2005年2月9日

古田史学会報

66号

1、若草伽藍跡と
宮山古墳・千早・赤坂村
 伊東義彰

2、津軽平野と
東日流外三郡誌の旅
宮城県北の遺跡巡り
 勝本信雄

3、菅政友と『琉球漫録』
 仲村致彦

4、高皇産霊尊
と蠅声なす邪神
 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

5、太田覚眠と
 “からゆきさん”
「覚眠思想」の原点
 松本郁子

6、 久留米藩
宝暦一揆の庄屋たち
 古賀達也

7、故・ロンドン大学
 名誉教授
 木村賢司

8、連載小説『彩神』
 杉神(すきかみ)
  深津栄美

9、和田家文書裁判
での原文改訂
歪曲引用された
仙台高裁判決文
 古賀達也

10、年頭の挨拶
「本」という字
 水野孝夫
事務局便り

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春期遺跡めぐり(宮城県北)報告 宮城県からも出ていた遮光器土偶 勝本信雄(会報69号)

「古田史学の会・仙台」の遺跡巡り 津軽平野と東日流外三郡誌の旅 勝本信雄(会報66号)../kaihou66/kai06602.html


「古田史学の会・仙台」の遺跡巡り

津軽平野と東日流外三郡誌の旅

古田史学の会・仙台 勝本信雄

 今回の「古田史学の会仙台」の遺跡巡りは、東日流外三郡誌の学習を進めるなかで“やはり原点は津軽にあり”ということで、新会員の希望もあって改めて津軽を再訪することとなりました。とは言いましても、二泊三日の限られた行程では、あれもこれもという訳には参りませんので、会長幹事の方々協議の上、五所川原市を中継点として、平成一六年八月二八日から三日間、一行十名レンタカー二台に分乗して、二日目は木造町の縄文住居展示資料館、森田町の歴史民族資料館(石神遺跡出土品)、亀ヶ岡遺跡(遮光器土偶)をみて、津軽平野を北上、十三湖を中心とした市浦村周辺(山王日吉神社、オセドウ貝塚、福島城跡)を見て五所川原市に戻り、三日目は津軽平野を南下して、田舎館村埋蔵文化センターで弥生水田の出土状況等をつぶさに見学して、その後三内丸山遺跡を廻りました。
 なお、初日には青森到着後の空き時間を利用して、青森県立郷土館を見る機会に恵まれたことも収穫のひとつでした。以下、素人の感想文ですが、田舎館村出土の弥生水田について特に感ずるところがありましたので、書いてみました。

田舎館村の埋蔵遺跡

 津軽平野の南に位置する垂柳遺跡から、弥生中期の水田跡が発掘されたことは前にも書いたことがありますが、同じ遺跡でも何年か経ってから訪れてみると、すっかり変わっていることのあるのに驚きます。例えば、三内丸山遺跡も平成十四年に『縄文時遊館』と言う立派な建物が建てられ、周辺の整備、出土品の整理等が行われていましたし、垂柳遺跡のある田舎館村にも埋蔵文化センターが作られておりました。
 垂柳の水田跡が発見されたのは昭和五六年ですが、その後昭和六一年には垂柳集落に隣接する高樋集落からも、新たに一六五枚の水田遺構が発見されて、その一部(大小十数枚)の水田に屋根をかけて保存していましたが、平成十二年その保存田にすっぽりかぶせて上部に新しく建物を建て、それまでの歴史民族資料館の展示品を移して、田舎館村埋蔵文化センター兼博物館にしたと言います。ですから埋蔵文化センターの住所は田舎館村垂柳ではなく、田舎館村大字高樋となっております。
 高樋水田の方は人の足跡は発見されませんでしたが、垂柳と同じように小さい田圃が碁盤の目のように並んで、畦畔や水路跡等もはっきりしており、保存部分は見学者が通路を四メートルほど下に降りて(水田は地表から約七〇センチメートルの位置にあって、やはり火山灰に覆われていたそうです)じかに弥生の土の上を歩くことが出来るようになっております。
 垂柳も高樋も一枚あたりの田が小さいのは,水回りの効率を良くするためで、また稲の播き方は垂柳はじか播きとのことです。(高橋克彦編 東北歴史推理行 東北大農学部教授星川清親氏 足跡の方向からの推察及びじか播き実験結果による)
 このセンターの場所は高樋遺構の跡ですが、高樋も垂柳もほとんど元通りに埋め戻されており、この西側約七〜八〇〇mの場所に五年程早く垂柳の水田跡が発見されたわけです。
 さて 話を戻してセンターの玄関を入ると、まず弥生人の足跡のついた垂柳の水田一枚が目に入ります。一枚の田を十六個に切断して奈良国立文化財研究所に運び、保存用に化学処理をしてからこの場所に収納したということで、そのせいか田の表面が黒く塗り固められていて、高樋の水田跡のような茶褐色ではありません。
 人の足跡は大小二十個くらいあり、(全部で一五八六個)館員の話によればこの展示足跡は同一人物のもので、親子関係と見られると言うことです。水田の上を強化ガラスで覆ってあって、見学者が足跡をなぞって歩けるようになっています。足跡は思ったよりも小さく、親指が開いていてとくに踵の小さいという特徴が見て取れます。
 その垂柳水田跡の左側に出土品の展示コーナーがあって、真っ先に高樋水田が見下ろせますが、展示品の土器や石器を見ながら両側から水田跡まで降りていけるようになっています。重要な遺跡にしてはセンターのパンフレットが非常に簡単すぎるので館員に聞くと“その代わり自由に田の上を歩けるようにしたり、展示品も自由に写真撮影をしてもらっている”との返事が返ってきました。弥生中期という出土年代は変わりませんか、と聞くと、“例の国立民族博物館の放射線炭素(C十四)の年代測定法で、今までの定説が覆されれば五〇〇年位遡る可能性はあります”とのこと。これは田舎館に限らずどこの弥生遺跡に付いても言えることでしょう。
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 垂柳遺跡からは元々明治時代から土器が発見されていましたが、籾圧痕が発見されたのが昭和三二年、これにより東北大の伊東信雄教授が、垂柳での弥生時代の稲作を主張しましたが学会の強い反対に遭い、昭和三四年からの発掘調査でも二〇〇粒の炭火米が発見されましたが、それでも学会は伊東説を頑として認めようとしませんでした。それまでは北関東が弥生稲作の北限とされていましたから、南東北を一気に飛び越して寒冷地の青森で弥生時代に稲作があるはずがないと言う、学会の常識論の前に伊東説は受け入れられなかったのです。
 ところが昭和五六年弘前市と黒石市を結ぶ国道一〇二号線バイパス工事によって、弥生人の足跡のついた垂柳の水田跡六五六枚が発見されるに至り、俄然伊東教授の主張が認められ、東北の弥生時代の歴史を塗り替えるものとして、一躍全国の注目を集めることとなったわけです。伊東教授が稲作説を唱えてから、実に二五年以上の歳月が経っていました。伊東教授は昭和六二年になくなられたそうですが,ご存命中に長年の主張の裏づけが得られたことは、つくづく良かったと思います。
 垂柳より遅く発見された弘前北部の砂沢式土器に付着した籾痕は弥生前期といわれ、また同じ津軽平野の遮光器土偶で有名な亀ヶ岡遺跡の炭火米、籾痕は縄文晩期と言われていますので、垂柳の土器に亀ヶ岡文化の影響ありと言うことや、宮城、福島で発見された炭火米が弥生中期または前期を遡らないということも考え合わせますと、稲作は西から東へという今までの常識からはなれて、東北では一時期、津軽発北から南へのルートもあったのではないか、ということも考えられないことではないのではないでしょうか。
 そうなると、先祖が稲束を抱えて、対馬海流に乗って日本海沿いに津軽に来たという、東日流外三郡誌の記述もますます荒唐無稽とはいえなくなってくる、そんな思いを強くすると共に“歴史は足で知るべきなり”の言葉を私なりに噛みしめた遺跡巡りでした。(二〇〇四・九・三)


宮城県北の遺跡巡り

古田史学の会・仙台 勝本信雄

 昨年十一月七日(日)その日はすばらしい天候に恵まれた秋晴れの一日でした。私達「古田史学の会仙台」では、昨年度二回目の地元遺跡巡りを行いました。場所は宮城県の北東部に位置する中田町、石越町、迫町の三町内の遺跡です。中田町に居住されている私共の会員の高校教諭菊地逸子さんが、退職されて時間にゆとりができたということで、早速案内をお願いしたものです。途中高速のインターまで菊地さんの出迎えを受けて、一行総勢十五名、三台の車に分乗して数ヶ所の地元遺跡を廻りました。
 実は私共は、年一回は足を伸ばして一〜二泊の予定で遠くの(東北、関東、北陸など)史跡巡りをしていますが、そのほかに学習の一環として、春秋二回は身近な地元遺跡を廻るようにしているのです。古代史を学ぶには、地元のいわば“北の古代史”もゆるがせに出来ないと言う考え方からです。
 たとえば、今までに私の知るだけでもずいぶん地元の遺跡を廻っておりますが、特に印象に残っているのは、東北で最大の規模といわれる名取市の雷神山古墳(前方後円墳百六十八m)、多賀城市の多賀城政庁跡と日本三大古碑の多賀城碑、幻の城柵と言われて長く所在のわからなかった築館町の伊治(いじ)城跡と、その出土品である「弩(ど)」の発射装置の「機」と呼ばれる青銅製品(日本国内で初めての発見)、更には角田市の阿武隈川畔の鱸沼遺跡(すずきぬま ここからは弥生中期初頭の炭化米や多くの石包丁ほかの石器農具が出土)等々、挙げれば枚挙にいとまない位で、これらはみな、私達古代史を学ぶ身にとってたいへんな収穫になっている訳です。

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 さて、今回の遺跡めぐりは、中田町の石森横穴古墳から始まりました。この遺跡は標高八十mの白地山(はくじさん 露出した山肌が白いのでこの名がある)の斜面にある横穴古墳で、地元の人は昔から「えぞ穴」と呼んでいたといいます。「えぞ穴」と呼ばれる古墳は、宮城県内には方々に残っております。
 この一群五基の横穴からは、トンボ玉一ヶ、切子玉、管玉、土師器、柄頭、鞘当、鉄鏃、銅製帯金具、人骨等が出土し、約千二百年前、八世紀初頭のものと言われております。
 八世紀初めといえば、大和政権による蝦夷討伐と言われる北上が始まったころで、七二四年には多賀城(柵)が築かれております。
 この横穴古墳は土地が個人の所有のため見ることが出来ませんでしたが、その代わりその場所から程近い(一・二km)石越町山根前横穴古墳群は、所有者の了解を得て、その説明を聞きながら実見することが出来ました。(今でこそ町名が分かれてはいるものの、この二つの横穴古墳は両方共同じ豪族の古墳だったことでしょう)
 これらの古墳群は三地区十基にわたるもので、やはり時期は八世紀初頭、出土品はトンボ玉九ヶをはじめ、勾玉、管玉等の玉類、土師器、須恵器、鉄製の直刀、蕨手刀、銅製の耳輪、帯金具、布片などがあり、佐々木会長の説明によれば、トンボ玉は全国でも出土例が少なく、東北で五ヶ所、宮城県でも涌谷町の横穴古墳と、この地区だけといいます。
 この古墳は昭和四十三年夏、地元佐沼高等学校郷土研究部の生徒が、東北大伊東信雄教授指導のもと発掘にあたり発見したとのことで、私共はここでもまた、伊東教授の遺跡発掘の事蹟をみることになりました。これらの出土品は次に案内された石越町の民族資料館で実見いたしましたが、特に私が魅かれたのは、青森県立郷土館でも見た蕨手刀でした。
 蕨手刀は古代の東日本を中心に分布されていて、特に岩手県の出土例がもっとも多く約四〇%におよび、東北全体では七〇%にもなると聞きますと、古墳の時期が八世紀初頭と言うことと思い合わせて、若き日のアテルイ率いる陸奥の蝦夷と呼ばれる土着豪族連合軍の馬上の雄姿と、古代律令政府の北上に対する反逆精神が脳裡に浮かびます。あるいは古墳の主は年代的に言うとアテルイ傘下の宮城県北地方豪族の父親や祖父だったかもしれません。それにしても、この辺境ともいうべき地方豪族の手に、どうして異国風のトンボ玉が、どんな経路で渡ったのか、考えると興味が尽きません。
 例によって移動中の車内では、蕨手刀は馬上で使用するために柄の形が蕨のようになっているとか、東北以南製造説もあるとか、トンボ玉はシルクロードを通ったのか、中国製なのか等々、和気あいあいのうちに古代史談義に花が咲きましたが、長くなりますので、この辺で報告を締めくくりたいと思います。
 このあと、県指定文化財の弥勒寺(九州年号白鳳五年創建の伝承)、菊地逸子さんの知人の方の案内と説明を頂いた遮那(しゃな)山長谷寺、迫町歴史博物館などを見学して、いつものように満ち足りた思いで帰途に着きました。


 これは会報の公開です。

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