『新・古代学』 第4集 へ
王朝多元 ーー歴史像(古田武彦の古代史再発見第2回)
論文(古代史の未来、万葉の覚醒)


『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社

対談 虹の架け橋

ロンドンと京都の対話(ダイアローグ)

ロンドン大学名誉教授  森嶋 通夫
元昭和薬科大学教授  古田 武彦


古田:それでは先生のお時間は、お夕食の時間までとしてお願い出来ますか。

森嶋
:わたしは、全くの素人だから、そんなに話がもたないよ。古田さんを応援しようというメンバーはどのくらいなのですか。

水野
:全国で七百人ぐらいなのでしょうか。

森嶋
:すごいなあ。わたしも、古田さんの本を読み続けて、『「邪馬台国」はなかった』の朝日新聞の本からはじまって、おもしろいから次々と読んできたが、大体において古田さんのいわれることは賛成なんですがね、マァある意味で当然だと思うんですが、非常に限られた史料で、ロジカルに考えていって結論をだす、資料不足の領域ですからね、もっともっと別のアプローチもあるような気はするんですが、与えられた文献史料から結論を出すというやり方の限りでは、古田さんのやり方は完璧で論理的であると思うんです。

巻頭対談 虹の架け橋 森嶋通夫・古田武彦 『新・古代学』第4集

 スコットランドの人々

 そもそも、私が古田史学に興味をもったのは、マードック(1)というイギリス人、この人はスコットランドの人で、その頃スコットランド人が日本へ沢山やって来たのですが、日本歴史の研究で先進的な役割を果たしたと考えるからなのです。スコットランドといえば、例えば、経済学者のリカードを育てあげたのはジェイムス・ミルというスコットランドの人ですが、牧師で、リカードに「あなたの経済学はよい経済学だから本を書きなさい」といって勧め、リカードは「自分は小学校だけで仕事ばかりしていたから、そんな、本など書けるかずがない」と躊躇していたが、「そういうことでどうするか」と尻をたたいて、リカードに本を書かせた訳ですね。その時代の経済学は一人で勉強していくという職業ではなくて、たいがい組を組んいた。ミルとリカード、マルクスとエンゲルスというふうに。マルクスの場合は哲学の出身で、ドイツの哲学の学者になりたいという念願であった。ところがエンゲルスによって、これからは経済学の時代だから経済学をやりなさいといわれた。始めのうちは、マルクスはエンゲルスの方が年が下だから、この若造なにをいうかと、マルクスは高飛車にでていたのです。だけど、マルクスがある意味でドイツから追放処分をうけて苦しんでいたときに、エンゲルスは「助けてあげるから自分のところへ来なさい」といった訳ですね。エンゲルスの父は金持ちで、商売を手広くやっていた。エンゲルス自身は父のマンチェスターの店を引き受けていたのです。ですから、マルクスが研究するぐらいのお金は出してあげるから、「その代わり自分のいうように勉強しなさい」、「それは哲学ではないんだ」、「イギリスで起こりつつあるポリティカル・エコノミーを勉強しなさい」と言うたのですね。マルクス経済学は、エンゲルスがマルクスにそうさせてできあがったのであって、エンゲルスがお金の面でも、研究課題の面でも、司令部の役割をした訳です。
 ミルの場合でも司令部の役割をしたのです。ただ、ミルとリカードの場合は他人を動かした目的が何であったのか。エンゲルスの目的はマルクス・エンゲルス主義を作ることが目的で、これが将来の世界の学問なのだと考えていたのですが、しかしエンゲルスは自分自身ではそれが出来ないので、もう一人自分の上に立つ大スターが要る。マルクスこそスター性をもっているが、自分にはスターになる資格はない。エンゲルスにしてみれば自分が一番バッターとすれば、四番バッターが欲しい、マルクスは四番バッターなんだ、自分は常に第四バイヨリニストであるとしたのです。こうしてマルクス・エンゲルス主義は生まれ、大流行して目的を達して、大成功したのです。お金の出し甲斐があった。エンゲルスにしてみれば二十年から三十年、マルクスの生活費の面倒をみたが、それは安いものであったのです。
 ところがミルの場合の目的は何なのだろう。ミルに自分の主義主張があった訳ではない。私の考えではね、ミルの場合は自分の子供を教育するためであったと思われるのです。目的は子供のジョン・スチュアート・ミルを大学者にすることが目的で ・・・非常によくできる子供であって、早期教育をしたら飛んでもない学者になるに違いない・・・ そのためには、試作品としてリカードを操作してやろうと思ったのではないかと思う訳です。ある意味でこれは成功したのではないかと思われます。現代の経済学者は、ミルを必ずしも高く評価していないのですが、しかしこれくらい整った経済学者はいないと評価されていますよ。それだけでなく、哲学や論理学など、何もかもやれるオール・ラウンダーとしてミルを作り上げたということは、父のミルの早期教育であって、これがなかったら、このようにはなれなかったでしょう。ところが、「リカードの経済学をおまえやってみろ」とミルは父にいわれ、十五〜十六歳でリカード経済学を既にマスターしていたのです。リカードの経済学は難解と思うですが ・・・私らは他の経済学を勉強してリカードを読むので、そこに難しさもあるのですが・・・ それでも十五〜六歳で理解したといのですから、今なら三十歳で理解したとしても大した学者ですから、大変なものです。ということで、そういう早期教育をやったらどんな人間ができるかという実験には大成功した。ものすごくスケールの大きい人が出来るということですが、これは親のいうことであって、子供のジョン・スチュアート・ミルはヘタヘタになり、すっかりのびてしまって、二十二〜二十三歳頃になったら、もうやる気も、また生きて行く気力すらもなくなり、ガタガタになってしまった。早期教育をやったらそういう事態が起こってくるという、非常にいい実験例として、プラスの面もマイナスの面もきっちりでている訳。ところがジョン・スチュアート・ミルが立ち直ったのは七歳も年上の女性 ・・・結婚していた女性で、ミル自伝を読めば分かるのですが・・・ と知り合いとなり、その女の人が救いになった。それこそ、若いのに恋愛も女性も何にもなしで、リカードの経済学を勉強させられ、そういう事態のくるのは当然だと思うのですが、その女の人と最後には結婚する訳ですが、それでようやくうまくいったのですけどね。

〈注〉
(1) マードック:イギリスの日本研究者。新聞記者として苦力問題調査のため中国に渡り、一八八九年(明治二十二)来日、一高・四高・七高に教鞭をとる。著『日本歴史』

 

 幕末から明治にかけて活躍したグラバーもスコットランド人

 私の言いたかったことは、この当時スコットランドには非常に変った人がいて、実行力がすごく大きく、イングランドよりもスコットランドの時代があったということです。こういうスコットランドの人々が海外へ、ばあっ!と出て行ったのです。日本にも来た訳です。長崎で成功したグラバー商会のグラバーはスコットランド人なのね。
 グラバーは最後は破産したといわれていますが、破産ではなく、会社を売った訳。グラバーの目的は産業資本家になりたいということであったのです。産業資本は巨大なお金がいりますから、初めは商業資本家になった訳です。上海のイギリス系の会社からお金を借りてきて、そして商売をやって、グラバー商会ということで大儲けしたが、彼の終生の目的は産業資本家になることであって、日本で近代工業を作るというのが彼の目的であった。そのお金が欲しいと上海の銀行にアプローチしたら、「あなた程度の人には貸せません」といわれ、お金が調達できなかったので、彼はこのアイデアを諦めてグラバー商会を売ってしまったのです。そして明治の初めに三菱の顧問になり、三菱が大産業資本家として成功していく背後で、これを操っていた訳です。そこが、グラバーのもの凄う偉いところなのです。そういう仕事をやりたいということであって、お金を儲けることが目的ではない。三菱の背後にいて、その仕事が成功したら、「ああ!おれのアイデアは間違いではなかった」ということなのです。日本では、彼は破産したのだといわれていますが、そうではないのです。
 明治維新を成功させたのはグラバーではなかったであろうか、とよく言われています。伊藤博文とか薩摩の人とかは、皆、グラバーのところに行ってお金を借りてロンドンに行った。そうすることで西欧のことをよく分かった明治維新の志士たちを養成したということが一つ、それから、明治維新が成功したことは近代武器を薩長が持っていたことです。この近代武器を買い付けるお金をやったということなのね。「防長史談会」がグラバーを呼んで、明治維新についてのグラバーの役割を聞かせてほしいと聞いたところ、自分は知りません、そういうことは自分にはどうでもよいことなのですといって、グラバーは逃げてしまったのです。どこまで関与していたかは分らないけれど、相当そういうことにコミットしていたことは間違いない。グラバーは日本女性と結婚して、その家は「倉場(くらば)」という苗字になった訳ですが、彼の孫でしょうか、長崎に原爆が落ちたあと、私財を長崎に寄付をしたというのですから、グラバーの子孫もグラバーと同じようなスピリットをもった人だったのでしょう。

 

 マードックの日本歴史の研究の方法

 マードックという人もスコットランドの大学をでた人で ・・・イギリスという国の大学はケンブリッジ、オックスフォードが非常に古く、鎌倉時代あるいはそれ以前からある訳ですが、この二つだけで他は何も発展がなかったのです。ところが、スコットランドには十五〜十六世紀中には大学がちょこちょこできていたわけね。イングランドでは、徳川末期に三番目としてダラモンの大学が、 四番目にロンドン大学ができたのです。ダラモン大学から二十年ぐらいしてからロンドン大学ができるのですが、だからロンドン大学と日本の大学とは作られた時代で見るとほとんど変わらないのです。ケンブリッジ・オックスフォード以降の長い期間、それはガランドウなのです。ところがスコットランドはその間に大学を作っていた訳です。マードックはアバディーンの大学を出て、彼は古典学の先生となりたかった。そこでオックスフォードにきたが、スコットランドで習っていたことと一緒だから、こんな大学にいても仕方がないとすぐやめて、ドイツに行った。ドイツで勉強してそれからフランスに行った。そうしているうちにオーストラリアの高等学校の校長さんのポジションがあいて、そこを取ったのです。イギリスでは校長と普通の教師の間には、もの凄い給料の開きがある訳で、大学でも普通の教授と学長との間では、何倍という給与の違いがあるのです。彼はオーストラリアに行くことになった。この途中で ・・・船に乗って行ったわけ・・・ 中国人が虐待される貧しい姿を見て、中国に興味をもち、ぜひ中国に行ってみたいと思い、行って見て、その後日本にやってきて、一高の先生になったのです。このとき夏目漱石を教えた訳。漱石は朝早くからマードックの家に行って、いろんな質問をして、外国人がどんな朝ごはんを食べるのかから、学んだのです。ある意味で、彼は強引な学生であった訳です。この日本の最初の滞在中にマードックは日本研究に興味を持ち始めたのです。しかしマードックは同時に理想主義者で、社会主義運動 ・・・マルクスのいう空想社会主義というようなもの・・・ にのめり込んだ訳で、南アメリカの階級などない理想村の建設に参画し、行ってみたら理想村ではなくて、けったいなことであったのでしょう、そこをやめてイギリスに帰った。そして後日、また日本にやって来たのです。日本を知るためにはどうすればよいか、それはオランダに行って史料を集めればよい、それからバチカンに行って宣教師などのバチカンへの報告を読むべきだということで、そういうところのものを全部集めた史料をもって日本に帰って来た訳です。これが彼の日本歴史研究の始まりであったのです。しかし彼は日本語を知らないので、外国と交渉した足利末期から戦国時代の史料を集めて、日本研究を始めた。そのうちに彼は日本語が読めるよになり研究を広めて行ったのです。こういうやり方を彼が思いついたのは、古典学の学者として語学に非常に堪能な人で、オランダ・バチカンの史料を読みこなしたのですが、これが日本中世史の始まりなのね。これが日本語の本となって出たのですが、これだけでは日本歴史の途中の部分だけですから、これを(第)二巻として、その前を一巻、その後の江戸時代を三巻、そして自分が見ている明治の現代を四巻として、四巻本の日本の歴史書を彼は構想したのです。二巻が出て、彼は鹿児島の七高に行き、日本人と結婚し、研究を続けてたわけですがね。そのころ夏目漱石が博士号の辞退で全国に名前を売った。かっては自分の教えた学生であったので、自分の「日本歴史」の書評を書いてほしいと彼に頼んだ。そして第一巻を送ったのですが、第一巻の最初は第二巻の蒸し直しであって、それは日本歴史を外からの材料で見なくてはならないという考えを主張しているのです。古代日本には文字がなく記録もないのですから、文字のある国の中国・韓国の歴史を調べて、そのなかに現れている「日本」はどういう国であったかということから研究を始めなければいけない。だから古代の東アジアでの国際関係から日本を割り出していかねばならないということを、第一巻の突端から書いているのです。本を数頁めくると地図があってね、ここに百済があって新羅があるというような関係で、日本というものを解き起こして、倭の五王とは何なのか、とかというようなところにいっている訳です。
 マードックのアプローチと古田さんのアプローチとは非常によく似ているということで、同じもんやとも言える訳です。マードックの場合は明治の四十年ぐらいの仕事ですから古いし、結論は違うが、「外から日本を見ることが必要だ」と言いたかった訳です。
 ところが、夏目漱石はその本を送られたが、読まなかったと思われるのです。読まずに、マードックという自分の昔の先生がどうしてこんなに日本に興味を持つのだろうか、おそらく三十年前には世界の中で何にも知られていなかった小さな国が、いまではロシアを破るような国に発展したことに驚いて興味をもって論じたのではなかろうか、という書評を書いているのです。これは全然、的外れもはなはだしい。
 第二巻は明らかに日露戦争の前の、日清戦争の前に書いてる訳で、日本が大成功したから興味を持ったなどということと、全然、違うのです。漱石のマードック論というのは、マードックさんが偉いということではなくて、漱石が如何に変な男であったか ・・・私は漱石が大好きで、「博士号を辞退した。何という気骨のある男よ」と思っていたのですが・・・ 漱石には変な癖があって、「嫌みな男だ」ということでね、岩波の『図書』にこのことを書いたのです。というのも、岩波は漱石一点張りだからね。「お宅の尊敬している漱石にはこういう欠点がありますよ」と書いたのですがね。

 

 古田史学のロジカルな魅力

 さて、古田さんの本はね、私は、多くは感激して、何とロジカルに考える人がいるもんか、ということを思いながら読んでいったのですが、そこで古田さんのいうたことを全部アクセプトしたとして、私たちが戦前に習った日本歴史と比較してみたら、どこが違うかと言うとね、古田さんは、『古事記』や『日本書紀』にいろんな誤認や勝手な作り話はあるけれども、神武東征は正しい。それ以前の神話も神話としては正しい。で、具合いの悪い点は、九州王朝を認めていないことであるということでしょう。確かに、戦前の教科書では九州王朝らしきものは教えられていなかった。ところが、戦後の津田史学は神武東征などは、神話のなかに入れてしまい、論外として取り退けてしまって、あるところから歴史を始める。ということは、戦前の史学と津田史学と古田史学と三つ合わせて考えたら、古田史学というのは戦前史学に非常によく似ている。ただ違うのは、そこへ、この、突き出しに倭の王朝・九州王朝をつけて、「九州王朝からの分派として、大和王朝ができた」というところが違う。これは私の解釈ですが、この解釈が正しいとすると、張り出している九州王朝から大和王朝ができたんだけれど、自分たちは大和王朝の立場から歴史を書くことになったので、つけたしだから九州王朝は消してしまえばよいと、そういう態度をとれば、全然、いわゆる戦前の歴史と変わらないのではないか。こう思う訳なんですがね。そこで九州王朝は、よその家の話ですから「そこまでは言いません」と見てしまうか。例えば日本歴史をやっているときは、中国のことは他所のことだから伏せて置きますという態度をとるのと似ています。いや、そうではない九州は日本の中なのだから九州王朝から出てきたものが大和王朝に移ったことを協調するのが日本歴史であるとするのか。いずれにしてもほとんどよく似ていると見た場合、あんまり変わらないのではないかという気がする。もちろん津田史学もそういうところは消しているから、この三つは推古天皇以後においては全く同じことになるのではないか。

 

 大和古王朝と大和新王朝と継体天皇

 ですから、私が自分なりに勝手に作った話として、それはね、大和古王朝と大和新王朝とがあって、大和古王朝というのが神武天皇から継体天皇の前までで、そこでスチーム・エンジンが切れてしまって、そこで消滅した。その後にでてきたのは大和新王朝であったという風に分ける。そうすると今の天皇の立場からいうと、神武天皇以降はよそさんのことであって、継体天皇以降は本当に自分たちの日本の天皇家の元祖であるというべきなんだけれども、それをいうたら具合いが悪いから、自分たちは知ってるけれど、知らない振りをしているのではなかろうかと思う訳。とすると継体天皇の問題が日本歴史の上でいちばん中心問題となるのではないか。継体天皇の問題を取り上げた歴史の本を読んだこともいくつかあるが、熱狂させるほどのロジックがないのです。古田さんの場合は熱狂させるほどのロジックがあったから、次々と読んだのです。しかし、継体天皇のお墓は何処であるとか、古墳の大きさを比較するというようなことでは、あまり熱狂しないのです。だから、そこは無知に近い訳ですけれど、お前自身はどう思うのかといわれたら、継体天皇は恐らく韓国から来たのではないかと思うんですがね。結局、九州・出雲と韓国とは密接であった、そして若狭と韓国も密接であったでしょうから、韓国と継体天皇の福井なんかも密接であろうという風に考えるのです。古王朝の最後は大和にあったから、新王朝も奈良を取れということでね、中国で洛陽を目指してやってくるように、苦心惨憺して奈良へいったけれども、北への指向が強くて、そこから長岡京にいって近江にいって、北のふるさとへの指向をとり、四道将軍などを北陸へやるということになっていく。この点、継体天皇について、古田さんにお聞きしたいのです。

古田:マードックの問題に関連して、今の継体の問題まで来たのですが、おっしゃる通り、近畿天皇家自身に対していえば、継体天皇がはじまりであるということはできると思います。その場合、継体以降の近畿天皇家が日本の中心の王者になったかというと、そうではなくして、継体は六世紀の前半ですが、七世紀の前半の「日出ずる処の天子」は継体の方ではなくて九州王朝の方なんです。近畿天皇家が中心の王者になったのは七〇一年からで、則天武后の承認を得て、日本列島の西側三分の二くらいの地域での、東アジアで押しも押されぬ王者になるのです。そして、この中心の王者となった近畿天皇家のもとを尋ねれば、継体であったと思われるのです。

森嶋
:そこでね、応神天皇五世の孫と、一応繋がっているようになっているが、応神天皇の何代の孫以降からは子孫ではなくて、その人民の側になるか、例えば清和源氏というように、継体天皇も人民の側と見なされるのか、五代の孫と書いてあることがインチキであって、全然無関係のものであるのか、その辺はどうなの。

古田
:その時代に五代の孫などといっても、本当かどうかは分かりません。ですから、本人がそう称していたということだけは分かる訳ですが、しかし天皇家の中心の血筋でなかったことは間違いがない。そこに天皇家と関りのある女性がいたとか、血縁が何かあったというような程度のことであって、王朝が続いているというものではないですよね。

森嶋
:スチーム・エンジンが切れてしまった時、この古王朝の最後に、どれだけ内乱とか、そういうことが起こっているの。

古田
: 武烈天皇のところで、すざましい内乱と対立があったと思いますね。

森嶋
: 武烈は子供がないから駄目になったことになっているが・・・・。

古田
:『書紀』は武烈を糞味噌にやっつけています。異常性格・異常性欲の持ち主、残虐趣味の持ち主として描かれていて、これでもか、これでもかと悪態をつかれていますが、それは、逆にあそこで継体が継いでいることが「社会的に承認され得ないことであった」ということの逆表現と解釈できます。社会的に承認されないことを何故やったかというと、武烈がこれだけ悪かったからという異常性を強調して、そこに正当化の論理を持ってこなくてはならないほど、継体が王朝を始めることは世間の常識に反していたからでしょう。もう一つは『古事記』が武烈のところで、終わっていますが、それ以後伝承がない訳です。あそこまでは語り部がおったと思われるのですが、それ以後は語り部が殺されてしまって、語り部は存在しなくなったので、『古事記』は断絶せざるをえなかった。

 

 『古事記』序文の焚書坑儒

 そのことは『古事記』の序文自身に書かれています。といいますのは、太安万侶が書いた序文ですけれど、あそこで、中国の『尚書正義』という唐代にできた本を下敷きに書いているわけです。この『尚書正義』には、中国の秦の始皇帝の焚書坑儒によって書物が焼かれ学者が生き埋めにされ、それまでの書物がなくなり、伝承が失われてしまったので、漢になって歴史を復興しようとしたとき困ってしまったのですが、伏生という一人の老人 ・・・この人は物を聞いたらすぐ覚え、見たらすぐ覚えるという『古事記』序文の稗田阿礼と同じような記憶力のよい人物・・・ を発見し、この人の覚えていた以前の伝承を学者に書き取らせたといういきさつが書かれているのです。この『尚書正義』という本のストーリーと文章と単語をそっくり持って来て『古事記』の序文は作っているので、あそこで今までの伝承は滅びてしまったので、記憶力のよい青年の稗田阿礼をつれてきて、これに覚えさせた、そしてこれを太安万侶が書き取ったとあるのですが、このくだりは『尚書正義』に書いてあるいきさつとそっくりなのです。年齢が違うという違いはありますが、話の下敷きは明らかにこの『尚書正義』だと分る形となっているのです。ところがこの両者に違いがあるのです。それは中国側では物覚えのよい老人を探しだしてきて語らせて、学者に書き取らせた理由は、「焚書坑儒であった」ことをはっきりと特別大書しているのです。『古事記』の場合は何であそこで断絶したのか、武烈のところで断絶したのか、その理由はまったく書いてないのです。それを書かないままで、何故かそのままでは困るので、記憶のよい青年を探して来て、覚えさせて書き取らせたというくだりだけを見せている訳です。
 ということは、つまり、太安万侶が言いたくて言えないでいるのは、日本で焚書坑儒の事件があったのだ、これに匹敵するような伝承の断絶の事件があったのだ、そのためにこういう手段をとらざるを得なくなったんだということを太安万侶はいっているのです。ということは武烈のところまでは伝承が続いていたが、そこで語り部を殺し、関係者を生き埋めにするとか、書物もあったのですが、そういうものも焼き捨てる、そういう秦の始皇帝がやったと匹敵するような抹殺行為を継体天皇はやったと、そう太安万侶は書けない訳ですから ・・・中国なら書き得ますが、日本では王朝が続いていますから書けません ・・・明らかにそこにエアー・ポケットがあったことが、今回の『古事記』を作るようになった背景であると述べているのです。
 ですから、先生が今おっしゃいましたように、大きな大きな断絶があったこと ・・・それは、子供がないというような単純なことではなく・・・ 関係者が皆殺しにされたというような事件があったと思われるのです。そういう非常手段による新王朝の出発であったために、武烈天皇を『日本書紀』では徹底的に悪者に仕立て上げたということになると思います。継体天皇が朝鮮系という可能性はありますが、それは分かりませんので、分からない出所不明の豪族で、乱世の雄でしょうが、それが福井の方から出て来て、結局・・・・

 

 顕宗・仁賢天皇もおかしくないか

森嶋:そこでね、『日本書紀』でも『古事記』でも、あの段階で不自然と思うのは、顕宗・仁賢の二人の天皇を見つけた時に、大伴金村か何か(山部連伊豫来目部小楯[『紀』])が 行って、「なるほど貴方がたは、たしなみも非常によく、よい家の出身の方だと思いますが、どうですか」と聞いたら、実は天皇の子だというのです、そしてそれでは奈良に帰ってくださいという説話ですね。いかに古代とは言え、そんなに簡単なことで、天皇が決まるのか、ウソをついているかもしれない。そういうのが一つあって、次にまた、大伴金村が行って、継体天皇が「行きましょう」ということになって、大和に来る訳です。だから、このように皆が天皇探しをやるということは、前の顕宗・仁賢を書くことによって、継体の時にそういうことがあったのは決して例外ではない、その当時のしきたりなんだ、といわんばっかりにその前に書いているのです。ここが物凄く不自然だという風に考えたら、顕宗・仁賢の頃、既に跡継ぎがいない状態になっていたのではないか。  

古田:おっしゃる通り、一夜にして起こったことではないでしょうからね。

森嶋:そういう意味では武烈は気の毒や。

古田:それはその通りで、書かれ損で、何も反論できない訳ですから。では、今おっしゃたことを、私の方からまとめて申しあげますと、戦前の皇国史観は『古事記』『日本書紀』を基本的には歴史事実とみなした訳です。次に戦前に生まれたのですが、戦後に一般化した津田史学は、これもある意味では『古事記』『日本書紀』の描いている構想をそのまま基本的な歴史事実とみた訳ですが、個々の話は信用できないとし、しかし個々の話の中に出てくる単語や官職・役職は皆近畿天皇家に関することなんだと、学者が勝手にあっちこっちから拾って来て、天皇家一元という樹木に果実をくっつけるような形で、戦後の歴史を作ってきた訳です。その場合中国の歴史書は参考にはされるが、本気で中国の歴史書がいわんとすることを扱ったようにはみえないのです。それに対して、私の方は、マードックが目をつけましたように、中国はすぐそばにあって、古くから文字を知った国であり、幸いなことに、日本列島のことを各時代において書いてくれている。向こうはある意味で殆ど利害がなく、誰が日本列島の中の王朝であろうと、分家であろうと、関係がないのですから、そういう利害のないところで記録されたものを基本的に受け入れていくべきではないか、逆にそれを受け入れたなかで『古事記』『日本書紀』に述べられたところを、いわゆる批判的に処理して行き、採択できるものがあれば採択していくという立場に立つべきではないか、ということです。

 

 中国の日本学の教授と日本史の見方で完全に意見が一致

 これは実は、以前に中国へ行きましてね、中国の日本学の教授とお会いして話したことがあるのですが、そうしたら全く意見が一致するのです。日本では経験できないことで、筆談を交えてのことですが、全く一致するんです。ところが、中国の一般の人は不思議に思わないのです。というのは、中国の一般のインテリはいわゆる二十四史という歴代の歴史書を読む訳ですが、そこに書かれている日本像を日本のことだと思って理解している訳です。ですから、何も矛盾を感じないのです。北京大学の日本学の専門の教授は、不幸なことにというか、『古事記』『日本書紀』を読む訳です。そしてそこに描かれていものは、自分たちの常識となっている日本像とは全く違う像をみる訳なのです。これはおかしいのではないか、と日本から来た学者に何回も言ったのですが、誰も相手にしてくれないのです。もっとも日本の学者ですから、丁重に応答はするんですが何にも受け入れてくれない。「そういう見方もありますね」と言うようなことでお仕舞いになる。ところが私と話したら、見方が基本的に一致して行くんです。本当に先方も喜び、私も喜びました。握手してお別れした経験がありますが、これは中国の人が日本のものを読みだしたら同じような問題にぶつかるのではないか。中だけでやっているから、中だけで済んでいるです。

 

 倭の訓読をチクシとした倭の証明

 特に最近簡単な証明の仕方に気がつきました。後漢の光武帝からもらった志賀島の金印がありますが、あそこに「委」という文字があり、ニンベンはないが、「倭」と理解されています。「委」という文字は、wiという発音のようですが、現在の通説では、「漢のワのナの国王」と、三宅米吉という学者の意見に従って読んでいる訳です。私は「漢のいどの国王」と読んで、後漢の光武帝の終生のライバルであった「匈奴」に対して、「委奴」は遠くからよしみを通じて礼をもって心服してきた「委」であって、柔順な部族という意味で、「いどの国王」と読んだと思います。いずれにしましても、現在の金印に、「委」=倭があることは間違いないことです。この「倭」を日本語で読んだらどう読むか、後々の常識では「倭」を「ヤマト」と読みますが、あれをどうみても「ヤマト」とは読めない。博多湾の志賀島から出ていますから、これに和訓をつければ、「ツクシ」あるいは現地音では「チクシ」と読まざるを得ないでしょう。ほかの吉備とか愛媛と読む人はいませんから、「チクシ」か「ヤマト」かのどっちかというと、「倭」は明らかに「チクシ」という意味で使われています。これが一番の基本なのです。
 次いで、斑固によって『漢書』が作られますが、後漢の始めに、光武帝が倭国に金印を授与した時、彼は洛陽の太学 ・・・オックスフォードなどより遥かに古い大学・・・ の学生でした。金印は、倭国から使いがきた時、夷蛮の地から我が後漢王朝を慕ってやって来たという天子のコマーシャル行為として、沢山の人々の前で渡される訳です。この斑固が『漢書』を作り「楽浪海中に倭人あり」と日本のどの教科書にも書かれる、あの“せりふ”を書いた訳です。この倭人は当然、後漢の光武帝が「委」といった倭人ですから、この金印の解説の位置を占めるのが、後漢の官人の斑固の「楽浪海中に倭人あり」の言葉であったということです。そしてこれは「楽浪海中にチクシ人あり」という意味なのです。
 次いで、陳寿によって『三国志』の『魏志倭人伝』ができます。あれも、何故「倭伝」とか「倭国伝」にいわずに、「倭人伝」なのか、さまざまな論議がなされています。私の見解では、『漢書』には「楽浪海中倭人あり」と書くのみで倭人の詳しい説明はないので、その倭人の詳しい伝をここに書いたというのが『三国志』の『魏志倭人伝』なのであり、展開であるということです。こうすると、あの「倭人伝」というのは「チクシ人伝」と読まねばならない。倭国とあるのは「チクシ国」と読まねばならない。倭国の女王卑弥呼は「チクシ国の女王」卑弥呼とよまなければなません。それは、いまの金印が博多湾岸の志賀島から出てきたからであり、それは博多湾岸近辺の王者のものですから、卑弥呼も博多湾岸周辺の王者にならざるをえません。これで、「邪馬台国」 は何処にあったかという答えが出たようなものなのです。
 さらに次に、『宋書』に行きますね。倭の五王の使者が来た。この倭について、今までの倭とは違うのだよとか、東に移ったよとか、全然書いていないのです。『宋書』の倭の五王は「チクシの五王」と読まねばならない。次の『隋書』を後回しにして、『旧唐書』に行きます。あすこに倭国伝と日本伝があります。倭国伝は金印以来の国だと書いています。その倭国伝は「チクシ国伝」と読まねばならない。日本伝は七〇一以降のヤマトの方ですね。このようにすると、私のいう九州王朝説は倭の読み方一つで決まってしまいます。
 次に省略しました『隋書』には「イ妥(たい)国伝」とあるのですが、これは「日出ずる処の天子」の多利思北孤が自分でつけた国号だと思うのです。倭国とは中国側がつけたものですが、「日出ずる処の天子」は自分も天子であると言いだしたのですから、天子と言いながらよその人がつけてくれた国号を使っているようでは、自主性がないというか、コケンにかかわるというか、こう考えたと思うんですが、そこで「たい国」という自前の国号をつけたと思われるのです。国書を送っていますから、何故そんな国号を使ったかは推定ですが、「大」きいという字に「委」の字で「たいい」の字を一字にまとめて、「イ妥」にしたのではないでしょうか。中国の国号は一字がその伝統ですから、それに従って「たい」という国号を作って国書をやったのでしょう。そして中国側の唐は不快だと言いながら、チャントこれを記録している訳ですが、『旧唐書』になると白村江以後でイ妥国を叩いた後ですから、倭国と書いたのです。『隋書』はイ妥国が叩かれることを暗示しているようなもので、中国はイ妥国が天子を名乗ることを許すはずがないのであって、自前の「たい国」とか「日出ずる国の天子」とかは消して、もと通りの倭国伝にしたということです。このことは、日本思想史学会で、申しあげたのですが、反論も質問もなしということでした。

 

 古田説は困る・・・それは矛盾がないから困る

 話は飛びますが、一九八〇年の六月十四日に東北大学で日本文芸研究会がありまして、講演を依頼されましてね、「『日本書紀』の史料批判」という題名で行いました。この中で、『古事記』『日本書紀』と『隋書』が違っている。聖徳太子が「遣隋使を送った」と明治以降の教科書は必ず書いているが、『日本書紀』はそんなことは書いてない。使を送った先は、「唐」か「大唐」が百%であり、隋は一回でて来ますが別のケースです。「隋の煬帝」が高句麗と戦って負けて捕虜を沢山だし、その捕虜を高句麗が日本側に送って来たという記事のときです。これ以外に『日本書紀』には隋という言葉は出てこない。推古天皇・聖徳太子が国交をおこなった相手は唐であり大唐なのです。つまり、隋という言葉は別に使っているのですから、隋のことを唐とか大唐とかいうとは考えられない。推古天皇が送った使者は唐にであって隋にではないと、遣隋使の問題を、その年代の問題を含めて論じたのです。そしてこの夜に懇親会があって、その会場へ行くタクシーで先輩の原田隆吉さんが、あるかた(東北大の日本史学の主任教授の関晃氏のこと)と一緒になり、古田氏の講演はどうですかと質問したところ、「あれは困りますね」といわれた。そこで「先生からみるとやはりいろいろと矛盾がありますか」というと、「いや、それがないから困るんです」といわれたというのです。印象的だった。この方は、「大化改新の研究」とか、いろんな専門書をだしておられる方ですが、この方が一番困るのは、古田の説に矛盾がないから困るのだと言われたというのです。あとで、お聞きして、私としては印象的であったのです。倭の「チクシ」の問題も、矛盾がなくて突っ込みにくかったのかなあ、と思っているのですが。
森嶋:私のいう大和新王朝と大和古王朝ですが、倭国はその両方に跨がってる訳でしょ。倭国がまだ健在な時代に、大和王朝は「古」から「新」に変わってる訳ですが、この場合、倭国の方にその記録があるのですか、ないのですか。

古田:それは神武以前のところは、即ち神代の天孫降臨から神武までのところですが、非常にリアルであると、私は考えています。何故リアルかというと、そこは九州王朝の記載をそのまま転載しているからリアルなのです。天孫降臨からニニギノミコトのところまでは九州王朝の歴史なのです。

森嶋:九州王朝もそういう神話をもっておった・・・・

古田:そうです。分家ですから、本家の神話をもってきたといってもいい訳です。但し、神武東遷という言葉を使う人がいますが、これは正しくないのであって、遷は遷都の意味であり、都を移したことなり、神武が九州においても中心の王者であったことになります。戦前の史学はそうであって、日本列島の中心にあった大和に「都をお移しになった」というのが神武東遷なのです。しかし、これは全く違います。九州の中心の王朝は、いわゆる「日出ずる処の天子」に続いている訳で、その分家が大和に侵入をはかったのです。これは王朝という言葉を使うときに困るのですが、正確にいえば分王朝なのです。大和分王朝の歴史が神武以降の歴史です。
 ところが『古事記』『日本書紀』はふんだんに九州王朝の歴史書から記事を盗作し、あたかも近畿が中心の王者だったように、歴史をいわば変造している訳です。この点、歴史を再構成する場合、特に「新しい言葉」を用意しなくてはならないと思っているのです。というのは「東京古田会」の代表の方が、九州王朝と一方ではいい、他方では近畿天皇家というが、どっちがどういう関係になっているのか、全くわからん。言葉を分けてもらわなければ、といわれているのです。王朝という言葉にふさわしいのは ・・・中国の歴史書がいっているように・・・ 七〇一以前は倭国九州王朝であって、近畿天皇家に王朝という名前を厳密に与えてよいのは七〇一以後なのです。それ以前の継体からの王朝は、七〇一以後の王朝の「前史」というべきで、それを表現するうまい言葉が見当たらないです。

 

 「続」倭の訓読をチクシとした倭の証明・・・『三国史記』『古事記』

 倭の話をもう少し続けます。韓国の歴史書に『三国史記』がありますが、この本の成立の時期は平安時代ということで、『日本書紀』『古事記』よりちょっと遅れるのですが、内容の正確さは、これは日本のものに比して素直で正確な要素が強く、完璧ではありませんが、まあ、書いてあることは信用してよいという性質の歴史書なんです。これに倭のことが散々でて来るわけですが、特に「新羅本紀」には、しょっちゅう倭がでて来て、しかも倭が侵入してくるのがほとんどなのです。卑弥呼と友好関係を結んだというような記事も若干はありますが、九〇%が倭が侵入した形ででてくるのです。「百済本記」にも倭がでて来て、これは友好関係を結んだ形で、一部ですがでて来ます。不思議なことに、好太王碑ではあれだけ激戦をしたはずなのに、「高句麗本紀」では倭はゼロなのです。
 「新羅本紀」の一番最初の方に倭がでてくるのですが、そこに脱解王というおもしろい人物が描かれています。この人は日本人のようなのですね。倭の東北千里に多婆那国という国があって、そこの国王の妃が子供を生んだのですが、子供が卵であったのです。世間体が悪いといって舟に乗せて沖合に流した。そしたらそれが新羅の東南端に流れついた。そこの官人はそれをまた沖合に流した。そして慶州に近い海岸に流れ着いて、親切な漁師のお爺さんお婆さんに拾われて、床の間におかれていたのですが、ある日パッと割れて立派な男の子が生まれたのです。やがてこの子が新羅の王朝に仕えて、二代の王の娘と結婚して、三代の王に彼の息子がなるのですが早く亡くなったので、彼が四代目の王になったのです。彼は新羅国を整えていった名君として描かれているのです。これが脱解王で、その即位の年は、なんと!建武中元二年(五七)の金印の年なのです。多婆那国は倭国の東北千里であり、千里は『三国志』と同じ短里と思われますので、大体関門海峡の下関・門司の辺になるのです。あそこだと、卵を舟にのせて海に流したら、時間帯によっては朝鮮半島に行く訳です。有名な佐々木小次郎と宮本武蔵の講談にもでてきますが、時間帯によって潮の流れの向きが逆転するのです。ですから、時間帯によっては朝鮮海峡の方に流れて行きます。そして対馬海流が北海道の方に向かっていますが、これを突っ切って ・・・突っ切らない場合は北海道にいってしまうのですが・・・ 進むと対馬海流が二つに分かれていて、朝鮮半島の東岸を北上するのです。それであの、ウラジオストックの方からやって来た寒流と衝突して竹島の方にいき、竹島が暖寒流が一緒になって魚が取れる訳です。つまり下関・門司の辺りであれば、海流にのりますと、今の話の朝鮮半島の東南端、それから慶州と行く訳です。この地の人々は海流のことはよく知っていますから、この海流を利用した説話となっている訳です。脱解王は下関・門司の辺の出身のようなのです。この場合原点の倭国というのは、博多湾岸となり、建武中元二年ですから、倭といえば博多湾岸に決まっているわけです。韓国の人は海流のことはご存じですから、この説話の倭は博多湾岸だと分かるようにできている訳です。「新羅本紀」は、この後に嫌というほど「倭」がでて来ますが、たいてい、侵略者ですけど、その倭というのは「チクシ」であって、そういう形で理解して欲しいと『三国史記』はできているのです。ところが従来の日本歴史は、倭といえば「ヤマト」と読む習慣になっていて、この説話は浮き上がってしまって、「ヤマト」から東北千里で沖合に舟を流して、まさか、慶州に舟が着くなどということはあり得ませんから、荒唐無稽な話としてゴミ箱に捨てられていたのです。しかし実際は、倭は新羅にとって最大の敵、災害のように見られているのですが、その倭が何者であるかということが、この説話によって、倭の位置を示して、そこから出発している訳です。ですから、『三国史記』の倭も「チクシ」と読むべきなのですね。
 三番目の『古事記』なのですが、不思議なことに、あるいは当然といえば当然なのですが、最初の神代記に大国主のミコトの説話がありますが、この大国主が「倭国」へ行くという話がでてくるのです。何しに行くかというと、宗像の媛(須勢理毘売)、即ち天照大神の娘ですが、これと婚姻をしにいくのです。「上りて倭国に坐さむ」と書いてあります。本居宣長が初めなのですが、この倭を「ヤマト」の国と読むんです。出雲から大和に行くというのにどうして宗像に行けるのでしょうか。また、何で「のぼる」というのでしょうか。宣長曰く、「後に大和が天皇のいますところになったから、その立場から、例え大国主であろうと、大和へ行くのは「のぼる」といったのである」といういう説明しているのです。しかし、これは正しい考えとは思えません。福岡県の宗像の沖ノ島へ行くのに「上る」というのは海流を「上る」からなのです。今は陸地人間になってしまい、川を上る時にしか、「上る」とはいいませんが、海洋民にとっては海の海流が一番の川ですから、これを溯るのを「上る」といっているのです。出雲から筑紫の国へ行くのは、当然に、対馬海流を上り、そしてその途中に宗像がありますから、その先の島にいって奥津姫と婚姻を遂げる訳です。ですから、この神話も偶然ではなく、『古事記』に倭とあったら「チクシ」と読んでくださいとの話であると思われるのです。こうして、『古事記』の倭は「チクシ」と読まなくてはならない。これをひっくりかえしたのが、例の倭建命の説話です。倭建命が九州へ行って熊襲建と戦って殺そうとしたら「待ってくれ、お前みたいな強い者が大倭の国にいるとは知らなかった。これからは倭建命とお名乗りください」という説話です。この説話は歴史事実ではなく、天武天皇が倭を「チクシ」でなくて「ヤマト」に読み替えるための立場に立った造作の説話と考えられます。というのも、天武天皇が歴史を書くに当たり「自分がそう思から、それでいいのだ」と言っただけでは歴史になりません。そこで倭を「ヤマト」と呼ぶ淵源は、九州の熊襲建が死ぬ前に倭建命に言った言葉から始まったのであって、それ以来倭を「ヤマト」と呼ぶようになった、と語るのが『古事記』の重要な中心テーマであったと思うのです。それを本居宣長のように先頭から「ヤマト」と読んでしまうと、この説話が意味不明のくだらん話になってしまうのです。『古事記』もまた、倭は基本的に「チクシ」であるというテーマであった訳です。こうして、中国の歴史書も、韓国の歴史書も、日本の歴史書も、三つワンセットで、倭は「チクシ」と読むべきであるということであり、その原点は志賀島の金印がそれを証明しているということです。

 

 消された『古事記』

森嶋:倭には独特の年号があったでしょう。倭には『古事記』や『日本書紀』みたいな、歴史書はあったのですか。

古田:あったと思います。『古事記』『日本書紀』が九州王朝の歴史書を解体して、それをいたるところで再利用をして・・・・

森嶋:具体的な書物というのは知られているの。

古田:名前は知られているのです。『日本旧記』とか。『日本書紀』のなかに「日本旧記」に曰くなどと、二〜三名前がでてくるのです。「帝王本紀」に曰くとか。ところが、その本が残っていないのです。あれも不思議でして、枝葉末節の本なら残らないということはあり得るのですが、内容から見れば重要な本なのです。重要な本が八世紀の『日本書紀』を作る段階ではあったことに間違いはないのです。ところが、それが全く現在に片鱗も残っていないということは、偶然になくなったのではなく、さきほどの焚書坑儒ではないが、全部抹殺したと考えざるをえないです。
 また、『古事記』のことですが、『古事記』ですら『日本書紀』の天武天皇のところに『古事記』の「こ」の字もでて来ません。天武天皇が稗田阿礼に命じて記憶させたと『古事記』の序文にあれだけ書いてあるのに、肝心の『日本書紀』の天武紀にはその片鱗すらなく、また元明天皇の時に『古事記』を太安万侶が命を受けて記録したと、『古事記』の序文を見る限りそう書いてあるのに、『続日本紀』 ・・・この史書はかなり実録的な歴史書とされているのですが・・・ の元明天皇のところに『古事記』の「こ」の字もでていないのです。『古事記』の序文に書かれていることがウソであったのではなくて、それをオフィシャルな史実からカットしたということです。元正天皇が『日本書紀』を作りますが、これは『古事記』より徹底した近畿天皇家中心の歴史書です。この書の最初のところの国生み神話で「大日本」を「オオヤマト」と読め、日本を「ヤマト」と読め、とはっきりとのっけから書いているのです。しかし『古事記』の方は倭を「何々」と読めとは書いていないのです。こういう『書紀』という一貫したものを作りましたので、結局『古事記』は邪魔になり、あっては困る本となったのです。景行天皇が九州に大遠征したように『日本書紀』は書いているのですが、『古事記』は全くその気もないのですから、矛盾することがいっぱいあり、『古事記』の存在が必要でなくなり、あっては困るので地上から姿を消さしめたのです。ところが密かに写し取っていた人がいて、それが南北朝時代に名古屋市内の真福寺というお寺の中からでて来たのです。南北朝時代ですから、それまでの人は ・・・親鸞とか道元とか日蓮など・・・ は『古事記』を読んだことはなく、『日本書紀』しか読んでいなかったのです。変な話ですが、偶然のいたずらというか、写した人の苦労が報われたというか、でて来たから分かった訳で、あれがでてこなかったら、何にも分からなかったのです。『古事記』という名前は断片的にはチラホラでてくるのですが、しかし実態は全く分からなかったのです。
 それで、ヨーロッパでは、文献を消すというようなことがあったかどうか、お聞きしたいのですが。東洋では秦の始皇帝が有名で、一人だけ悪者にされ過ぎているように思われるのですが、東洋の権力者は結構やっていて、右の代表が秦の始皇帝に過ぎないのではなでしょうか。

森嶋:知らないなあ。

古田:たとえばイギリスにケルトの文明がありますが。ああいうことの文献はないんですか。王朝みたいものの文献があったとか・・・・

 

 敗戦の時の電報・暗号書の焼却と記録の抹消

森嶋:記録を消すのは、日本は、お得意の巻だからね。私自身、海軍の最後の電報を焼却したわけね。持って帰ったらと思わないではなかったのですが、命令は全部焼いてしまえという命令ですから、全部処分しました。そして処分する兵隊が焼いたのを士官が確認するのです。暗号書もいっぱいあって、これを持って帰ったら将来おもしろいものになるのではないかと思わない訳ではなかったのです。というのは暗号書には軍艦の名前が全部書かれていましたから、その中に普通には知られていないような軍艦の名前もいっぱい書いてあった訳なのです。航空母艦なんかも、沢山あって、恐らく日本は世界で最も多くの航空母艦を持っていたと思うのです。そういう全部の名前があるので、これを持って帰ったらおもしろいことになるだろうなと思ったのに、よう持って帰れずに皆焼いてしまった。残念ですがね。だから、外のところも全部そうしたと思うの。命令でね。暗号係の将校は皆そいう風に教育され、記録の抹殺をするのが一番大切なことなんだと教えられていた。ガダルカナルの時かな、どっかの時、どうせまた自分らが逆襲して此処へ来るんだからと、暗号書を穴を掘って埋めて帰った人がいたのです。それでアメリカがその暗号書を取って、それ以後その暗号書は使えなくなったのです。暗号書が使えなくなったら、新しい暗号書と変えなければならないでしょう。ところが、変えるとなったら、もう大変なんです。作ることは簡単ですが、運ぶことが大変なのです。絶海の孤島で、電信は行くけれども、人はそこに行けない。敵にやられてしまうからです。敵にやられて暗号書を積んだ船が沈没したら、またそれを引っ張り上げられて、その暗号書が全部駄目かもしれない。ですから、絶対にどこにも暗号書が流出しないという確認ができる形で暗号書が新しく配布されるというのは、よっぽどの条件で、日本が勝っている時だけなのです。負けてくれば昔の古い暗号書でやるより仕方がなかった。一般の武器と暗号書は全然違うのです。一般の武器は、例えば新しい大砲ができたら新しい大砲を使えばよいので、これは作ることが大切であって、配布するということは問題でない。暗号書は配布がちょっとでもできないと分かったら、全部が駄目になる。だからそういう風に教育されているから、終戦の時には皆焼いた。そして、それは海軍省などの本部であればあるほど焼いたと思う。
 戦後そういう記録を作るというので、復員省のなかに戦史の研究部門を作った訳だけれど、これには資料がないのですから、おそらく記憶によってやっていて、だから日本の戦史というものは随分いいかげんなところがいっぱいあると思われるのです。全員の人が来ることはありませんから、海軍の古い失業していた人が復員省に行って戦史を作るということになりますから、抹殺していることが、いっぱいあると思います。
 都合の悪いのは皆抹殺する。例えば、戦艦大和のことだって、最後に特攻隊になるでしょう。どうして大和に、このようなことが起きたのかね。結局大和の目的は沖縄に行って、沖縄に座礁させて、陸上砲台みたいになって、どんどん打てば、日本は逆襲に成功するというような考えで行った訳です。ところがそんなのは途中で必ずやられてしまうから、無謀であるという案や議論がでてくる。その前に仮に沖縄に着いたとして、タマが打てるかどうか。タマが打てるかどうかというのは、軍艦大和以前の戦艦は砲弾を兵隊が担いで砲筒に入れていく訳ですが ・・・もの凄い訓練だったと思いますが・・・ 大和になったらそんなことはできない、あまりに巨大だからです。大和の砲弾の充填は全部オートメイションでやっていた。だから大和というのは日本で最初のオートメイションの軍艦なのです。だが、オートメイションの軍艦は電気装置がやられたら、もう動かないようになる。敵が玉を打ってきて大和の電線の一部がばっ!とやられたら、それでおしまいということです。ですから、オートメイションの軍艦は強力なものであると同時に非常に脆い一面をもっているのです。例えば、海軍は皆電気で食事を作るが、電気が停電になったら食事もできないことになります。陸軍は兵隊一人一人にハンゴウや米を渡して、一人になったらこのハンゴウで米を炊いて生き伸びなさい、ということを、陸軍はやっている訳です。そういうプリミティヴであるから、一人で自活できる強さがある訳です。ところが、海軍の軍艦というのは上に乗っていることを前提にして、軍艦が沈んだらお仕舞いという考え方ですから、一人一人に米なんか渡されることは絶対にない。全部主計がやっている訳です。ですから、電線が潰れたら、もう最低となる。海軍というところは、電気装置がやられたら士官がすっかり駄目になるのです。下克上が起こり得るということです。これは日本だけのことでなく、外国の海軍でも同じなのです。例えば、イギリスでやったのですが、ドイツ海軍の潜水艦がジブラルタルを攻撃したときに、上からイギリスに爆弾を投げ込まれてやられるのですが、これを直して浮上しようとするのですが、浮上する仕事が出来るのは技術をもってる下士官だけ、士官はその側に立って「直せ!」と言っているだけなのです。海軍の士官といのは何にもできないのです。海軍にある言葉で、皆が使う言葉に「ねがいます」という言葉がありますが、外出で士官が出て行く時に下士官にいう訳ですが、何を「願われた」のか分かりませんから、あんたら勝手にしろということですね。何でも「ねがいます」「ねがいます」という、このような士官の無責任というのは、武器が近代化し高級化したので、一方の武器を使う仕事ともう一方の指揮系統の仕事とが完全に分業化され、このために指揮系統の仕事をした人が力を失うことになるのです。

 

 戦史史料としての吉田満の『戦艦大和ノ最期』

 こういうことで、今の戦史の研究の場合でも、記憶からきた戦史ですから、随分具合が悪い訳なのです。そして大和で生き延びた証人は吉田満ですが、彼は東大の経済学部で、私と同い年だけれど、彼は早生まれだから一年上にいた訳です。それで、吉田は生き延びたのですが、友達が随分死んで行ったので自分だけが生きているということに物凄い罪悪感を感じていたのです。疎開している親のところに彼は帰っていったが、近所に吉川英治が疎開していると聞いて、吉田は吉川のところへ行って、自分の戦艦大和の体験話をした。これを聞いた吉川英治に「これは重要なことですから、帰ったら直ぐに、今日話をされたことをお書きなさい。時間を置いたら忘れるから直ぐにおやりなさい」と言われ、彼は一日であの本を書き上げたというのです。そういう風に吉川英治から言われているから、彼は記憶している限りのことは正確に書いたに違いないと思う。だから、決して小説ではないと思う。私は吉田満の『戦艦大和ノ最期』を史料として高く評価するのです。ところで、この大和の出陣に対して、皆疑問を持っていたのです。「どうしてこんな馬鹿なことするんだろうか」と。ところが、それを書かれると海軍の首脳部が大打撃なのです。我々海軍の中では、常に、海兵出の士官と予備学生の士官とが、バン!と対立していて、お互いに疑問を持っていたのです。「あいつらは戦争反対なんだ」、「あいつらは無茶なことばかりしおる」というように、表面的には仲ようやっていても、お互いに根本的には憎んでいたのです。だから、吉田の『戦艦大和ノ最期』を小説だとかなんとかいって海兵側は低く評価する訳です。
 ところが、こんなことがなんで起こったかというと、神(かみ)という参謀がいたのですが、神参謀はサイパン島の戦争の時 ーー当時は日本にかなりの戦艦が残っていたのでーー その戦艦をサイパンに、ばあん!とやって上陸させて、そこからタマをどんどん打つという陸上砲台の構想を軍令部でしきりに言うていた訳です。こうする以外に勝つ見込みがないと言っていたのです。ところが、そんなのは話にならないと止められていて、神は冷や飯をくっていたのです。結局サイパンでは海軍は何もしなくて、攻めていったが、途中から引き返したのです。日本海軍はあるところまで行くんだけれど、引き返そうということになるのです。レイテ湾の攻撃の時もそうです。最後までよう行かないで途中から引き返す訳です。サイパンの作戦は天仰作戦と、天に運命を任せる作戦とすばらしい名前をつけながら、サイパンまでよう行かないで、皆、くだくだくだとなって、やめになってしまう。

 

 天皇の質問「行くのは飛行機だけか」

 ところが、沖縄作戦のときに、天皇に、特攻隊の飛行機を出撃させるという沖縄特攻作戦をやりますと言うたら、天皇は「行くのは飛行機だけか」というた。これは、天皇がしばしばそういうことを言う人なのね。そうするとね、神参謀は「行くのは飛行機だけでは困るではないか、軍艦も行かないのか」ということを意味しているのだと主張したのです。天皇は何にもそんなことをいった覚えはない「行くのは飛行機だけか」と単純に聞いただけというかもしれません。こうして、神の大和を出撃させろという主張が通り、ついに大和を沖縄に回すとなった。この時、大和は広島湾の呉にいた。大和が主砲で散弾を打ったら無数の玉がでるので、これによって飛行機に対して防備していたのです。大和がいたから、アメリカも広島を攻撃できなかったのです。ところが広島防衛には、別に松山に航空隊があったのです。横須賀に一つの航空隊があり、大阪湾には名護の航空隊がおり、広島は松山が守り、佐世保は大村が防衛するというように防衛していたのです。ところが、大和が主砲をばっ!とやったら、松山の飛行隊の航空機もアメリカのばかりでなく一緒に落ちてしまうのです。ということで松山に航空隊を置くのは具合が悪いから動かせとなったのです。松山の航空隊は、戦後有名になった源田空将が司令でした。ですから源田空将は広島を守っていたのですが、松山の航空隊は日本で一番強い海軍の航空隊であって、源田サーカスといわれていた。訓練のできた航空隊であり、その上に大和がいたら過剰防衛だといので、源田を大村に移した。源田の航空隊と大村の三四三空とで佐世保を守るということに切り替えたのです。ですから、この時大和だけが広島を守っていたのです。ところが、「特攻攻撃をするのは飛行機だけか」と質問されたので、神参謀が「絶対にやらなくてはいかん」と主張することによってね、大和も出しましょうということになった。こうして、大和が行って結局沈没した訳です。そして結局広島には、大和の後を守るものがおらんようになった。源田大佐は大村に行って広島が空っぽになった。それが広島の原爆攻撃と関係があるということです。だから、非常に行き易い場所になっていたということですね。
 この天皇の発言という問題はおもしろい問題です。もう一つ天皇の発言で同じような例をあげてみます。石川興二という京大の教授がいたのですが、経済哲学をやっていて、私も習っていたのです。もともとは河上肇の弟子なのですが、ところが西田哲学にかぶれちゃって、私が習った頃は西田哲学に凝り固まった凄い右翼の人になっていたのです。講義の最中に・・・私もその講義に出ていたのですが・・・「伊勢神宮も京都の御所も全部木造である、これでは焼夷弾を落とされたら何時焼けてしまうやら分からない。北京の紫宸殿はレンガ造りである。であるから木造のままにしておくことは、陸軍に伊勢神宮を大切にするという考えが全然ないのではないか。陸軍は、はたして天皇に忠節を尽くすような軍隊であるかどうか、いかがわしい。陸軍はなんということをしているんだ!」と講義の時間中に言った訳です。そしたら、翌くる日の講義からは石川教授の休講が続いたのです。それで三週間ぐらい続いたら、石川教授の経済哲学は終講にして、そのあとは高田保馬が経済哲学を教えると切り替えられた。あの時分の大学の講義には特高が必ずいた訳で、何時洩れるやら分からないのです。例えば、高田さんなど、政府批判するときには、「ここで雑談に入りますから、学生諸君はペンをおいてノートを絶対に取らないでください」と言って、またプリント屋が入っていて講義録をガリ版で作り出席していない学生に渡すのですが、そういうプリント屋の方もここは書かないようにしてくださいと言って、ちょこちょこと政府批判をして、「もとに戻ります」という風なことをしていた訳です。ところが、当時の橋田文部大臣が天皇に奏上するときに、休講になっている石川さんのことを京都にはこういう人がいると天皇に言ったのです。その時は、「そうか」ということであったのですが、しばらくして天皇が「この前の京大の教授のことは、その後どうなったか」と聞いた訳です。これも単なる好奇心で聞いたんだろうと思われるんですがね。橋田さんの方は何とかしなくちゃいけない、天皇は石川教授を大学から追放しろといったに違いないと思って、京大の学長を呼んで、何とかしなくてはいけないと言ったのです。辞めさせたらまた大事になるから、結局石川さんは講義をしなければよいのだから、講義をしないところに行かそうということで、人文科学研究所の教授に移した。それで講義はしない研究だけやとした。ところが、戦後になったら石川教授は戦争中の言論弾圧の犠牲者だいうことになった。右翼ではなく左翼と見なされ、戦後は赫々たる勲章をつけた形で、経済学部に復職した。しかしその後の進駐軍の教職員追放で、石川さんはクビになった訳だけれど、一時は河上肇、滝川幸辰、石川興二の三人と言われたのです。石川自身はもともと河上の弟子であって、その後極右となり、さらにその後、左翼と見間違われそれから辞めたということです。石川さんは死ぬ前に自分は河上さんの弟子であるのが一番であると思って、河上さんの墓の隣に土地を買って、河上肇の隣に石川興二という墓を建てて今そこにいる訳です。後代の人は、石川興二という人は河上肇の立派な弟子であると思うでしょう。

 

 湯川博士のお墓

 お墓などというものは、いいかげんなものよ。お墓のことで、一つお話します。『論座』という雑誌に、私の京大・阪大時代のことを書いていますが、そこでは一つの経験を実名入りで書くのですから、もの凄くセンセイショナルになるのです。それは、バチカンのポンテフィカル・アカデミーが、経済学者を十何人か呼んで、スタデイ・ウイークリーとして一週間、もの凄く苦しい、一生にあったなかで一番くるしい研究会であったのですが、そこに参加した人のほとんどはノーベル賞もらった人たちが多かったのですが、そこに私が参加したときのことです。その人たちは大体五十〜六十歳の人で、その中に三人ぐらい例外がいて、私とイタリヤの人とアメリカの人で、この人らは若かったが、あとは皆そうそうたる連中でした。朝から晩まで缶詰になって研究会をやるのですが物凄く苦しかった。これが終わった頃、一般のポンテフィカル・アカデミーの会員がやって来るのですが、そうそうたる人達が会員となっていて、日本からの会員として、水島次三郎・湯川秀樹が来た訳です。水島さんという人は紀子さんのおじさんかな。学問が偉いだけでなくて、名門の人なのです。ところが、私どもがローマに行った時は子供が二人で、子供をつれて家内と私が行ったのです。ところが、最後に奥さん方のバチカン見物 ・・・バチカンの中で普通は見せないところを見せてくれるのです・・・ があったのです。上の子供は三つぐらいで連れていけるけれど、下の子は一つで、連れていけないというので、その子をベビー・シッターに預けることにしたのですが、その人が来るのが遅くなって、家内がバスに乗れなかったのです。バスは先に行ってしまったのですが、ベビー・シッターが来て下の子供を預けると、ホテルの人が「この車に乗りなさい。そうすれば今からでも間に合います、どうぞ」といってくれたので家内は乗ったのです。
 あくる日にバチカンで法王が来て、皆拝謁をしたのですが、法王が下がって、その後同じ式場で皆がわいわいと言っていた時のことです。ここには各国の大使等が呼ばれていました。イタリヤ政府の高官の人もいた。またローマにやって来たポンテフィカル・アカデミーの会員もいたのです。その中で、湯川夫人が私の家内をつかまえて「あなたですか、湯川夫妻と称して、私たちの自動車を横取りしたのは」と言うた訳です。それは、もう延々として怒る訳ですね。その間、湯川さんはボーンと立っているだけで、やめたらいいよなど一切言わないのです。
 また、バチカンの日本大使も何にも言わない。そこにいるのですが、何も言わない。イタリヤの日本大使も何も言わない。延々として怒るので仕様がない。
 私が湯川夫人に「あなたの言っていることは筋が違う。車に乗ったのは妻と三歳の女の子ですが、この二人が湯川夫妻と称することが可能かどうか。あり得ないことです。言わなかったことだけは確実です。勝手に何かの間違いで大使館が送ってきた自動車をドアマンがどうぞといったから、何にも知らないから乗ってきただけなのです」と私は言うた訳です。
 それから胸糞が悪かったので「大使館は若い人には何にも援助を与えずに、年寄りの有名人ばかりにいろんな便宜をはかるが、こういうことが日本大使館の悪いところだ。将来必ずこのことを書いて見せる。私は社会科学者であるからそういうことを書くのは私の義務でもある」と言うた訳です。
そしたら明くる日に、大使館から古い切手を送って来て、これは貴重なもので値段の高いものです、と書いてあったが、そんなこと知ったことではない。そしてこのことを『論座』に書いたら、ここ(国際高等研究所)に来ている西島という先生 ・・・湯川さんのお弟子さんです・・・ が、それを見ておもしろいと言われた。
 自分は湯川さんのお墓に、弟子だからいかなくてはならないと思い、行って見た。そしたら、お墓に墓碑があって、それは湯川夫人の文章で「湯川秀樹は湯川家に養子にきて、物心両面にわたる湯川家の支援によってノーベル賞をもらった」というように書かれている。その墓碑からみても、あなたの書かれていることはよう分かりますといわれるのです。

 

 無謀な戦略の果ての戦艦大和の最後と激励電報

 これは、古田さんの「邪馬台国」 とは関係がないが、歴史と言うことでは、戦史は間違っているのではないか、ということです。そして神(参謀)さんは洞爺丸事故で死んだのですが、自分は死にたい、助けてくれるなといっていたと言う。ですから、大和の責任を思っていたのではないかと思います。しかし、あれくらい馬鹿な無謀な作戦はない。本当に恥さらしなのです。それを日本人は戦艦大和というと、熱狂するのはおかしい。確かに、あの時代にオートメイションの軍艦を作ることのできた技術力は評価するべきだが、それをどう使うべきか、使い方が全然なってない。

古田:今お聞きしていて、はっと思いだしたのですが、敗戦の前の年ぐらいと思うんですが、旧制の広島高校にいまして、勤労動員に行っていて、鉄の粉が散って目に入りまして、学校の保養所みたいなところが島にありまして、そこにいて、海岸に行きましたところ、目の前に大きな島が動き出したかのような大きな船が現れまして、あれよあれよと見守っていたという記憶が鮮明に残っているのです。もしかしたら、音に聞く戦艦大和でなかったかと思っていたんですが、今お聞きすると本当にそうであったかも知れませんね。広島ですから。

森嶋:それが今問題になっているの。私の記憶と戦史を元にして調べたものとは違う訳です。前に、朝日新聞社から出した「血にコクリコの花咲けば」に書いているのですが、私の記憶では大和が出陣するとき二つのルートが考えられていたのです。一つは下関海峡を通って、そして対島海峡にでて、さらに黄海の北の方にいって、それから真っすぐに南におりて沖縄にいく、これが第一案。第二案は豊後水道を通って、種子島の方にいって沖縄に行く。
 こういう二つの案があって、はじめ(第一案での)出陣だというので、もの凄い量の電報が大和の向かって打たれたのです。まず、軍令部総長とか、海軍大臣とか、連合艦隊司令長官等々が長い激励の電報を打った訳です。
 そういう電文を皆翻訳させられる訳ですが、長ったらしく、しかも、「皇国の大義に生きて」というようなものばっかりで、どうでもいいことなのです。それも全部暗号の字引で引いて、書いていかなくてはならない。うんざりするのが、次から次へとやってくるのです。というのも、いよいよ大和が動きだしたら電波は全部抑えるからなのです。ところが、大和に向かって長文の電報が沢山行って、パタッ!と止まったということは、アメリカは完全に察知していた訳です。そうすると何かが動きだしたことが分かるでしょう。そして、その後直ぐに飛行機が来て下関海峡に機雷をバアッ!と置く。下関海峡は通れない。大和は止まった。日本は海上の機雷を掃海艇で片付けた。これでよろしいとしたら、またアメリカは機雷を落とす。また動けないようになる。これでは、もはや下関海峡を通るという案は具合が悪いので、(第二案の)豊後水道の方に切り替えたのです。
 大和は広島から三田尻まで動いていたのですが、豊後水道に切り替えたあと、三田尻を出るとき、またまた「しっかりやって来てくれ」という電報がワアッと打たれる。これは特攻隊だから、死ぬ人に対してだからそういうことをやったのですが、こういうことをしたら何かが起きるということですから、こういうヤタラな電報は「打ってはならない」と我々は習っていたのです。通信学校で。そういうことは絶対にしてはいけない、発信を命ぜられたら「発信すべきではない」と上の人に言えという風に教えられていたのです。ところが、海軍大臣・軍令部総長等々という偉い人が皆やっているのですから「何ちゅうことをするんだ!」と我々は怒っていたんです。ですから、よう覚えているのね。若い予備士官が寄って「またこんなアホなことをする、なんということだ!」と言うていた訳です。ところが、豊後水道を回っていったら、直ぐに「我敵機の触接を受く」という電報が大和から来たのです。だから、「あ!見つかった」。しばらく行ったら「われ敵機の連続空襲を受けつつあり、敵機の総数は三六〇機」。またしばらくしたら、「われ将旗を初霜に移す」。駆遂艦隊がそばに居て、そちらへ移ったわけね。その間、日本軍の飛行機は一機もでてない。いや最初の方でちょっと出たのかな。ところが沖縄戦への海軍航空の主戦力は鹿屋(かのや)にあった。南九州に百ほどの海軍航空基地が散らばっていた。だから、これは「ヤマトは守りません」ということなのよね。その当時の航空隊と艦隊の戦功争い。「アメリカ軍は全部自分がやりたい」という第五航空艦隊の方針。艦(ふね)と飛行機が助けあわぬ。これが日本人の特徴。司令官同志はせいぜい二、三年の年次の違いの人達なのに、自分の功績のためには友人を救わないという・・・。マア、だからヤマトの戦闘は本当にばかげていて、日本人の悪いところを丸出しにした戦争だったと思うね。あの戦争末期のことを思えば、今の日本の状態というのも、そんなに驚くことじゃないと思う。

古田:なるほど、そんなものかも知れませんね。イヤイヤ・・・

 

 毀誉褒貶なんて、いい加減なもの

古田:いま、いろいろお聞きした、日本人の悪い癖ですが ・・・、私などが発言しても、現在の学会からは、なんの反応もない・・・。この点、外国では ・・・ヨーロッパ・・・ イギリスなんかでは、いかかでしょう?。

森嶋:多かれ少なかれ、あるんじゃない?。歴史の分野なんかはきついのじゃないか。自然科学でも派が違えばものも言わぬというか・・・ そんなのが、あるでしょうね。経済学というのはオープンなところでね。リカードなんかも、もともと商売人だったのが、最も高い地位を占めていると言えるし、アダム・スミスも哲学者だったし、マルクスも。それにも拘らず、派閥の対立というのはあってね。シカゴとなると、ハーバードと猛烈に対立するとか ・・・そういうことはアメリカでもあるし・・・ だから古田さんの扱われている取扱われ方も、異常ではない。

古田:そうですか。安心しました。

森嶋:「認め」られるとしても、かなり偶然、いい加減。私はあまりこだわらない。とらわれることはない。
 書物について言えば、私の書いた本は、よく売れた本で大体一万部。こんなのが二つあるが、その一つの方は、かなり前から絶版。ポツポツ売れていたんだから、一万五千とかへ行ったと思うんだが、一万部くらいで絶版にされた ・・・そこには、なにかあると思うが・・・ とにかく、なんの相談もなく絶版。そのほかとなると、二千部くらいだ。日本の基準からすると少なくて情けないと思っていたら、外国では「すごい」という。そりゃ立派なものだという。そういう意味で ・・・学会は知らないヨ・・・ 本屋さんへ行くと、古田さんの本がズラーッと並んでいる。これでは学会から無視されているとは、言わない。私の日本語の本で、本屋に並んでいるのはないよ。本屋に並んでいれば素晴らしい。
 『政治家の条件』。この本は、同時代の人を描くのをやりたいと思って、サッチャー時代のイギリスを書いたわけ。将来のサッチャー像を描いたら、私の予想どおりにピタッと当たっていくわけ。だから大成功だと思っていたワケ。ところが岩波(書店)は絶版にしちゃった。「続サッチャー時代のイギリス」という題を使おうかなと思っていたら絶版になっちゃった。ところが今は政治家が全然ダメだというので、ある新聞社が『政治家の条件』を探したら、これが手に入らないというので、それを聞いた岩波(書店)がネ、『政治家の条件』を印刷しだしてネ。目下、印刷中という。だから「いいかげん」。だから私は、あまり気にかけぬが良いと思いますね。
 みんなから認められるということになるとね、たとえば私が、文化勲章をあの時代に貰うというのは、ずいぶん異常なことね。いったい誰が運動してくれたかと言えば、大喧嘩した相手が ・・・推薦してくれたのじゃないかと思う。大喧嘩した相手が「ひどいことをした」と思って、推薦してくれたのじゃないかとね。賞なんて、いい加減なものだ。それで私の本の宣伝に「文化勲章」は不愉快でね、昔は「絶対に使ってくれるな」というたもんよ。このごろはもう・・・ 放っておくけどね。毀誉褒貶(きよほうへん)なんて、いい加減なものだ。だから、古田さん程度に名が通って、愛読者がいれば、オンの字だと私は思うね。

古田:いや、それを聞いて、全く安心しました。

森嶋:だれでも、処女作がベスト。だんだんに・・・ 二、三回目ともなると、本人も手抜きがあるし、重複もあって、直したのを書こうとするが、それは別の目からみれば重複だ。古田さんの初期の作はよく知られているのではないか。最近のじゃなくて・・・。外国でも古田といえば『「邪馬台国」はなかった』を書いた人だと知っている。イギリスでも日本古代史の専門家は知っていた。

古田:「相手にして貰えない」のが、こっちにとつてプラスというのもありましてね。いくらでも開拓すべき分野が残されている。全然知らん顔してますんでね。あの方法で、あの分野をやってみようとすれば、どんどん論文や本が出てもよいのに、やらないから残っている。相手にしてくれない事のメリットですね。その一例をお話ししてよろしいでしょうか。

虹の架け橋 森嶋通夫・古田武彦  『新・古代学』第4集

 

 万葉集と九州王朝

 『万葉集』なんですが、歌集ですから作った人にとって歌は第一史料。正確に理解すれば、その時代がよくわかる。このごろ痛感しているのですが
 万葉集の第二番目の歌ですね。舒明天皇の歌とされているものですが、

「大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山、登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ、秋津島大和の国は」。


 この歌、どうもヘンなところがありましてね。大和で詠んだ歌にしては、海や鴎が見える。鴎は海鳥で、奈良県へ飛んでこないこともないんですが、まあ珍しい。
 私が講演会をやりまして、そのあとの懇親会やなんかで、よく質問がでるテーマで、私もおかしい歌だと疑問に思っていた歌なのです。もっと決定的におかしいのは「とりよろふ天の香具山」です。「とりよろふ」というのは「完備している」とか「カッコイイ」とかいった意味の褒め言葉ですが、奈良県の天の香久山というのは、百メートルちょっと位の山で、三山の中でも一番目立たない山なんですね。畝傍山、耳成山は恰好は突出していて、それなりに目立っているのに、香久山は平凡な丘。一番カッコよくて、完備しているというのとは合わない。海と詠まれたのは「ハニヤスの池」のことだという解釈もありますが ・・・現地にはハニヤスの池・伝承地もありましたが、小さい池で、三〇〇坪ぐらいかという、まことに狭い池で・・・ 海原には全くあたらない。だからここの歌じゃないのではないか。ヒントをなすことばがありましてね。「アキツ島」。これは私が『盗まれた神話』で分析したのですが、トヨのアキツシマ。大分県の国東半島に安岐町というのがありまして、安岐川が流れている。「ツ」は津で、港のことだから、「トヨアキツ」は別府湾を指すとしたのです。「シマ」は九州島全体かも知れませんが。
 この別府には有名な由布岳があります。そしてここに至った途中のいきさつはカットしますが、結論としてはもっと高い山があった。鶴見岳。この山は現在は由布岳より低いのですが、清和天皇の貞観六年に大爆発を起こしました。『三代実録』には、この大爆発を記録した太宰府からの報告書が記載されていて、「大なる岩は方丈の如く・・・」とありまして、昼はあたりが真っ暗で、夜は逆に火の明りであたりが輝くのが三日三晩つづき、硫黄が流れ込んで川魚が死んだとか、大事件として描写されている。山口大学の地質学の専門家にお聞きしたのですが、鶴見岳はこのときの爆発で山頂部が吹き飛んだので、もとは由布岳よりも高かったようです。最近ここへ行って、由布岳と鶴見岳へ登ってきました。鶴見岳の方はロープウェイで簡単ですが、由布岳の方は歩いて登りました。鶴見岳に登りますとね、もちろん目の前に別府湾が ・・・四キロ位の距離で目の前にありました。
 神社がありましてね。火男火女(ほのおほのめ)神社。社伝によると、祭神は「ホノカグツチノミコト」、ツチのところは槌という字を宛ててありましたが、「ツ」は津で、「チ」は神様 ・・・アシナヅチなどと同じですから・・・ 「ツチ」は港の神様、語幹は「カグ」で、この山なんですね。近くに「神楽女湖(かぐらめこ)」という湖がありましてね。人に荒らされた事のない静かな湖でしたが、ここから鶴見岳の聳えているのがよく見えました。これも語幹は「カグ」。
 だから鶴見岳が「カグ山」なんですね。『和名抄』によると、むかしはこのあたりに「安萬郡」がありまして、現在でもその片割れが北海部郡、南海部郡としてのこっている。そうするとまさに「アマのカグ山」なわけですよ。やっていて、途中で跳び上がったのですが・・・。
 「国原に煙立ち立つ」という部分の解釈は、住民の生活が豊かで炊事の煙が家々からたちのぼるのように理解していたのですが、よく読むとそんな言葉はない。もしそうなら「家々に煙立ち立つ」と言えばよいのに、「国原は煙立ち立つ」と、自然の国土から直接煙が立ち上るように描かれている。私は青年時代に信州で就職しまして、浅間温泉の近くで下宿しておったのですが、朝出勤しようとすると、温泉から流れ出る湯から、水蒸気が立ち上って、朝の冷気にあたって、あたりが煙に包まれたようになる。その道を歩いたのですが、そんな景色を思い出しました。別府といえば温泉の巣窟ですから、湯煙はもっと凄い。(別府市街を海から写した写真を示す)こんな写真がありましてね。地元の写真家が写されたものですが。

森嶋:凄いね。

古田:海地獄とか、坊主地獄とかありましてね。吹き上げる水蒸気の柱が天に沖する。これだと、文句なしに「国原に煙立ち立つ」ですね。おまけにここは鴎の名所でしてね。高崎山という猿山がありますね。動物専門の女性の方にお聞きしたのですが、ここの下の駐車場のところで数えたら、百羽以上おりました、と。鴎は魚が回遊してくるのを追ってくる渡り鳥だそうで、それが今や、ハンバーガーとかが大好きになって、説明していただいた市役所の人は、鴎を褒めるどころか、「鳥害のもと」だと言いたそうな口振りでしたが・・・

森嶋:それは、あなた、もう書いたの?

古田:いえ、まだ全然書いてないです。それで結局この歌は、ここの別府の褒め歌だった。それを書き替えて、飛鳥の歌にしてしまった。先頭のところに「山常には」と書いてありますのでね。これを「ヤマト」と読ませているわけですが、常世(トコヨ)のトコをとって。しかし「常(トコ)」を一音に読ませるとき、第一音をとるのはおかしいですよ。しかし「ヤマコ」という言葉はありませんから、私は「ヤマネ」じゃないかと思う。「常」はツネとも読みますのでね。私の学生時代でも友達に「ヤマネ」君は、絶えず居りました。二千メートルの鶴見岳を幹に見立てて、山の根を「ヤマネ」といっていると思うのです。「ヤマネにはムラヤマあれど・・・」、村山元首相は大分県のご出身でしたかね。万葉集の歌には元歌を改ざんしたのが入っている。

森嶋:なにかポピュラーな雑誌に書いてみたら?、あの、もう一つの話と一緒に

古田:あの阿倍仲麻呂の話ですね・・・、次々と出てくるのです。かなり造り替えがあるみたいですね。今までの万葉学者は、そういう目で真面目に正面からは見てはおりませんですね

森嶋:私も(万葉集を)習ったと思うがね。野間光辰先生だったか・・・ 面白い先生だったが、そんなことはなにも聞かなかったね。

古田:ということでね、万葉集というのは、そういう目でみると面目をあらたにする・・・ 特に七〇一(年)の線の、前と後を分けないと話が通じないですよ。
 こういう問題がでてきて、そういう点では歌は第一史料という感じをもちましたですね。

森嶋:そのころの天皇というのは、どんなふうに尊敬されていたの?

古田:それは「地方豪族」じゃないでしょうかね。地方豪族ナンバーワンという感じで、大義名分はやっぱり九州王朝側にあった。
 その点をもうひとつだけ。これは万葉集であげますと、第三番目の歌なんですね。これが舒明天皇のときのこととされていますが、「天皇、宇智の野に、遊獵りしたまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして、献てまつらしめたまふ歌」というのがありまして、「やすみしし、我が大君の、朝には、取撫でたまひ、夕には、い寄せ立てしし、みとらしの、梓の弓の、かなはずの、音すなり。朝獵に、いま立たすらし、みとらしの、梓の弓の、かなはずの、音すなり」。反歌がありまして、「たまきはる、宇智の大野に、馬並めて、朝踏ますらむ、その草深けぬ」。この歌も、その、万葉学者が今までに非常に困っている歌でしてね。マァ天皇は舒明天皇で一応よいとしましてね、いちばん困るのが「中皇命」。これが誰だかわからない。いろんな説が六つばかり出ていましてね。決められない。決められない理由は、私の意見では
 1 中皇命(なかつすめらみこと)にズバリあたる名前の人はいない。
 2 猟をしているのは天皇らしいのに、この中皇命がシャシャリ出てきて、部下に歌を作らせる。かなり身分は高いらしいのに、他の史料に名前がでてこない。

こういうことで学者を困らせてきた。

 3 歌の内容では、「アシタニハ」と読まれる部分の原漢字表記が「朝庭」だがこれは天子がいる朝廷に使われる用字。あとに「ユウベニハ」があって、「夕庭」と書かれている。「アシタニハ」は、いろいろ書けますわね。それなのにわざわざ「朝庭」という特殊な字を使う。ついうっかりと尊い字を使ったわけではない。「オオキミの遠のミカドと・・・」という人麿の有名な歌がありますが、「朝庭」とあって、これをミカドと読んでいる。ミカドは大王の居るところ、当時の大王は持統天皇、「遠のミカド」は太宰府と理解されている。だからやはり「朝庭」は「朝廷」のことではないか。「夕庭」は「后の宮」じゃないか。それで「あしたには取りなでたまひ」。舒明天皇が弓矢が好きなのか、いつも撫でていらっしゃる ーーというのだが、なにか一人芝居をやっているような感じ。「夕庭」を「朝庭」と対照させて、皇后の居所と理解すると、「夕庭(ゆうべには)いより立たす」。寄り添っているのは皇后であるーー スッキリしてくる。それで、私の理解では、「朝庭」は太宰府であると考えて、地図を見ますと ・・・ウチだけじゃなくて、ズバリ内野(うちの)があった。筑豊本線の駅に筑前内野がある。すぐそばに大野(おおの)が、チャントあった。しかも更にいいのは、問題の「ナカ」がある。有名な那珂川が三笠川とならんでいる。福岡空港のそばにある。「ナカ」という地名があるんですね。皇というのは大王より偉い。「ナカ」で生れたのか、育ったのか、「中皇命」というのは、舒明より上、大王より上なんですね。
 中心人物が「中皇命」で、弓矢を大切にしているのがこの人で、狩に出て行くのもこの人。舒明天皇も副将軍格で参加している。こんな手法は従来の矛盾が全部解けるのでなければ使ってはいけないが、こんどの場合は矛盾が全部解けてしまう。『万葉集』というのは、私の描いた歴史像からゆくと九州王朝と大和との関係を示した歌でした。
 副産物がありました。「カナハズの音すなり」と、「金(かな)はず」が二回でてくるのだが、原文は「奈加[弓耳]」とハッキリ「なかはず」になっている。「はず」というのは弓の上のはしっこと、下のはしっこをいうので、「中はず」というと弓のどこの部分のことかわからない。それでひっくりかえして「かなはず」にして、「金属でできたハズ」という解釈をして、改ざんしたことばで理解している。私の説では「ナカ」は地名で、「ナカという土地で生産された一定の様式をもった弓」という理解ができ、原文を変えずに理解できる。この調子で行くと、まだ次々と出てくると思うのです。

森嶋:それはお書きになったら面白いと思う。どこが良いだろう?

古田:この間、これらの歌にでてくる土地、内野、大野から由布岳、鶴見岳へ行きましてね。由布岳は歩いて登りましたが、なんとか、大丈夫でした。
私の行ったときは鴎がボツボツ出はじめたときで・・・。
 七〇一年に倭国から日本国へ交替したという私の仮設で、万葉集の歌を見ますとね、未開拓の分野が一杯なんです。

森嶋:「古田史学の会」の人たちなどに言えば探してくれるのじゃないか・・・

古田:いや、すでにそういう人たちの協力に拠っているんですよ
 この間、すこし申し上げた李白・王維の詩もですね。おかしいと言ってこられたのは、東京の定時制高校の先生なんです。それで調べて行って気がついてきた。この発見は嬉しくてしかたがない。中国の人に見て貰ったらと思いましてね。王勇さんという、杭州大学の日本文化研究所長、その方に王維のアレと李白のアレをお送りしましてね。こういうのはどうですかとお聞きしてあるのです。中国側で検討していただけるとありがたいのですが。それと、私がいま夢中と言うか興奮しているのがありましてね。それもよろしいですか。

 (休憩)

 

 『新撰姓氏録』からの発見

 三宅利喜男さんという洋服店をやってらっしゃる方が、「古田史学の会」の例会で発表されたのですが、『新撰姓氏録』という本があるんですが ・・・ずーっと各氏族の身元というんですか、祖先は何々天皇から別れたのだとかが書かれている。海外の百済、新羅とかから来たというのが書いてある、我々の世代ならよく知っている、皇別とか神別が書かれている本です・・・ ここに面白い問題を発見された。それは

 1 別れた祖先が「孝元天皇」に圧倒的に集中している。ここには皇別が百八氏族あり、神武天皇二十六氏族などより遥かに多い。ずばぬけて多いのが、孝元天皇なんです。もうひとつの特徴は
 2 仁徳から武烈の間の天皇を祖先とする氏族は全くない。ゼロである。

 ここにその表がございますが、この事実を基礎に、これは何故かを考えようと、こういう提議をなさった。これをわたしのもとへ書いてこられた。私はこれを古田史学の会の古賀事務局長と話したら、「仁徳から武烈の間はゼロが面白いですね」といわれた。三宅さんとも電話でお話したのですが、私の感覚では、この記載は造作でない証拠であると、こう考えた。記紀をみても孝元天皇なんて、あまり事跡も伝えられていなくて、どうってことない天皇じゃないですか。ここへ集中する理由がなければならない。もし造作で、小説みたいに作ったのなら、神武や仁徳や有名な天皇に集中するだろうに、有名でない孝元天皇に集中している。これは造作ではなくて、史実の反映であると、こう考えたのですね。これはなにかというと、皇暦で考えるべきじゃないか。皇暦というのは神武即位を元年とする暦で敗戦まで行われていた。昭和十五年が紀元二千六百年だった。記念行事があったのを覚えてますが。西暦に直すと神武即位がBC660年になる。現在の歴史学じゃ無視されてますが。
 私が調べると、例えば、山梨県へ稲作が入ってきたことが神社伝承にありまして、それが崇神とか景行天皇とかの時代だったと伝えられている。名古屋とかにもありまして、これらの天皇は四世紀だったと考えられるから、稲作伝来にしては遅過ぎて、スットボケた話だなあと思っていたが、皇暦でゆくと、稲作伝来が西暦紀元前になり、なるほどその時代かも知れんと、本当かどうか知らんけど、話としてはわかる。そうするとまず皇暦で考えなければいかん。

森嶋:実在の神武天皇はなん世紀なの?

古田:わたしは弥生中期末=AD100あたりと考えています。最近の木材年輪法による考古学編年では、もすこし遡るのかも知れない。

森嶋:実在とは?

古田:皇暦は暦にすぎないので、神社伝承などはこれに相当するのじゃないか。皇暦では孝元天皇は西暦のBC200−300年頃にあたる。実は私はこのころに「天孫降臨」があったと考えています。弥生前期末・中期初期に北九州での考古学出土物が質的に大きく変化します。金属器がふえはじめます。この時期を「前末中初」というんですが、皇暦の孝元天皇がちょうどこれにあたる。わたしからみると、これこそが天孫降臨という名の侵略だ。金属器と船を手に入れた部族が侵略して来た。九州王朝のニニギノミコト、実在の九州王朝第一代がここにあたるのではないか。こう考えてきたわけです。
 次の、仁徳から武烈の間の天皇を祖先とする氏族が全くないというのも、造作とするとおかしい。「魏志倭人伝」によると、中心の都が博多湾岸にあった時代を「いにしえ」とすると、仁徳時代は現代。九州王朝に関して変化が起きるのは四世紀、三一六年に匈奴が侵入して中国で西晋が滅亡し、南北朝時代になると、高句麗は北朝をバックに北朝鮮を支配し、倭国側は南朝をバックに南を支配しようとして、高句麗と倭国が激突する段階に入る。このときに倭国としては高句麗の侵攻を恐怖して、博多湾岸から筑後川下流に後退し、都を移したと思われます。これをあらわす伝承がありまして、高良大社関係の文書によれば、初代の神様・玉垂命は、仁徳五五年(西暦三六七)にここにおいでになったという。倭国の中心が移ってきている。そうしますと、九州王朝文書においては、仁徳にあたる時代は現代みたいなもの、ニニギノミコトまでは皇別、それ以前が神別になる。だから仁徳以後はないのだ。実は皇別、神別という分類は九州王朝において成立し、存在した。それを大和に写し変えてきた。と、そういうことになるわけです。『新撰姓氏録』という名前は、当然もとの『姓氏録』の存在を前提にしていますよね。伝わっておりませんが。
 もうひとつ、面白い系図がありまして、稲員(いなかず)家文書、草壁(くさかべ)氏系図というのが、ここにあります。八女という久留米の近くで、講演会を二回ほどやったのですが、これを聞かれた方があとで挨拶に見えまして、「私は松延(まつのぶ)と申すものですが、九州王朝の天子の子孫の家です」と言われたのです。「古田さんの説は、十年前から知っていたが、まだ名乗り出る時じゃないので、言わないでおこうと思っていたのだが、やっと親族から、解禁になりました」と。ビックリしましたね。それで系図をだされた。私の方で不満なのは先頭が「孝元天皇」になっていること。お聞きすると「昔は、世を忍ぶためには、こうする他はなかった」ということで、わたしとしては、これは改ざんと考えて、もと本を求めているところです。しかし、よく考えると、実はニニギノミコトが「孝元天皇」と表現されているのであって、改ざんではなかったのかも知れない。こういう面白い発見があったのです(系図を示す)

森嶋:「ヤス」という字が、みなついているみたいだね

古田:そうなんですよ、それぞれ意味があると思うんですが

森嶋:稲員さんて、どんな顔の人?

古田:このつぎに写真をお見せしますよ。

森嶋:海軍の時、私の一年ちがいに熊沢という人がいて、熊沢さんの軍刀にはね、菊の紋がついていて、半分は消してあった。戦後になって熊沢天皇という人がでてきたでしょう?。菊の御紋もなにか関係があったのかなあと言いだして。その人は、いま浜松だったかで、会社をやっているとか・・

古田:熊沢天皇も気の毒でしたね。今の天皇は北朝系ということになるが、南朝系の人も死に絶えた訳じゃないでしょうから・・・。

森嶋:南朝の人も集めて、貴族院とかを作ったら?。自分だけ大きな宮城を徳川家から奪って暮らしているのもね。

古田:もうひとつ、関連して面白いのが『東日流外三郡誌』などの和田家文書ですね。これも誰もやらないからわたしの利点になっているのですが・・・ もとになっている三春藩・秋田家で会津藩がいつも三春藩をにらんでいた。明治維新でその会津がやられた。三春藩は真っ先に勤王側についたために、位は藩が小さかったから子爵ですが、しかしそれ以上に非常に天皇家に深い関係の華族として、明治以後現代に至っている。現在は子爵はなくなりましたが、お歌所などにいて、関係があったようなんです。ところが秋田家の系図で不思議なことがありましてね。これがやっぱり孝元天皇から始まっているんですよ。

森嶋:それはまあ?

古田:『東日流外三郡誌』では、「アビヒコ、ナガスネヒコの兄弟が、筑紫の日向の賊に追われて津軽へきた」と書かれているわけです。これを伝承した秋田孝季は、神武天皇に近畿を追われたナガスネヒコと理解したようで、いろんな文章書いているんですが、わたしは秋田孝季の判断のまちがいだと思うんです。それは、ナガスネヒコということばは共通しますが、記紀にはアビヒコなんかでてきませんからね、アビヒコの方が兄さんで中心ですから、その中心を記紀が書き忘れることはない。タケヒコといったって、ひとりに限るわけじゃない、それと同じに、ナガスネヒコと言ったって、それを記紀に結びつけるのはマチガイだと、書いたこともあるんですが。それで、筑紫の日向の賊と言っているのは、日向の高千穂に天下りしたもうた、あのニニギを賊 ーー国盗り泥棒ーー と表現している。侵略した方が、アマテラス・ニニギの方で、逆に侵略された方が、板付の縄文水田の主・アビヒコ・ナガスネヒコの方だった。それで亡命して津軽へ行った。稲作を伝えたことになっていて、描かれるときには稲束をぶらさげているんですね。いままで、三春藩主が孝元天皇から出たのも意味不明だったが、さっきの目で見て、孝元天皇とあるのをニニギノミコトのこと、天孫降臨の時点と考えるとわかる。さっきのイナカズさんは侵略した側の子孫、こっちは侵略された側の子孫だが、暦ではおなじ「孝元天皇」ということで、やっとこれが解けてきたんですよ。
 こんなことは、秋田孝季はもちろん、現代の和田喜八郎さんも誰も考えていない。作り物であるはずはない。こんどの問題はわたしにとって大発見だつた・・・。
 被差別部落の系図にも不思議なことがありましてね。これも孝元天皇から始まっているらしい。その系図はまだ確認しておりませんので、いまはカットしておきますが。
 こうして、やればいくらでも新しい事が見つかる。これも協力していただける皆さんのおかげです。アマチュアの人達が新しい目で見て下さったら、まだまだ新しいことが出てくると思います。これで私の方の今日お話ししようと思っていた内容は終わったのですが、手伝ってくださった方々からお聞きしたいことはありませんか?

 

 教育と経済と政治

木村:昨日ですかの毎日新聞で拝見したのですが、先生がお書きになったライオンの記事を。

森嶋:あれはね、大阪版でこのくらい ・・・ちょっと出て、それをおもしろい言うて、東京版は半面ぐらい載ったのかな。今週の初め位に出たのかな。今日送ってきてくれたが、その中にライオンの話を入れた。大阪版にはなかったが。

古田:その話をお聞きしたいと話していたのですが

森嶋:というのはねえ、教育で、家庭教育、職場教育、学校教育とあるが、日本の場合は、家庭、職場、学校すべて知識教育。だから子供がさぁ三、四才位になりますわね。私の京大時代の助手の人がイギリスへ来て、一年位居たのだが子供がいた。私の孫が半年くらい年上だった。そこは家族みんな日本人。私の息子は日本人だが、そのワイフはイギリス人で、だから孫は混血。三、四才のころで、ものすごくよくしゃべるが、ABCは書けない。日本人の子供の方は日本から来てすぐだから英語はなにもしゃべれぬわけ。お父さん、お母さんはアルファベットを教えた。そして「ようやく全部覚えました」と喜んでいる。しかし英語はしゃべれない。しかしそんな年頃にABCを習ってもある意味で無意味だ。だから知識として教えているわけ。だのに親は知識として教える他にすることがないという。ところがね、英語でいちばん重要なのは発音であって、どう書くかはそれほど重要ではない。正確な発音を教えるのはものすごく難しくて、主として母親の仕事である。子供を座らせて、「唇を注意深くみなさい」と言って発音をやってる。単語のシラブルを教える。子供はお母さんの唇を見て発音を覚える。日本では母親の唇を見るような期間がなくて、日本の母親はすぐに子供に積木を見せて、「これなあに?」、「これは?」と教えて、できたら「よく言えた」と教える。イギリスの母親は肉体で教える。ふたつの環境で子の母を見る感じが違うと思う。肉体で教えて呉れるという感じがする。親子の情がちがってくる。教育問題といえば、動物の教育。自分でエサを取れないと困るからそれを教える。ライオンも赤ん坊の時は母親がそばに居ないと餓死してしまうから、ひとりだちして、エサをとること、猟の仕方を小さいときから見せるわけ。ライオンの家族というのは、特別な組織をもっていて、猟をするのは雌の仕事。雄は絶対に猟はしない。普通のライオンの家族は、たとえば雄一匹、雌六匹、子供たちというふうに構成されている。雌たちは共同作業で猟をする。雄はゴロンと寝ていて、雌が非常な危険になったら出て行くし、他の雄が来て群を乗っ取ろうと攻撃されたら雄同志で戦う。雄が負けると新しい雄にグループを明渡す。グループから離れると、雄ライオンは餌をとれない。獲物を取った経験がないのだから。それでやがては餓死する。これが雄ライオンの運命。ライオンファミリーのある意味の倫理体系で、これを教える。これに従っているからファミリーが持続している。ライオンですら、倫理を教えている。これは重要なこと。人間ではなくて、ライオンですら、倫理を教えて、小さい子供もわかってゆく。危険な動物が来て、出てはいけないときは母親は「出るな、引っ込んでおれ」と教える。人間もこれを小さい時に教えなければならない。日本の家庭はそうではない。教育の欠陥は家庭教育の欠陥。それを新聞で話した。この点、外国の人とすごく違う。戦後の女の人が必死に言うことに「社会へ出たい」がある。いわゆる「ウーマンリブ」。特に日本で強い。イギリスの場合、日本ほどではない。イギリスで夫婦共稼ぎの場合、だいたい奥さんの教育程度が高くて、比較的優秀な家庭である。できる子供が生れるのが普通である。ところが共稼ぎっ子の学校の成績は、共稼ぎでない子よりもずっと悪いという。お母さんも稼いでいる家庭では、仕事大切で、子供はほったらかし、大抵テレビっ子で、テレビばかり見ていて成績が悪い。これは重大な問題であるというのを英国のテレビで見たわけね。だから私はウーマンリブはやり方をよほどよくしないと考えものと思う。イギリスではおかあさんが働くときは、できれば住込みの女の人 ・・・これをナニーというが・・・ を雇って教えてもらうと、奥さんの収入の大部分はナニーの収入になってしまう。それでもお母さんの社会的自立のみプラスと考えているわけやね。結局ね、日本の場合、教育問題は究極的に大切と思う。ところが教育問題は絶望的に直すことができない。直らない。なぜか?。教育問題の専門家は文部省の役人や。それから小学校の先生も文部省の役人。事実彼らは専門家で、善く知っている。ところで、ほかのことだったら、たとえば農業問題なら、専門家は農林省でも、農家と農林省は直接の関係はないちゅうこと。
 農家は自分で収入がある。干渉はあるが独立なわけ。中小企業と通産省との関係でも同じなわけ。ところが教育では、学校の先生はみんな文部省の下部組織。おかねの系統がそうなっている。使用人にすぎない。独立して自分の方針で教えますといえる人はいない。そういうことが唯一言えるのは、大学の先生(国立の場合)。で、学問の自主とか言うて、文部省の干渉を排斥しているが、国立の先生が定年になったらみんなよその大学、私立へ行くわけ。一年目は「ひどいですね。学生は勉強しよらんし、もう教えるのがいやになりましたわ」というわけね。それを言うのは一年間だけや、(笑)二年目になったらね、そう言わんようになる。なぜ言わんようになるかというとね、文部省からね「こういう風にやらんかったらね、補助金を送りませんよ」と言う命令が来る。たとえば大学院を作るという。先生は作りたくない。「こんな私立大学、悪い大学に大学院を作ってなにになりますか」と言うのだが、そう言っているのは来たての先生だけ。補助金がないと財政が成り立たない。理事長とかは補助金が欲しい。改革はなにも起こらない絶望的や。

古田:逆にですね、塾の先生になると、ふたとおりあって、本当に受験技術一式の先生と、非常に人間味のある先生があるようですね。私の息子もそういう先生に出会って、非常に慕っておりましたが。

森嶋:知識教育はね、わたしも講演をすることがあるが、日本人は××%などと数値を話すと、すぐペンをもってノートをとる。思想的あるいは論理的な説明になると、ポカンと聞いている。いかに知識を大切にするか。外国人は数値などノートをとらない。これは学問に対する考えちがいがしみついている。

古田:このまえにすこしうかがったことですが、歴史の場合、英国では歴史(全般)に関心があるというとあまり相手にされなくて、何年から何年までの歴史かという反問があったように、専門化されていると。

森嶋:高等学校段階はそれほどでない。特に大学はねオックスフォード、ケンブリッジなどは非常に分断されている。イギリスの歴史学会は専門家の集団で他の人が立ち入れない。歴史学の地位も高いしね。

古田:日本ではこまかく覚えるのが大切という雰囲気ですものね。

山崎:折角先生のお話を伺うので、日本経済の問題について、伺いたいのですが?

森嶋:日本経済?、こりゃもうあかん。絶望的や、おそらくね。政治家が悪い。あんな阿呆ばかりもっている国はおそらく日本だけとちゃう?。最近の政治家でマアマアだったのは中曽根ぐらい。あとはなんにもよう言わへん。小淵なんかは特にひどいけどね ・・・野球のダブルプレーの時のように、バンとついたら、パッパッと反射的なヒラメキを外国の政治家はやるけどね・・・。ところが日本の政治家はドボーンとして、オイオイと。

古田:戦争中の東条首相は悪い人じゃなかったが、融通がきかないというか、真面目で視野がせまいというか、そんなふうに見えてますが、あの時代もそんな人ばかりではなかったのでしょうね。

森嶋:海軍でいうと、米内さんは視野は広いがドボーンとしていた。山本はキレ者だった。けれども偏っていたかもしれん。しかし米内が山本は危険だと思っていても、よう抑えない。キレ者を抑える事ができぬ。これが日本のわるいとこ。
 周恩來はキレ者だったが、毛沢東の弱点はわかっていてもよう言わなかった。

古田:そうだったんですか

森嶋:現在の政界は政治の何たるかを知らぬ。選挙区に政治利権を運ぶことにキュウキュウとしている。自分の選挙区に利権を運ぶ。数の安定がなければならぬと、自党や派閥の安定ばかり考えている。ヨーロッパの政治はそんなことは考えない。
 私が「政治家は馬鹿だ」というたとしたら、日本人はなんで森嶋はそんなことを言うのか理解できないだろう。毎日新聞の東京・北海道版では「小淵首相が首相であるようでは日本はダメだ」と大見出しになった。わたしは口ではそう言うたが、そういう見出しにされるとは、思わんかった。しかし読者は読んでもわからぬだろう。
 外国の政治家は日本人にはわからない。ものすごい違いや。ブレアは四十四才だが、頭の回転が速い。ものすごく敏感。みんなの意見を聞こうとする。イギリスで一番問題なのは、福祉政策だが、下の層の人達をよくするのには金がかかる。手厚くすると金が足りず、赤字になる。どうすればよいか?
 大学に、そういう諮問が来る。私の方の研究でうまく行っているのが福祉政策。ロンドン大学とブレアの福祉は密接。だから、その政治家と学者がガッと結びつく日本では諮問委員会制度で、名前を列ねるだけで、政治家と一体になっていない。

古田:むしろ政治家がやりたいことを学者に言わせて、自分たちでやっちゃうみたいですね。

森嶋:わたしらの学長ギデンスは、もとケンブリッジにいたが、最近ロンドンスクールの学長に戻ってきた。派手な人で、だからすぐブレアと結びついた。ギデンスが派手にブレアと結びついたので、こんどはロンドン大学がブレアのブレインだなと ーー世間がみな、そうみる。
 で、サッチャーの失敗は、サッチャーはオックスフォード出身なのにオックスフォードと喧嘩したこと。これでサッチャーはオクスフォードを嫌った。喧嘩したのでサッチャーにはブレインの学者がおらず、ウォルタースをブレインにした。ウォルタースはロンドン大学の先生で、まあまあできるが一流ではなかつた。ウォルタースは離婚したが、イギリスの先生の給料では、慰謝料が払えなくて、アメリカの大学へ行ってしまった。残ったイギリスの大学の先生達は殆ど大部分が、サッチャー嫌い、アンチミセスサッチャー。日本人は理解してないが。ウォルタースはそのサッチャーと組んだから、ものすごく、みんなに嫌われた。ウォルタースは私と一緒に教授会に居ったが、あいつあほやとみな言うておった。ブレアは大学との関係はうまくやっている。

古田:日本はその点駄目ですね。

森嶋:日本の政界の人達は、学者とうるさい議論をするのはイヤ。嫌い。学者が入っていったらいやがる。ところが外国では、学者になる政治家が多い。例えば、ロンドン大学の前の学長ダーレンドルフ。私は彼との関係は非常に良かったのだが、ドイツ人でイギリスの学長になった最初のドイツ人。それで戦中ナチスに協力したのだろうと学生がだいぶ問題にしたが、ところが彼は実は高等学校で反ヒトラーの運動を起こした闘士だった。ドイツで政治家になりたかったらしいが、ヨーロッパ連合の大臣になったのをロンドンスクールが引き抜いたわけ。学長を二期済ませたあとはドイツへ帰って政治家に立候補するつもりでドイツへ帰った。これは判断を誤ったと思いますが、コール保守政権が強大で、彼は選挙に二回落ちて志を得なかった。このように、学者と政治家とが密接で、入れ替わりもある。国際政治の場で議論しても、パッパッパッと議論が速い。
 日本の政治家は利権の運び屋で、アイディアは官僚まかせ。G7とかへ行っても、なんにも話ができぬ。握手をして、フアーストネームで呼んでもらったとかを、親しくなった証拠だなんて喜んでいるが、フアーストネームで呼合うのは親しくなった証拠だなんていうが、誤解だ。フアーストネームで呼合うのは小学生。小学校のときは「ケンちゃん」なんてよぶだろう。これと一緒。中学へ入ればファーストネームでは呼ばない。「おい、モリシマ!」があたりまえ。それで大学まで行く。
 しかし、勤め場所ではみんなファーストネームだ。みんな「ミチオ!」と呼ぶ。
 ファーストネームの生活。みんな名前を覚えるのが早い早い。だけどセクレタリーが二十人もいるが、モリシマという姓だということは、知らん人がいてもおかしくない。通路で出会うと、よく知らぬ人が「ハーイ ミチオ」なんて呼ぶ。
 こっちはミョウ字は知っているが、むこうの人のファーストネームを思い出そうとして「なにやったかなぁ」と考えているうちに、向こうへ行っちゃつてる。(笑)。功なり名遂げて「サー」の称号を貰うとファーストネームだけになる。もう名字は呼ばない。「サー・ジョン」とか、子供に帰ってゆくわけね。教授会の議事録なんかも、ファーストネーム。「モリシマ」が言うたとは書かず、「ミチオ」が言うたとなる。ミスターだれだれとは言わぬ

古田:ハァそうですか、ミドルネームはなしですか?

森嶋:いや、一杯あるのよ。私に孫ができたわけね。孫はエズミーちゅうの。女の子、ミドルネームはヨーコ、モリシマは息子の姓で、エズミー・ヨーコ・モリシマ、ヨーコは彼のお母さんの名前。次の男の子はマシュー・ミチオ・モリシマとしかけたら、息子の奥さんが自分方の姓(リーブ)を入れて呉れというのね、そこで、マシュー・リーブ・ミチオ・モリシマ。

 

 最後に

古田:最後にお願いがあるのですが、古田に対する、ご注意、お叱りはありませんか。

森嶋:さっきも言ったように、「こだわるな」ちゅうことやね。皆に認められるとか認められないなどと言わぬ方が良い。よそから見てて、あんた位うまく行っている人はいない。本が並んでいること自体が評価。それからね、非常に良く似た本は書くなと、書くなら全く違ったことを書け、違内容の本を書けということやね。内容がある程度固まるまで出すな。それはね、あなたの場合と私等の方とはだいぶ違うけどね。
 私の先生(高田保馬教授)はね、本を百冊近く書いた。もの凄く偉い先生や。だけどね、それだけ書いた効果があるかちゅうことや。終戦後彼は特にたくさん書き出した。あまり書き出すと弟子のワシが買わんようになった。(笑)マタカちゅうんでね。コントロールして、数を少なくする事が大切だと思う。まぁ私もよく書いた方で、英語の経済学の研究書が十三冊ある。まだあと少しは書くつもりだが。日本語の本も岩波新書とか書いているが、あれは、日本語のは学問の業績には数えてない。もともと小説家になりたかったのでね、できるだけ専門の経済学のことは、日本語では書かないようにしている。日本語のは小説家になったつもり、つまり専門外のお楽しみで、そのかわり、売れたかどうかには凄く関心がある。英語の本のときは売れ行きには敏感でない。業績が良かったかどうかだけを考える。あなたの本は、読んでいて明晰だし、あきることがない。筆の力だ。独特の文章でハギレがいいしね。

古田:ひとつだけ、『論座』十二月号に書いておられましたが ・・・日本の学者は晩年になると業績がなくなる、米食のせいであろうかと・・・。私はボケるまで、勉強を続けたいと思っています。

森嶋:それはクェスチョンマークだなぁ。死ぬまでやるのはよいが、途中でいつボケるかわからんよ。私の先生(高田保馬教授)は、死ぬまでやる、頭を使わないとボケると頑張られたが、ボケて来たのが分ったので、静かに引退の勧告に行った。私の勧告が異例で、日本の大学で弟子が先生に「やめてください」と言った例はなかった。
 これから言いに行くという時に数学の園部先生に相談したら、「大丈夫だ、高田はそういうことで怒る男じゃない、行け」といわれて ・・・わかっていただいたのだが。先生も晩年は、散歩に行っていて、下鴨の自宅へ帰るのに、方向が分らなくなって、警察へ頼んで探したら、京都駅でトボンと座っていたことがあった。ものすごく気の毒や。奥さんやお嬢さんがそれからは一人で外出させないようになった。ボケかけは、本の質が悪くなっても、先生自身が自覚しない。

古田:なるほどね。

森嶋:あなたがボケるまでやるというのは立派だが、途中でいつボケるかわからんよ。

古田:私がボケるまで、よろしく。どうも長時間ありがとうございました。

日時:1998年11月12日
場所:国際高等研究所(関西学園都市)
同席者:水野孝夫、山崎仁礼男、木村賢司(古田史学の会)


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