言っている。旧唐書、隋書段階になったら、完全に私一人で全学者と対立しているわけです。“これはおかしい。しかし私の頭が狂っているのかな、そんなはずはないが。”こういう自問自答をいつもくり返してきたんですからね。やっぱり私の方法でよかった。従来、日本の学者は“日本列島の中の、井の中の蛙”というんでしょうか、そんな立場にすぎなかった。「天皇家一元主義」というようなイデオロギーにとらわれる必要のない世界的な目、理性的な目からみると、やっぱり私が考えていたのでよかったんだということがわかったわけです。この会の皆様には今までズーッとご支持といいますか、ご支援いただいていたのですが、学会というレベルでいいますと、“自分がおかしいのかな。”といつも思わされてきたのが、今度のことで非常に勇気づけられて嬉しかったという、貴重な経験をいたしたわけでございます。
新間題の発端
本日のメイン・テーマ「九州王朝の風土記」というものの論証の本質をなす問題をズバリズバリ話させていただき、枝葉末節といいますか、小さな問題は後日書いたりしたもので見ていただくという形にしたいと思います。なお付随しておこる重要な問題があるんですが、できましたら次の機会にでも話させていただこうと、こう思うわけでございます。
今日の前半の話は従来の結論を再確認する論証の問題だったんですけれど、今度は新しいテーマに入っていくというわけです。この新しいテーマに入る場合、私の従来の方法なり結論、それに立った場合、こう考えざるをえないという断崖をよじ登るようなこわい所へ入っていくわけでございます。で私の従来の方法というものを示す端的な一例を思い起こしていただきます。
それは『盗まれた神話」で書きました景行天皇の遠征という問題でございます。九州大遠征です。それが、どうもおかしい。これがおかしいという事は津田左右吉もいっていたんですが、私も別の意味でおかしいと考えました。一つは九州の東と南海岸が遠征であって、西海岸から浮羽に至るルートが凱旋ルートである。これが近畿を原点としたら、逆なら当り前、“東は自分の領域であって西を征伐する”というなら分かるけれど、話が逆になっている。もう一つは筑紫が空白である。景行の九州大遠征では筑紫、特に筑前が空白である。だから最初筑前から出発してもいいわけだし、最後少なくとも筑後の浮羽でストップしたあと、筑前博多の方へ、太宰府の方へ凱旋するのが当然である。ところが全く空白で“日向から帰りたもうた”というのがおかしい。つまり筑前空白問題、さらに地名が非常に詳しく出ていて全部九州の現地名とよく合うわけなんです。ところがこれが出ている日本書紀でこれ以前、これ以後にこんなに地名が連続して詳しく出ている所はない。そういう点でここだけが“浮きたって”いる。この点で明らかに異質の資料を持ってきてはめ込んでいる感じが歴然としている。
ところが一番おかしいのは、これだけの大遠征が古事記に全くない、という事である。この場合、古事記のない方が本来か、日本書紀のある方が本来かと考えると、古事記・日本書紀いずれも天皇家の史官が書いたものである以上、これだけの大遠征は神武のいわゆる「東征」問題、継体のいわゆる「反乱」問題、これらを除けば唯一といっていい天皇個人の大遠征なわけです。これが本来有ったのを、稗田阿礼か、太安万侶か知りませんが、カットするなどという事は考えられない。逆になかったところへ、他の資料を持ってきてはめ込んだ。“天皇家に有利に加削する事はありえても不利に加削する事はありえない。”という、天皇家の史官にとって自明の公理、と私が考えるものからいうと、やはりこの話は“なかった”のが本来、すなわち古事記の方が本来で、日本書紀が“あとからはめこんだ。”と考えなければなりません。どこからはめこんだかというと、これは先程の空白なる筑前、そこを出発の原点とする「前つ君」という人物名を見付けたわけです。その前つ君の「九州東岸部・南岸部」征伐譚、いいかえれば、その場合は筑紫と肥後はすでに安定した領域になっていて、筑紫をバックにして東岸部・南岸部を征伐した九州統一譚、九州王朝発展史の重要な一コマ、こう考えると筋が合う、と論じたわけでございます。
この点は神功紀についても同じである。この橿日宮で仲哀天皇が死んだ。その後で古事記では神功皇后はすぐ新羅へ行くわけです。朝鮮半島で戦闘はしていない。むしろ母方は天日矛ですから新羅系といってもいいわけですが、そこへ“応援を求めに行った”感じである。ところが日本書紀では仲哀が死んだ途端、神功が筑後征伐を行う。羽白熊鷲とか山門県の田油津媛とか征伐する。この神功の筑後平定ってのは古事記には全くない。これはやはりなかったのが本来か、有ったのが本来か。さっきと同じ判定法によって、なかったのが本来。それをどこかから持ってきて入れたものである。どっかから取ってきたものの性格は“筑前を原点にする、筑後討伐”つまり筑前を勢力中心とした王者が、筑後を討伐して、現在でいう筑紫一帯が同一の政治圏になったという「筑紫一円」平定譚。その話の一部を持ってきて、ここに挿入したものである。いいかえれば、「橿日宮の女王」の話を挿入したものである。こういう風に論じたわけでございます。
いずれも『盗まれた神話』で論じてございます。だから、この方法に立って今からあとの問題点を考えていきたい、こういうわけでございます。
九州に二種類の風土記 ーー「県」と「郡」ーー
さて皆さんご存知の風土記ですね。ここには明治以来学者の間で論争の的といいますか、懸案事項がございました。一般の人はあまり知らないんですが、プロの学者なら誰でも知っている論争が明治から続いているんです。論争というほど熱い攻撃の仕合いじゃあないんですがね。次々アイデアを出してきているという程度の事ですけれど。
実は風土記の中で九州だけがちょつとおかしいんです。何かといいますと九州に限って、二種類の風土記があることが見いだされていたわけです。例えば明治時代、井上通泰がこれを指摘しまして、続いて坂本太郎さん、現在も元気でおられますが。あるいは田中卓さん、現在神宮皇学館大学の学長になられたそうですけれど。秋本吉郎さん、岩波古典文学大系の風土記の校注者、亡くなられましたが。こういう人達が次々と意見を出してきておられる。その外にもいらっしゃいますが、これは“何で九州だけ二種類あるんだ”“何でこんな事になったんだろうか”という九州の二種類の風土記の理屈づけですよ。それをいろいろ出してきているんだが、どうもうまく理屈が合わない、というのが、私の方からみた“現状”であるわけです。
どういう二種類かと申しますと、簡単に言いますと「県(あがた)風土記」と「郡(こおり)風土記」といったらいいだろうと思います。つまり風土記に行政単位が出てくるんですが、その行政単位が一方では“何々の県”と一貫して書いてある。県を基本単位にして書いてある。そういう風土記が九州にあるわけです。もう一つは郡(ぐん)と書いて「郡(こおり)」を行政単位にした風土記の一群があるわけです。それで県風土記をA型としてみたんですが、例をあげますと「筑紫の風土記に日く、逸都(いと)の縣。子饗(こふ)の原。石両、顆あり・・・。」 B型、つまり「郡」の方では、「筑前の国の風土記に曰く、恰土の郡。児饗野(こふの)。郡の西に在り、此の野の西に白き石二顆あり・・・」大体同じような文章です。ところが、片方では「逸都の縣」となっているのが、他の方では「恰土の郡」となっている。字も「縣」の方はちょつと、むつかしい、みなれない字が書いてありますね。だから同じ事をえがいたのが二種類あることは明らかですね。
そして九州以外の風土記、播磨国風土記とか出雲国風土記とか常陸国風土記とか、いろいろありますね。“断片”は全国にわたっておりますね。あの全国の風土記は「郡」風土記なんです。皆、単位が「郡」で書いてある。だから私の名付け方でいうとB型なんです。九州以外はB型ばかりです。九州にもB型があるわけです。ところが九州だけは、それとダブった形でA型がある。B型とは全然違う行政単位の風土記があるわけです。ということ自体は井上通泰の指摘以来、甲類とか乙類、一類とか二類とかいろいろ名前がつけられたんですが、この辺の詳しい話はやめまして、今日は本質的にいうとA型、B型の二種類あるという事実はすでに気がつかれていたのです。
そして井上通泰の場合、「県」風土記はズーッと後に作られたと考えられておったのです。だからA型の方を二類と称され、「郡」風土記を一類とされた。ところが坂本太郎氏以後は、それは間違いだ、「郡の制」が確立して以後、「県」なんて書く必要はない。だから「県」風土記は「郡」風土記よりももっと古い時代のものであるという論証がなされました。この点について田中卓さんとか、秋本吉郎さんとか、各論者は異をとなえていないんです。だから現在のところでは九州の風土記に二種類あって、しかも他の一般の風土記以前のものがある。しかしそれをどう説明するかについて四苦八苦している、というわけです。
例えば坂本太郎さんは、七世紀の終りくらいに太宰府がそんなものを作ったんとちがうか、といわれるわけです。但しこの場合つらいのは、七世紀の終りくらいにそんなものを作れという命令が、天皇家から出ていないわけですよ。それだのに太宰府で勝手に作ったのとちがうかという、話になるわけですね。
或いは田中卓さんになると、両方とも八世紀に作ったんだ。しかし、A型の「県」風土記の方が早い。なんでかというと太宰府に文人趣味の、文人好みの人がおって、中国の「県(けん)」を真似して、実際には存在しない架空の行政単位で書いてみたんだろう。しかしやっぱり、それではいけないということになって現実の「郡」で作り直したんだろう、というような説が比較的最近の説なんですね。
しかしこの問題を考えてみますと、皆さんご存知のように和銅六年に有名な風土記撰進の詔勅が出ております。『続日本紀』です。これを疑う人はいない。
「(五月)畿内七道・諸国の郡・郷の名は、好き字を著(つ)けよ。其の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物は、具(つぶさ)に色目を録せしむ。及び土地の沃[土脊]・山川原野の名号所由、又古老の相伝・旧聞・異事は、史籍に載せて亦宜(よろし)く、言上すべし。」
[土脊]は、土偏に脊。JIS第4水準ユニコード番号5849
これは現在の高等学校の資料集でも出ている有名な和銅六年風土記撰進の詔勅。元明天皇です。これはごちゃごちゃいわなくったって。B型を意味している事はすぐ分かりますね。この中に二回も「郡」という言葉が出てくる。この「郡」の中の変った事を、或いは産物を書いて出せ、こういっていますから、和銅六年の詔勅に基いて全国の風土記が、時期はそれぞれ地方によって違いはありますけれど、つぎつぎ作られていったという事は、まず疑う必要がないわけです。で九州においてもB型の風土記が、この時、作られたと考えていいわけです。
問題は、現在の各研究者がほぼ一致して、「郡」風土記以前と考えている「県」という行政単位を使った風土記が、なぜ作られたんだろうかという点です。ここでもしこれを天皇家が作らしめたと、いおうとすると困るわけですね。つまり天皇家が作らしめたのなら、なんで九州にしかないのか。ほかの瀬戸内海や、天皇家のお膝元の近畿にすらないのか説明できない。だから、太宰府が勝手に作ったんだろうとか、文人趣味のやつが勝手に作ったんだろうとか、そういう説明しか出ようがないわけですね、従来は。だから、どこまでいったって本当の答にはならない、というのが現状であるわけです。
これに対して皆さんは九州にだけ特殊な、和銅六年以前の風土記が有ったっていうんなら、それは九州王朝に関係するんではなかろうかとお思いになるでしょうし、又私もそう思ったんですね。そう思ったのは、だいぶ前に思ったんですよ。しかし、論証がなかなかむつかしい。そんな変った事、九州王朝の風土記があるなんて。九州王朝の存在自身、学者が認めてくれない、それどころか「論争」すらあまりしようとしないのに、その九州王朝が風土記を作っていたなどといい出したら、どう思われますか。私自身、そこまでいう“勇気”がなかったんです。
そこでこの半年間調べていきますと、私の学問の論理と方法からみると、どうしてもそう考えざるをえない、という所にまできたわけです。これはなぜかといいますと、県というのは確かに日本全土にございます。特に古事記・日本書紀の終りのほうになりますと、かなり出てくる。ところが早い時期においては、弥生時代はもちろん、古墳時代はじめあたりの四世紀になった頃にも、全国的に多くの「県」が出てくるわけではないんです。ところが九州にだけ「県」が多く出てくるんです。
それは井上光貞さんの有名な若い時の論文です(「国県制の成立」史学雑誌60ー11、昭26・11月)。表が出てるんですが、「県」が九州にだけ多くでている。あと例外として近畿の一部にある。その近畿の一部を除いては、九州に一番多く出てくる。九州にだけ多くの「県」記事が集中しているのは実は道理なんです。なぜならその「県」が出てくる史料というのは、実は例の「景行の九州大遠征」と「神功の筑後遠征」なんです。ここに「県」が集中している。もう一つは仲哀に関連して、「県」が少し出てくるんですね。これは“神功関係”ともいえますが。
京都郡(みやこぐん)、ここは長峡(ながお)の県というのが出てきます。ここを京(みやこ)というんだというわけですね。豊後では直入(なほり)の県、子湯(こゆ)の県、諸(もろ)の県の君というのも出てきます。熊(くま)の県は人吉市、八代(やつしろ)の県は八代市ですね。島原半島で高来(たかく)の県、八女(やめ)の県、水沼(みぬま)の県の主、こういう風に県、県と次々沢山でてくるんです。
そして神功紀のところでも田油津媛が筑後山門、山門(やまと)の県と書いてある。そういえば、そうだったと思い出される方もあるでしょう。さらに松浦の県、伊覩(いと)の県、こういう風に県、県とズーッと出てくるわけです。ところがこれらからほかでは、後にのべる近畿の一部をのぞいて、ほとんど「県」が早い段階では出てこないわけです。
そうすると私が初めにいいましたように、この史料はどうもおかしい。津田左右吉がいったように、勝手に六・七世紀の近畿の史官が作ったというんだったら、おかしいわけです。勝手に作るのに、この九州にだけ「県」を多く使って作るなんて、ここを作るときだけ気がむいて県をやたらに使ったなんて変なもんですからね。そうするとやっぱりこれは嘘じやない、史実なのじゃないか。さっきいいましたように筑前を原点とする筑後平定譚や筑紫・肥後を拠点とした九州統一譚、つまり「九州王朝成立譚」を切り抜いてきて貼ったものだ。切り抜かれたのが例の〈日本旧記〉という本であるわけです。その本のことは『盗まれた神話」で論じました。
そうするとそこに県、県と連続しているわけですから、日本旧記、つまり、九州王朝の発展史は県を行政単位とする形で書かれていた、という事になります。で又、古い段階の神話と思われる羽白熊鷲とか田油津媛討伐譚は、筑前を原点として筑後を併合するという、そこも又県を単位で書かれていたという事になるわけです。
そうすると結局九州にだけ多くの県が出現するという事は九州に早くから県という行政単位が存在していた。そして、それをバックにした記録、史書が成立していた。それをそのまま取って“貼りつけたから”、ここにだけ多くの県が出てくる。こう考えざるをえないわけです。非常にとっぴょうしもなく、また不思議であろうと、論理的にみて、史料批判の筋からみて、そう考えざるをえなくなった。そしてその九州にだけ、身元不明な“「県」風土記”がある。そうすると、その風土記なるものは九州王朝で作られたもの、そう考えるべきではないか。そのように話が進んできたわけでございます。
日本書紀の立場ー二つの風土記
そこで時間の関係で話を終りのところにもってきますと、実は日本書紀自身に、これを裏付ける話があったんです。これはごく最近、四月十日(一九八一年)前後にみつけた話なんですが、日本書紀の履中四年ですね、ここにこういう記事がある。
「四年の秋八月の辛卯の朔・戊戌に、始めて諸国に国史を置く。言事を記して四方の志を達せしむ」
「始之於諸国置国史。記言事達四方志。」
という言葉がある。ここの「国史を置く」というのは、史官ですね。諸国に史官を置いた。そして「言事を記す」や「四方の志を達す」というのは中国の文献に出てくる表現でありまして、“風土記を作らした”という事です。各国の風土・産物・歴史を書かしたという意味の文章なんです。原典が杜預という人の春秋左思伝の序の注釈に出てくる言葉なんです。又漢書芸文志に出てくる言葉を、とって、この文章を作っているんです。岩波の古典文学大系の補注(12ー10)にも出てきます。陳寿と同じ西晋の杜預という人の文章に「四方之志を達す」や「各々、国史有り。」が出てくる。「左史、言を記し、右史、事を記す。」が漢書地理志に出てくる。これを背景にして、キチッとした、きれいな漢文を作っているわけです。
ところがこれは例の「和銅六年の風土記撰進の詔」と違って、あまりご覧になった事がないでしょう。高等学校の資料集にも出てこない。なぜかといいますと、これは津田左右吉によって、否定されたからです。“これは作り物だ。信用できない。”と。履中四年といいますと、今の年表そのままに当てはめますと、四〇三年、五世紀の初めですね。“こんなものは作り物だから信用できない”と認定されたんですね。だからこれは“ない”もの、こういう前提で、戦後史学では風土記問題を扱ってきたわけです。
ところがよく考えてみますと、日本書紀は「二つの風土記有り」の立場なんですよ。なぜかといいますと、日本書紀が作られたのは、元正天皇の養老四年、七二〇年、つまり和銅六年から七年あとなわけですね。だから日本書紀が作られた時点というのは、B型風土記、“「郡」風土記制作開始”のまっさい中というわけです。まだでき上ってはいませんでしょうが、諸国で、ハッパをかけられて、一所懸命作っているまっさい中に、日本書紀が成立しているわけですよ。だから今、B型風土記作成中という事は、日本書紀の著者は百も承知、読者側も百も承知なんです。その日本書紀に、“履中四年に始めて、国々の史官をおいて、地方の風土記を作らした”と書いた。ということは“今、制作中の風土記は初めてではありませんよ、第一回のはもっと古い時代にあったんですよ。”と日本書紀が主張しているわけですよ。つまり“日本書紀の目”にうつっているのは、二つの風土記なんだ。“現在、全国で作らしめているもの以外に、風土記あり。”という前提でこの文章を書いている、と考えざるをえないわけです。
事実、今までのべたように、風土記は二種類ある。「郡」風土記以外に、それ以前と思われる「県」風土記があるんです。しかも重要なことは、この履中四年の記事が、古事記に全くない、ということです。だから先程と同じ論理によりまして、本来“あった”ものを、太安万侶が切ったのか、それとも、本来“なかった”のに、どこからか取ってきで、“付け加えた”のか、という事になってくるわけです。そして先程からと同じ論理によりますと、よそからもってきて、付け加えた、という事にならざるをえない。
しかも履中四年の文章は、見事な漢文です。ところが和銅六年の風土記は、和文を“ひっくり返し”て一見漢文風に書いただけのものです。A型・B型二種類の風土記を比べてみると、井上通泰以後、坂本太郎、田中卓と、各論者が共通して認めている事は、A型の「県」風土記は漢文調、しかも漢字をよほど知っている人でないと書かないような「逸都」なんてむつかしい字を書いている。全体の文章も立派な漢文です。ところが「郡」風土記は和文調なんですね。
この事は学界の中では、共通に認識されていた意見なんです。ところがこの履中四年と和銅六年の文章自身が、漢文調と和文調になっているわけです。そうすると「履中四年」の項は、漢文調風土記つまり「県」風土記に関する記事を、どっかから持ってきてここに“はめ込んだもの”ではないか、という問題が出てきます。
これは大変な問題で、今は論理の骨格を申し上げたわけです。「郡」風土記の実物はどれかといいますと、プリント(最後に掲載)にそれを挙げておきました。一番から七番までが「県」風土記。八番は「県」も「郡」も出てこないから、どっちにもとれるというものです。この一番から七番の「県」風土記は、さらに二つに分けられまして「一・三・五番」の三つと、「二・四・六・七番」の四つは、明らかに違うわけです。
時間の関係で結論をいいますと、「二・四・六・七番」は本来の「県」風土記であるようなんです。それに対して「一・三・五番」は天皇家関連の名前が出てきております。例えば三番、磐井の君の説話ですね。これが「県」風土記なんです。ここを私の『失われた九州王朝」で論じた一節がございましたね。その時に、どうもこの文章はおかしい。磐井の扱い方が、どうも磐井に非常に同情して書いてある。古事記・日本書紀では磐井を斬った、と、簡単だが明白に書き放してある。ところがこの風土記では、「豊前の国上膳の県に遁れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終る。」なんか“おいたわしや。”という感じで書いてある。又その後の“石人石馬をこわした”にしても、なんか天皇家側が“悪い奴だ”というイメージで書かれている。“乱暴だ。”とね。にもかかわらず、部分的には「雄大迹の天皇のみ世に当りて、筑紫の君磐井、豪強・暴虐にして、皇風に櫃(したが)はず。」と、なんかとってつけたように“磐井をけなす”というか“大義名分上けしからんのだ”という言葉がパッとはさまっているわけですよ。という事は、つまり、一人の人間がズーッと初めからとおして書いたら、こんな“異質”の文体ふくみでは、おかしいわけですよ。
だから“本来あったもの”に、あとから手を加えている。あとから天皇家側の手が加わっている。“部分挿入”されている、という風に考えますと、この文面の正体がわかる。私も『失われた九州王朝』の時、そこまで、この風土記問題までは答が出てなかったんですが、文体がどうも矛盾している、二つの異なったニュアンスがあらわれている、と、その事だけを指摘したのですが、いま考えてみますと、本来の風土記に“新たな手”が、加えられた跡であったわけです。
五番の場合は「檜前の天皇(宣化)のみ世」これは、絶対年代を挿入しただけで、文章内容自身は関係ないと考えられます。
一番は神功が出てきますが、それは、出てきてもかまわない。むろん、筑後討伐が出てきたら、おかしいんですが、筑後討伐の話ではないですから、ここに神功が出てきても不思議ではないわけです。
しかし決め手になる問題は六番です。
閼宗岳(あそだけ)。ここで「筑紫の風土記に曰く、肥後の国閼宗の県・・・。」そして阿蘇山の事を色々いっているんですが、その中に「中天にして傑峙し」「地心に居す。」という言葉があります。「中天 ーー天のまんなか、おおぞら、なかぞら」「地心=地球の大地の中心」という意味なんですね。つまり阿蘇山は天地の真中にあるんだ、という形で書かれている。
ところがB型、「郡」風土記の場合は、そうではありません。一番(A型)で神功を扱っているのと同じ説話のB型の方なんですが、「朕、西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(つ)きぬ。」神功が「朕」と書いているのは、A型にない現象です。この文は明らかに、近畿を原点として九州北岸部が西の堺だ、とこういう表記になっている。その通りですね。そういう位どりで書いてある。九州の事を書いても、近畿を原点で書いてあるわけです。ところが、さっきの六番では、そうではないんです。阿蘇山も近畿が原点なら当然「西の堺」なわけですが、そうじゃなくて「天地の中心」という書き方をしているわけです。
という事は、「県」風土記は、「郡」風土記と比べて書く姿勢、執筆の原点が違う。九州を領域として、阿蘇山を「天地の中心」として書いている。というわけです。そうするとこれを、天皇家の命令によって書かれたものと、みなす事はやっぱりおかしい。立場が違っている、という事になるわけです。
それともう一つ重大な事は、この阿蘇山の記事が、「筑紫の風土記に曰く」と「筑紫の風土記」として書いてあるわけです。いいかえますと、A型の場合、九州のどこを書いても、「筑紫の風土記」の立場で書かれています。岩波の古典文学大系でも( )して書いてあります。だから単に地域的な筑紫じゃなくて、“筑紫で作られた風土記”が九州を“包括”しているわけですね。
これを“天皇家がそういう形にさせたんだ”と、もしいうんならば、なんで瀬戸内海の風土記が、「吉備の風土記に曰く」と、播磨の事を書くのでも、ならなければおかしいでしょう。又近畿のどこを書いても、「大和の風土記に曰く」と書いて、近畿のどこそこを書く、でなければおかしいですよね。ところがそんな形式の風土記などは一切ないわけです。
それを“九州の太宰府だけがたまたま自分中心に、勝手に書いたんだ。”なんてね、そんな議論は勝手すぎるわけですよ。これはやはり、筑紫を“大義名分の原点”として書かれた風土記だから、そういうスタイルになっている、と考えなければ、いけないわけです。つまり近畿を中心、近畿天皇家を大義名分の原点とした風土記とは違うという事ですね。こういう風にA型風土記の中に、純粋に本来の姿を伝えていると思うもの四つ。この中には九州を原点にした姿がありありと残っている。それに後で、近畿側の手が加えられた形跡のあるものもある、というわけです。これは大変な問題でありますから、色々関連して申し上げたい事があるわけですけれど、時間が少し過ぎましたので、一応ここで切りまして、あと補足なり、質問で追加させていただきたいと思います。
質疑応答
質問
風土記A型の六番の中に「閼宗神宮」とありますが現在でも神宮とされているんですか。
答
これもいい問題だと思っている問題なんです。神社名鑑でみますと、神宮というのは非常に限られているんですね。伊勢神宮とか、熱田神宮とか、関東では鹿島、鹿取神宮とか限られた所しか神宮あつかいされていないわけですね。
ところがここは委細かまわず神宮といっているわけですね。現地ではどうでしょう、その点は。私もはっきり確認していないわけですが、少なくとも現在の神社名とは違って、「閼宗神宮」と称している形で書かれているという事は、注目すべき点だと思います。
質問
古事記などは写本が問題になっていますね。風土記の場合は、どういうものが中心になっていますか。
答
風土記は、古事記・日本書紀のような“丸っぽ(完全形)”はございませんで、多くは釈日本紀とか、万葉集註釈とかいうものに引かれた形で、我々に分っている、という事ですね。まとまったもので出雲国風土記、これは写本がたくさんあるんです。播磨国風土記、常陸国風土記、それから九州筑後、豊後の風士記が多く残っているほうです。写本研究では、神宮皇学館大学の学長になっておられる田中卓さんが、出雲国風土記の写本研究をされたのなども有名ですね。
質問
三国志というのは中国で作られたものですから、中国の学者の意見は、どうなっているんですか。
答
この前、この(大阪)中の島で講演された壱岐一郎さんが、一生懸命、コンタクトをとって三国志をめぐる中国側の意見をつきあわせようというプランを、お持ちのようです。まだ実現していないようです。三国志と、宋書・隋書等全部含めて、中国側の学者と忌憚のない議論がされれば面白いと思いますね。
補足
実はこの風土記の問題について、ある意味では最も重要なバック・グラウンドがあると思うのです。といいますのは、中国における行政組織の問題ですね。ご存知のように秦の始皇帝が「郡県制」を敷きました。周代に楚の国とか、呉の国とか、国に分けていたのを廃止しまして、全部、全国を郡に分けたわけです。そして官吏を長官に任命し、統治したわけです。その場合、郡の下部単位が県です。ですから、一つの郡の中に県が十あるとか、十五あるとか決まってまして、郡の下に県がある制度を作ったのが有名な、この郡県制度です。それに対して、漢は秦の始皇帝の制度をやめまして、周と秦の制度を折衷したような「郡国制」を作ったわけです。
|ー郡 ーー県
郡国制ー|
|ー国 ーー県
これは郡の下に国を作ったのではありません。全国を郡と国の二本立てにしたわけです。国の場合は、自分の一族とか手柄のあった家来を世襲で、王にしたわけです。そして国でない所へ郡を置いたわけです。例えば楽浪郡、これは楽浪国ではありませんね。つまり郡と国の二本立てにしたわけです。郡の場合は、官吏を派遣して治めているわけです。世襲じゃないわけです。世襲の国と、その都度官吏派遣の二本立てにしたのが、漢の制度なんです。
ところがその場合、郡と国の二本立てだけど、下部単位はいずれも県なんです。これが郡国制度なんです。漢書等をみれば、その差がはっきり分かるわけです。
魏になっても、西晋になっても、この漢の制度を受けついでいるんです。そうすると卑弥呼の使の難升米が、帯方郡治の役所に行った、と書いてあるでしょう。しかしいきなり帯方郡治へ行けたはずはないんで、帯方郡の中の「県」を通って「県」をいくつか通って郡治に到着したはずなんです。それは書いてないけれど、当然そういう仕組みになっているのです。
そこで問題は、卑弥呼が、大夫を名乗って難升米を遣わし、自分は親魏倭王。難升米は率善中郎尉という、中国風の称号を受けたでしょう。そうすると、自分のところに行政単位を作ったら、どうなるか。自分のところは「国」でしょう。倭国です。倭郡ではない。その「国」の下は「県」になるはずなんです。つまり中国内部の「国」とは違う、夷蛮の「国」だけど、「国」に違いないですから、中国の真似をすれば、下部は「県」になるわけです。
そうすると、この倭国においても「国」の下に「県」があった、中国の真似をしたら、当然そうなる。そして、先程のように九州王朝の記録〈日本旧記〉の中では「県」が出てくるわけですね。殆ど九州にだけ多くの「県」が出てくる、という先の問題が出てきます。まさに“九州は、中国の「郡国制度の」一端にいた。”それを証明するもの、と考えれば不思議はないわけです。この点が、重要な根本の問題として、あると思います。
もう一つ先へ進みましょう。さっきいいましたのは古事記・日本書紀の中に、九州にだけ「県」がかたまっている、景行紀・神功紀に他から取って付けたところに、かたまっている。しかし例外として“近畿に若干ある”ということを、先程ちらりと申しましたね。
この例外が何を意昧するか、という事なんですよ。例外だから問題にしない。というのでは学問じゃないです。例外が大事なことがしばしばあるわけですね。どういうところへ、その例外が出てくるか、といいますと、例えば、
(神武)遂に菟田(うだ)下県に達す。『神武紀」
神武が“「○○県」に至った”という形で書いてあるのです。これは一体何か?
さらに、
此の天皇(第三代、安寧)、河俣毘売の兄、県主波延(はえ)の女(むすめ)、阿久斗比売(あくとひめ)を娶(めと)し、・・・。『安寧記』
県主というのが出てくるわけですよ。これは第二代、綏靖のところにも、すでに出てくるんですが、これには「県主の祖」と書いてあるから、「父親」の意味なのか、「何代か前」なのか、ちょつと問題がありますので、それは省きました。第三代のところでは、「県主波延の女」ですから、安寧と同時代にこの県主がいたということになりますね。するとこれは天皇家が任命した県主なのか、それ以前からあった県主なのか、という問題が出てくるわけです。これは大変な問題なんです。次の例ではっきりします。
此の天皇(第九代、開化)、旦波(たには)の大県主、名は由碁理(ゆごり)の女、竹野比売を娶して・・・。
『開化記」つまり第九代の開化が、旦波の大県主の娘と結婚したというわけです。ところが、私が朝日新聞社から出しました『ここに古代王朝ありき』をお読みになった方は、すでにご存知のように、“神武は実在だ。天皇という程のものではなく、九州の一角、田舎の日向の豪族で、九州王朝の血を引く一部で、九州ではうだつがあがらないというんで、「野盗」のように銅鐸圏に侵入した。大阪湾で敗北して、熊野を回って大和盆地に入った。そして一代から九代までは、大和盆地の一角だけを占拠し、支配していた。侵入者として存在した。”という風に私は考えたわけです。
“十代の崇神の時に、木津川の決戦で勝って、河内を支配し、十一代の垂仁の時に、銅鐸圏の中心、茨木市の東奈良遺跡あたりの権力を倒して、銅鐸圏の遺産を継承する。西は広島県、東は静岡県までの、銅鐸圏の遺産を継承する。中心部を喰いちぎることによってそういう展開になったんだ。”そういう論証をいたしました。
その論理性に立ちますと、開化の時、九代の開化の時は大和盆地の中だけの豪族のわけですよ。侵入豪族のわけです。すると、丹波はまだ天皇家の支配下にはないわけです。ですから政略結婚なんでしょうけれどね。天皇家の支配下じゃない、とすると、この大県主というのは、天皇家が任命した大県、王であるはずはない。つまり銅鐸圏側の大県主である、という事になってきます。そうすると、さっき神武が菟田下県に入ったという文も、二代、三代のところに出てくる、いずれも「県」と出てくるのは、“銅鐸圏側の行政単位である。”という大変な問題が出てくるんです。なんで大変かというと、本居宣長が“大変”にしてしまったんです。宣長の古事記伝をみますと、「県」論を延々とやっているわけです。神武記ですかね。それに成務記のところでもやっている。この「県」は、宣長によりますと、“「御県(みあがた)」の略である。「御県」というのは「天皇の直轄地」である。だから「県」は全部、直轄地である。“と。これはだいぶ乱暴な議論で、「御県」と付けば「天皇家の直轄地」でもいいですよ。しかし“「県」は「御(み)」が略されたものだ”とすると「御」が付いても付かないでも、同じ事になりますから、困る事が出てくるんです。それは、
大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及大県・小県の県主を定め賜ひき。『第十三代、成務記』(『日本書紀』にも同類記事)
これが有名な成務記に出てくる文章です。日本書紀にもほぼ同じ文があるわけです。ここで“天皇家が、大県・小県を定めた。”とあるわけです。何の先入観もなくこれを見れば、この成務以前の段階に出てくる「県」は、天皇家が定めたものであるはずがないわけです。
ところが宣長は“「県」があれば全部直轄地だ。”とやってしまったものですから、この成務記で、次のように論ずるわけです。“これは新たに作ったのではなくて、今までにすでに定め賜うていたものを、さらに大きく作り直し賜うた。修理し賜うたものだ。”と、非常にご都合主義の論を長々と展開するわけですよ。これはしかし、あくまでも「県」といえば天皇家の制定に決っている、という先入のイデオロギー的な大前提で考えているからで、そんなことなしに解釈すれば、古事記・日本書紀ともに成務記に“このとき「県」を作った”といっているのだから、その前の段階に出てくる「県」は天皇家のものではない、天皇家の侵入以前から存在していた行政単位だ、と、こう考えるのが、筋であったのです。
そうすると“銅鐸というものは神秘な謎だ”というところに古代史の魅力があったのに、“その銅鐸圏に行政単位があった”なんていう話をすれば、もう“何をいっているか”ということになると思う人です。私もやっぱり“こわかった”のですが、考えてみると、これは当然かもしれない。
なぜかといいますと、最近「理論考古学」という事を、私はいっているんです。二月に信州松本で講演した時にはじめて使いました。
「実験考古学」というのがございますね。縄文土器を作ったり、弥生土器を作ったりする。「実験考古学」という言葉があったら、「理論考古学」という言葉があってもいいのじゃないか。従来の考古学、たとえば森浩一さんのような考古学者がしているのは、「発掘考古学」ともいうべきものだと思う。この「発掘考古学」を、「考古学」と一般化して使っているだけですね。
「理論考古学」とは何かというと、「理論物理学」、ベルンで特許局の役人として勤務していたアインシュタインが、一生懸命暇をぬすんでやったという相対性原理、机と紙だけでやったんですね。「理論考古学」もやはり机と紙だけでできる。“すべきものだ”と思うんです。現在の発掘や分布を説明しうる、仮説を提供するわけですね。それが「理論考古学」の使命だと思う。そういう議論が日本では無さすぎる、と思うんです。
詳しくは今申せませんが、『倭入も太平洋を渡った』(創世記刊)という私の翻訳した本を、お読みいただければ「伝播」という一語をめぐって、いかにアメリカの考古学者が丁丁発止(ちょうちょうはっし)、どういう場合「伝播」が成立するか、紙の上の議論を一生懸命やっているのがお分かりいただける、と思います。
そこで、こういう「理論考古学」という立場にたちますと、私は弥生時代の卑弥呼の国なんて、簡単明瞭ではないかと思います。弥生は当然ながら金属器の時代である。銅、鉄ですね。鉄はなかなか生産地の判定が難しいんですが、銅は鋳型がいりますから、鋳型の出土ではっきりする。つまり銅矛、銅父が出ていますね。だから、銅の文明は、鋳型をバックにして考え得ることです。
ある一つの銅文明の中心は、何によって定めるかというとまず鋳型ですね。だから、鋳型出土地点をB地点と考えますと、鋳型が圧倒的多数出土しているのがB地点。A地点は何かといいますと、鋳型で作られた実物が集中している。又銅製品のみならず、鉄とか玉とか、勾玉の鋳型も出ますね。そういう類の権力に関連するような貴品類の実物がゴソッと出る地点がA地点。こう考えます。
A地点とB地点が一致している場合は、文句なしに、その文明中心がそこにある、と考えていいだろう。もしA地点、B地点が全く分離していれば、実物はA地点に固まっている。B地点は鋳型だけあり、実物はなし、という場合、B地点は“工場地帯”というのは変ですが、生産中心に留まるだろう。都とはいえないだろう、こう考えるわけです。
矛や剣の場合、ご存知のように、博多湾岸の福岡市、春日市に鋳型が集中、圧倒的に集中している。そして糸島半島が副中心、あと両側にちょろちょろと一つくらいずつあるわけです。そして実物も又、同じ地域に集中しています。そうすると、A地点=B地点である。これは非常に幸福なケースであって、まず矛文明の中心は、この地帯を除いては考えられない。文献がどうあろうと、考古学的出土を理論的に処理すれば、これしかない、とこうなると思うんです。
ところがそれに対して、もう一つの鋳型が出てくる中心は茨木市の東奈良遺跡である。副中心は唐古(からこ)である。外に、姫路とか赤穂とか東大阪とかいう所に、一つずつ鋳型が出てきている。そうしますと、少くともB地点は東奈良遺跡である。ところがこの場合A地点がない。ないというのは言い方が不正確で、滋賀県の野洲町、神戸市の桜ケ丘に銅鐸が集中して出てきている。
ところがそれが都の跡であるから出てきたのか、というとどうもそういう状況ではない。ご存知のように山の裾などに埋蔵された感じである。宗教的意味なのか、侵入者を恐れてなのか、ともかく埋蔵された形です。“都だったから当然、そこに現われた。”という感じではないわけです。
もっといえば茨木市からは勾玉の鋳型が出てくるんですがそういう勾玉などは銅鐸と一緒に出てきていないんです。銅鐸だけがスポッと埋められている、という感じ。だからいよいよもって、A地点とは言いがたい。
この場合、B地点だけははっきりしているが、A地点が判明しないという不幸な状態であるけれど、結論は『ここに古代王朝ありき』で論じました「こわされた銅鐸」問題からみますと、どうも実物は破壊されたり、持ち去られたり、又それらを恐れて隠匿されたりした、とみるべきではないか。こうなってくると、不幸な状態ではあるけれど、B地点のある東奈良遺跡を中心と考えざるをえない。現在のところ唯一の中心と考えざるをえない、と、こうなってくるわけです。卑弥呼の国は、どっちかというと、中期、後期の銅鐸については、今の広島、山口県の東くらいまでが西の境ですから、そこから西へ行っていませんから。(初期の銅鐸は別にしましてね。)先ず卑弥呼の倭国は壱岐、対馬を含んでいなければおかしい。その上、倭人伝に、矛で宮殿を取りまいていると書いてあります。だから、卑弥呼の国は右の二つの中心地の内、どっちかというと、銅矛のA・B地点が一致した博多湾岸しかありえない。こういうことがでてくるわけです。
もし文献としての三国志倭人伝を解読して、ここ(博多湾岸)になれば、三国志は正しかった、陳寿は正しく書いて、解読も正しかったということになるだろうけれど、もし解読して、ここにならなかったら、三国志が間違っているのか、解読が間違っているのか、どっちかなんです。だから文献いじりは、どうあろうとも、「理論考古学」からいえば、ここ博多湾岸しかないという事に、私はなるだろうと思うんです。
ところが問題はその次で、銅矛の場合、中心はここですが分布圏は実物が出てくる所、北九州、中部九州、鹿児島や日向からも若干出てきますし、四国からも出てきます。これが分布圏。という事は、ここを中心にして、そういう範囲を支配したということです。支配したということは当然、軍事力がなければ支配できない。しかし軍事力だけでは支配できない。“一瞬”なら軍事力だけでいいけれど五十年、百年たった場合は、行政単位が必要です。行政単位なしで、軍事力だけで、ある地域を支配し続けるなんて図は、私には想像できない。
必ず軍事力が背景になりながら、行政単位が存在しなければ、継続した支配はありえない、と思うんです。
そうするとその継続した行政単位は、中国の「郡国制」を真似た「県」であった。銅鐸圏の“不幸な”ケースも、侵入者によって、荒された状態であるけれども、A地点不明という形であるけれども、やはりこの出土状況からみると、東奈良が原点で、西は広島県・山口県東部、東は静岡県まで支配が及んでいた、と考えなければならない。
小林行雄さんが、銅鐸は村々の平和な祭器なんだという理論をたてられた時には、まだ茨木の東奈良遺跡は発見されていなかったわけです。万博の時に、南茨木マンション建設の時に発見されたわけですから。小林さんの理論はそれ以前に作られた。だから生産中心が、見いだされていない段階で、小林さんの理論はできた。
しかし現在、これだけの生産中心が見つかっていれば、現遺跡の西、北方面を掘れば、もっと出てくる可能性はありますが、ここはやっぱり支配領域をもつ、銅鐸圏の中枢域とみなければならない。
そうすると当然軍事力が中心でしょうが、何十年か何百年継続したわけですから、行政単位なしに、支配が継続できたとは考えられません。
そうするとこの銅鐸圏も又、行政単位があって、当り前なわけですね。それが、例えば「大県主」。発音は日本語でどう発音したか知りませんが、これが中国でいう「国」に対する「県」を表現するものであった。こう考えて何の不思議もなかったわけです。
これは銅鐸なるものの、神秘のべールを剥ぐようなやり方ですが、人間の理性で考える限りは、“"行政単位なしの銅鐸圏”は、私は有り得ないと思うんです。こういう前提でみると、私にとっても、とてつもなくこわかった最後のテーマも、やはりこう考えざるをえない。又、こういう立場にたつと、いろいろ問題が次々と解けてくると感じているわけでございます。慌ただしく喋りまして、お聞きとりにくかったと思いますが、又改めて、足らぬところを補わせていただきます。どうもありがとうございました。
(拍手)
プリント補注。A型(「県」風土記)のすべて
一、芋眉*野(うみの)
筑紫の風土記に曰(い)はく、逸都(いと)の縣。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長一尺二寸、周り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、圓きこと磨き成せるが如し。・・・(下略)・・・。“後半は息長足比売命の説話”。『筑前国』P500。『釈日本紀、巻十一』
芋眉*野(うみの)の眉*(み)は、三水編に眉。JIS第3水準ユニコード番号6E44
[革更]は、JIS第3水準ユニコード番号9795
二、塢舸水門(をかのみなと)
風土記に云はく、塢舸の縣(県)。県の東の側(ほとり)近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と曰ふ。大舶(ふね)を容(い)るるに堪へたり。・・・(下略)・・・。
『筑前国」P501。『万葉集註釈、巻第五』
三、磐井君
筑後の国の風土記に曰く、上妻の県。・・・古老の伝へて云へらく、雄大迩の天皇のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)ぐ暴虐(あら)くして、皇風に偃(したが)はず。生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。・・・独自(ひとり)、豊前の国上膳(かみつけ)の県に遁(のが)れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(みう)せき。・・・(下略)・・・。
『筑後国』P507〜508。『釈日本紀、巻十三』
四、杵島山(きしまのやま)
杵島の県。県の南二里に一孤山あり。・・・「比古神・比売神・御子神」・・・(下略)・・・。
『肥前国』P515。『万葉集註釈、巻第三』
五、[巾皮]揺岑(ひれふりのみね)
肥前の風土記に云はく、松浦の県。・・・昔者(むかし)、檜前(ひのくま)の天皇(宣化天皇)のみ世、大伴の紗手(さて)比古を遣(や)りて任那の国を鎮(しづ)めしめたまひき。・・・(下略)・・・。
『肥前国」P516。『万葉集註釈、巻第四」
[巾皮]揺岑(ひれふりのみね)の[巾皮]は、JIS第3水準ユニコード番号5E14
六、閼宗岳(あそのたけ)
筑紫の風土記に曰く、肥後国閼宗の県。県の坤(ひつじさる)、廿餘里に一禿山有り。閼宗岳と曰ふ。頂に霊沼有り。・・・(中略)・・・。其の岳の勢為るや、中天にして傑峙し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳巍々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々、伊(これ)天下の無雙。地心に居在す。故に中岳と曰ふ。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり。
『肥後国」P517〜518。『釈日本紀、巻十」
七、水嶋(みづしま)
風土記に云はく、球磨の県。県の乾、七十里、海中に嶋あり、積、七里なる可し。名づけて水嶋と曰ふ。・・・(下略)・・・。
『肥後国」P518〜519。『万葉集註釈、巻第三』
八、〈不明〉筑紫国號(筑後国号)〈岩波本〉
公望案ずるに、筑後の国の風土記に云はく、筑後の国は、本、筑前の国と合せて、一つの国たりき。・・・(中略)・・・・・・因りて筑紫の国と曰ひき。後に両(ふたつ)に分ちて、前と後と為す。
『筑後国」P509〜510。『釈日本紀、巻五」
※ぺージ数は、岩波古典文学大系による。
本稿は、一九八一年四月十九日、大阪・中の島中央公会堂において行われた「古田武彦を囲む会」主催、古田武彦講演会の講演録です。テープ起こし(三木カヨ子)
これは雑誌『市民の古代』の公開です。史料批判は、後に収録された『古代の霧の中から -- 出雲王朝から九州王朝へ』 (古田武彦) でお願いします。
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