甕戸(おうべ)から大戸国への仮説 神世7代の神々・中編 大戸之道4 記紀の出自を探るV・4(会報65号) へ
オモダル尊は、面垂見(宋史)である 記紀の神々の出自を探る(会報67号)
高皇産霊尊と蠅声(さばえ)なす邪神
神世7代の神々・中編 大戸之道5
記紀の出自を探るV・5
大阪市 西井健一郎
1.前回まで
記紀の中に、神世7代中の大戸之道尊〔記は意富斗能地神。以後、大戸之道を主用〕の出自を探しての第5回目。前回まで、大戸之道は、大戸日別神が坐した大戸日別国の開祖であり、その国はスサノヲやその子の大年神(=大戸主の神の略)がオホアナのムチとなって支配した大戸国である。また、その国はカグツチの血から生じた(降伏した)甕速日神が治めることになり、甕部(みかべ)と呼ばれていたのではないかと大年神の子奥津比売こと大戸(おほべ)比売への振りから推測した。さらに、大年神の系図(記)は彼の支配下の首長名と、彼の子孫とを混載している、とした。
今回はその系図の末尾に載る大土神に注目し、彼がニニギの降臨の際、国を譲る事勝国勝長狭(紀)であるという考察と、天国系の高皇産霊(紀)や天照がこれら大国系神々を邪神視したことを述べる。なお、記は岩波文庫「古事記」(以後、文庫本・記と略す)、紀は岩波文庫30-004-1?4「日本書紀(一)~(四)」(以後、文庫本・紀と略す)に依拠している。
2.大年神の系図から
古事記に載る大年神からの系図(第1図)のうち、左側の伊怒比売および香用比売との子達は彼の支配下にある九州北部や山陰西部の地方首長を示し、右端の天知迦流美豆比売との子達が彼の子孫であると、前回述べた。
ただ、天知迦流比売の子達もまた各地の首長群の可能性がある。しかし、地名を負う神名が少ないから、子孫系列とした。
例えばその1人、阿須波は万葉集に「庭中のあすはの神に小柴さし あれはいはなむ帰りくまでに」とあり、庭の神とされる。
この神については、平野雅曠氏が九州古代史の会ニューズ(№100)の論文で、「レプチャ語ではア・スハはかまどである。その歌は、庭に祀ってある竈の神に・・・」との趣旨を述べられている。この神もなんらかの事績があって神とされ、やがて竈の神に転化された古代の英雄の1人だったのだろうが、記紀の中では出自や活躍地が発見できない。むしろ、竈関連で大戸比売の後裔と考えられる。したがって、子孫系列との仮説の範囲にある。
この子孫系で注目するのが、末尾に載る大土神である。
この神は「オホド(大戸)の神」とも読めるが、“亦名土之御祖神”と書くからには、「オホツチ」の神だろう。
とすれば、ここまで強引に乱用してきた「一大率の等式(同字同意の法則=倭人伝の一大率は一大国が派遣した軍団であるという古田先生の御説を演繹したもの)」を使って、ひとりの神を摘出できる。‘土’でつながる、事勝国勝長狭、亦名塩土老翁である。
彼は、紀の天孫降臨の第4一書に“到於吾田長屋笠狭之御碕。時彼處有一神、名事勝国勝長狭。故天孫問其神曰、國在耶。對曰、在也。因曰、随勅奉矣。故天孫留住於彼處。其事勝国勝神者、是伊奘諾尊之子也。亦名塩土老翁。”と載る。
この塩土老翁とも呼ばれた長狭が、大年神の最末裔の大土神当人ではないか。
“是伊奘諾尊之子也”の字句が、スサノヲや大年神とのかかわり合いを示す。
先稿で、素戔嗚(紀)の実像は伊奘諾(紀)の息子のスサナキであり、大年神は親スサナキの遺領を継ぎ、オホアナムチになったと述べた。この仮説に従えば、長狭は伊奘諾・素戔嗚・大年神の子孫である。
なお紀では、基本的に子は子孫を意味し、息子や娘には“乃於奇御戸為起而生児、号清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠。”のように児(みこ)を当てているようにみえる。
長狭がニニギに譲った国が大年神以来の領土であったとすれば、彼の代で大戸主でなくなった訳だから、その系図は彼で終わっても不思議ではない。
3.塩土老翁は珍彦であるの仮説
私見であるが、この長狭こと塩土老翁は、また神武紀にある国神の珍(うず)彦と同一人物である。神武紀に載るのは、ニニギ(忍穂耳かもしれない)の侵攻に際し速吸之門へ出迎えた伝承を神武紀に転用したものだからだ。関門海峡が速吸之門と呼ばれていたのは、イザナキの時代である。だから珍彦もそれ近い時代の人の筈、神武時代では離れすぎる。
珍彦は大戸国を差し出し、先頭に立って戦った結果、より大きな白日国の主、つまり倭国造に任じられるのだ。
さらに、珍彦の活躍は大和(奈良)国に攻めこんだ許(こ)の国の菟道彦の伝承と混合させて神武紀にはめ込まれている。この菟道彦もまた、大和国の(こちらは)国主についたのではないか。それら後代の巻の考察は別稿に譲り、話を戻す。
なぜニニギは、敬うべき祖先イザナキを共にする後裔同士の長狭から国を取り上げたのか。それは実は、同祖ではなかったから。つまり、ニニギ及びその後援者の高皇産霊尊とイザナキ系とはむしろ敵対の関係にあったからである。その言質が紀や祝詞に載る。
4.神賀詞が語る高皇産霊の敵
神代紀下の巻に入ると、面白い託宣が載る。
高皇産霊尊は、天孫降臨にあたり「遂に皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然(しか)も彼の地に、多に蛍火の光く神、及び蠅声(さばえな)す邪しき神あり。復(また)草木咸(ことごとく)に能く言語(ものいふこと)あり。・・・」という。(紀本文)
これを引用し少し詳しく述べるのが、出雲国造(みやつこ)神賀詞(かむよごと)である。「(出雲臣の遠祖天穂比命の地上偵察の報告に)豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿[さばえ 如(なす)す水(みな)沸き、夜は火瓮(ほべ)如す光(かがやく)神あり、石根・木立・青水沫(あおみなわ)も事問いて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて・・・」と載る。
葦原中国は邪神だらけと高皇産霊はいう。
その葦原中国に巣食う邪神とは誰か。
紀がここまでに紹介した神は、 1).神代創世の神々、 2).イザナミ・イザナキが国生み後に生んだ神々、 3).黄泉関連の神々、 4).イザナキがカグツチから奪った神々、 5).ウケヒや天岩戸隠れの高天原関連の神々、 6).スサノヲ大蛇退治以後の出雲神話関連の神々、である。
まず、これらの群中、5).は高皇産霊・天照グループ配下の神で葦原中国に攻めこもうという神々だから、邪神視から除外することができる。次に、国生み紀の第1一書では、“天神謂伊奘諾尊・伊奘冉尊曰、有豐葦原千五百秋瑞穂之地。宜汝往脩之、・・・”とあるから、葦原中国に関係するのはイザナキからで、彼の前代までの1). 神代創世神も葦原中国邪神に含まれない。
となると、残る神々が邪神候補である。1). と5). 以外のほとんどすべての神が葦原中国で活躍した神として記紀の読者に紹介されてきている。だから、読者はこれらの神々を高皇産霊は邪神視したと思わざるをえないのだ。
このうち邪神とは神の一種である。神とは形のないものである。この場合は、すでに死んでいるけれども皆に思い出が残り、今も崇敬されている人を指す。とすれば、この時代には生存していない3). と6). のグループがそれに当ることになる。1). のグループも、葦原中国で信仰されていたとすると邪神に当る可能性がある。
現在生きていて抵抗している葦原中国の住民グループが、草木石類にあたる。それが、2). と4).のグループの後裔である。
では、昼にブンブンと飛ぶ蝿のように沸き立つ神や夜輝いている神とは、どの神を暗示しているのか、みてみよう。
5.出雲・大戸神話系は皆、邪神
「五月蝿(さばえ)なす水(みな)沸」くごとき神とは、葦原中国の在来神である。我々の神はそうおっしゃらなかったと現地民が反対の理由にしたときに掲げた神名を指す。だから、国之常立神や葦牙彦舅からイザナキ・イザナミ、オホナムチや大国主まで。さらには紀の本文でいえば、諾・冉二神が生む“次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。”なども含む。古事記では“(国生み後の)更生神”としてさらに詳しい神名の神々が載るが、それらも邪神にあたろう。除外できるのは、天御中主と神皇産霊だけと思われる。
さらに「水沸き」とあるから、国生みの本文(紀)最後にある“即對馬嶋、壹岐嶋、及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也”の島々を指しているのかも。
となると、高皇産霊は天(あめ)の人ではなくなる可能性が出る。
「よく物言う草木」については、紀の香香背男の場面に「二の神(経津主と武甕槌)遂に邪神及び草木石の類を誅ひて(“二神遂誅邪神及草木石類、”)」ともある。
この草木石類で思い出すフレーズは、“(伊奘諾が)遂抜所帯十握劒、斬軻遇突智為三段。此各化成神也。復劒刃垂血、是為天安河邊所在五百箇磐石”(紀第6一書)であり、“一書曰、伊奘諾尊、斬軻遇突智命、為五段。此各化成五山祇。・・・。是時、斬血激灑、染於石礫樹草。” (紀第8一書)である。
草木とは現地民を指すと思われるが、とくにカグツチの支配下にいた神々を指すのでは。
また、夜には「火瓮(ほべ)如す光(かがやく)神」が活動する。
この火瓮(ほべ)を見て紀の読者が思い浮かぶ神名は、カグツチの親の火之夜芸速男や火之[火玄]毘古、それに嘆*速日と甕速日である。後二者は前回紹介したように、カグツチを切ったイザナキの剣先の血から生まれた神の二人である。
彼等が血になったのではなく、血から生まれたのだから、彼等はこのカグツチの敗戦によってイザナキの配下になったものと推定される。それらが邪神扱いされるのだから当然、その主人のイザナキもまた邪神の親玉だ。それが証拠に、記は「伊“邪”那岐・伊“邪”那美」の神と表記している。
降臨前の国譲り交渉に派遣するメンバー選びの場面に、この両速日の名が載る。そのため彼等が高皇産霊側のように映る。しかし、紀でいえば子孫の武甕槌の祖先の名として載るにすぎないから、高皇産霊側にいたとはかぎらない。私見を述べれば、記紀はこの場面で神名を誤用している。ここは記の書く「建御雷之男」の場面である。
[火玄](かが)は、JIS第三水準ユニコード70AB
嘆*(ひ)は、口の代わりに火。JIS第4水準、ユニコード71AF
6.記紀の誤解
私見では、武甕槌(紀)と書く神と建御雷之男(記)と書く神は同音異神である。
交渉に参加したのは、記の書く建御雷之男神である。雷神である彼は、伊都之
尾羽張神(尾羽張は稲妻の形状)つまり稲妻の子孫である。光ってから鳴るのだ。カグツチの血から生まれた場面に甕速日や樋速日とともこの神名を使ったのは、記の間違いと思われる。血から生まれた神の後裔は、甕でつながる紀の武甕槌の方である。
なお、記によれば(カグツチを)“故、所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名謂伊都之尾羽張”とあるから、尾羽張はイザナキのカグツチ討伐戦の斬りこみ隊長を務めたものとみられる。さらに、天の亦名が伊都になることは、彼が一大率の原型かもしれない。また、その出身地あるいは引退先が天国(対馬)なのだろう。
一方、紀は逆の間違いをする。武甕槌と表記される神は甕つながりで甕速日の子孫である。記紀には載せられていないが、甕国か速日国での活躍の伝承が伝わっていたものと推測する。本来は建御雷之男と表記すべき国譲り場面に、紀は間違えてこの神名を転用した。武甕槌と書いてしまった為、祖先として?速日と甕速日を登場させるはめに陥ったのだ。
7.イザナキ・イザナミもまた、邪神
敵対者リストの最後は「石根・木立・青水沫(あおみなわ)も事問いて」とある神々である。
つまり、事問う石根・木立とは、カグツチの血から生まれた磐裂や根裂の神(記には、石柝神・根柝神)や、イザナミが神生みした木祖句句廼馳や草祖野椎である。この岩(黒曜石?)を割って道具をつくる神やその岩を掘り出す神は、交渉要員に選ばれる経(ふつ)津主の祖とされる。だが甕速日と同様、本当は経津主と無縁の神ではなかったか。
ただ、一方でカグツチから離れてイザナキについた神々を邪神視しながら、これらカグツチ系の神名を誅伐に行った神の祖先としたのは、深読みすると高皇産霊はイザナキに寝返った元カグツチの配下の子孫に失地回復を訴え、糾合してクーデターをおこし、イザナキの後継者に国譲りをせまったようにもみえる。
そして、注目されるのが「青水沫」である。
青で連想するのは、イザナミの親のアオカシコネだ。紀でいえば、冒頭の“古天地未剖”以来、天孫降臨までの間、青のつく神は彼女(多分)だけである。
“一書曰、此二神(イザナキ・イザナミ)、青橿城根尊之子也”(紀)と載るが、次の一書には“・・・。沫蕩尊生伊奘諾尊”とあるから、青橿城根は伊奘冉だけの親だ。
さらに、水沫に至っては、そのイザナキの親の沫蕩を指しているとしか見えない。
この高皇産霊の託宣は、イザナキ・イザナミ系の神々を敵視していることを示す。
さらにいえば、この原文にはイザナキ・イザナミ当人の名前も記載されていたのではなかろうか。始祖として奉ろうとする大和朝廷は記紀編纂にあたり、イザナキ・イザナミ二神の名だけは慌ててカットしたのではないか。
そして、紀はこのような宣託をする高皇産霊や天国系を、記ほど高く買わなかった。
だから、創世神を書くにあたり本文は国常立尊から始める。第4一書になってから、しかも、ついでのように“一書曰、天地初判、始有倶生之神。号國常立尊。次國狭槌尊。又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊。・・・”と又曰くをつけて紹介する。正統の国常立や国狭槌を認めない異分子がそう云っているという書き方なのである。
もっとも、記も冒頭“天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高御産巣日神。・・・”と書きだしながら、これらの神々を別天神(ことあまつ)と書いて棚上しており、国之常立神から神世七代を始めている。
記紀ともに、葦原中国を開いた神は「国之神」であり、後から天之連中が乗っ取ったと主張している。それは暗に九州王朝から来た連中を指しているのかも。
(大戸之道5 終)
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