大年神(大戸主)はオホアナムチである -- 記紀の神々の出自を探るV・2(会報63号) へ
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大年神と二人のスサノヲ
(神世7代の神々中編 大戸之道(3) )
記紀の神々の出自を探るVの (3)
大阪市 西井健一郎
1.前回までの概要
神世七代の大戸之道尊〔紀。記は意富斗能地神。以後、大戸之道を主用〕は、記紀に後出する大戸日別神や大年神が支配した大戸日別国の祖神とみられる。
前回は記紀の記事から、この大戸之道とオホトでつながる大年神のオホトシとは、大戸主が縮まったものであり、彼はスサノヲの次代のオホアナムチであった、と推論した。再述すると、紀の本文にはスサノヲの児がオホアナムチになったとある。記のスサノヲの系図には大年神・宇迦(うか)之御魂(みたま)・八島士奴美(やしまじのみ)の3人の男児名が載る(第1図)。
まず八島士奴美(記)こと八嶋篠(紀)は、その五代後の孫が大国主に、六代目がオホアナムチになったと紀第一、一書は記す。つまり八嶋篠自身はなっていない。次に、記にはスサノヲが葦原色許男に「宇迦の地に宮を建て、わが娘を嫡妻にして大国主になれ」と云った記事が載ることから、その時期の大国主には宇迦之御魂神がなったとみる。残る息子は大年神であり、彼こそが記のいう大穴牟遅神、紀の大己貴の位にあったと推論した。今回はその補論、なぜ八島士奴美はなれなくて、神大市姫の子達がなれたかについて考察する。
なお、オホアナムチの称号の由来について、古田先生が新しい示唆をなされた。古田史学の会関西の平成十六年度新年例会での、ロシア調査のご報告の中で、「オロチ族語で、ナは水、ムは地を指す。だから、オホナムチのナムとは、水と土地のある暮らしの場所(=国土)のオロチ語に、神のチがついて土地神の意味になり、後に(水の地面で)海の神の意味になったと考えられなくもない」と述べられた。
紀の一書(黄泉からのミソギの第十一、一書)には、「伊奘諾尊、三の子に勅任して曰はく、『天照大神は、高天之原を御すべし。月夜見尊は、日に配べて天の事を知すべし。素戔嗚尊は滄海之原を御すべし』とのたまふ」とある。したがって、スサノヲがナムのチ(海の神)だった可能性があり、大年神がそのナムチの地位を引き継いだとの大年神=大己貴説の私論展開に有利な情報ではある。
しかし、前出の紀の第二、一書には、“大己貴、此云於褒婀娜武智(おほあなむち)”とあり、記も“大穴牟遅”と表記している。播磨風土記(吉野裕訳『風土記』平凡社ライブラリー)には大汝(おほなむち)命と載るが、記紀に基づく限りでは、オホナムチは「オホアナのムチ」称号の略記と受け取らざるをえない。だから、私の現稿では、オホナムチが先行呼称であるとの確証、あるいはオホア・ナム・チと分けるべきとの論証が出るまでの間、「オホアナムチ」とその省略形としての「オホナムチ」を使わせていただく。
なお、記は岩波文庫30-001-1「古事記」(以後、文庫本・記と略す)、紀は岩波文庫30-004-1?4「日本書紀(一)〜(四)」(以後、文庫本・紀と略す)に依拠している。
2.二人のスサノヲ、の仮説
なぜ八島士奴美は大国主あるいはオホアナムチになれなかったのか。それは、彼の親のスサノヲがその地位にいなかったからであり、大年神がなれたのは親のスサノヲがオホアナムチだったから。つまり、八島士奴美の親のスサノヲと、大年神と宇迦之御魂の親のスサノヲとは別人であり、ヤシマジヌミと大年神・宇迦之御魂とは別の家系なのである。
記紀の伝えるスサノヲにまつわる伝承は、大国主などの場合と同じように、いくつもの神の伝承をひとりの神のものに寄せ集めたものである。さらに、そのひとりの神の名に、元の神群から古事記の種本(たねほん)は「速須佐之男」を選び、書紀のそれは「素戔嗚」を使った、と見る。
実物の速須佐之男は、速日出身の勇者である。八岐の大蛇退治、つまり越からの侵略者を撃退して八カ所の郷を救い(西村秀己氏説)、首長の足名椎(記)こと脚摩乳(あしなずち 紀)の入り婿になる。その娘稲田媛との間にヤシマジヌミを作ったが、その子は湯山主で終えた。ただ、本人は八島牟遅になった(後述)らしい。紀の一書には、大国主の位はヤシマジヌミの五世孫が、オホアナムチには同六世孫がなったとある。
一方、素戔嗚は、イザナキの息子である。大蛇退治や稲田媛とは無関係。出雲風土記(吉野裕訳『風土記』平凡社ライブラリー)には、出雲の神戸の条に「伊奘奈枳の麻奈子(愛児)であらせられる熊野加牟呂(かむろ)乃命と、・・・」の文が載る。彼の元の名は熊野加牟呂、熊野の童だったのかも。となると、天照とのウケヒで生む熊野久須毘命(記)は、彼の子供で大年神の本名かもしれない。
また、彼は自分に与えられた領土に満足せず、姉オホヒルメが分け持つイザナキの遺領を争そい、負けて一時韓国へ逃げたらしい神である。姉がオホヒルメとすると彼の本名はオホヒルコだったかもしれず、その逃亡が海に流されたヒルコ(蛭子)伝承のモデルになった可能性もある。こちらは、神大市比売との間に大年神と宇迦之御魂とを作る。さらに想像を逞しくして、イザナキの息子であった彼の本名はスサノヲではなく、スサナキだったとの仮説を重ねてみた。
3.素戔嗚はスサナキだったの仮説
実は、大阪例会の発表資料で「素戔嗚」を「素戔鳴」と打ち、その誤字をもとに、スサノヲはスサナキと呼ばれていたとの新説を出した。勿論、ただちにご指摘があり撤回したのだが、その際、この嗚咽の「嗚」にも「ナク」との読みがないかを調べる価値があるかも、とのお励ましをいただいた。だが手持ちの辞書には、嗚は「あ、という声をあらわす」とあり、残念ながらナキとの読みはない。
しかし、なぜ、紀が嗚を使ったかを考察するに、紀の原書には素戔鳴や素戔那芸などと書かれていた神名を、古事記の種本にあった須佐之男の読みに引きずられて、スサノヲと読める「素戔嗚」に変えたとの可能性はなくもない。
もし、素戔嗚が素戔鳴[スサナキ]であったとしたら、彼はツラナキ・アワナキ・イザナキと同じ「ナキ」の敬称を継ぐ王者である。彼が大年神の前代のオホアナムチだったと思う。その息子がまた、その位を継ぐことに何の不思議もない。
そこで、素戔嗚は素戔鳴だったとの仮説のもと、前回述べた宇迦之御魂神を大国主と認定した記のスサノヲはどちらのスサノヲだったかを検討したい。
4.大国主を認めたのは、速須佐之男
娘須世理と駆け落ちする(記の書く)大穴牟遅に「おれ大國主神となり、…」と叫んだスサノヲはどちらのスサノヲだったか。最初は、任命する権力を持つ大王素戔鳴(すさなき)と考えた。兄弟に迫害される大穴牟遅こと葦原の色許男をその御祖命(母神)がスサノヲの御所へ行かせたのは、それがかって夜這いに来た本当の父親だつたから?。ではなく、当代の最高権力者だった父親に異母兄弟の八十神に先駆けて大国主に任命してもらうため、と推測した。
しかし、スサナキが実娘の須世理毘売と息子の宇迦之御魂との結婚を、例え異母兄妹の間でも認めることは古古代でもおかしい。また、八十神兄弟も実子になるから、「その庶兄弟を坂に追い伏せ、河に追い払い、・・・」のせりふはない。だから、この仮説は成立しない。
したがって、このスサノヲは速須佐之男である。自分の娘を嫡妻つまり生んだ子を嫡子にしてくれるのなら、スサナキの子供が近所の宇迦の地で大国主になることを邪魔しません、といったのだ。速須佐之男が乱暴者であることは、大蛇退治した伝承が残るほど有名だったのだろう。御祖命神大市比売は、強い腕力だけによる保護を期待して預けたものとみられる。
なお記のこの場面では、“可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。故、随詔命而、參到須佐之男御所者、其女須勢理毘賣出見、・・・”と場所の説明にスサノヲの名が使われているだけで、その後は其父・大神としか記されていない。「スサノヲが○○した」と主語に明記された字句はない。スセリの親はスサノヲではなく、スサノヲがもと住んでいた宮に住む神名不詳の○○大神だった可能性もある。
5.約束を守った宇迦之御魂
この須佐之男との約束を大国主宇迦之御魂が守った様子は、記の大国主の系図に見ることができる。先述したように、ここの大国主とは宇迦之御魂のことで、系図は彼とその子孫のものである。
その系図は、大国主が八島牟遅の娘の鳥耳(とりみみ)を貰い、娘?鳥鳴海(とりなるみ)を作り、日名照額田毘道(ひなてるぬかたびのぢ)の息子?の伊許知邇(いこちに)を婿に迎えると読める。
“出雲国之肥河上、名鳥髪地”(記)へ降りた速須佐之男は、義父脚摩乳(紀。=葦原の麻遅?)八耳の位を継ぎ八島の牟遅の称号を得た。その娘の須世理は父親の占領地の地に因み鳥耳と称した。そして、宇迦之御魂は、約束どおりにその鳥耳を嫡妻に、彼女との子鳥鳴海を嫡子にし、婿をもらって後継者としたと読む。
なお、文庫本・記は日名照額田毘道男伊許知邇と振る。私は毘道男の男を息子の意味に使ったが、それは“田下毘又自伊下至邇皆以音”との原注がつき、“道男”は音読から除外されているからだ。しかし、娘の場合、記は“娶大山津見神之女、名木花知流比賣”のように之を入れているから文庫本の振りが正しく、イコチニは嫁であろう。
また、須世理の親は本当は八嶋[ヤシマ]貴[ムチ]で、八嶋大神と呼ばれていたかもしれない。さらに、オホヤシマという語が残されているから、大国と沢山の(日本海の)島群の首長を意味する称号オホヤシマのムチがオホアナムチに先行したり、並立していたかも。もっとも、オオヤシマは大屋毘古の国のことで大屋洲だった可能性もある。
6.「鳥鳴海はトリナミ」の仮説
鳥鳴海が男とすれば、「鳴」をナキと読むという方式を敷衍して、その名をトリナキの神(み)と読むことができる。また、女性とすれば、イザナミの名を継ぐトリナミだったことになる。とすれば、彼または彼女がスサナキ・大年神を継ぎ、オホアナムチに就いたとも考えられる。大年神の子の一人が大国御魂神と記に載るからその子が大国主に回り、ふたつの位を継ぐ血筋が入れ替わったか。
もっとも、大年神の系図(第2図)の伊怒比売と香用比売との子供連は、大年の支配下の首長名を示している可能性の方が高い。だからこの大国御魂つまり大国主もオホアナムチの配下であったことを示している。
大年の本当の子孫は天知迦流美豆比売との子達であり、次代は奥津日子と奥津比売である。この比売には大戸比売との亦名がつけられていることから、彼女が大戸主だけを継ぎ、オホアナムチを宇迦系に譲ったことも考えられよう。
ついでに云えば、知迦流比売系子孫の最末裔は大土神。ニニギに国を渡す事勝国勝長狭(紀)は第四、一書で亦名を塩土老翁と書く。ひょつとすると、彼が「土の等式」でその大土神だった可能性があり、国ゆずりで大戸主の系図が切れたことも考えられる。 では、なぜ記紀は大年神がオホアナムチについたことを明記しなかったか。記紀にとって必要だったのは、天国への国譲りをしてくれた時点でのオホアナムチだからだ。ただし、譲ってくれたオホアナムチが偉大な権力者であることを示しておく必要はあったから、大国主の名義へ各代の伝承をまとめて記載したのだ。 (大戸之道 (3) 終)
これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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