2005年4月8日

 

古田史学会報

67号

森嶋通夫を偲ぶ
 木村氏に答えて
古田武彦

「禁書」考
禁じられた南朝系史書
 古賀達也

「賀陸奥出金歌」について
 泥憲和

午前もおもろい関西例会
 木村賢司

2004年度
重要研究テーマを講演

事務局便り

オモダル尊は、
面垂見(宋史)である
記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6連載小説『彩神』
第十一話 杉神 2
  深津栄美

「越智・河野の遺跡巡り」
と「河野氏関係交流会」
 木村賢司

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批判のルール -- 飯田・今井氏に答える 古田武彦(会報64号)

「万世一系」の史料批判 古田武彦(会報73号)

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故・ロンドン大学名誉教授 木村賢司(古田史学会報66号)へ

 巻頭対談 虹の架け橋 ロンドンと京都の対話 森嶋通夫・古田武彦『新・古代学』第4集)を掲載


森嶋通夫を偲ぶ

木村氏に答えて

古田武彦

    一

 先号( No.六六)に木村賢司さんの一文があった。一読していささか疑問を感じた。不審だったのである。
 なるほど、表題は「故ロンドン大学名誉教授」だが、その実体は「現・古田あて」のメッセージだ。すでに、当人の森嶋通夫さんは故人だから、「応答」のあるはずはない。森嶋さんに“かこつけ”た、わたし自身に対する、この批判に対し、「いや、木村さん、それはちがうよ。」と森嶋さんが言われるはずもない。できない。従って、わたしの方から「応答」せざるをえない。そういう“仕組み”の一文である。その点が不審だった。
 なぜなら、木村さんが“顔見知り”のない、そういう相手ならともかく、極めて“じっこん”の間がらだ。あるいは、淡路島の「やまとしま」見学、あるいは、鳴門海峡の「真珠」見学、また琵琶湖畔の、素敵な小別荘へと御案内いただいたこともある。だから、「古田さん、この間の話、もう聞きましたよ。」と、電話一本いただければ、それですむ。そういう間がらだ。それなのに、なぜ。わざわざ「会誌」の活字で“注文”をつけられるのか。その不審だった。

    二

 もっとも、問題になった、森嶋さんとわたしの会話は、次の一節で結ばれている。
 森嶋「あなたがボケるまでやるというのは立派だが、途中でいつボケるかわからんよ。」
 古田「私がボケるまで、よろしく。どうも長時間ありがとうございました。」
 木村さんは、わたしに対して「もう、古田さん、ボケているよ。止(やめ)たら。」と言いたいのかもしれない。あるいは「森嶋説に従って、ボケる前に、止たら、どうか。」と勧告されているのかもしれない。とすれば、貴重な御勧告である。

    三

 あとで述べるように、わたしはその「御勧告」には、大賛成である。一刻も早く、そうしたい、と日夜願っている。すでに、八十歳も眼前に迫っているのだから。一切の「義務」から免除されて、文字通りの「晴耕雨読」に明け暮れたい。もっとも、「耕」など、できはしない。できるのは、否、わたしの生涯の中で、今最高に願っているいるのは、自己の頭を本気で「耕やす」ことだ。それ以外に、ない。
 この自明のことを前提とした上で、折角の御一文に答えて、わたしの中の「現在の心境」を率直に語らせていただくこととしよう。それが木村さんの御好意にこたえるべき、唯一の道だとわたしには思われるからである。

    四

 聞いてみた。わたしの講演のテープを。わたしは講演のたびに、テープを持って檀に登る。御承知の通りだ。うまくいかなっかたときは、主催者側のテープのダビングをお願いしたこともある。確か、木村さんにもお願いして、ビデオテープをいただいたことがあった。
 それは、第一に「盗用」問題に対する「そなえ」だった。わたしが何かを“しゃべる”。当然、わたしの「新しい発見」をふくんでいる。それを聞いた、あるいは“伝え聞いた”人が、その発見を「古田」の名前抜きで、書く。そうすると、「活字」上は、その「盗作」者の新発見となる。それが数ヶ月あと、その人の関係する「雑誌」なり、「単行本」に掲載される。ーーその後、一〜二年して、わたしの本に、その「新発見」が登場する。当然、わたし自身の「新発見」として。
 とすると、先の「活字」に書いた人が、“最初の発見者”となる。本当の発見者である、わたしの方が「盗作者」にされてしまう。喜劇だ。だが、わたしはすでに「親鸞研究」において、その種の“笑えぬ経験”をしていたのだった。古代史の世界でも、同じだ。わたしの「名」を書かずに、わたしの「説」を書く。そのような事例を「見た」方も、おそらくこの会誌の読者の中には、おられるのではないか。たとえば、聖徳太子関係の「著述一覧」にも、わたしの論文・著述は、ほとんど「カット」されているのであるから。
 そのような「不条理」に対する“予防策”の一つ、それがこの「テープ」収録だった。聞き直してみても、“幸い”にも、ボケた徴候はなかった。すなわち「不用意な重複」を見出すことは、ついにできなかったのである。

    五

 では、なぜ。木村さんは
 「古田先生は講演会等で同じ事を何度も言われる。聞いている方はまたかと思う。私自身は大切な事を何度も言われて良いと思う。でも程度が過ぎると嫌になる。」と書かれたのか。わたしの思い当たるところ、すなわち、講演における「わたしの立場」を列記してみよう。
 第一は、「処女出席者」問題だ。
 この二〜三年来、わたしは『トマスによる福音書』に熱中している。現在、世界に最大多数の出版が行われているという『バイブル』に反し、ここでは全く“面目を新たにした”イエスが語られている。
 わたしの史料批判の立場から見ると,この(A)(『トマスによる福音書』)の方が「原型」であり、現行『バイブル』の方が「改ざん型」だ。ーーそのように帰結されてきたのである。
 もっとも、それは「目下進行中」の研究だ。だが、のちにも詳述するように、わたしの講演は「出来上がった筈」ではなく、「目下進行中」の研究過程そのものを、“同時進行”的にお話する。それを特徴とし、自分の個性としている。
 問題は、次の点だ。その(A)は、講演の聴講者「周知」の書物ではない。わたし自身、偶然の“出会い”で、荒井献さん(東大名誉教授)の本にふれるまで、全く知らなかった。あの『死者の書』には、敗戦直後の時期の「発見」報道以来、深い関心をもちつづけていたわたしだったけれど、これは“未知の書物”だったのである。
 その一節々々を読みすすんだ。その結果、わたしがこの五十年間蓄積し、手にしていた「史料批判」の方法に拠る限り、わたしは自己の「直観」を疑うどころか、ますます「確信」を深めていったのである。
 そこで「同時進行」的に、これをお話したのだけれど、当然「一回」の講演では、最初のテーマをしめす、三・四の事例にとどまった。他に、日本古代史に関するテーマがあり、わたしにとっても聴講者にとっても、それを「欠く」わけにはいかなかった。
 さて、第二回目。前にお話したテーマを“はぶき”、その直後からはじめる。「立て前」としては、それでいい。しかし、“困る”のは、この第二回目に聴くのが“はじめて”の聴講者である。当然、この(A)の本のことなど、皆目知らない。それなのに、いきなり“途中”からでは“面くらう”だけなのだ。
 「途中からの参加者なんか、もぐりだ。ほっておけ。」
 そういう考え方もあろう。だが、わたしはそのような「考え方」には賛成できない。やはり、最低限、この本の“成り立ち”そしてそこに描かれている、青年イエスの面魂(つらだましい)のすばらしさについて、簡明にでもふれざるをえない。
 その点、実は、東京へ行った当座、「主催者」側から、常に“注意”を受けていた。
 「はじめて来た人も、かなりいると思いますから、その点、よろしく。」
そのご注文だった。言うなれば、「(聞く方の)ベテラン重視」か、それとも「(はじめての)処女聴講者への配慮」か。そのちがいである。わたしは常に後者を、よしとしてきたのである。
 この点、木村さんのような「ベテラン聴講者」の“ひんしゅく”を買ったようである。あるいは、東京に比べて、いささか「流動性の少ない」大阪という“土地がら”のせいも、あるいはあるのかもしれない。
 しかしわたしは、しばしば「はじめての者ですが、出さしていただいても、いいでしょうか。」という、御連絡を直接うけていた。それがわたしの念頭を去らなかったのである。
 わたしの“流儀”では、この「方式」を大切にしたい、と今も思っている。その「配慮」を忘れたとき、わたしは本当に“ボケ”はじめたのである。

    六

 第二は、先述の「同時進行」問題だ。
 かって、ある大家の講演を聞いたことがある。驚いた。率直に言えば、ガッカリした。すでに読んでいたその人の著書の内容と同じ。全く新味はなかったのである。けれども、考えてみれば、そこにその方の“流儀”があったのであろう。自分の「新説」はすべて、著書に書く。講演では、そんなものは一切言わない。「盗用」を防ぐための、その方なりの“自衛策”なのであろう。「道理」ある、一つの“手法”だ。
 だが、わたしは考えた末、そのような“手法”をとらなかった。異なった「方法」を採用したのである。右の大家も“真反対”の手法である。現在研究中、その真只中の「思考経過」を、そのまま聴衆にぶっつける。一緒に考えてもらうのである。多くの人々に聞いていただく。自分もテープにとって保存する。それをわたしの「盗用」予防策としたのである。
 もし誰かが「盗用」した場合、わたしにはテープがある。そして何より、多くの「証人」が存在するのである。
 もし、その「新しい発見」を受け入れ、あるいは「批判」して、さらに新しい研究を発展させてくれる方があれば、万々歳。大歓迎だ。研究の「耳から口へ」そして「耳から手へ」の進展だ。学問研究者の本望である。これがわたしの立場だ。採用した「方法」である。
 この場合、問題がある。研究は徐々に進行する。「A→Aダッシュ→A2ダッシュ・・・」という、論証の成立過程、次々にお話する。その場合、(A)と(Aダッシュ)と(A2ダッシュ)等、その「核」をなす、論証の“本体”は共通しているのである。従って、その「論証過程」ではなく、「論証結果」だけに「関心」をもっている聴講者には、「同じこと」をしゃべっている。そのように聞えてしまう。この問題である。
 その典型的なテーマ、それがこの二〜三年来の「磐井の乱、架空」問題だった。
 第一、記・紀で「磐井の乱」と言っているのは、「継体の乱」が正しい。(『失われた九州王朝』)
 第二、古事記の雄略記の「皇后求婚」の中の「日下部の、此方の山と(下略)」の歌は、何と九州の福岡県の「山門、神籠石」の麓、草壁(地名)における“防備兵”の歌からの「盗用」であった(浅野雄二氏、提起)。日本書紀のみならず、古事記も「造作」。“そこに書いてあるから、史実。”とは、到底言えなくなった。(「史料性格」の問題。)
 第三、従って「磐井の乱」も、“「記・紀、ともに記されているから、史実。”とは、全く言うことが出来ない。(同右)
 第四、さらに筑後国風土記の「磐井君」が決定的な、史料上の「証拠」と思われていたが、これが「七世紀末?八世紀初頭」の事件(石人、石馬破壊)を基とする記事からの“改変”であることが「発見」された。(史料批判)
 第五、従って「記・紀・風土記」の三つとも、「磐井の乱」を裏づける史料では、結局ありえないことが判明するに至った。
 第六、六世紀前半において、神籠石(の状況)や土器(の器型やデザイン)のしめすところ、考古学上の「一大変化」をしめすものが全く存在しない。権力者のシンボル(紋様など)にも、“九州型から近畿型への激変”の姿が一切観察されえないのである。
 第七、実は、記・紀(及び風土記)にとって「最大の造作」対象こそ、問題の「磐井の乱」の“記事”であった。(「九州王朝の否定」のための、究極の、キー・ワード)
 第八、すなわち、この、いわゆる「磐井の乱」は、これこそ架空の「造作」記事そのものである。
 第九、津田左右吉は、彼の「大和朝廷中心主義」から、この「磐井の乱」だけは「記・紀の造作」とは考えたくなかった。“はずし”たかった。それゆえ「造作の時期」を、六世紀の前半におき、それ以前を「大和の歴史官僚の造作」と称したのである。
 第十、しかし「記・紀、造作」の“共通の中心”は、まさにこの「磐井の乱」記事そのものにあった。
 以上だ。
 この十箇条は、決して一朝一夕に、わたしの中の「確信」となりえたのではない。読者の方々の疑問(口頭やお手紙)は、早くよりこの点に対する疑問がもっとも多かった。しかし、頑冥にして、わたしの頭脳は容易にこれを受け入れえずに来たのである。
 それがわたしの頭の中で“はじけた”のは、二〇〇三年の八月三十一日だった。ロシヤに出発する直前である。激変だった。わたしは日夜、これに関し、思索を“つめ”ていった。そしてその「思考過程」を、このたびの講演でお話した。それこそ「A→Aダッシュ→A2ダッシュ・・・」と、その都度、一歩、否、半歩づつ前進したのである。その話では、先述の理由(「処女聴講者」問題)をふくめ、最初の第一石から“くりかえ”した。それに対して「同じことをしゃべっている。」と、人あって難ぜられるなら、わたしは喜んでこれを受け入れよう。それがわたしという人間にとっての「固有の方法」であり、独自の「思考の論理」なのであるから。
 これほどの問題だ。まだまだ、この問題の真の「余波」、その発展は進展しつづける。わたしには今も、そう思われているのである。

    七

 第三は、「多回叙述」問題だ。
 親鸞の言説・著述は、「親鸞聖人全集」(十六巻)にまとめられている。その中には『教行信証』のような主著の漢文大著もあれば『愚禿鈔』や『浄土文類聚鈔』や『入出二門偈頌』のような、漢文、漢詞のもの、また『一念多念文意』や『尊号真像銘文』のような和文系。さらに和讚や書簡など、まちまちだ。だが、それらを日夜読み抜いてきた、わたしから見れば、みな「同じこと」しか、しゃべっていない。
 「善人でも、悪人でも、否、悪人であればこそ、アミダ仏を信じ通すことによって救われる。このことに、何一つ、例外はない。」と。その一事のみを、くりかえし、まきかえし語っている。書いているのであった。だからこそ、彼は、信頼するに値する。平安から鎌倉への変動の嵐や仏教界の思想変動にも動じない。弾圧にも、顔をそむけない。ただその一事を、さまざまの文体で、種々の場で、語り、また書いたのである。だから、わたしは彼を信じた。
 わたしも、同じだ。あるいは、親鸞。あるいは、倭人伝。あるいは、記・紀や風土記。また、バイブルと、対象は変り、語り、記す場所が変っても、わたしはいつも、たった一つの「同じこと」を語りつづける。考えている。それは、何か。
 「論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれが いかなるところへ至ろうとも。」
 かって岡田甫(はじめ)先生が黒板に大書された、ソクラテスの言葉(取意)。それを見、それを聞いた十六才の少年がいた。わたしだ。旧制広島高校の戦時中の授業である。爾来(じらい)、六十年。この一句を守り、これを金科玉条とし、老いても「同じこと」を語りつづけて倦(う)む日とてない。それがわたしだ。

    八

 わたしの好きな、親鸞の言葉がある。
 「ゐなかの人々の文字(もんじ)のこころもしらず、あさましき愚痴(ぐち)きわまりなきゆへに、やすくこゝろへさせむとて、おなじことをたびたびくりかへしくりかへしかきつけたり。こゝろあらむ人はおかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれどもおほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるものをこゝろえやすからむとはしろせるなり。」
 建長八歳(一二五六)の丙辰三月二十四日に「愚禿親鸞八十四歳」の著名で書かれている。『唯信抄文意』の書写本の末尾に、彼の自筆で書かれている(光徳寺本)。同じ文面が翌年(康元二歳)正月、八十五歳の親鸞によって書かれている(専修寺本)。更に同じ年、二月に『一念多念文意』の末尾にも、書きつけられていた。
 彼は同じ志を、『教行信証』の信巻序文においても、見事な漢文で書いた。
 「人倫(じんりん)の哢言(ろうげん)を恥ぢず。」
と。終生、彼は「同じ言葉」をくりかえしていたのである。

    九

 故、森嶋通夫さんも、実は、同じだった。
 二〇〇一年八月四日から九日まで、広島市で第五回平和市民会議が挙行された。森嶋さんはそのとき、招かれて特別講演を行われた。その題名は
 「国家主義から地球主義をめざして」だった。ときは、八月四日、ところは、広島国際会議場である。
 ところが、後日、その報告書作製のさい、“異変”が起きた。森嶋さんは「議事録のテープおこしの校閲」の作業をことわり、代ってその年は、岩波書店発行の雑誌『世界』十二月号に掲載された、御自分の論文「国家主義から地球主義に向って」の内容を以て、右の「議事録」に“代える”よう求められたのであった。
 広島市側は止(や)むをえず、これに従った。その結果、平成十四年(二〇〇三)三月三十一日に完成した報告者は、森嶋さんの「要求」通りの形をとっている。
 この点、広島市の「平和推進」担当の中村さんの証言であるが、わたしは後日、その“異変”の真相(と思われるもの)にふれた。
 森嶋さんは、過労のため、斃れられた。そのため、右の「作業」が不可能となられたようである。その病状は、森嶋さんの没後、奥様からお聞きすることができた。
 右のような次第からすれば、ことの“成り行き”は止むをえない。人間の健康に関することだからである。
 しかし、今の問題は、次の一点だ。
 「森嶋さんは、広島市の記念講演と岩波の『世界』と、両者ほぼ“同内容”のものを用意しておられた。」
 両者の題目の酷似からも、この一点は疑いえないところなのではあるまいか。
 森嶋さんとわたしとの対談でも、同じだった。それは一九九八年十一月十二日、関西学園都市の国際高等研究所において行われた(『新・古代学』第四集、収録)。
 その間、かなり長時間の対談だった。森嶋さんも、くつろいで、自由な雰囲気の中での会話がつづいた。その詳細は、右の雑誌のテープおこしで知られよう。
 だが、実のところ、森嶋さんの「語る」ところ、それはほとんどはすでにわたしの、お聞きしていた“内容”だった。最初は、京都の立命館大学の、狭い講師室。二人っ切りの数時間、森嶋さんは主に、自由に熱心に語り、またわたしの話を聞かれた。
 さらに後日、同じこの国際高等研究所で何回か、お会いした。いつの日も、共に語り、共に聞き、お互いは倦(う)むことがなかったのである。おそらく二人とも、「学問」に対する志を同じくしていたからであろう。森嶋さんは、ちょうど、亡くなったわたしの兄貴(孝夫)とほぼ同年であったから、二人の間の雰囲気は「兄貴分」と、その弟といった感じであった。
 だからわたしが、この対談の最後に、
 古田「最後にお願いがあるのですが、古田に対する、ご注意、お叱りはありませんか。」と求めたのに対し、森嶋さんの方からの発言の中に
 森嶋「(前略)それからね、非常に良く似た本は書くなと。書くなら全く違ったことを書けということやね。内容がある程度固まるまで出すな。それはね、あなたの場合と私等の方とはだいぶ違うけどね。」
 とあるのは、決してみずからを「是」とし、古田を「非」とする立場ではない。むしろ、みずからの陥りつつあった“危険な傾向”を「自省」し、「弟分」のわたしに対する“はなむけ”とされた。わたしはそう受け取ったのである。何しろ、当日の「お話」の大部分が、わたし自身にとっては「二度目」か、「三度目」のお話であったから、そのように受け取る以外に、受け取りようはなかったのである。
 これに対し、木村さんは書かれた。
 「対話の最後に古田先生が古田に対する、ご注意、お叱りを、聞いた。それに対し森嶋先生は率直に応えられた。私の見るところでは、古田先生はその後、その言を素直に受け入れられていると感じられない。ここが同類項の多い両先生間の、個性の違いだなーー、と私は思っている。」
 その直後、( )内の文章を「付記」し、「間違っているかもしれないが、」という前置きのもとに、
 「森嶋先生は非常によく似た本は書くな、書くなら全く違った事を書けと言われた。」として、先述の“古田に対する批判”へと至っておられる。
 森嶋さんにはじめて会われた木村さんは、おそらくそのような、御本人の“わたし(古田)”に対する、その将来に対する「思いやり」の眼射(まなざし)しに気づかなかったのかもしれない。てっきり、森嶋さんを以て「同じことを、二度と言わず、書かぬ」潔癖の士のごとく、“錯覚”され、その目を以て、「非」なる古田を打つ。 ーーそのような「事大主義」に陥られたのでなければ、幸いである。
 みずからの「権威」とするところを“ふりかざして”相手を打つ。これは、大家たちの下に属する人々の「好む」権威主義の姿勢によく似ているように見える。
 何とぞ、好漢、木村さんがそのような「弊(へい)」に陥られぬことを、心からこい願うものである。了(りょう)とせられたい。

    十

 残された、もっとも重要なテーマがある。親鸞思想の場合、その高き頂、その輝きは最晩年に現われた。八十六歳の親鸞である。
 「みだ佛は、自然(じねん)のやうをしらせむれう(料)なり。」
 阿弥陀仏というのは、ひっきょうして、大自然の姿(ありかた)をわたしたちに知らせるための道具(料)である。 ーーそう、親鸞はついに言い切ったのである。その付言として、孫弟子とも言うべき、若い顕智の一文がのせられている。
 「正嘉二歳(一二五八)戊午十二月日、善法坊僧都御坊(親鸞の弟)、三條とみのこうじ(富小路)の御坊にて、聖人にあいまいらせてのきゝがき(聞書)、そのとき顕智これをかくなり。」(『親鸞聖人全集』書簡編、五六ページ)
 至上とされる絶対者(阿弥陀仏)は、ひっきょう、人間に「大自然のありかた」を知らせるための「道具」(料)だ、というのだ。九十歳で死んだ彼の、四年前の言。関東から京へ上り、親鸞の言を、若い顕智が書き取った。人類の至宝とすべき一言だ。
 今まで、いかなる宗教家、聖人、賢者も、ここまで「言い抜いた」人を、わたしは知らない。親鸞自身も、彼の生涯の全著述の中に、この一言を記したことはない。
 八十六歳になり、すべての“思わく”、宗教や宗派、社会や国家、その一切への“はばかり”を捨て、ついにここまで「言う」ことができた。驚嘆せざるをえない。
 現在も、宗教や国家の“しがらみ”の中で、あえぎつづける人類にとって、その未来を照らす炬火、それがこの一語なのではあるまいか。
 おそらく、イエスやマホメット、日蓮や道元、そして釈迦のような、輝く巨星も、彼等に与えるに「九十歳」の歳月を以てしたならば、この親鸞の一語に「比肩」する、あるいはそれ以上の一語を、人類の指針として残したのかもしれぬ。残念だ。
 ともあれ、右がわたしの「見た」否、「聞いた」人間の晩年だ。その“すばらしさ”なのである。これに比し、森嶋さんはお気の毒だった。恩師の高田保馬教授が、晩年には“ボケ”て、森嶋さんが勧告に行かされたのだという。この「トラウマ」が、森嶋さんを“しばって”おられたのかもしれない。運命である。

    十一

 ともあれ、すでに言うべきことは言った。わたしは来年は八十歳を迎える。一昨年、顔疾を患ったけれども、幸いにも頭脳に損傷はなかった、それどころか、わたしの一生の中で、もっとも輝く日々を迎えている。朝に一知識を辿り、夕に一発見に遭う喜びのなかにいる。
 願わくは、森嶋さんのように、学会や講演のために、地球上を駆けめぐり、突然、その途中に斃れられた。その轍をわたしが踏まぬことこそ、「兄貴分」の御厚志に報いるべき唯一の道であると信ずる。奥様の瑤子さんも、わたしに対してそれを強く望まれた。森嶋さんの亡くなられた直後、ロンドンからのお電話だった。
 安らかに眠りたまえ。わたしは御志と御厚情を深く守り、もし運命の女神によって許されるならば、九十歳までの十余年、後生のために一臂でも役に立てれば、もはやこれに勝る喜びはありません。
 今後、あの世でお会いしたら、それこそ「時」を忘れて、思う存分、しゃべり合いましょう。今から、それが楽しみです。
   ×      ×
 木村さんの小エッセイを「れう」(手段)として、平常の、わたしの心事をのべさせていただくをえた。厚く感謝したい。


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