2004年12月9日

古田史学会報

65号

1、九州年号
・九州王朝説
 冨川ケイ子

2、二つの「聖徳太子論」から
 大田齋二郎

3、太田覚眠における
時代批判の方法
 松本郁子

4、甕戸(おうど)から
大戸国への仮説
 西井健一郎

5、西村秀己
『盤古の二倍年暦』を読んで
短里における
下位単位換算比の仮説
泥 憲和

6、明治天皇が見た九州年号
『靖方溯源』

「太宰府」建都年代
に関する考察
九州年号「倭京」「倭京縄」
の史料批判
 古賀達也

7、古田史学いろは歌留多
日本史の構造革命に迫る
仲村致彦

事務局便り


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釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった(講演集より)

伊予の古代史正す「聖徳太子の虚像 道後来湯説の真実」の著者合田洋一さん(古田史学会報 64号)へ


二つの「聖徳太子論」から

改めて「古田武彦」を顕彰する

奈良市 大田齋二郎

【二つの聖徳太子論】

 聖徳太子を論じた著書が二冊あります。いずれも今年出版されたもので、一冊は合田洋一氏の『聖徳太子の虚像』ー道後来湯説の真実(創風社出版、以下「合田書」 )で、会報でもしばしばご紹介されているものであり、もう一冊は東北大学大学院田中英道教授のもので、『聖徳太子虚構説を排す』(以下「本書」)と題され、九月に「PHP研究所」から発行されたものです。書名のとおり、両書はその面目を争っていますが、「歴史学も、科学する学問である」という立場から判定すれば、「合田書」に軍配が上がることは明白です。
 例えば、両書とも「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」を引用していますが、「合田書」が、古今内外の資史料と対比させ、慎重に聖徳太子の不在を検証するのに対し、「本書」は、通説どおりこの銘文の主人公は聖徳太子であることを微塵も疑っておらず、「温湯碑」や「法起寺塔露盤銘文」「元興寺縁起」などに関わる諸説も、何ら躊躇なく自説の補強に引用しているのです。

 「本書」の意図は、「新しい歴史教科書をつくる会」の会長でもある田中教授が、聖徳太子実在の是否に関する論議が高まる中、歴史教科書から「聖徳太子」が消えていく風潮に大きな危機感を抱いたことにあります。同教授は、法隆寺とその周辺の文化遺産は古美術の原点である、という視点から「太子実在論」を展開しているようですが、谷沢永一、大山誠一両氏の「不在論」に対する反論、更には、問題の焦点である「十七条の憲法」「三経義疏」、加えて梅原猛氏の「怨霊説」に対する見解など、批判の対象は沢山あります。しかしこの小論ではそれを省き、「本書」が力説する「古美術」との関連部分を取り上げることにします。


【古美術と歴史学】

 「本書」は、歴史はより「形象学」でなければならない、と記述しています(p19)。そして、文献史料しか読まない歴史家を戒め、例えば聖徳太子に関しては、「法隆寺をはじめ、そこに残されている形象史料を観察し分析しなければならない」と述べています。しかし、このような考え方は「土器編年法」の轍を踏むものです。土器や鏡の形象に頼る編年が多くの矛盾を孕み、その矛盾が「C14法」や「年輪法」などの理化学的方法への移行を押し上げている現実を忘れているのです。「本書」は「法隆寺五重塔の心柱」の伐採年次を「法隆寺非再建論」の最有力根拠として挙げていますが、それが五九四年であることを確定したのは「本書」も指摘している「年輪法」であって、心柱を形象学の対象として観察したからではありません。
 ところで「本書」は、美術史に疎い人、歴史に疎い人に対して「美術史音痴」「歴史音痴」などと表現していますが、その是否は兎も角、私は「美術史」という学問に、果たして「歴史学」が語れるものなのかどうか疑問に思っています。何故なら、確かに美術であれ歴史であれ、それは人間によるものです。しかし、前者は鑑賞という一人一人の心、つまり個人の主観の問題であるのに対し、後者は歴史というその時代における事実の検証であり、その課程において、必ず客観性の是否が問われるからです。所詮、両者を同じ次元で論じるには無理があるのではないでしょうか。


【閑話休題】

 千利休が豊臣秀吉から「死を賜った」ことは著名ですが、その原因のひとつに、ルソンから輸入された壺の価値を利休が評価し、その結果、価格が暴騰、それを招いた利休を秀吉が怒った、というのも数えられているそうです。
 人間ひとりの鑑定で物の価値を決めてしまう不合理を、合理主義のかたまりのような秀吉が許さなかった、ということのようですが、秀吉と利休のお二人はセットになって、今でも歴史学のデイベートではよく見かけることが出来ます。


【文科系学問が持つ危険性】

 さて私の手元にもう一冊、『知の技法』という本があります。十年前、「古田史学の会」の発足の前後「東京大学出版会」から発行されたものですが、その意図は文頭の文章から明らかです。
 「・・・・・・文科系学問における知の技術性の側面を強調することのうちには、悪くするとひとりよがりな知識の集約に終わる危険性もないわけではない文科系学問全体に、開かれた、はっきりとした共通基盤を与え、・・・(傍線はママ)」
 「東京大学出版会」の理事長であった養老孟司氏は、名著『バカの壁』の中で当時を述懐しておりますが、まさにバカ売れしたようです。私もこれは「古田史学」の精神に共通するものと考え、発会当初の会報にも紹介し、今でも何かにつけ好んで引用しております。東京大学を母校とする田中教授も、このベストセラーの存在をご存知と思いますが、この本の編集には、文科系学問が持つ危険性に対し、当時の若い教授たちの危機感のようなものが、そのエネルギーになっていたのではないかと思います。


【科学としての歴史学】

 「本書」の性格は「合田書」と対比することによって、更に明白です。副題に『道後来湯説の真実』と題された「合田書」は、松山市の道後温泉に伝わる聖徳太子来湯説を取り上げ、「温湯碑」の銘文内容に「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘と共通性するものがあることに注目し、関連する資史料をあまねく検証し、道後に来たのは聖徳太子ではなく九州王朝の天子、タリシホコであるという結論を導いたものです。「合田書」の特徴は通念に対する疑問とその検証であり、主観を重んじる立場にある「本書」とは際立った違いを見せております。得られた結論には、誰が検証しても再現性が期待出来ますが、是非とも田中教授にもご一読して欲しいと思います。


【過ちに対する復元力の土壌】

 社会活動では多かれ少なかれ過ちは避けられません。古代史では酷いものになると、自分に都合のいい史料はよく確認もせずに取り込み、また逆に反論が山ほどあり、自分でも反省しているのに、いつまでも自論を撤回しないなどです。前者は専門外の学者に多く、後者は大家と呼ばれる方に多いようです。しかし、我慢のならないのは、理工系では考えられことですが、そのような過ちを学界が見逃していることです。
 過ちに対する復元力、ともいうべきこの力の差。これは、一方は客観つまり理性を重んじ、他方は主観つまり感性に頼っているからではないでしょうか。事実は一つ、という信念のもとに、若い頃から観察や資料の検証が習性になっている理工系に対し、同じように真実を求めている筈なのに、その習慣が身についていない多くの文科系研究者。
 しかし理工系出身者でも自分の専門分野を離れると、俄に一変し、古代史談義などでは、エゴ丸出しでその口論を楽しんでいる楽しい仲間を自分を含め何人も知っています。
 さて、古田武彦先生はこの理工系出身研究者の習性を身につけられている数少ない文科系研究者のお一人です。私たち「古田史学の会」の会員は、その先生のもとに集まっているのです


 これは会報の公開です。

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