2005年2月9日

古田史学会報

66号

1、若草伽藍跡と
宮山古墳・千早・赤坂村
 伊東義彰

2、津軽平野と
東日流外三郡誌の旅
宮城県北の遺跡巡り
 勝本信雄

3、菅政友と『琉球漫録』
 仲村致彦

4、高皇産霊尊
と蠅声なす邪神
 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

5、太田覚眠と
 “からゆきさん”
「覚眠思想」の原点
 松本郁子

6、 久留米藩
宝暦一揆の庄屋たち
 古賀達也

7、故・ロンドン大学
 名誉教授
 木村賢司

8、連載小説『彩神』
 杉神(すきかみ)
  深津栄美

9、和田家文書裁判
での原文改訂
歪曲引用された
仙台高裁判決文
 古賀達也

10、年頭の挨拶
「本」という字
 水野孝夫
事務局便り

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日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって(古田史学会報61号)へ

太田覚眠と信州の偉人たち 松本郁子(会報62号)

太田覚眠における時代批判の方法ー昭和十年代を中心としてー(古田史学会報65号)へ

太田覚眠と“からゆきさん” 「覚眠思想」の原点 松本郁子(古田史学会報66号)へ../kaihou66/kai06505..html


詳細は、『太田覚眠と日露交流』(−ロシアに道を求めた仏教者−ミネルヴァ書房)をご覧ください

太田覚眠と“からゆきさん”

「覚眠思想」の原点

京都大学 大学院 松本郁子

 昨二〇〇四年十一月十三・十四日、東京八王子の大学セミナーハウスで「海のロマンと日本の古代‐古田武彦先生を囲んで」が行われた。古田先生は第一日目の特別セッションで「トマスによる福音書」に関する最近の発見について話されたが、この時先生の前座として太田覚眠研究の最近の発見について話させていただいた。これについて報告したい。
 太田覚眠(一八六六年三重県四日市市法泉寺生〜一九四四年モンゴル内蒙古集寧寺没)とは、ロシア極東ウラジオストクの浦潮本願寺(浄土真宗本願寺派)で一九〇三年(明治三十六)から一九三一年(昭和六)までの約三十年間、布教活動に従事した僧侶である。
 私は太田覚眠の思想と生涯を研究しているが、覚眠の思想を究明する上でどうしても解けない問題があった。それは覚眠の「思想転換」の問題である。覚眠は一九〇三年(明治三十六)三十八歳の時にウラジオストクに渡るが、ウラジオストクに行く前と行った後とで覚眠の思想の“色合い”には決定的な変化が見られるのである。
 ウラジオストクに行く前の覚眠の思想には、国家至上主義、国家第一主義のいわば”愛国青年”的色彩が強い 注1).。これに対しウラジオストクに行った後の覚眠の思想には、“国家の立場に対し、民衆のための宗教の立場を優先させる”というテーマが前面に出てくるのである。覚眠の思想はなぜこのように大きく変化したのだろうか。
 この問題を解く上で重要な鍵として、いわゆる“からゆきさん”と呼ばれる日本人「醜業婦」の存在があった。“からゆきさん”たちはお金を得るために遠く日本を離れたウラジオストク、さらにはブラゴヴェシチェンスクやチタ等のロシア奥地にまで進出し、自らの肉体を売って働いていた。彼女たちの中にはもちろん、女衒に騙され売り飛ばされた人たちも多くいたことであろう。しかし大場昇『からゆきさんおキクの生涯 注2). 』に見られるように、“からゆきさん”たちの中にいわゆる被差別部落出身の人たちの存在があったことを見過ごしてはならない。彼女たちは日本国内で国家によって差別され職業を得ることができず、国外にその生計の地を求めたのである。
 覚眠はウラジオストクが国家から疎外された存在である“からゆきさん”が多くいる地であることを知っていて、あえてこの地を自らの活動の場に選んだ。したがって覚眠が単なる国家第一主義の“愛国青年”ではなかったと言うこともできる。しかし覚眠の思想に決定的な変化をもたらしたのは、日露戦争の際の日本人居留民救出事件であった。
 一九〇四年(明治三十七)二月、日露戦争が勃発。ウラジオストク貿易事務官川上俊彦は奥地に多くの日本人が残されていることを知りながら、最終引揚船に乗って帰国する日本人居留民の引揚をもって引揚が完了したことにしようとした。しかも居留民救出を決意した覚眠に対し、日本に帰国して従軍僧として国家のために働くことを要請したのである。けれども宗教家としての覚眠はこれに従うことはできなかった。川上俊彦の帰国要請を峻拒し、取り残された日本人居留民を救出するために単身奥地に踏み込んだのである。
 覚眠が救出に向かった「居留民」の中枢は、“からゆきさん”たちであった。この点は当時のことを知る大八木正治、馨子夫妻の証言注 3). や外務省外交史料館史料注 4).、『教海一瀾』注 5). の記事によっても明らかに知ることができる。“からゆきさん”たちは日本国内で国家によって差別され、その結果国外に生計の地を求めた。のみならず戦争という非常事態の際には、真っ先に国家に切り捨てられる存在だったのである。そのような“からゆきさん”たちを国家が見捨てるとしても、自分は見捨てることはできない、否、彼女たちを救うことこそが宗教の役割であると覚眠は認識した。そして単身奥地に踏込んだのである。
 覚眠の「自己変革」はこの瞬間に成し遂げられた。すなわちこの時覚眠は、“国家から疎外された存在を救いとる”、この一点に命をかけることを自らの宗教の立場と自覚したのである。
 以上、覚眠の「思想転換」の背景にいわゆる“からゆきさん”、そして被差別部落出身者という国家から疎外された女性たちの存在があったことを述べた。この問題については別論文で改めて詳述する。また、今回の私の発見と古田先生の「トマスによる福音書」に関する発見との関わりについては、「大学セミナーでの発表のテープ起し」という形で他日報告することとなろう。こちらを御覧いただきたい。

(注)
1). 太田覚眠『得度小言』明治二十七年一月。太田覚眠『下士制度改革私議』日水会、明治三十二年六月。太田覚眠他『海陸兵役談』日水会、明治三十五年二月。
2). 大場昇『からゆきさんおキクの生涯』明石書店、二〇〇一年十二月。
3). 大八木正治氏の父作造氏は通遼で大安商店という雑貨店を営んでおり、正治氏はモンゴル時代の覚眠と接触を持った。正治氏と馨子さんは覚眠の仲人で結婚。現在滋賀県守山市在住。二〇〇三年(平成十五)八月、私は大八木夫妻に面会し、インタビューをとることができた。大八木夫妻は覚眠の居留民救出事件について、「覚眠は醜業婦を救って来られた」と証言した。
4). 外務省外交史料館には、日本人居留民引揚に関する夥しい史料が残されている。(「日露戦役ノ際在露公館及び帝國臣民引揚一件(欧州経由之部一〜四)」外務省外交史料館蔵、明治三十七年二月、五 - 二- 一 - 十四)。これらの史料の中には日本人居留民の名簿が含まれているが、明らかに女性が多い。この女性たちの中枢は“からゆきさん”であったと思われる。
5). 「ハバロフスクに着し、同地に於ける同胞を慰問せしが其多数は何れも皆例の醜業婦にして中には既に支那人の妾と成りて、断然帰國せざる可しと唱へ居る者もありたり」(『教海一瀾』第二三八号、明治三十七年十二月二十四日)。


 これは会報の公開です。

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