2004年12月9日

古田史学会報

65号

1、九州年号
・九州王朝説
 冨川ケイ子

2、二つの「聖徳太子論」から
 大田齋二郎

3、太田覚眠における
時代批判の方法
 松本郁子

4、甕戸(おうど)から
大戸国への仮説
 西井健一郎

5、西村秀己
『盤古の二倍年暦』を読んで
短里における
下位単位換算比の仮説
泥 憲和

6、明治天皇が見た九州年号
『靖方溯源』

「太宰府」建都年代
に関する考察
九州年号「倭京」「倭京縄」
の史料批判
 古賀達也

7、古田史学いろは歌留多
日本史の構造革命に迫る
仲村致彦

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西村秀己『盤古の二倍年暦』を読んで

短里における下位単位換算比の仮説

姫路市 泥憲和

 表題の論文『盤古の二倍年暦』(西村秀己『古代に真実を求めて』7集)によれば、三国時代の呉で書かれた『三五暦紀』記載の文章は通説でそのまま読めば意味不明の珍文だが、二倍年暦と短里を導入すれば有意に解釈できるという。魅力的な説であり、私は少なからず興奮した。そこでその論文を正確に理解しようとして検算したところ、意外な結論を得たので報告し、批判を仰ぎたいと考える。

1 西村論文『盤古の二倍年暦』の要約

1). 『三五暦紀』は次のように記す。
 ア、盤古(と天)は一日に一丈ずつ成長する。
 イ、一万八千年後に、その高さは九万里になった。
2). 中国ではどの時代でも一里=一八〇丈であった。
3). 2).をもとに1). を計算すると、盤古の高さは三六、五〇〇里になり、九万里にならない。
4). 一丈の長さは随唐時代には三m、周時代では二mだった。
5). 1).の計算式は一丈を周代の二mとおき、一里も周代以前の短里=七六m、一年も周代以前の二倍年暦=182.5日とおいた時だけ成立する。
1丈(2m)×182.5(丈)×182.5(日)×18,000(年)÷76(m)≒九万(86,448)里
6). よって『三五暦記』は「短里」「二倍年暦」の実在性を証明する補強証拠である。


2 短里とその下位単位

 一里=七六mという短里説には、解決しなければならない課題があった。それは「里」とその下位単位である「丈」「歩」「尺」等との関係がどうなのかという問題だ。
 通説で説かれている里と丈の関係は西村氏論文に紹介してあるとおりであるが、それで言えば、短里説の場合 2). と 4).が相容れないことに気づくだろう。
 2). 中国ではどの時代でも一里=一八〇丈であった。
 4). 一丈の長さは随唐時代には三m、周時代では二mだった。
短里説ではこの二個の命題を同時に満足させることが出来ない。随唐時代の一丈三mでも周時代の一丈二mでも一里七六mにならないのだ。
 3(m)×180(丈)=540(m)・・・・・(これがいわゆる長里である。)
 2(m)×180(丈)=360(m)
 すなわち短里説を成立させるには、一丈の長さを極端に短くするか、一里=一八〇丈という換算比定義を変更するか、どちらかが必要なのだ。
 この点、『三五暦紀』盤古説話ではどうなっているだろう。一里が一八〇丈として、一倍年暦で計算してみよう。
1(丈/日)×365(日/年)×18,000(年)÷180(丈/里)=36,500(里)
 通説を使えば、このとおり、九万里にはほど遠い結果になる。ここに二倍年暦を導入すると、さらに悲惨である。半分の一八、二五〇里にしかならない。
 西村論文では里・丈をメートル法に換算して計算してある。これは通説に基づいた里と丈で検算すると計算が合わないからであろうが、しかし『三五暦紀』はメートル法とは無関係に書かれたのだから、里と丈で計算が合わなければ変なのである。『三五暦紀』がこんな単純な計算も合わないような代物であるのなら、そんな書物から何が得られると言うのだろう。メートル法で換算すれば有意な検算結果が出るのに、里と丈では合わないのであれば、通説の換算比定義が間違っているのではあるまいか。そこで、『三五暦紀』に従って里と丈の比を求めてみよう。
 盤古の成長が一八、〇〇〇年で九万里になるのならば、成長の早さは一年で五里である。この五里が何丈にあたるのかが問題である。では一年は何日だろう。西村論文では一年を太陽暦の三六五日としている。盤古は一日に一丈ずつ成長するから、一年で三六五丈。さきに見たように盤古説話ではこれが五里に相当するというのだから、一里は七三丈となる計算だ。(365÷5=73)これで盤古説話を計算してみよう。
1(丈/日)×365(日/年)×18,000(年)÷73(丈/里)=90,000(里)
 このように一応の計算は合うのだが、七三などという中途半端な数字は不自然である。かと言って二倍年暦だと一里三六.五丈となり、さらに不自然である。
 ところで盤古説話に短里と二倍年暦が使用されているのならその成立も周以前に遡ると仮定して、一年を殷暦の三六〇日としてみよう。二倍年暦なら一年一八〇日である。すると一里は三六丈となる。
1(丈/日)×180(日/年)×18,000(年)÷36(丈/里)=90,000(里)
 これなら不自然さはなくなる。一里三六丈は、一里一八〇丈という通説の五分の一である。一丈の長さに変化がなく、換算比が五分の一ならば、一里の長さも五分の一と考えるしかなかろう。これがすなわち短里ではあるまいか。一里三六丈という制度があったというのは大胆な仮説かも知れないが、合理的な解釈であると自分では思う。
 日本でもかつて短里が実用であった痕跡が残っているが、我が国では一里は三六町とされている。この制度は、あるいは一里三六丈制度が痕跡として遺存しているのかも知れない。ちなみに一丈の長さは一里を七六mとすれば二.一一mとなる。


3 尺・歩・丈と里

 一里は殷周時代には短里、その後漢代には長里が採用され、魏晋朝で短里が復活、随唐時代からは長里が使われている。里の長さはこのようにめまぐるしく変化しているのに、下位単位である一丈の長さがそれほと変化していないのはなぜだろう。
 ひとつの理由としては「基準原器」の存在が考えられる。一丈や一歩の長さを示すため、王権力はメートル原器のような度量衡計器を配布していたようだ。単位長さを変更すると、これらをすべて作り替えて配布し直す必要が生じるが、その手間と経費は莫大なものになろう。しかし換算比の変更ならば布告を流せばそれでよい。基準原器の作り替えに較べればはるかに容易なのだ。
 一丈の長さが変えにくいもうひとつの理由がある。尺・歩・丈という度量単位は、身体各部分の長さをもとにして発生した。尺の字形は、手の指を開いて、いわゆる尺取りをして測る形であり、歩は文字通り歩幅がもとになっている。丈はもっぱら高さの単位で、身長より高いものを寝かせて測ることができない時に、身の丈何人分と数えたのが起源であろう。こういう身近な長さについての伝統概念、慣習は社会的に浸透しきっていて、なかなか変更しにくかったのではなかろうか。
 一方、里には基準原器が存在しない。自然物に基準尺をもたない人工の単位である。里は距離を表すために作られた単位であるが、長すぎて身近な物では対応関係をつくれないから、政治的強制力によって、例えば「三〇〇歩を一里とする」などと人為的に定められたのだろう。政治力でつくられた単位なら、その政治力が及ぶ範囲でしか通用しない。政治権力の数だけ、異なった里が存在しても不思議ではない。これが、里の長さを変更することが容易だった理由だろうと考える。


4 短里の「歩」を考える

 では短里では歩はどうなっていたのか。丈と同じく一歩の長さは変わらずに、一里三〇〇歩が五分の一の六〇歩だったのか、あるいは換算比はそのまま一里三〇〇歩で、単位長さが五分の一の「短歩」が存在したのか。
 「径百余歩」(魏志倭人伝)だったという卑弥呼の墓が通常の弥生墳墓の大きさで直径二五〜三〇mだったと仮定すれば、一歩二五cm程度の「短歩」が計算としてはピッタリであり、古田武彦氏はこの立場をとっておられる。私もこの説に従いたい。周時代はどうだったか不明だが、魏晋朝では短歩があったと思う。
 ではどうして丈は換算比を変更したのに歩は単位長さを変更したのだろう。
 通説では古代中国での長さ単位の換算比はつぎのとおりである。(西村論文参照)
 1里=180丈=300歩=1800尺
 すぐに気づくのは、丈と歩が換算しにくいことだ。一歩は一丈の五分の三に相当する。これでは例えば、七丈の壁は何歩なのかと問われても、普通の人にはにわかに計算できないだろう。こんなことになっているのは、実は日常では換算の必要がなかったからだと私は考える。おそらく水平距離は歩いて測れるから歩を使ったが、垂直高さは歩いて測ることができないから丈を使っていた。使われ方がまるで違うので、丈と歩は換算の必要がなかったのだ。この考えを支持しているのが、尺の長さである。ほんの短い長さなら水平でも垂直でも尺取り方ではかれるので、尺は丈・歩どちらとでも換算容易でなければならないだろう。そして事実は、確かにそうなっているのだ。
 古代中国で度量衡を定めるにあたっては、数学的整合性の他に、日常的有用性も大きな要素だった。そして歩と丈は里の下位単位だったが、歩と丈には相互の連関が薄く、並行概念としてあった。そこで扱われ方も異なっていたと考えると、先程の疑問の答えにならないだろうか。
 魏晋朝に短歩への変更が容易だと考えさせた理由はもう一つ、約二五cmの短歩には、足の大きさというぴったりの自然尺が偶然存在していたからでもあっただろう。しかし中国では、歩とは歩幅であるという観念が長い間の習慣としてあり、これを突き崩すのは容易なことではなかった。短歩を使ってみたが短すぎて不便ということもあったかも知れない。新しい一歩の長さはついに伝統の歩の概念を打ち破ることはできなかった。それが、魏晋朝短里の寿命が短かった理由の一つと私は考える。
 古代史にはとんと疎い自分だが、西村論文のおかげで新しい仮説を提案できることとなった。結論の当否はひとまず置いて、新しい視点を提供して下さった西村氏に深く感謝して、この稿を閉じたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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