原文改定と菅政友 冨川ケイ子(会報64号)
管政友の「管」は「菅」に、大隅半島の「大隈」は「大隅」と原文通りに改訂しています。2007.11冨川ケイ子氏の指示による。
菅政友と『琉球漫録』
那覇市 仲村致彦
会報 No.六四の『原文改定と菅政友(管を菅に改訂、冨川ケイ子氏の指示による。)』(相模原市 冨川ケイ子氏)の「菅によれば、近畿のヤマトのほか、九州の大隅・薩摩のあたりにもヤマトがあった。」その述べるところをいくつか列挙する。(ただし現代文とする)として挙げられた 1).〜9). までの 8).項に、私は驚いた。
8). 『琉球漫録』によると、「土語」で日本(やまと)とは薩摩をいい、東京その他は大日本というそうである。昔大隅・薩摩のあたりを「野馬臺(やまとの)国」と呼んだ名称がたまたま残ったのであろう。
ーーというのである。この文章は前段にも問題があり、説明を要するが、後段は甚だ疑問である。
菅政友の挙げる『琉球漫録』はたぶん渡邊重綱撰『琉球漫録』(明治十二年二月十七日版免許同年同月出版・神田区今川小路・出版人小笠原美治)であろう。渡邉は次のように書いている。
ーー土語ニ日本ト云ハ薩摩ヲ云フ東京及其他ヲ大日本ト云フ維新以来府縣官商来往スル者多シ(以下略)
さて、渡邊はこの文章で薩摩の琉球侵略(琉球入り)注 1). 後の、琉球の地での薩摩役人の「暴状」について描出・指弾している。土語云々はその際、妓女・遊廓の条で述べたものだが、なぜ土語で日本ト云ハ薩摩ヲ云東京及其他ヲ大日本ト云うのかについて、いわゆる「文化史的」なことには触れていない。
そこが「漫録」たるゆえんであるが、そこで私は伊波普猷『古琉球』注2). の一節を抽出する。
「七世紀の頃に南島人がはじめて、大和の朝廷に来た事は国史の語る所であって、當時朝廷では譯語(オサ)を設けて相互の意志を通じたといふ事があるから、分離後六七百年にして大和言葉(ヤマトコトバ)と沖縄言葉(オキナハグチ)との間に餘程の差違が生じてゐたと見える。併し九州地方と南島との交通はその以前からあったであらう。これから十二世紀に至るまで沖縄本島の住民が大和又は筑紫に往来してゐたことはオモロを見てもわかる。何よりもよい證據は今日に至るまで琉球人が内地のことを大和(ヤマト)といって居ることである。後世大和は鹿児島をさすことになって、明治十二年頃の沖縄人は東京を鹿児島と區別するに大大和(オホヤマト)といふ語を用ゐた。島津氏に征服された後琉球人が内地へ行くことをノボル(上國)といったのは不思議でもないが、五六百年前にも矢張りノボルといふ語を用ゐた形跡がある。」(仲村注ーー明治十二年は琉球の廃藩置県すなわち沖縄県誕生の年)。
右の説明でご理解いただけたと思うが、菅の述べるところの 8).は大きな誤解を生みそうである。いわんやーー昔大隅・薩摩あたりを「邪馬臺国」と呼んだ名称がたまたま残ったのであろうーーというのは、どうもいただけない。
伊波普猷の『古琉球』は、先の文章の中で次の『おもろさうし』 注3). 巻十のウタを紹介している。
くすぬきは こので(楠船クスフネを造りて) やまとふね こので(大和船を造りて) やまとたび のぼて(大和の旅に上りて) やしろたび のぼて(山城の旅にのぼりて) かはらかいにのぼて (曲玉を買ひにのぼりて)ーー以下略。
ここに私たち琉球(沖縄)で、ヤマト(大和)と言う時、それは内地つまりは日本国全体を指していることが理解されよう。それは七世紀の昔から連綿と実に現今平成の世まで及んでいるのである。(伊波はあの世で苦笑していることであろう。)昔大隈・薩摩あたりを「邪馬臺国」と呼んだ名称がたまたま残ったーーからではないのである。
もう一つ、琉球の古英雄・勝連の阿麻和利(あまわり)を称えたウタを『おもろさうし』から取り出してみる。「かつれんはなおにぎやたとへる」(勝連は何にかマア譬へむ)「やまとのかまくらにたとへる」(日本の鎌倉に譬へむ)以下略。
以上の如く、沖縄で言う日本(やまと)とは薩摩に限定していうのではなく日本の国を指して言うのである。私は大隈・薩摩あたりに限定して「邪馬臺国」と呼んだ名称が、たまたま(沖縄に残った)ことを見聞したことはない。しかも沖縄側でヤマトを「邪馬臺」と表記した史料を見たこともない(粗忽な私の失ならば、遥けき泉下の菅大人にお詫びしなければならない。)
注
1). 薩摩(島津氏)による琉球侵略・慶長の役。慶長十四年(一六〇九)以降琉球は島津氏の支配に陥り「日支両属」となる。
2). 伊波普猷(いはふゆう・一八七六〜一九四七)、東京帝大言語学科卒後、沖縄県立図書館長。「おもろさうし」・琉球史を研究。明治四四年「古琉球」刊行。「伊波普猷全集」(昭和四九年・平凡社)等多数。顕彰碑に「おもろと沖縄学の父」とある。
3). 『おもろさうし』奄美・沖縄の島々の古謡集。廿ニ巻。およそ十二世紀〜十七世紀までの五、六世紀間の歌謡の集積。歌数重複一五五ニ首。実数一一四四首。琉球王府編集(第一巻は一五三ニ年)
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