二〇〇三年度 日本思想史学会 報告レジメ 稲荷山鉄剣銘文の新展開について 「関東磯城宮」拓出と全面調査 古田武彦(会報59号)
『なかった』の創刊にさいして 「磐井の乱」造作説の徹底(会報74号)へ
古田史学の会・創立十周年記念講演会に参加して今井俊圀(会報63号)へ
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九州年号の改元(前編) 正木裕(会報92号)へ
日本書紀、白村江以降に見られる 「三十四年遡上り現象」について (会報77号)へ
批判のルール
飯田・今井氏に答える
古田武彦
一
前回( No.六三、二〇〇四、八月八日)の本誌に、わたしの見解(一月十七日及び六月六日)に対する、会員からの批判が掲載された。大変有難い。批判なくして、学問の発展はありえないから、わたしにとっては何よりのプレゼントである。事実、最近の朝夕は相次ぐ、大きな「発見」のラッシュの中にすごしている。それも、会の内外の方々からの、新しい問題提起や疑問提出を発端とするものが少なくない。今回も、そうだ。まさにこの八月八日に七十八才を迎えたわたしにとって、共に歩む多くの方々の刺激こそ最高だ。それも、八十才台半ばの大先輩や二十才台前半の新進まで、わたしの身のまわりは、まさに“新しい研究者ラッシュ”の感を呈している。これ以上の幸せはない。
二
さて、右のような大前提に立って、今回の当批判を見つめると、いささか“物足りぬ”点が目につく。今後のため、遠慮なく指摘させていただくことをご容赦願いたいと思う。
第一に、飯田満麿(奈良市)さんの場合。「『磐井の乱』古田新見解について」と題しておられる。
この問題に対するわたしの見解の要点を列記してみよう。
(1).文献的記述
イ、日本書紀の記事 ロ、古事記の記事 ハ、筑後国風土記の記事。
右のイについては「書紀にあるから正しい」と言いえぬこと、津田批判以来、歴史学の通念だ。ロについては、最初(『盗まれた神話』頃)は、古事記を信用していたが、のちに次々とその「非」を知る。倭建命説話、雄略天皇説話(皇后に求婚の歌謡)等、他(九州王朝の歌謡)からの「盗用」が頻出(発見)。「古事記にあれば、是」とは言えなくなった。ハについては、「信用できる」と考えていたが、これも正確に考えると、「非」であることが判ってきた。(六世紀前半の戦いの「タタリ」で八世紀半ばに「篤疾が多い」など考えられぬ。)磐井の時の石人・石馬破壊を“そのまま”現代まで“遺存”させることなど、無意味。特に子供の「葛子の時代」の存在を考えると、ありえない事実である。
(2).考古学的痕跡
イ、神籠石 ロ、土器 ハ、その他(金属器等)
いずれを検討しても、「六世紀前半」に一大変動のあった証跡がない。
(3).「磐井の乱」記述の目的
「九州王朝はなかった」この建前の一大メッセージの「国内伝達」。日本武尊説話や景行遠征説話に続く、この「磐井の乱」平定記事によって「代々、九州は大和の支配下にありつづけ、その反乱があっても、常に平定されてきた」という、偽のメッセージ。これが記・紀・風土記記述の最大目的である。(ただし、中国側史書とは矛盾するため「国際的認識」とは、別。独善的。)
以上についてのべた。そして岩戸山古墳近辺の石人・石馬破壊は、七世紀末、白村江の敗戦以後、九年間に六回も筑紫に「侵駐」した唐軍(及び、それに協力した近畿天皇家)による破壊、という、わたしの「仮説」を立てたのである。(八世紀前半の「篤疾多し」は、そのさいの負傷者の晩年。)
以上がわたしの立論の大体である。飯田さんの場合、そのような「立論」の紹介が極めて“不十分”のようである。たとえば、(2).の問題は、わたしの「力点」の一つであり、また飯田さんの「子供(葛子)の反乱」説の根拠となったもの、と思われるが、その点についての「紹介」も、「言及」もない。ために、当日(一月十七日)のわたしの講演を聞かなかった読者には、「古田は、これほど大胆な説を、なんと杜撰な論法で述べたものか。」と見えるのではあるまいか。あまりにも、重大なテーマだけに、わたしの立論それ自身を「正確」に紹介してほしい。「批判」は、それから、である。徹底的に、だ。これが批判のための大切な大前提、そのポイントなのではなかろうか。
三
飯田さんの立説に対して、若干の再批判をさせていただこう。(飯田説は前号参照)
第一は、史実が「葛子の反乱」それも「親殺し」が真相であった、とすれば、なぜ近畿天皇家側が「葛子」を「磐井」に“変え”ねばならなかったのか。その動機が不明である。史実そのままを書いて、“親子げんか”の醜態を書けば、それでいい
のではないか。この疑問だ。何か、近畿天皇家側に「葛子をかばわねばならぬ」事情でもあったのか。不明である。
ほとんどすべての犯罪に「動機」があるように、歴史記述にも、記述者側の「動機」が必ずあるのではなかろうか。
第二は、考古学的痕跡の問題。「親子げんか」といっても、家庭内暴力程度の規模ではないから、やはりそれなりの、何等かの「痕跡」がほしい。「文様」などのデザインが九州内部だけであっても一変するとか。それがあれば、教えて欲しい。
ただそのさい、現在の考古学編年の「年代」では駄目だ。前号でも、内倉武久さんが力説しておられるように、「14C」や「年輪年代測定」の“ふるい”が不可欠。
わたしの場合は「それ以前の九州のデザイン・文様が一変し、近畿のそれにとって代わられた」そういう痕跡がない。たとえ現在の考古学編年から、百年や百五十年さかのぼってみても、「No!」なのである。
逆なら、ある。「九州から近畿へ」の影響なら、まちがいない。「三種の神器(宝物)」はもとより、土器についても、内倉さんの本(『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房)にも満載されている。この問題である。
もう一つ、飯田さんの論文で気づいたことがある。次の個所だ。
「其れは苟も一国の正史として大方が認識している歴史書が、架空の事実を記載するのか?の一点である。(中略)
ひとたびこれを認めるなら、今日までのすべての努力は水泡に帰し、津田左右吉氏の地点まで後退することは誰にも留め得ぬ事態となる。曲がりなりにも『記紀両書』が今日まで伝えられたのは、根本に於いて其れが広義の史実に基づくものだからである。そうでなければ、我々の祖先は、これを遥か昔に破棄、放擲していたに違いないのである」《α》。
この“壮大な一文”には驚いた。もしこの命題《α》をうけ入れるなら、次のようにならないだろうか。
(一)もし古田の言うように、「九州王朝」なるものが実在したならば・・・以下《α》を叙述。従ってそのような王朝はありえない。(現代の人々は、今でも、そう思っている者も、多きか。)
(二)「七〇一」以前、七世紀後半には「郡」ではなく、「評」が用いられていたというのは、ありえない。なぜなら・・・以下《α》を叙述。七世紀後半も必ず「郡制」の時代である。(かっての坂本太郎氏説。)
(三)志賀島出土の金印は「偽物」である。なぜなら・・・以下《α》を叙述。従ってその「偽物」に迷わされているのが、現代の研究者である。教科書も然り。(記・紀に金印の記事なし。)
(四)隋の煬帝の使者が日本列島に来て、「男王」である「多利思北孤」に会ったというのは偽妄である。なぜなら・・・以下《α》を叙述。日本側は必ず女帝(推古天皇)であった。
他にも、幾つでも、「構文」ができるであろう。それはこの《α》が、壮大なる「万能の理論」だからである。すなわち、実証と帰納の学問の方法ではない。この点、失礼ながら、ここに明言させていただきたい。
わたしは今回、「発見」した。津田左右吉が記・紀の「造作」時点を六世紀前半においた理由を。なぜなら、それ以後、つまり「継体の磐井反乱討伐」説話を、いわれなき「造作」としたくなかったからである。津田は典型的な「近畿天皇家中心主義の歴史家」であった。
要するに、「継体の磐井反乱平定」説話と九州王朝実在論とは“氷炭相容れざる”存在なのである。両立は、不可能だ。(なお、百済本記の「日本天皇及太子・皇子、倶崩薨」記事については別述)。
要するに、景行天皇の九州大遠征譚や日本武尊の熊襲征伐譚は「何か史的根拠があった」のか、それとも「大和服属下の九州」という虚像を打ち建てるための造文か、この問題だ。
その点、「そのような“古伝説”とちがい、六世紀前半ともなれば、“確かだ”」という、津田が打ち建て、(かってのわたし自身をふくめ)すべての歴史学者が従ってきたイメージに対して、今回はじめて明確な「No!」をわたしは提起した。心ある人々は「諾否」はいざ知らず、願わくは、慎重に「保留」し、深く「検討」の対象とされんことを。この一点を伏して人々に望みたい。
四
第二は、今井俊圀(千歳市)さんの場合。「記念講演会に参加して」の一文である。
特に注目したいのは、『トマスによる福音書』と法華経の関係。まず、わたしの立論を紹介しよう。
第一、両者とも「女は男に化身して、そのあと救済(神の国・浄土へ行く)される」という。「救済の論理構造」が同一である。(三段型)
第二、『トマスによる福音書』の“出生地”のユダヤも、法華経の“出生地”の北インド(ガンダーラ等)も同じくアレキサンダー大王の征服による「同一、一大政治・文化圏」の一端である。従って両者の「救済の論理構造」の一致は、「偶然の一致」とは考えられない。「同一思想の伝播と交流」の結果である。
第三、『トマスによる福音書』のトマス(ディディモ・ユダ・トマス)はユダヤのイエスのもとに居て、のち北インドへ移り、さらに南インドへ移り、そこで没した(『使徒ユダ・トマスの行伝』)。現在もインドの南端部、西側のケララ州・マルバール地方に「シリアン・クリスチャン」と呼ばれるトマス系のキリスト教会(マル・トマ教会)があり、かなりの信者数の分布をもつという(荒井献氏)。
第四、法華経の提婆達多品に、八歳の竜女の説話がある。彼女はみずからの「女身」を「男」に変え(「変成男子」)、のちに「南方の浄土」へ行く、と言う。
「南方の浄土」問題は、法華経研究上では難問(丸山孝雄『法華教学研究序説』平楽寺書店刊、等。丸山君は松本深志高時代の教え子。法華経の専門学者。この第一章第二節は「法華経の漢訳」を扱う。)
第五、右の両書の比較からは「『トマスによる福音書』→法華経」の“伝播”を考えれば、理解できる(古田)。
第六、提婆達多品は法華経中、「後代の成立」というのが(学問上)通説。(信仰の立場は、別。)
第七、この点、旧訳(竺法護〈二八六〉と鳩摩羅什〈四〇六〉)と新訳(闍那崛多共達摩笈多〈六〇一〉と玄奘三蔵による)の時期問題がある。ただしこの問題は「下限」を示すのみ。「上限」は確認できぬ。(この問題、別述)
第八、同じく仏教においても(女人の変成男子成仏)思想は、原始仏教に見られる。たとえば釈迦の前生譚で「前世は女人」とするもの七例(南伝仏教)。ただし「漢訳」の時期はおそく、果して「釈迦直後」にさかのぼれるか、不明。その上、先述の「変成男子」思想とはニュアンスがちがう。
第九、その上、例の法華経の「南の浄土へ行く」問題は解決不能。
第十、現在の法華経(提婆達多品を含む)は、やはり『トマスによる福音書』の“影響”という視点から「理解」するのが妥当(古田)。
以上がわたしの現況だ。右はその一部である。丸山君(わたしの三歳下)の教示を、昨年末、度重なる長距離電話で聞き、多くの資料コピーを送ってもらい、図書館(竜大や創価大学〈東洋哲学研究所〉など)で関係書類をえた。まだまだ、これから。
今回(六月六日)は中間報告である。いつものように「現在進行形の研究報告」が、わたしの講演の「ルール」なのである
から。これに対する異論疑問大歓迎である。そこから「明日」が生まれよう。
五
今井さんの文章に対する「疑問」を書かせていただく。まず、その文章。
「(旧訳と新訳の問題にふれたあと)そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。( (1) )
ところでトマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。( (2) )
一(二か)三世紀ころ北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。( (3) )
やはり法華経の説話は『トマスによる福音書』とは無関係だと思います。( (4) )」
わたしの疑問。
第一、 (1) は、一応“わかる”けれど、厳密に考えると問題がある。なぜなら西域の亀茲国出身の鳩摩羅什の時代、すでにのちに「新訳」された法華経(現在のもの)はできていたけれど、彼はその“できたて”のものを受け入れず、「旧訳」のような、すでに十分成熟した形のものを「漢訳」の対象とした。──そういう可能性もまた排除できない。
もちろん“大まかな”経典伝播史の段階なら、この今井理論で「是」。しかし今当面しているような“微妙な”文明間の「伝播」の問題では、もう少し“きめ細かく”思考の吟味を加えてほしい(竺法護訳の再検討も必要)。
第二、この (2) で「七世紀まで伝わらなかった」の一文は意味不明。あるいは「現存の法華経(新訳)が“出来上がったら”すぐ漢訳(唐訳)された」と考えているのか、そのような根拠はどこにもない。(そう“きめる”ことができれば、研究者にとっては楽なのだが、そう“きめれない”ところが悩みの種。──この点、丸山君からくりかえし研究上の「苦渋」を聞いた。)
第三、なぜか「大無量寿経」に対しては、簡単に「伝播、OK」。しかし実際は、こちらの方がむずかしい。
A.法華経の方は「〈1〉変成男子説プラス〈2〉南方浄土説」の組合せ。従って「トマスの“行路”と対応している」点を偶然の一致視しにくい。(法華経自体で、南方浄土説が内部だけからは“産出”の必然性がない。)
B.大無量寿経の場合、
イ、わたしがこの系列の「最初」とみなす「平等覚経」には「変成男子」の思想がない。(この「最初」問題は別述。)
ロ、次の“はじめて”「変成男子」思想の出現する「大阿弥陀経」の場合、「平等覚経」にはなかった「光明」思想が大きく“付加”されている。
この点、『トマスによる福音書』も「光」の意義を強調(一一、二四、六一、八三)。
以上であるが、「光明と闇」をめぐる思想には有名な先駆思想がある(ゾロアスター教等)。従ってこの「〈1〉変成男子説プラス〈2〉光明思想」という“組合せのもつ独自性”は、法華経の場合の「〈1〉変成男子説プラス〈2〉南方浄土説」の組合せのもつ、“独自性”より「少ない」とも言いえよう。
けれども、今のところ、わたしは「大無量寿経」の場合も、『トマスによる福音書』の“影響”とみなす可能性が高い、と考えている。
ひるがえって大乗仏教成立史の全体像を俯観してみよう。少なくとも日本で親しまれている、この「大乗仏教」なるものが、従来の原始仏教、なかでも「在世時の仏陀の教え」(法句経など)とは“一変した”様相をしめしていること、「世界の常識」である。日本でも(信仰世界内部の人は別として)同じだ。
ではそのような“一変”がなぜ生じたか。この問いに対する最大の回答、それはアレキサンダー大王の一大遠征と征服・統合・支配だ。それが政治・経済・軍事等の分野にとどまらず、宗教思想の世界にも及んでいたことは、先年の「アレキサンダー大王展」(東京、神戸)が見事にしめしていた。わたしたちが「仏教そのもの」と思っていた数々の仏像や周辺の図像が、実はおびただしく「ギリシャの神々の図像」の“換骨奪胎”はっきり言えば「盗用」(失礼!)めいたものだったのだ。
この「図像」などというものは「外的」なものだ。むしろ「思想内容」こそ、すばやく、深く“浸透”し、“影響”しやすいのではないだろうか。
今没頭中の『トマスによる福音書』の場合も、「史上の(リアルな)イエス」に影響を与えた二つの母胎がある。わたしはそう考えている。
一つはもちろん旧約聖書。創世記のはじまりにおいて女(イヴ)は“楽園から追放された存在”、“罪深い存在”なのである。この「女」も“救われ”うるのか。これがイエスにとっての課題だった。その回答が例の「一一四」。彼は“女性を男子に変えて「神の国」に至らしめることができる”というのである(三段型)。
二つは当然ながらアレキサンダー大王とその背景のギリシャ文化と思想。アテナイの女神は「男子のシンボル(ペニス)」をもつ。先日の「アレキサンダー大王展」にも展示されていた。
わたしはこの「ギリシャ宗教思想」成立の背景には「トロヤ」があると考えている。そのトロヤの背景には有名な「アマッオーネ(アマゾーン)」。あの周知の、強力な女性戦闘集団だ。ホメロスの「イリヤッド」に二回出てくる。トロヤ王は押し寄せたギリシャの大軍を見て想起する。かって戦った「アマッオーネ」の女性軍団を。
シュリーマンは「イリヤッド」を愛した。その戦いを「空想」ではなく、史実と考え、発掘によってそれを証明した。しかしなぜか、そこに戦闘場面(の記憶)の明記された「アマッオーネ」の実在に“ふれず”じまいだった。「シュリーマンの歴史欠落」だ。
わたしはトルコを訪れ、トロヤの遺跡に至った。そのあと南トルコや各地で“黒曜石の文明”に出会った。人間の両手をあわせたより大きい「黒曜石の鏃」があった。磨き抜かれていた。大きく美しかった。権力のシンボル、宝器であろう。わたしはそこに「アマッオーネの女王」を見た。「女性中心」の軍事的古代文明である。
この「女性尊崇」の古代文明のあと、男性中心時代がやってきた。そこでは逆に女性が蔑視されはじめた。創世記はそういう新しい時代(たとえば、B.C.三〇〇〇年以降)の産物だ。
その蔑視という「ゆがんだ時代」の中で、あの“変てこ”な「変成男子」思想が生まれた。疑うべくもなく、「女性蔑視」の土台の上に“花開いた”ゆがめられた思想だ。それが「イエス」であろうと「大乗思想」のなかの釈迦であろうと、「ゆがめられた救済思想」であることには変りはない。これでは女性に「失礼」である。
ともあれ、わたしはこの“ゆがめられた思想”の淵源をあの「トロヤに敗れたアマッオーネ」に求めようとしている。わたしの「作業仮説」だ。「トロヤ→アテネ→マケドニア→イエス→(大乗の仏陀)」という「伝播」の“思想系列”をひそかに頭に描いているのである。もちろん、その成否は知らない。“無駄骨”あるいは“分からずじまい”になることも、当然覚悟の上。人間の探求とは本来そういうものなのであるから。
六
今井さんにお願いしたい。
第一、相手の立論を批判するためには、相手の立論の全体、そしてその「論理の核心」をしっかりとうけとめること。それなしに“早急に”批判するのではその批判する相手に対して「礼」を失することとなるのではないだろうか。
「まだよく分からなかったので、もっと十分に聞きたいものだ。」
今回の今井さんの文章がそのように結ばれていれば、この紀行文は、より美しく、人間として奥床しかったのではないだろうか。いそいで相手の立論を「否定」してみせなくても、しょせん間違った立論なら、ほっておいても“ぼろ”がでる。そう思われませんか。
第二、特に相手が新説をいだき、それに果敢に挑戦しようとしているとき、のっけから「それは駄目」「成立しない」と“きめつける”(そういう気持ちはないと思うけれど)のは禁物。いわゆる学問の賊となりかねない。
今、わたしの周辺でぞくぞくと新しい芽がふきはじめている。うれしい限りだ。だからこそ、このような批判のルールを立て、相手の立論を深く尊重しつつ、忌憚なく鋭き批判を交わしたいと思う。わたしはそれを心から願っている。その交流のためにあえて今回失礼の批言をのべさせていただいたのである。
二〇〇四・八月二十九日(九月八日追記)
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