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甕戸(おうべ)から大戸国への仮説
神世7代の神々・中編 大戸之道4
記紀の出自を探るV・4
大阪市 西井健一郎
1.前回まで
記紀の中に、神世7代中の大戸之道尊〔記は意富斗能地神。以後、大戸之道を主用〕の出自を探して第4回目。前回まで、大戸之道は、大戸日別神が坐した大戸日別国の開祖であり、その国はスサノヲやその子の大年神(=大戸主の神)がオホアナのムチとなって支配した大戸国、との考察を紹介した。今回は、神代には存在したらしいその大戸国についての情報を記紀に求め、その歴史を推測しよう。
なお、記は岩波文庫30-001-1「古事記」(以後、文庫本・記と略す)、紀は岩波文庫30-004-1〜4「日本書紀(一)〜(四)」(以後、文庫本・紀と略す)に依拠している。
2.大戸は甕戸から
大戸之道を祖神とする大戸日別の国は、現在ではその痕跡さえさだかではないけれども、記紀の神代編では重要な地域だつた。それは遠祖火瓊瓊杵尊・彦火火出見尊(紀)の本国、「火(ほ)」の国の歴史を述べる上で欠かせないものだったからである。
「大戸」は、大戸之道尊(紀)を記が意富斗能地神と記すがゆえに、オホトと読まれた。
しかし、大年神の子、奥津比売の亦名「大戸比売」に文庫本・記はオホベヒメと振る。それは比売が竈〔ソウ(呉・漢音)。かまど・へっつい〕の神とされていることから、大きな竈(へ)と捉えて振ったと見られる。なお、漢字源(学研刊)によれば、竈にはソウの読みしかない。
とはいえ、その国はオホベと呼ばれていた可能性はないとはいえない。とすると後世、オホに甕(おう)を当てたとも考えられる。無理やりにではあるが、「甕部(みかべ)」国が「甕戸(おうべ)」国と表記され、やがて「大戸」日別国へと転字したと仮説を建ててみた。大戸日別にしろ白日別にしろ、漢字が輸入されてからの命名だから、甕戸(おうべ)への転換は神話時代も遠くなった伝承を文字で記録しだした時代の話だろう。
その地は、かって「甕(みか)」と呼ばれた。とすれば、名に「甕」がつく神はその地と関係がある筈。そこで、その一人、甕速日神の記載を手かがりに、甕(おう)戸の国の誕生を推測してみたい。
3.カグツチの反乱
甕速日神は、カグツチを切ったイザナキの剣の血から生じた神々の一人である。
記は「ここに伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳劒を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまいき。ここに・・・。次に御刀のもとにつける血も亦、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋(ひ)速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豐布都神。」と書く。
紀は第6一書に「・・・。復剣の鐔(つみは)より垂(しただ)る血、激越(そそ)きて神と為(な)る。号けて甕速日神と曰(まう)す。次に嘆*速日神。其の甕速日神は、是武甕槌(たけみかづち)神の祖なり。亦曰はく、甕速日命。次に嘆*速日神命。次に武甕槌神。」とある。
カグツチが父イザナキに切られるのは、生まれる時に火傷を負わせて母イザナミを死に追いやったからである。この伝承は、 1).イザナミの支配にカグツチが反乱を起こし、イザナミを死に至らしめた事件か、 2).イザナミがカグツチの領地に進攻、敗退した事件か、を反映している。
4.カグツチは火の国の王
このカグツチの実像については稿を改めて考察するが、彼は北部九州の王者ではなかったか。彼の名に香椎と当てることができることもそのひとつの裏付けである。
文庫本・記は香山に「カガヤマ」と振る。カグツチのカグも香に置換できる。一方、ツチは槌であり、椎の字が使われる。景行紀十二年十月条に「則ち海石樹(つばき)を採り、椎(つち)を作り、兵(つはもの 武器)と為す」とある椎である。したがって、カグツチは香椎と書け、香地区の武将であり、後代の香椎宮の開祖かもしれない。
ただし、カグツチ本人は白日別(筑紫)の人ではなく、火の国の人である。この火の国は後述する嘆*速日神のヒ国であり、肥(熊本)国ではない。なぜなら、彼は火之[火玄](かが)毘古の子だからだ。
[火玄](かが)は、JIS第三水準ユニコード70AB
国生み後の神生み(記)に、イザナミが(大宜都比賣に続き)「次に火之夜藝速(やぎ)男神を生みき。亦の名は火之[火玄](かが)毘古神と謂ひ、亦の名を迦具土神と謂ふ。この子を生みしによりて、みほと炙(や)かえて病み臥せり。」とある。私見では、ここの亦名は親子関係を意味し、カグツチは火の国の王ヤギハヤヲの孫、その後継者カガヒコの息子にあたるイザナミ期の火の国の王である。
そして、この火(ひ)の国は、天孫降臨期の火之戸幡姫(紀第6一書)や、火瓊瓊杵尊(紀本文)や火明命などの火(ほ)と同じ地域を指す。近畿王朝の遠祖の地だから、その故事が詳しく書かれているのだ。
カグツチがイザナミの傘下にあったと見るのは、剣先の血から生まれた甕速日などと違って、イザナミが直接生んだと記すからである。あるいは、子にしよう(=征服しよう)としたのかもしれないが。
また、イザナミの屍体には八色(やくさ)の雷が生じる(紀)。この雷群は、カグツチの屍に生じた山津見群(記)と同じく、彼女の支配地を暗示する。そのひとつに火雷の名がある。火の国とその王カグツチはイザナミの傘下にあったのだ。
5.速日の国が火と甕に
さて、カグツチの反乱に会い、出雲で死んだイザナミの仇を討ったのが、夫イザナキである。カグツチを滅ぼし、それに従っていた各地の首長を入手する。だが、イザナミの遺部下の雷連には追いたてられたらしい。
このイザナキに降伏した首長群のうちの二人が、甕速日と嘆*速日である。
彼等は血となったのではなく、血から生まれたのだから、解放されてイザナキに伏したのだ。
このネーミングから察するに、イザナキは速日別としてひとつだった国を分割し、この二人の首長を任じたように見える。
そもそも速日の国は、関門海峡の主、水戸神速秋津日子が支配し海峡の両側にあった。
またその国は、イザナキの出身国らしい。前述のイザナミの神生み(記)には、イザナミが生んだこの速秋津日子と妹速秋津比売から、イザナキを生んだ(紀の一書)沫那藝やその親と思われる頬那藝が生まれたとあるからだ。
先後の関係がややこしいが、イザナミの神生みで生まれた神々とは、基本的にイザナミと同世代の神で友好関係を保っていた国々の長である。中には、子のスサノヲ時代に登場する大屋毘古、より後代のヤシマジヌミ4世の天之吹男なども混じるから、そうだとはいいきれないが。
なお、甕速日と嘆*速日の名は、国譲りの交渉メンバーを選定する場面(紀)にも出る。
ここは単に武甕槌の身元を説明するために用いられただけあり、その出自や活動を覗わせるものはない。次回に述べるが、武甕槌が甕速日の子孫とすればここに登場するのはおかしい。これは同名異神の、記の書く建御雷之男神の話である。
6.ミカ速日国から甕戸(おうと)へ
さて、二人の速日の神名からイザナキは速日国を分割し、下関(本土)側を甕速日に、門司(九州)側を嘆*(ひ)速日に支配させた、と見る。
この甕速日の国が甕(みか)の国と呼ばれたらしいことは、大国主の系図に速甕や甕主などの名前が登場することでわかる。“・・・、生子、速甕多氣佐波遅奴美。此神、娶天之甕主神之女、前玉比賣、生子、甕主日子神。・・・” (記)とある。
もっとも、海峡の本州側が甕(みか)の戸と呼ばれるようになり、それが大戸(おほべ)比売の大戸へさらにオホトへと変遷したとすると、開祖として設定した大戸之道や大戸日別神がイザナキ世代より若くなるという矛盾が生ずる。ただ、大戸日別と国名を漢字化する時代はイザナキ世代よりずっと後と考えられるから、大戸日別神(記)はイザナキより後発の神かもしれない。
やがて、この甕の国の主権は、忍穂耳の速日侵略(天孫降臨)でイザナキ系から天照系に替わる。その時に、討伐されるのが甕の国から対馬へ派遣されていた将軍嘆*である。
紀第2の一書には「時に二の神(経津主・武甕槌)曰さく、『天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。又の名を天香香背男。請ふ、先づ此の神を誅(つみな)ひて、然して後に下りて葦原中国を撥はむ』とまうす」と書かれている。
甕星とは、牽強付会すれば、甕国人ではなかったか。「天津」は甕国から対馬の港の管理者として派遣されていた武将を指すのかもしれない。あるいは、忍穂耳より先に来て甕国を支配していた対馬人かもしれない。この意味とすれば、甕速日の後裔だ。どちらにせよ、その支配権を奪わないと出雲に船出ができなかったのだ。国譲りに抵抗したのは建御名方神(記)だけではないようだ。
この甕星香香背男が討伐されたことで、甕速日からの国名、甕戸(おうと)が天(あま)の戸に、訛って穴戸に変わっていった、と考えられなくもない。
7.嘆*(ひ)国から火(ほ)の国へ
嘆*(ひ)は、口の代わりに火。JIS第4水準、ユニコード71AF
一方の嘆*速日の国は、紀一書にあるように“嘆*(ひ)、火也”で嘆*から火へ変わる。火之迦具土神(記)と書くから、後代の当て字が変わっただけのようだ。火はさらに「火闌降、此をば褒能須素理(ほのすそり)と云う」(紀本文、火闌降命の原注)とある「褒(ホ)」の発音に変わっていく。
大阪例会にて、この「褒(ホ)」が「豊(ホウ)」に変わったという説を唱えてみたが、賛同は得られなかった。速秋津がいつしか、豊秋津に置きかえられているから、ありえないことではないのだが。
褒の国は海峡の九州側、門司周辺とみる。北九州市を想定したいが、洞海湾は闇(クラ)国であるらしいから、その東部だけだろう。
また、褒が国名とすると、“大己貴、此云於褒婀娜武智”(紀八岐大蛇第2一書)の褒も、同国を指している可能性がある。
と考えると「オホアナ」はそれぞれ彼の支配下の国名であるとの仮説が立つ。於は大国つまり甕戸国、褒は火の国、婀は天国(壱岐・対馬)または秋津(豊前)、娜は中洲国つまり筑紫になる。
見方を変えると、婀娜は葦原中国の頭文字をつないだ省略形ともとれる。また、於褒は甕+火で、かっての速日国の領域を指すのでは。
この元速日の褒(火)と甕が国の中心をなすとの思いが火甕、つまり女王卑弥呼(ひみか)の名の源では。また、記紀の神代巻は、交易の要の関門海峡の争奪史ともいえなくもない。
これらの国々は、次の大年神の支配域と重なる。
8.大戸主の支配圏
前回述べたように、スサノヲの子大年神(記)とは大戸主の神である。それは大戸日別国を支配していた。彼はさらに広域の権力者、オホアナムチの位にいた。
オホアナムチの大年神の支配域を示すのが、記にある彼の系図(第1図)である。
この系図には、ふたつのものが同時に示されている。彼が支配する神(首長)群と、彼の子孫とである。左の伊怒比売および香用比売との子達が前者の首長群、天知迦流美豆比賣との子達は彼の血統・子孫である。
女王ながら、伊怒比賣と香用比賣とはそれぞれの地域の支配者だった。これらの時代から5・6代後の国譲り期でさえ、高御産巣日神(記)が支配権と人事権を握っていたように書かれている。先稿で述べたように、彼女も女神だ。二人の比賣もそれぞれの地域の崇敬される卑弥呼のような存在だったに違いない。そして、大戸主は両方の地の支配者とはいいながら、これらの比賣の相談にのる通い夫だったのでは。
伊怒比賣が支配したのは、主に北部九州である。筑紫の亦名である白日別の名を持つ白日神をはじめ、ニニギが降り立つことになる地(天孫降臨紀第6一書に“于時、降到之處者、呼曰日向襲之高千穂添山峯矣”)の曾富理神、虚空(ソラ)が空(カラ)になって韓が当てられたと見る韓神、火の国の後(うしろ)でヒシリ(火尻)らしい聖神が並ぶ。また、大国御魂神は大国主も配下においたことをしめす。
なお、伊怒比賣の母は神活須毘神、当代の壱岐の神産巣日である。この神代の頃から、壱岐の女王が一大率を伊都へ派遣しており、その長が伊怒比賣ではなかったか。
一方、香用比賣が支配していたのは、関門海峡の周辺らしい。その子、御年(みとし)神とは前稿で述べたように水戸(みと)の主(ぬし)で、速秋津日子の後継者と見られる。
大香山戸臣は、山戸臣はヤマトオミではなくヤマツミの当て字と見るから、香地区の山津見である。大が大国の支配下の意か、後出の香山戸臣の祖や親を意味させたものかは不詳。後続の香山津見の偉大な祖先の意だろう。
なお、山津見とは独立した首長ではなく、誰かに任命された代行支配者(江戸時代の代官?)だったのでは。
これら地方首長を表す神名が、イザナミ・イザナキ神話関連の神名とは異質である。だから、大年神の系図は異種族のものの可能性はある。
天知迦流美豆比賣との子は、代々の大戸主である。奥津比売が亦名を大戸比売とするから、大年神の地位を継いだと思える。その後はさびれ、最後の大戸主の大土神こと塩土老翁がニニギにその国を渡すことになる。
それについては、次稿で述べる。
(大戸之道4 終)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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