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『なかった』の創刊にさいして
「磐井の乱」造作説の徹底
古田武彦
一
念願の五月二十日を目前にしている。新雑誌『なかった ーー真実の歴史学』の創刊である。昨年来、その日まで、生きながらえることができるか否か、わたしには不明だった。生きてその日を迎えたい。内心でそう思っていた。──そして。
不思議なことだが、この昨年来、大きな発見が相ついでいる。今まで予想もしなかったテーマ、日本の古代史像を根底からくつがえす命題、それらが陸続と相つづいた。なぜ、今まで気づかなかったか。むしろ、それが不思議だった。やがて新雑誌の次号や次々号にもその全貌がしめされることとなろう。八十歳を越える日々の、この豊穣。運命の神に向って深く感謝せざるをえない。
二
さらに感謝せざるをえないのは、読者の方々に対してである。古田史学の会その他の読者の方々から、次々と出された「関心」、それがわたしの内奥の思考力を突き動かしてきたのである。
たとえば、いわゆる「磐井の乱」。わたしの辿った考え方は次のようだった。
第一、これは「磐井の乱」ではなく、「継体の乱」である。「大義名分」問題だった。──『失われた九州王朝』
第二、否、「乱」そのものが本来、なかった。歴史上、架空の事件である。(三年前、八月末、以降)
第三、その理由は次のようだ。
(1).記・紀の記載が一致していても、信頼できない。(たとえば、倭建命の熊襲建退治)
(2).筑後国風土記の「磐井」の記事は、(二つの文体による)新・旧史料の「合成」である。石人・石馬破壊は、七世紀末、唐軍による可能性、大。
(3).その証拠に、肝心の考古学的遺物上の、九州における「一大変動」の気配が、六世紀前半以降において、全く存在しない(土器・デザイン・神籠石等)。
従来の読者の会の中からの「反論」、それは以上の、わたしの第二・第三の立場に対するものであった。
三
けれども、わたしの立場はさらに一大進展をむかえた。今年の四月中である。
新しい認識は、こうだ。
(A)かってわたしは次のように考えた。
「継体天皇は、あらかじめ戦勝後の『領地分割案』を提示した。しかるに磐井の子の葛子から献上されたのは、些少なる『糟屋の屯倉』にすぎない。両者、矛盾している。すなわち、当初の『山分け案は破綻した』のである。」と。
(B)しかし今回、わたしは改めて次のように考えるに至った。
(1).日本書紀の立場に立ってみると、「山分け」と「糟屋献上」と、“矛盾”したまま、両記事を“並載”する、などということはありえない。不合理である。
(2).従って日本書紀の立場の実際は次のようである。
「継体天皇は物部のアラカヒに対して磐井征伐を命じられた。アラカヒは磐井を斬り、その命を達成した。そこで磐井の子、葛子は糟屋の屯倉を献上した。これはその後の九州の勢力が磐井斬殺を受け入れた証拠だ。すなわち、それ以後の九州は、継体の臣下であるアラカヒをうけつぐ物部氏の支配下におかれ、天皇家の「家来」として、現在(八世紀)に至った。それが現代の九州統治の姿である。」と。
(3).この日本書紀の立場からは、「九州年号」や「九州王朝」などは、全くの「非歴史」である。あの「日出ずる処の天子」も、もちろん九州の豪族(「物部氏」)などの「詐称」の類とされているのである。
(4).古事記と日本書紀にとって、最大の著述目的は「九州王朝の否定」であり、「七〇一」の否認である。「わが国ははじめから一貫して、近畿天皇家の支配下にあった。」この主張である。
(5).しかし、この主張が歴史上の「是」か「否」か。それを判定するのは、何よりも先述の第三の(3).、考古学遺物の「有」と「無」の問題である。そして中国の歴代の歴史書(隋書、旧唐書をふくむ)との背反である。これらとの比較、検証は日本書紀の構築した歴史象が、逆に全くの「非歴史」の一大造作物であったことをしめしている。
(6).津田左右吉は彼自身の強調している通り、その天皇家尊崇主義の立場から「武烈天皇の悪逆記事を『修飾』として抹殺し、九州制圧の『磐井の乱』記事を「史実」として生かす」立場をとった。そのために「造作時点」をその中間に求め、六世紀前半の時期の「造作」としたのであった。
以上だ。詳細は改めて論じたい。
四
かって、コペルニクスやガリレオによって地動説が唱えられたとき、カトリックのローマ法王の支配するヨーロッパ社会は、久しくこれを承認しなかった。なぜか。いわゆる「教会暦」が地上の教会中心の歴史、そして教会中心の世界と一体をなしている。そのように信じて、従来の「天動説」を守り通そうとしたからである。当然、世界認識は停滞した。
現在も、いわゆるバイブルの「四福音書」の正統性を固持し、「トマスによる福音書」(ナグ・ハマディ文書)の原初性を斥ける。その姿勢にも、深く同じ認識の停滞が現れている。
日本の歴史も、同じだ。「万世一系」の天皇家中心主義を頑固に固持するため、これに反する九州王朝説に対し、頑冥な「無視」の姿勢をつづけている。それが現代日本の歴史学界の深刻な停滞を招いているのである。
だが、ローマ教会の堅固な拒絶に屈せず、ガリレオをうけつぐ、西欧の自然科学の一大発展が次々と生じ、やがて人類の進歩と発展をもたらしたように、わたしたちは今、「天皇暦」とそれにもとづく、唯我独尊の歴史象に対して、ここに明白な「ノン(否)」の一語を告げなければならない。それが必ず、日本の新たな国家的大発展の豊かな礎となるであろう。わたしはそれを信ずる。
五
そのために『なかった』の創刊(注)、それに先立ち、新東方史学会が誕生したのである。十代から八十代まで、研究者は相次いでいる。研究者だけではない。寄せられた厚い御志の数々が研究の最先端を現に支えてくれている。厚く感謝にたえない。
たとえば、「九州王朝の木簡」、その相次ぐ出現に、今それを息を飲んで見つめている。やがて全様、そしてその真相がすべての方々の目前に、人々の志の結晶として輝かしく立ち現れることであろう。その日を待つ。(現時点までの調査報告を本号にて古賀達也氏がされるとのこと。)
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