菅政友と『琉球漫録』 那覇市 仲村致彦
管政友の「管」は「菅」に、大隅半島の「大隈」は「大隅」と原文通りに改訂しています。2007.11冨川ケイ子氏の指示による。
原文改定と菅政友
相模原市 冨川ケイ子
古い文献を読むとき、後代の常識によって安易に(十分な論証なく)原文を改定することの非は古田武彦氏の強く説くところであるが、江戸末期から明治前期にかけての学者が三国志の「邪馬壹」を原文のまま表記した例を紹介したい。
菅政友(かん・まさとも)(一八二四〜一八九七)の「漢籍倭人考」である。明治二五(一八九二)年二月から一一月にかけて七回(未掲載月もあった)まで『史学会雑誌』(後に『史学雑誌』と改称)に掲載され、未完となっている。
該当の個所を示す。
南至二邪馬壹國一、女王之所レ都、水行十日、陸行一月、官曰二伊支馬一、次曰二彌馬升一、次曰二彌馬獲志一、次曰二奴佳[革是]一、可二七萬餘戸一、
投馬國ヨリイヨヽヽ南ニ向ヒテ海路ハ十日、陸道ハ一月ヲ経テ、邪馬壹國ニ達ルトナリ、コヽニ其(ノ)過キ来ツル方位ヲトリスベテイハンニ、東南ニ向ヘルハ、僅ニ末盧國ヨリ、不彌国ニ至レルマデノ間ニテ、夫ヨリ六十日許ハ、常ニ南ヲ指シテ進メル趣ナレバ、邪馬壹ノ地ハ、大隈、薩摩アタリナルコト明ケシ、サルヲ古来ヨリ之ヲヤマトヽ訓ミタルニ、天皇ノ都シ給ヘル國ノ名ニ按ヒ混ヒテ、畿内ノヤマトニモ、大倭ノ字ヲサヘ用ヰラレシハ、イトヽヽイハレナキコトナラズヤ、
(下略)(前掲第三編第三二号、二五頁)
[革是]は、JIS第三水準、ユニコード97AE
本文で一箇所、注釈で二箇所の「邪馬壹」を見ることができる。
菅は別のところで「邪馬壹、後漢書ニハ邪馬臺、北史ニハ邪馬堆ト作リ、壹ハ臺ノ誤ニテ、ヤマトヽ訓ルナルベシ」と明言しているので、「壹」を「臺」の誤りとしながらも、原史料には手を加えなかったと見るべきであろう。三箇所続けて誤植したとも思われず、原稿に「壹」とあったのをそのまま植字したものと考えられる(注1)(注2)。
菅によれば、近畿のヤマトのほかに、九州の大隅・薩摩あたりにもヤマトがあった。その述べるところをいくつか列挙する。(ただし現代文とする。)
(1) (漢書にいう)「分為百余国」とは筑紫の国々をいう。
(2) 倭国王武の上表に「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」という「六十六国」は筑紫の国々に当たる。
(3) 筑紫のあたりにはひそかに彼の国に「朝見の礼」をとる者もあった。しかしそれは「朝廷」の関知しないことなので「史」には記載されていない。
(4) 元々筑紫の国は、筑紫、肥、豊、熊襲の四国に分れていた。神武天皇が中洲を平定するために出立した後、開化天皇の時代頃までは「朝廷」は近隣のことで多事だったのであろう。その威光も遠い国々にまでは及ばなかった。この地はおのずから「化外ノ姿」であったから、ついには熊襲などというものが起こって、外国にもたびたび往来した。「漢土ノ史」に
「委奴国王」「大倭国王」などと載せているのは、みんなこれら筑紫国の酋長であった。
(5) (後漢書に)「世々伝統」というのは、その国々の支配者がみんな王と称したことを言うが、実は国造、県主を中国の言葉に訳して王と記したものである。「倭奴国王」の「倭」は「委」の間違いで、伊都県主のことであるから、その他も押して知るべしである。
(6) (後漢書にいう)「大倭王居野馬臺国」の「大倭王」は倭人の住む国々を統治する者を指す訳語で、当時そういう名称はなかった。この王は魏志に言う倭王卑弥呼の祖先であり、「野馬臺国」は大隈の地名であろう(注3)。
(7) (中国は)後には「御国の大号」をも「倭奴」であると思うようになり、旧唐書に「倭国者古倭奴國也」、新唐書に「日本古倭奴也」などと書いた。
(8) 「琉球漫録」によると、「土語」で日本とは薩摩をいい、東京その他は大日本というそうである。昔大隈・薩摩のあたりを「邪馬臺国」と呼んだ名称がたまたま残ったのであろう。
(9) 「女王之所都」の女王は熊襲の系統を引き、その都も他の地ではない。
このように、大隈・薩摩にヤマトがあり、筑紫=熊襲が中国から倭、倭人、倭国、大倭、邪馬壹(臺)などと呼ばれていた、という菅の考えからすれば、「畿内ノヤマト」に「大倭ノ字」を当てるのは間違いということになる。「大倭」は筑紫の勢力を指す名称であって、「御国」「朝廷」の名称ではないからである。
ところで、菅の没後十年の明治四〇(一九〇七)年一一月、国書刊行会から『菅政友全集』全一巻が発行された。ここに収録された「漢籍倭人考」は上・中・下の三部構成となっており、雑誌発表部分は中のはじめあたりまでである。後半部を含めて執筆が完了したのはいつであろうか。全集は記さない。
ここでは前述の三箇所の「邪馬壹」のうち、本文の一個及び釈文中の一個を「邪馬臺」に改定し、もう一個を「邪馬壹」のまま残している。(注4)
誰が「壹」から「臺」へ改定したのであろう。
例言は述べる。「著者の按文中明かに誤なることを知らるヽ文字、又は缺字等は、直ちにこれを改め、又は補ひて、一々其條下に斷らざる所多し。是れ煩雑を恐れしが爲めなり。看者是を諒せよ」
二〇〇四、八、二八
注1 この本文を古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、昭和四六年)に掲載されている『三国志』と比べると二文字の違いがある。「官曰(官有)」「彌馬獲志(彌馬獲支)」、カッコ内は同書による。
注2 八月の例会で、菅は邪馬壹をヤマトと読まなかったから原文改定しなかったのであろう、と説明したが、実に粗忽な理解(誤読)であった。間違いを発見する機会を与えてくださった古賀達也氏に感謝する。
注3 後漢書からの本文では「邪馬臺国」と表記するが、釈文では「野馬臺国」を使っている。
注4 このほか『全集』では読点の位置にいくつかの相違がある。また「都シ給ヘル國ノ名ニ」が「都シ給ヘル名ニ」に変えられている。
これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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