西村秀己『盤古の二倍年暦』を読んで -- 短里における下位単位換算比の仮説 泥憲和(会報65号)
向日市 西村秀己
北宋の太宗の勅令により編纂された「太平御覧」に引用された「三五暦紀(記)」(三国呉 徐整著)には、次のような一節がある。
天地渾沌如鶏子盤古生其中萬八千歳天地開闢陽清為天陰濁為地盤古在其中一曰九変神於天聖於地天日高一丈地日厚一丈盤古日長一丈如此萬八千歳天数極高地数極深盤古極長後乃有三皇数起於一立於三成於五盛於七処於九故天去地九萬里(尚、原文の旧字の一部を当用漢字に改めた)
かの有名な盤古伝説の一部である。全文の読み下しは省略するが、要するに一日に一丈づつ成長する盤古と天が有り、一万八千年後その身長と高さが九万里に達した、という記事である。しかし何かおかしい。計算が合わないのである。そもそも定説によれば、中国のどの時代に於いても一里は一八〇丈であったらしい。(古代では六尺=一歩、三〇〇歩=一里。唐以降では五尺=一歩、三六〇歩=一里。つまりいづれに於いても一、八〇〇尺=一里。そして一〇尺=一丈)とすればこの場合の計算式は、
一×三六五×一八、〇〇〇÷一八〇=三六、五〇〇
となる。要するに暗算で簡単に答が出てしまうのである。
勿論、ここに記された数字は縁起の良い数字を連ねたに過ぎないのかもしれないから、計算の合わないことに拘泥するのはナンセンスの極みだ、という観点もあろう。だが、ともかく確認しておくにしくはない。
まず、右の定説に関わりなくそれぞれの単位を確認しておきたい。
「丈」は隋唐以降約三mだが、周代においては約二mだったいう。(吉川弘文館歴史手帳による)従って、この二つを「丈」の候補とする。
次に「里」だが、これには当然長里(唐以降のものとして約五四〇mとする)と短里(約七六m)を考えなければならない。
とするならば、計算は四通りになる。
1) 丈三m里五四〇mの場合。
三×三六五×一八、〇〇〇÷五四〇=三六、五〇〇里
2) 丈二m里五四〇mの場合の場合は同様に二四、三三三里
3) 丈三m里七六mの場合。二五九、三四二里
4) 丈二m里七六mの場合。一七二、八九五里
以上である。何れも九〇、〇〇〇里には程遠い。やはり、無駄な努力だったのだろうか。しかし、古田武彦氏によって古代中国における二倍年暦の可能性が指摘されている。そこで、先の計算に二倍年暦を導入してみよう。
1)÷二=一八、二五〇里
2)÷二=一二、一六七里
3)÷二=一二九、六七一里
4)÷二=八六、四四八里
「丈」二m「里」七六m「年」一八二.五日の場合のみ、約九〇、〇〇〇里というに相応しい。しかも、この場合「丈」「里」共に周代以前の単位なのである。これは果たして偶然なのであろうか。
古代人には計算能力など存在しない、などという考え方は現代人の傲慢であることは言うまでもない。従って右の結果は検討に値するものではあるまいか。すなわち、盤古の成長は、「短里」と「二倍年暦」という古田史学の成果を同時に用いて初めて計算し得るのである。
最後に、先に述べた「縁起の良い数字(聖数)を連ねただけのもの」という考え方を検証してみよう。この尤もらしい或いはオトナの考え方には、実は大きな落とし穴があるのである。古代中国に二倍年暦や短里が存在しなかった場合、「天日高一丈」を「天日高五尺」にし「萬八千歳」を「九萬歳」とするだけで、その計算結果は「天去地九萬里」になるのだから。しかも、同様の聖数を使用したにもかかわらず、である。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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