「古田史学の会・仙台」の遺跡巡り 津軽平野と東日流外三郡誌の旅 勝本信雄(会報66号)
東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 吉原賢二(古田史学会報97号)
秋田孝季の中近東歴訪と和田家文書の謎
尾張旭市 斎田幸雄
I
和田家未公刊文書によれば十八世紀後半、東北三春藩主の縁者秋田孝季が幕府老中、田沼意次の秘命を受け、鎖国令中ひそかに中近東を巡察し帰国したことが述べられている。また和田家には中近東より到来の逸品を収蔵していることなどから、彼此併せ隠れた幕末史の一齣と見て検覈する。
安永七年(一七七八)六月老中田沼意次より三春藩主を通じ秋田孝季に次の書状が寄せられた。
(和田家文書そのI )
(文書I )「安永戊戌年(七年、一七七八)オロシア艦蝦夷地を偵察し松前殿よりその訴状度々政断あるべく催促是在り候
辛爾乍ら御貴殿長崎に在りて平戸和蘭陀商館に通訳の砌りオロシア語達弁なりとて平賀源(「内」を略す)より聞及び候に付き伏しこの田沼が此の度び願ひの儀是在り是状を三春殿に委ね仕り候
寛永癸酉年(一〇年、一六三三)以来鎖国令解ざるも貴殿を幕許にて山靼(海外)諸国の地情巡廻に役目を仕じ(任じ)候も諸藩に密なるの隠密使行処に候
今上(「当今」の意か)夏七月取急ぎ江戸城大番頭に登城あるべく申付候
右之意趣如件
安永戊戌年(一七七八)六月二日
田沼意次 華押
秋田孝季殿
寛政六年
浪岡仁左右衛門
(新・古代学 第一集 44~46p)
中近東歴訪の内命をうけた秋田孝季は同年七月江戸城大番頭(将軍の親衛隊長)に出頭、「鎖国令下、諸藩には隠密にて山靼(海外)諸国の地情巡廻の重任を命じられた。」事を更めて承る。
その後天明元年(一七八一)意次は松前藩主宛に、孝季の海外歴訪に関する旅程等について次のごとく具体的な指示を寄せた。
(和田家文書そのII)
(文書II)「山靼のチセに邑なかりけるも狩士の小屋ありその上に舟を進むるは急流是ありブルハン湖にまかるは河添ふ道ありき 依てそれをたどるべし更に裏海を経て黒海に至る道はカザフ族のダナイ酋長にエーゲ海にいでませる道しるべを案じべし
ギリシャなるオリュンポス山に至るはその海より見ゆる神山なり
ギリシャアテネに史跡あり 石神殿の其石に地の石工に頼みてアラハバキカムイとぞ刻み置くべし 紅海をカイロに向ふべし
大事たる〈たる〉はチグリス・ユウフラテスの古跡ルガルの神像を得べし 亦土版に文字あるを聞くに依りてその一塊たりとも持来たるべし
重荷たるものは身に持たずただ証となるべく遺物耳持参しべきなり
天明辛丑八月三日
〔元年(一七八一)〕
意次
松前殿」
右の書 和田末吉 明治四十年
再筆 末吉
松前藩主はこの書状を孝季にも示したものと推する。
その後天明五年(一七八五)十月七日に至り、孝季は三春藩主より次の書状をうけ直ちに松前藩に赴き藩主より重ねて詳細な説明と指示を受けた後、ほどなく海外巡察に船出したものと考察する。
(和田家文書そのIII )
(文書?)急告一報仕り候
此度幕中田沼意次より御砂太御坐候 大事は山靼旅程の要任に御坐候 淡(?)ら既にして流鬼及び赤蝦夷国の巡脚了り候も更に紅毛国ギリシャトルコアラビアエジプトメソポタミアに巡回あるべく幕中評定に公認相成候
依て茲に勘定所より千二百両その重泊に相果しべく費用に御坐候
是ぞ田沼殿衆役を抜きて将軍の決言に
蒙り候事故その任重々至極に御坐候
程々松前藩城中にまかり越し委細を仕るべく通知申上候
天明乙巳五年(一七八五)十月七日
(三春藩主) 乙次郎千季
孝季どの
(注)文書II.III は九五年七月古田先生に随伴し東北巡訪の際配布された資料の一部である。
II
さて「文書II」の内容には多くの疑儀があり、検討したい。
「文書II」は歴訪諸国への旅程を示したうえで、
I 、「ギリシャアテネに史跡あり石神の其石に地の石工に頼みてアラハバキカムイとぞ刻み置くべし」とあるが、アラハバキカムイ」とは秋田孝季編著の東日流外三郡誌の古代篇に拠れば「荒吐族の神・アラハバキカムイ」と記されており、そのご神体は遮光器土偶であって、幕府に無縁とも思われるこの神名をわざわざギリシャの神殿に石刻せよ、と命じる意次の真意が忖度しかねる。
II、また.歴訪した国のうち「大事なことはチグリス・ユウフラテスの古跡ルガルの神像を得べし 亦土版に文字あるを聞くに依りてその一塊たりとも持来たるべし」とメソポタミアに限って持参すべき品を明示し、其の他の諸国、ギリシャ、トルコ、アラビア、エジプトの各国についてはこのような歴訪を証する品の持参について一言も触れていない。然る
に和田家にはメソポタミア以外の中近東の逸品が多く収蔵されており不審である。
?、前号にいうルガルの神像の「ルガル」とは国の支配者、帝王を意味するシュメール語であって西紀前既に死語化しており、意次の政権下にある十八世紀にこの死語が明記されていることは不可解である。(この点後述)
III
和田家収蔵の中近東の逸品について所見を述べる。
平成七年七月二十八日、「多元的古代研究会・関東」主催の古田武彦先生と行く「青森遺跡めぐりの旅」に同行した際、三内丸山遺跡のほか五所川原市山中の石塔山荒覇吐神社と、隣接する収蔵庫等を拝観した。
ガラスケース内には無造作に遮光器土偶、仏像、少女立像などが雑然と保管されており、ルガルの神像の有無はもとより中近東の逸品も判然とは観察できなかった。
またその年十一月二日国会議事堂に隣接する憲政記念館において「エバンズ夫人来日記念講演会」が開催され同時に秋田孝季が中近東を歴訪した際に持参したと称するギリシャの壷、エジプトのスフィンクス像等が会場正面に展示された。招待を受けた報道関係者の中には「宝の持ち腐れだ」との陰口も洩れたが、展示品が宝物だと認識する故の陰口であろう。ところでルガルの神像と文字ある土
版は展示品の中にも見当らなかった。
そこで「文書?」に指示された証品と和田家収蔵の証品との間の不符合について私見を述べる。
意次が希求した証品は「文書?」とは別に内示する「メソポタミア以外の国々の数々の逸品」であって、その所要費用は「文書?」にいう重泊の費用千二百両では到底賄い得ず別途裏金を調達し措置されたものと推察する。
かくして当初の計画では持参した逸品の数々は意次の示す場所に収蔵され、公表される持参品は文書?に明示してあるルガルの神像と粘土書板の二点の予定であったのだ。
IV
安永、天明年間は旱魃、水害、浅間山の爆発等天災打続き餓死者幾万、一揆、打壊し続発し、幕政多難、意次への怨嗟不評も高まつたが、天明六年(一七八六)八月将軍家治の病気悪化を引き金に、同月二七日突如、意次は老中職罷免となり、十月には江戸役宅及び大阪蔵屋敷も没収となつた。
孝季らの帰国は意次の失脚後であって、事態は一変していた。
意次は孝季の帰国を知り急遽飛脚便にて次のとおり指示した。
「山靼巡察の儀は意次の一存による判断ゆえ貴殿に諸難事が及ぶことはないから安堵するよう。
歴訪による「山靼日記」等は幕府に届出ることなく貴殿の一存にお委せする。」
これに応えて孝季より次の書簡が意次に寄せられた。
「山靼の儀空しく了り候は断腸の想ひに候 今世界を無視に候へば何れは鉄艦の火砲を諸湊に彈爆仕るべく舶来の敵に国は侵触仕るべく候
火砲一門その射程の候は吾が国旧来の銃に敵ふべくに非ざるは必如に候ーー
よろしく議あり北前一湊なりとも開湊あるべく御意見の儀奏上仕り候 早々」
かくして、孝季の山靼歴訪の成果は世に知られることもなく虚しく僻地に眠ったまま今日に至っているが、この山靼日記と収蔵品が早々に公開され、事物の真相が解明されることを期待するものである。
最後に、「文書?」の疑儀のうち「ルガル」について再検討したい。
ルガルの神像のルガルというシユメール語はウル第三王朝の西紀前二一〇〇年頃には既にその語り手は僅少となって死語化しており、これの解読は、アッカド語は一八五〇年代に、シュメール語は一九二〇年代にいたって漸く解読されたといわれ、「文書?」の天明元年(一七八一)の時点に「ルガルの神像」という、死語が表記されていることは不可解である。
「ルガル というシュメル語は人即ちlu と、gal 即ち高き、大なる、といふ二語の複合名詞である。」 (井上芳郎著 シュメル、バビロン社会史115p)
「さて、此lugalといふ語が、西紀前二九〇〇年代のウル第一王朝に於て、既に明確に『帝王』としての意義を有した。而して此文字並にシュメル語の通用は、其後アッカド語の勢力裡にあっても尚依然として衰へず、シュメル時代末期の、西紀前二〇〇〇年のセミト族の帝国たる、バビロン王朝の出現するまで、シュメル語として文献的にも継続存在した。
ーーこれとは別な意味ではあるが、宗教用語が宗教儀式と共に、シュメル的原始形のまま、バビロン時代からアッシリア時代を経て、新バビロン時代にまで及んでいる事も,一応は記憶の中に存しておいて戴きたい
而して此lugalといふ文字が、シュメル語を以って読まれ且つ通用したと同時に、北方、西北方に勢力を張ったアッカド人により借り用ひられ、文字は其侭だが、読み方をアッカド語によってsharruとした。此種の文献的証拠は、既に引用してあるが、西紀前二六〇〇年のアッカド王朝第一王朝サルゴンの時から現はれ、更にその後の西紀前二〇〇〇年のバビロン王朝において、バビロン語として、ーー之はアッカド語と同系語のセミト語であるから,同じ語を以って継承され,その次のアッシリア時代から西紀前538年までの新バビロン王朝までも同様であった。(前掲書116p)
「シュメール語とアッカド語の間の借用関係は相互に顕著であるが、アツカド語を経由して現代のヨーロッパ諸語に伝わる語詞もめずらしくはない。たとえば、シュメール語の「鍬」marはアッカド語(marru)、ギリシャ語(μαρρν)ラテン語(marra)を経て、現代フランス語のmarreとして残っている。ーー」(言語学大辞典第二巻229P)
シユメール語のlugalがアツカド語ではsharruと読まれ語詞の借用関係はないので、現代のヨーロッパ諸語に伝わる語詞の範疇には入らないと考えられる。
その外「ルガル」というシュメール語が現代もそのまま残っているという学説にも接していない。が、「伝承として今に残っている。中近東古来の一部民族に「ルガル」という古語がそのまま伝承され、それが十八世紀の長崎の阿蘭陀商館の外人を経て幕格の知識となった。」との仮説に起つことは許されないだろうか。
これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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