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②『古代に真実を求めて --「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝』 古田史学論集 第二十三集 明石書店 2020.03.30発行
古田武彦講演記録 二〇〇四年一月十七日 場所大阪市北区・北市民教養ルーム
古田武彦
この問題は、結論も簡単でして論証も簡単です。結果は重大ですが。まず、皆さん、わたしも含めて「磐井の乱」があったと思っていた。『失われた九州王朝』でも、あったとそのように書いてきました。大義名分が逆転している。あれは磐井の乱ではなく継体の反乱である。磐井が九州王朝で、継体は地方豪族である。その地方豪族の反乱である。そのような形で書きました。その時は思い切ったことを書いたつもりになっていましたが、今から見ると何も思いきったことを書いていない。なぜなら大義名分の重点を、こちらに移しただけだった。あのような戦乱があったこと自身は、間違いないと受けとめてきた。しかし、それはどうもおかしいのではないか。そのように考えが進展してきた。いきさつは省きますが。何よりも読者のお手紙のなかで、一番指摘されていた。おかしいのです。磐井の乱がほんとうにあったら、九州年号なんてナンセンスです。九州年号は磐井の乱に重なっている。磐井が殺されていて九州年号が平気で続けますというのはおかしい。いわんや九州王朝が弥生時代から白村江まで続いていれば「磐井の乱」はおかしい。今から言いますと、後知恵ですが、九州王朝・九州年号の概念と磐井の乱とは両立しない概念です。そこを読者の方から、するどく指摘されていた。読者の方から繰り返し、いろいろの形で質問された。わたしもそうだとは思っていたが、答えを出せずにいた。それがなぜ、答えが出せるようになったか。
まず『古事記』『日本書紀』に、ハッキリ書いてある。磐井を殺した。『古事記』に書いてあるから間違いない。『日本書紀』に書いてあるから間違いない。そういう立場を取る方は、それで他の論証はいらない。だって『古事記』に書いてある・・・・。だって『日本書紀』に書いてある・・・・。
しかし今『古事記』『日本書紀』に書いてあるから間違いない。そう言える人はいますか。津田左右吉の批判以来そういう人は、いないと思う。ですがわたしは『盗まれた神話』を書いた段階では、まだ『古事記』は信用できると思っていた。『日本書紀』と『古事記』を比べれば、『古事記』が本来の形である。しかしその後研究が進展するうちに、その考え方はダメだということがわかってきました。たとえば倭建(やまとたける)の話。あの話はすべてアウト。これは現地伝承をみな主語を倭建にすり替えて書いている。『古事記』も『日本書紀』も、そうなのです。これは『神の運命』(明石書店)の最後に論じていますから、ご覧になればおわかりになると思う。しかしそれは倭建の話のように、特殊な場合だけに限っていると見えなくもなかった。
それが次に、わたしにとって重要だったのは、大きなダメージというか進展を与えられたのは信州におられる浅野雄二さん。この方は日本銀行を退職して、ひたすら山小屋にこもってひたすら研究に明け暮れておられるという奇特な方です。その方は貨幣の研究がご専門でして、貨幣の問題については問題提起が鋭いのです。その方からわたしが問題提起を受けて、考えたことが次の問題です。
『古事記』雄略紀の最後に、雄略天皇が奥さんを求めに日下部王とともに妻恋に行った。その話に出てくる歌です。
『古事記』雄略紀
日下部の 此方の 山と畳薦 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 歯廣熊白 本にはいくみ竹生う 末方には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには卒寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ
ところが、この歌はよく見るとおかしい。日下は大阪からすぐ奈良に抜けるところの河内にある。日下が河内にあるのはよいのですが、平群(へぐり)との関係がはっきりしない。また日下部との関係がはっきりしない。一番おかしいのは、竹が生えている。竹が生えている。良くは寝れない。そういう話が繰り返されている。どうもそれでは(恋)話にはあわない。ところがこれを九州にもっていきます。そうすると平群(へぐり)がある。博多湾岸の吉武高木遺跡があるところが平群です。築後山門にあるのが日下部です。それで最後は「思い(妻)」で終わります。ところが九州筑後には上妻(郡)・下妻(郡)がある。これらをぜんぶ九州へもって行くと、吉武高木のあるところが平群です。これに対して神籠石に籠もっている築後山門あたりの兵士達の歌となる。そして上妻(郡)・下妻(郡)にいる自分の妻のことを思って歌っている。これで話がキッチリとあう。今の大阪河内の日下ではどうにもならない。不明である。
(論証は多元四十七号Jan,二〇〇二「筑紫恋歌 ーー記紀の構造(一)」「多元的古代」研究会・関東の機関誌に記載。この方には、これと同類のご指摘を美夜受比賈(みやずひめ)「ひさかたの 天の香具山・・・月立ちにけり」の歌で受けています。この歌は九州別府の歌です。)
これではどう見ても九州の歌です。それをもってきて雄略の妻問いの歌として入れ込んでいる。ここまでやるか。倭建は例外ではなかった。みんなその手法ではめ込んでいる。他にもありますが。
そうしますと『古事記』も書いてあるからと言って、間違いないとは言えなくなった。
そうしますと元に帰り、「磐井の乱、磐井を斬った」という話も『古事記』に書いてあるから間違いないとは言えなくなってしまった。『日本書紀』に書いてあるから間違いないとは言えない。
それでは残りに何かあるのか、そう言われればある。間違いなく確かにあるのが築後國『風土記』です。継体の軍勢が築後に来て、そして磐井を攻撃した。石人や石馬を壊したということを書いてある。事実、現在の岩戸山古墳に行くと模造品ですが、壊れた石人や石像が置いてある。だから『風土記』に書いてあるとおりだ。つまり『風土記』はほんとうだよ。学校の先生が生徒を連れて行けば、そのように説明されると思う。なるほどと、わたしも最初は思った。ですが行っているうちに、おかしいと気が付き始めました。なぜおかしいのかと言いますと葛子の問題。磐井には息子の葛子がいて、後を継いだと書いてある。葛子が壊れた石像を、そのまま大事に二十一世紀まで保存して伝えたのですかね。あんなものはやり直せばすぐです。あの石は材質は阿蘇山系ですから、たくさんある。もう一度キチンと親父さんのために作り直せばよい。それをしないで継体に壊されたものを、そのまま保存して後世に伝えた。完品はないですから。そういうことは言えば言えるけれども、そういう場景はわたしは想像できない。それだけ葛子は石が惜しかったのか。手間が惜しかったのか。そのように考えるとおかしい。そういうことに気が付いてからは、現地で何回か言いました。ところが、それはおかしいですね。そういう単なる印象批評にとどまっていた。
ところが石像は実際には壊されている。実物が壊されているから模造品として、壊された石像を作った。そうすると壊されたのは、本当はいつなのか。そういう問題が出てくる。これも結論から言いますが壊されたのは七世紀後半。白村江の後である。誰が壊したのか、唐の軍隊。唐の軍隊が筑紫に何回も来ているではありませんか。二千人、二千人、その他にも来た。彼らは観光名所に遊びにきたのか。そんなことはない。「日出処の天子」の宮殿や古墳、神籠石のような軍事施設を壊すために来た。その証拠に中国の南京、南朝の都。隋の軍隊に宮殿が壊されて跡形もない。わずかに周りの古墳の、墓の番人のような辟邪(へきじゃ)が残されているだけです。ほとんど壊されている。もちろん壊したのは北朝、隋の軍隊。その隋の後を継いだ唐の軍隊が、百済を侵略し攻め滅ぼした。王を生け捕りにして長安に連れ去った。だから百済のほうは何も残っていない。新羅のほうは墓や遺跡は残っているが、百済のほうは武寧王の墓が土にまみれて、まぐれで残ったようにわずかに残っているだけです。すべて唐が壊した。同じく、その唐の軍隊が日本に来た。唐が宮殿やお墓を壊した。偽りの天子、偽りの倭の五王の墓は認めない。壊せ、偽りの痕跡は許さない。そういう立場です。後の天皇家近畿の分王朝は、協力した可能性は十分ある。
だから壊されたのは七世紀後半、それから八世紀に近畿天皇家の世になる。だから石像を作り直す必要はない。このように考えると、話はひじょうに分かりやすい。継体の時にすると、どうにも分かりにくい。しかし白村江以後、あるいは八世紀という仮説に立てば、現在の事実関係がひじょうに簡明に説明できる。
これはもうダメだ。それを『風土記』は、実はそうではありません。外国の軍隊が来て壊したのではありませんよ。それは後の天皇家近畿の分王朝が協力したのではありませんよ。それは実は三百年前の磐井の時の話ですよ。そのようにすり替えた。
この手法は大化の改新の郡制と同じです。六百四十五年大化の改新、あそこから郡制が始まったと『日本書紀』は書いてある。あれを東大でも京大でも最近の学者は、ぜんぶ評制が始まったと言い直している。東大の歴史学の主任教授の鎌田さんが、孝徳天皇の時に評制が始まったと書いている。しかし評制が始まった大化の改新という説明は、『日本書紀』をはじめどこにも書いてはいない。学者が勝手に説明するために考案しただけです。郡制はみなさんご存知のように七百一年以後です。それは『日本書紀』を書いた人、読んだ人は誰でも知っていた。四十歳の人は、二十年間評制を使い、あとの二十年は郡制を使っていた。六十歳の人は、四十年間は評制の中にある。しかし『日本書紀』が出て来たときは、うそを書いているとだれでもわかった。しかしお上がこれが正しい歴史書だと『日本書紀』を出した。『日本書紀』は評制を消し去って、大化の改新の時から、孝徳天皇の時から郡制が始まったのだよ。これで通さなければならないのだよ。それが今、明治維新以後も東大、京大が行っている天皇制支配下の偽りの歴史学。イデオロギーの歴史学。
しかし、そういうイデオロギーをはずしてものを見れば、これはおかしいのです。大化の改新の郡制は、そこから始まったのではなくて、八世紀に始まった郡制を五十五年遡(さかのぼ)らせている。
同じように『風土記』も七世紀後半に壊されたのを、かさ上げして継体天皇の時に壊されたと書きなおした。その証拠には最近気が付いた。
『風土記』筑後國 磐井君
筑後の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。古老の傳へて云へらく、雄大迹の天皇の世に當たりて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動發りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、獨自、豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて、蹤を失ひき。士、怒泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは[玄玄](これ)に由るか
ここに、「古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは[玄玄](これ)に由るか」とあります。「[玄玄](これ)」をどう解釈しているか。岩波の注釈「十四 磐井の君の祟りという意」を、そこに付けています。
「[玄玄](これ)」で、現在というのは八世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。八女のあたりに「篤(あつ)き疾(やまい)」があって、手や足の折れた人・夫婦がたくさん居るというわけです。それは「[玄玄](これ)」に依るだろうと言っています。「[玄玄](これ)に由るか」の岩波の注釈では、いわゆる、これの祟りで、このようなことが起こったと注釈がついています。しかし考えてみてください。二~三百年前に手や足を折られた人が居た。負けたら折られるでしょう。しかし、その祟りで手や足を折られた人間がつぎつぎ生まれてくる。そんな祟りは聞いたことがない。祟り万能で、なんでも祟りのせいにして人間の理性的な判断を狂わせられると思っているから、そう書いてあるだけです。そんなことはありえないことです。わたしはそのように断言いたしますが、皆さんはどうですか。それでは、この文章はどう理解したら良いのか。とうぜん七世紀の終わりに白村江以後唐の軍隊が入って来れば、とうぜん人々は抵抗します。これで手や足は折られた。それが『風土記』が作られた八世紀前半になっても、まだ手や足は折られた人はたくさん残っている。これなら分かる。そういうたいへん分かりやすいことを、これは語っている。それを前のところを書き換えなければ、つごうが悪い。そんな唐の軍隊が壊したとか、(近畿)天皇家が見て見ぬふりをしたとか、それが分かるようではぐあいが悪い。書きなおせ。あの大化の改新の評制とおなじように、継体天皇の時に壊されたというように書きなおさせた。しかし部分的に書きなおしたから、ここの部分が残ってしまった。
だから明治以後の学者が天皇協力主義で、祟りという変な注釈を付けた。だからこれを二~三百年前というのはウソです。手や足を折られたのは、これはその時のつい最近のことを話として古老は語っています。これなら分かるでしょう。二~三百年前に、手や足を折られた人の産んだ子が、祟りで手や足を折られたままで生まれた。そんなバカな話は世界中のどこを捜してもありえない。占領の事例もありえない。祟りという言葉にだまされている。だからわたしは、「祟り売り」という言葉を使いたい。明治以後の天皇家の学者達は「祟り売り」によって、変えて読んでいる。だから史料をそのままに読まず、明らかに内容が書きなおされている。
ですから、これだけは間違いないと思われていた話はアウト。
ですから筑後國『風土記』が「継体の反乱(磐井の乱)」があったという証拠にはならない。『古事記』『日本書紀』に合わせているだけです。
以上、わたしは「継体の反乱(磐井の乱)」がなかったという結論に達したことを報告します。
このわたしの説に反対するのは簡単です。反論することは楽だと思う。なぜならば土器です。この磐井の乱を境に、土器の様式が一変しているかどうか。つまり一変して近畿風の土器に変わっているかどうか。変わらなければおかしいですよ。これは完全に関ヶ原のような大戦乱で、権力が大変動を起こしたことは間違いがない。そうしますと近畿の勢力が入り込んで、土器たとえば壺の形・デザインが今までの伝統が、ぜんぶ消えて近畿風の形・デサインに変わった。それをわたしに示してくれればよい。古田は変な理屈を言うけれどもここで土器が完全に変わっているよ。そうでしたか、わたしの考えは間違っている。そう言います。これがないです。わたしの考えている土器を出してみたが、それはない。またそれに昔から詳しい朝日新聞の内倉さんに尋ねてみても、そのようなことはないとのご返事です。それから赤塚さん、現地の岩戸山歴史資料館で考古学の専門の方なのです。電話して尋ねましたが、聞いてみて土器が一変しているということはありますかと尋ねましたが、ありませんとご返事をいただいた。ですから、わたしの知っている範囲では大変動はないし、外から観察されている内倉さんに聞いてみてもないし、内側で観察されている現地の岩戸山古墳の主のように精通されている考古学者である赤塚さんに聞いてみてもない。ですからやはり、もう一度お手持ちの資料で再検討されてもないと思う。土器がぜんぜん変化なく続いていたら、やはり「磐井の乱」はウソなのです。これだけではない。神籠石山城群はすでに作られている。とうぜん神籠石をめぐる戦乱が起きなければならない。そうしますと神籠石を攻めのぼる外や中で、戦乱の後の遺跡が出てこなければおかしい。しかしそのようなものは見たことはない。神籠石はたくさん見ましたが、そういう戦乱の後は見たことがない。それのみか白村江の戦いの前まで作られている。福岡県の唐原(とうばる)遺跡。福岡県と大分県との境。一番新しく見つかった遺跡。何回か行きましたが、これは途中まで作りかけて止められている。白村江の戦いの後止めている。そういう現地の方のお話です。そうだろと思います。主だった石は置いてある。途中の石がない。途中の石を埋めないままで放置してある。白村江まで造り続けた。要するに神籠石は停止していない。
さらに言いますと、岩戸山歴史資料館の赤塚さんにお聞きしますと、赤塚さんはおもしろい別の考えをもっていました。継体の軍が来て、すぐ引き返したと思います。その後、肥の軍隊・勢力が入ってきて装飾古墳を造ったのであろうと考えています。そういう論文を書きました。『東アジアと江田船山古墳』(雄山閣)という本の中に、そういう論文を書いております。そう言われました。これは何を言いたいのかと言いますと、確かにいまの装飾古墳の元をなすのが、一番古いものが熊本県の有明海沿い・西南端にあることは有名です。それを原点と考えて近畿天皇家が引き上げた後、その勢力が築後を征服して装飾古墳を造ったのだという考えのようです。それはそれで、考古学状況にたった興味深い一つの説なのですが、これに問題があるのは近畿から勢力が入った痕跡がないわけです。ですから継体の軍が来て、すぐ引き上げたのだと思います。そういう仮説ですね。しかし『日本書紀』にすぐ引き揚げたと書いていない。勝ったら物部にぜんぶやると、反対に書いてある。しかし考古学的状況がないから、継体の軍が来て、すぐ引き上げたという文献の解釈を、考古学的状況を尊重しながら葬り去っている。せっかく勝ちながら、あわてて引き返す占領軍というのを、わたしはみたことがない。この点が難点です。マッカーサーも日本を占領して、アメリカの文化や影響をまったく残しませんでしたか。そんなことはありません。アメリカの影響は大変残っている。この点もおかしい。
もう一つは装飾古墳の始まりを磐井のころであると赤塚さんは言っておられる。けれども例の放射能年代測定の前の考え方です。放射能年代測定を考慮に入れるとわかってきたように、一〇〇年なり八〇年なり年代が遡(さかのぼ)る。装飾古墳はとうぜん磐井の前から始まっていることになります。また磐井の後まで続いていることになるわけです。そうすると九州が、磐井が破れたから装飾古墳が始まりました。あのような華やかな文明が始まりましたではおかしい。もっと廃虚らしくなって欲しい。もっと近畿らしくなって欲しい。近畿に装飾古墳はない。そういうことからも赤塚さんの論自身には、おもしろいけれどもやはり無理がある。
それと資料を整理していまして、岩戸山古墳・磐井の乱をめぐって小田富士男さんを始め、九州の名だたる学者が集まって一冊の本を作っています(岩戸山歴史資料館図録『石人・石馬』)。ここに持ってきましたが。それを見て驚いたのは小田富士男さんが書いておられるのに、近畿の埴輪が九州に伝播して、石に化けたのが石人石馬であろうと思いますと書いておられる。小林行雄さんが言われた通りですと書かれてある。わたしの頭では、ぜんぜんついていけない。なぜ埴輪が石像物に変える必要があるのか。近畿の埴輪と石像物はぜんぜん似ていない。
これはわたしが、みなさんと中国南朝の遺跡を巡ったとき、南朝の都であった南京にありました辟邪(へきじゃ)。天子だから空想的な竜馬のようなものに乗って死んだら霊魂の天子が世界中を駆け巡ってください。そういう願いをこめて造っているのだと思います。ですから天子にふさわしいのが辟邪です。馬に羽が生えているものです。
それに対して南朝の将軍にふさわしいのが馬です。中国でも将軍の有名な「霍去病」の石馬がある。倭の五王は将軍です。海東大将軍などの肩書きがある。だから辟邪を造ってはいけない。辟邪を造ればおまえは天子かと詰問される。だから石馬を造っている。石馬は近畿を原点に考えるのではなくて、南朝南京を原点に考えるべきです。倭の五王が太宰府から筑後川流域を中心にする勢力であることの証拠です。
また装飾古墳もそうです。装飾古墳は近畿にはない。装飾古墳のおひざ元は平壌です。あそこに有名な壮大なる壁画の古墳がある。あれは中国風の生活を書いています。あれを真似してカラフルな壁画を描いたのが装飾古墳。このように見ればわかりやすい。近畿のモノクロのものを田舎者だから真似をしてカラーにしました。そう言ってみても口先の説明だけで、まったく人を納得させることは出来ない。そういう面から見ても、わたしは磐井の乱はなかった。それに対して磐井の乱があったという人は、証明の方法を簡単に申しましたので、反証していただければ幸いです。
日時・・・二〇〇四年一月十七日(土)
場所・・・大阪市北区・北市民教養ルーム
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『古代に真実を求めて』第八集
古田武彦講演 ロシア調査旅行報告と共に 一、神々の運命、 二「磐井の乱」はなかった、三、トマス福音書について
第四章隣国史料にみる九州王朝 一磐井の「反乱と滅亡」(『失われた九州王朝』) へ
制作 古田史学の会
著作 古田武彦