明治天皇が見た九州年号 「太宰府」建都年代に関する考察 -- 九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判(会報65号)
「伊予風土記」新考 古賀達也(会報68号)
「禁書」考 -- 禁じられた南朝系史書 古賀達也(会報67号)../kaihou67/kai06702.html
「禁書」考
禁じられた南朝系史書
京都市 古賀達也
一
『日本書紀』が九州王朝の史書を盗用して編纂されていたことを、古田武彦氏が指摘されて久しいが、それら九州王朝系史書が「禁書」として大和朝廷に収奪されていた痕跡として、『続日本紀』の次の記事が、これもまた古田氏によって紹介されている。
「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条
ここに記された「禁書」が九州王朝系史書を含むものと考えられるが、とすれば「山沢」とあるのも、大宰府や筑紫平野を囲繞するように点在している、あの神籠石山城のことではあるまいか。防衛施設という性格とその必要性から、神籠石には内部に水源としての沢や池が配置されていることは著名であり、「山沢」と表現するにふさわしい。その神籠石に九州王朝残存勢力が「禁書」や王朝ゆかりの神器を持って立てこもった。それに対して、元明天皇は百日以内に投降することを命じたのが、この記事の真相(深層)ではなかったか。
この記事の十二年後、養老四年(七二〇)に『日本書紀』は成立する。九州王朝の記事が大量に盗用された結果、『古事記』とは大きく趣の異なった史書として、『日本書紀』は大和朝廷の正史となるのだが、裏返せば、盗用部分に残された九州王朝史の復原にとっても『日本書紀』は貴重な史料といえよう。
二
こうして、九州王朝の「禁書」という概念が提起されて以来、この「禁書」の調査・追跡というテーマが多元史観・古田学派にとっての新たな課題となったわけであるが、例えばその中に「天皇」の称号を多数持つ「稲員家系図」(高良玉垂命神裔の家系)なども、九州王朝系帝王系図として「禁書」扱いされたのではあるまいか(注1)。同系図については研究を深め、いずれ発表したいと考えているが、今回は「禁書」とされた別の史書類について、『続日本紀』の次の記事より考証を試みたので報告する。
「大宰府言さく、『この府は人物殷繁(いんはん)にして天下の一都会なり。子弟の徒、学者稍(やや)く衆(おほ)し。而れども、府庫は但(ただ)五経のみを蓄へて、未だ三史の正本有らず。渉猟の人、その道広からず。伏して乞はくは、列代の諸史、各一本を給はむことを。管内に伝へ習はしめて、以て学業を興さむ』とまうす。詔して、史記・漢書・後漢書・三国志・晋書各一部を賜ふ。」『続日本紀』称徳天皇神護景雲三年(七六九)十月条
太宰府を「天下の一都会」と記す興味深い記事であるが、これによれば、当時(七六九)大宰府には三史(史記・漢書・後漢書)の正本がなく、朝廷に対して歴代中国史書を要請していることがわかる。九州王朝の都であった太宰府も、七〇一年以後は大和朝廷の律令制一機関とされているが、前王朝の中枢に中国史書が「不在」という事実は何を意味するのであろうか。というよりも、「不在」であること自体が不可解である。藤原純友の乱により、いわゆる大宰府政庁第II期遺構(注2)が焼失するのは天慶四年(九四一)のことであり、それ以後なら「不在」であっても不思議はない。戦火による焼逸という事態が考えられるからだ。しかし、『続日本紀』の当記事は七六九年のことであり、大宰府政庁はその威容を誇っている時代だ。
それとも、九州王朝は初めから中国史書を持っていなかったのだろうか。しかし、この理解は困難である。長く漢や魏、中国南朝に臣従・朝貢していた倭国が、金印は貰っても中国の史書は一切入手しようとしなかったとは、万に一つも考えられない。
考えられる中国史書「不在」の理由はただ一つ、七〇一年の王朝交代である。王朝交代に伴って、それら中国史書を大和朝廷に没収され、禁書とされた、あるいは九州王朝残存勢力により「山沢」に持ち込まれたというケースだ。
『続日本紀』のこの記事には「未だ三史の正本有らず」とある。この「未だ」というのは、当然のこととして大宰府政庁(九州王朝の紫宸殿)が大和朝廷の支配下におかれて以降という意味に取らざるを得ない。七〇一年以降だ。なぜなら、それ以前の九州王朝「府庫」の在庫状況など、近畿なる大和朝廷が知る由もないことだからだ。したがって、三史の「不在」は七〇一年を境に発生した現象と考えざるを得ない。
三
こうして、中国史書「不在」の理由については、一通りの理解を得たのであるが、同記事後半に更に興味深い内容が記されている。「詔して、史記・漢書・後漢書・三国志・晋書各一部を賜ふ。」とあることだ。大宰府からの要請に応えて、大和朝廷が与えた史書として三史(史記・漢書・後漢書)の他に、『三国志』と『晋書』が含まれているが、当時成立していた歴代中国史書、いわゆる正史の類は次の通りだ。
『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『北史』、そして『隋書』である(注3)。大和朝廷が大宰府に賜った正史は『晋書』までで、その後の南朝系史書『宋書』『南斉書』『梁書』と『南史』『北史』『隋書』は与えられていない。それでは大和朝廷は『晋書』までしか持っていなかったのであろうか。それも「否」だ。何故なら、『日本書紀』雄略紀の雄略天皇遺詔が『隋書』高祖紀からの盗用であること著名であり、『日本書紀』編纂時に大和朝廷は『隋書』を有していたことを疑えない。従って、当時最新の中国正史『隋書』を持っていた大和朝廷が、それより以前に成立していた南朝系史書を持っていなかったとは考えにくいのである。
すなわち、大和朝廷は大宰府に対して中国南朝系史書と『隋書』は意図して与えなかった。これが結論である。歴代中国史書の内でも南朝系史書と『隋書』は、「禁書」中の「禁書」として扱われていたと解されるのである。
四
それでは、中国南朝系史書と『隋書』を「禁書」とした背景について考察してみよう。それは『日本書紀』により造られた歴史象との齟齬が主たる原因と思われる。ご存じのように、『日本書紀』は先住した九州王朝の痕跡を消し去り、神武以来大和朝廷が日本列島の中心的王権であったとする政治目的を持つ、いわば「偽書」である。そしてその大義名分と中国史書との整合性を図るために神功紀を新立し(注4)、そこに卑弥呼と壱与の記事を「倭の女王」という表現で滑り込ませた。
しかし、そこまでが限界だったようで、『宋書』など南朝系史書に現れる「倭の五王」や『隋書』の多利思北孤の存在は消し去るしかなかった。そして、その際の肝要の一点、それは中国南朝系史書と『隋書』を人々の目から隠すこと(注5)。すなわち「禁書」とすることだ。これなくして、『日本書紀』の政治目的を完遂することは困難なのである。したがって、大宰府に与えた史書が『晋書』までてあったのは偶然ではなく、『日本書紀』そして大和朝廷の大義名分を守るためにとられた周到な配慮の結果なのである。
五
最後の考証に入ろう。これまでの考察を是とするならば、必然的に次の事実が明かとなろう。すなわち、『続日本紀』のこの記事の時代、八世紀中葉にあっても大和朝廷の人々は七〇一以前の九州王朝の存在とその歴史、中でも倭国と中国との国交関係を知悉していた。この事実である。この歴史事実を知っていたからこそ、『日本書紀』との齟齬に悩み、中国史書を隠そうとした。そう考えるほか無い。
さらに、重要なことは、八世紀中葉においても大和朝廷は滅亡したはずの九州王朝の幻影に怯えていた。このことも疑うことができない。その怯えが「禁書」なるものを制定する根本の動機だった。こう考えても誤りないと思われる。とりわけ、九州王朝の故地を管轄する大和朝廷の出先機関たる大宰府の役人達にとっては、より深刻だったのではあるまいか。八世紀初頭に続いた「隼人の反乱」も九州王朝の「存在」と密接に関係していたことであろう。その記憶は大宰府の役人達にとって、それほど遠い昔の話ではなかったからだ。
それゆえに、『日本書紀』神功紀の新立により、中国王朝との国交の歴史を大和朝廷のものとして簒奪した、新たな歴史認識を、彼らは九州管内の諸国に流布する必要があった。「伏して乞はくは、列代の諸史、各一本を給はむことを。管内に伝へ習はしめて、以て学業を興さむ」の一文こそが、そのことを如実に顕わしているのではあるまいか。「禁書」は、古代も現代も真実の歴史に対する権力者の怯えの産物なのである。
(注)
1 高良山神籠石の中に鎮座している高良大社所蔵文書『高良玉垂宮神秘書』(高良記)に次の記事が見える。七〇一年以前の同神籠石山城内に系図や神器・武器、重書が「挟蔵」されていたことを示す貴重な史料である。
「人皇四十代天武天皇白鳳二年(六七三)、父保続 令嫡男保義継家督ヲ、高良山社職惣官トソ号、大祝、奉守護明神、付与明神御剣 神器 武器并系図、重書等也」
2 大宰府政庁第II期遺構が九州王朝の王宮(紫宸殿)であり、七世紀初頭の創建であることを筆者は次の論文で述べたので、参照されたい。
「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」古田史学会報 No.五〇、二〇〇二年六月。(No.五五をNo.五〇に訂正)
「『太宰府』建都年代に関する考察─九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判─」古田史学会報 No.六五、二〇〇四年十二月。
3岩波文庫『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』の解説による。
4「神功紀の新立」問題について、古田武彦氏の次の論文がある。
「村岡学批判─日本思想史学の前進のために─」『新・古代学』第8集所収。二〇〇五年三月、新泉社。
5『隋書』については、「雄略天皇の遺詔」盗用の隠蔽という目的もあったであろう。
これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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