2005年4月8日

古田史学会報

67号

森嶋通夫を偲ぶ
 木村氏に答えて
古田武彦

「禁書」考
禁じられた南朝系史書
 古賀達也

「賀陸奥出金歌」について
 泥憲和

午前もおもろい関西例会
 木村賢司

2004年度
重要研究テーマを講演

事務局便り

オモダル尊は、
面垂見(宋史)である
記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6連載小説『彩神』
第十一話 杉神 2
  深津栄美

「越智・河野の遺跡巡り」
と「河野氏関係交流会」
 木村賢司

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西村秀己『盤古の二倍年暦』を読んで -- 短里における下位単位換算比の仮説 泥憲和(会報65号)

 

大宝律令の中の九州王朝 泥憲和(会報68号)

「賀陸奥出金歌」 -- 大友旅人 について 泥憲和(会報67号)../kaihou67/kai06703.html


「賀陸奥出金歌」 - 大友旅人- について

姫路市 泥憲和

1 記と紀の矛盾

 大伴氏についてはその高名であるにも関わらず職掌などについて不明部分が多く、史家の間に議論が続いている。大伴氏と久米氏の主従関係がどうなのかという議論も、いまだに決着のつかないテーマのひとつである。連(むらじ)である大伴氏と直(あたい)でしかない久米氏の主従関係がなぜ問題になるのかと言えば、両者について、記紀をはじめとする史料群が相互に矛盾した記述をしているからである。
 紀 この時、大伴連の遠祖天忍日命、久目部の遠祖天つ大久目をひきいて・・・(神代下一書四)
 このように日本書紀では大伴氏の遠祖が久米氏の遠祖を率いている。また天忍日に「命」の称号がついているのに天津大久目は呼び捨てである。従って明らかに大伴が久米の上位である。
 記 かれここに天忍日命、天つ久米命、二人、天のイワユキを取り負い、(ニニギの)御前に立ちて仕え奉る。(古事記上巻)
 しかし同じ場面であるのに古事記の記述ではこのように、大伴・久米の両者は
称号も立場も対等である。
 「大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負いもちて・・・」
 これは後代、大伴旅人が歌った「賀陸奥出金詔書歌」の一説である。ここでは大伴氏である旅人自らが、何と久米氏が大伴氏の宗家であるとの認識を示している。史家にとってはまことに頭の痛い記述であるが、大伴氏にはそういう伝承があったのだろう。大和朝廷の公的史書である日本書紀に「大伴連の遠祖」が「久米部を師いて」とはっきり書いてあるのに、格下の久米氏が宗家であるというような伝承が、それも大伴氏内部でわざわざ新しく作られるとは考えがたい(この時代、古事記は地下に埋もれていた)。旅人の認識は日本書紀の記述にも関わらず改変できない、確固とした家伝によっていたと考えざるを得ない。しかもその家伝の来歴はよほど古いものであると判断するしかないのである。
 ここに於いて大伴が主なのか、久米が主なのか、あるいは対等だったのか、諸家各々の立場から活発な議論が提示されているのだが、決着にはほど遠いようである。それはそうだろう、どちらの立場からどれほど詳細な議論が呈されても、もう一方からは必ず「そうは言っても古事記(或いは日本書紀)にはそれと反対の記事がある」との反論がなされるに決まっているのだ。すると議論はまた振り出しに戻るしかない。思うに一元史観の枠内に留まる限り、決着がつく日は永遠に来ないのではあるまいか。


2 九州大伴・九州久米と大和大伴・大和久米

 このテーマについて、古田史学の立場からはどのように考えられるだろう。私は神武東侵を歴史事実として認めれば、前節の矛盾を解決する糸口が見いだされると考える。
 九州王朝の史書である日本書紀が久米氏は大伴氏の配下だったと記しているのだから、九州にあってはもともとそういう関係だったのだろう。しかし神武東侵後の大和にあっては事情が異なるのだ。
 神武東侵は九州王朝対銅鐸圏の正面戦争ではない。九州王朝ではうだつの上がらない、食い詰め氏族たちによる辺境侵略である。成功すれば一攫千金、失敗すれば死が待ち受ける、一発逆転の大勝負、それが銅鐸圏侵入であっただろう。そのような一か八かの大博打に、大伴宗家自身が手を出すはずもなく、神武郡麾下の大伴集団は、大伴氏の中でも陽の当たらない下位の者たちだったと思われる。そこでは大伴宗家の令名など何の役にも立たない。実力こそが死命を決するのだ。そういう状況下、久米氏の血流を汲む下層氏族たちは大いに働き、戦功をあげた。このことは神武東侵説話において、久米氏の活躍が特筆大書されていることで裏付けられる。神武自身が「みつみつし久米の子らが・・・」と三度も歌っているのである。宇陀のエウカシを攻撃する場面で、大伴・久米の両者はすでに対等である。
 大和南部平定後、植民地大和にあって久米氏は大伴氏と同等かそれ以上の名家に変貌したはずだ。近畿天皇家内伝承(すなわち古事記)の神代神話に大伴と久米が対等であると記してあるのは、大和に於いて久米氏が獲得した新しい地位が反映しているのだろう。記紀の記述が相互に矛盾しているのは、日本書紀は九州での事実を、古事記では大和での事実をそれぞれ記しており、更に両氏族の地位が九州と大和で異なっていたからである。
 おそらく大和久米氏は新征服地にあって、九州とは違ってある意味では大伴氏を凌駕する地位を占めていた時期があったのである。九州王朝由来の名家である大伴(の支流か?)と実力の久米、神武東侵の成功後、大和にあってこの二つが接近するのは必然である。没落貴族が経済界の実力者と婚姻関係を結びたがるのと似ている。「賀陸奥出金詔書歌」に見える旅人の認識はこのような歴史背景に由来するのであろう。「賀出金歌」の記述は、九州王朝実在を前提にしてはじめて正しく理解できると私は考える。近畿天皇家一元史観に拠り立って九州王朝を認めず、従って九州氏族伝承と大和氏族伝承を分別できず、両者を混同したままでいる限り、「賀出金歌」はいつまでたっても理解不能であることだろう。


3 その他のことなど

 1、神武の祖父ニニギの妻、神阿多都姫は隼人の祖ホデリノ命を生んだ。神武の第一妻は阿多の小橋君の娘である。両者に共通する阿多は隼人の本拠とされる。この点から神武と隼人の関係に着目されたのは西村秀美氏である。(〇六年新年講演会)
 さて久米氏も隼人と深い関係を持っていたというのが学界では定説である。「クメ」と「クマ」の音韻が近いなどという、隼人と熊襲の分別もしない低レベルな主張も混じっているので慎重に吟味すべきだろうが、神武と久米氏がそれぞれ隼人と接点があるとするならば、神武王朝の性格について新たな視野が開けないだろうか、今後の課題として提案したい。

 2、本会会報や年報、また例会発表等において、古事記には大量の九州王朝史書からの盗用があるとの仮説が、複数の論者から提出されている(古賀達也氏、西村秀美氏)。それらの仮説に敬意をはらいながらも、私としては今のところ古事記主要部分は近畿王朝内伝承で構成されていると考えている。この点について論点は多岐にわたる上、正直なところ自説と言えるほどのものが出来ているわけでもない。いずれ調べが進めばいくつかのテーマごとに別稿にて発表できればと考えている。


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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