古層の神名 古賀達也(会報71号)
九州王朝と筑後国府 古賀達也(会報76号)
白雉改元の史料批判 -- 盗用された改元記事 古賀達也(会報76号)
「元壬子年」木簡の論理 古賀達也(会報75号)___________________________________________________________________________________________
古賀達也の洛中洛外日記 第72話 2006/04/21実見、「三壬子年」木簡
木簡に九州年号の痕跡 -- 「三壬子年」木簡の史料批判 古賀達也(古田史学会報No.74)へ
本会ホームペー「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載
「元壬子年」木簡の論理
京都市 古賀達也
第八二話 2006/06/10
「元壬子年」木簡の証言
一九九六年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(六九話、七二話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。
学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(六五〇年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(六五二年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。
従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。
あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずた」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。
第八三話 2006/06/10
「元壬子年」木簡の論理
前話に続いて、「元壬子年」木簡がテーマです。今回はこの木簡の持つ論理性について更に深く考えてみたいと思います。「元壬子年」木簡の記述が直接的に指し示すことは、この時間帯(七世紀中頃)の年号の元年干支が「壬子」であるという事実です。『日本書紀』によれば、この時期の「壬子」の年は、孝徳天皇の時代、「白雉三年」(六五二年)が相当します。従って、木簡解読時に担当者が「元」の字を「三」と読み誤ったのには、それなりの理由があったわけです。
一方、『二中歴』などに掲載されている九州年号では、この時期の「壬子」の年が「白雉元年」とされているのです。『日本書紀』と同じ「白雉」という年号が二年ずれて九州年号史料には多数収録されているのですが、この史料状況は九州年号真作説に有利な論理性を有していました。すなわち、もし九州年号が後代の偽作なら、「白雉」という年号名を『日本書紀』から盗用しておきながら、年次は二年ずらしたという、何とも奇妙な偽作方法となるからです。偽作するのに、全く必要のない手法です。従って、逆にこうした史料状況は偽作ではない証拠となるのです。この点を、偽作説論者は全く説明できていません。
従って九州年号の白雉が偽作でなく、真実であるとなると、事態は逆転し、『日本書紀』の白雉が九州年号からの年次をずらしての盗用となること、当然でしょう。そして、この論理性が正しかったことを、「元壬子年」木簡が無比の物的証拠として証言しているのです。ここに、今回の発見の画期性があります。
そこで次に問題となるのが、なぜ『日本書紀』編者は九州年号から白雉をわざわざ二年ずらして盗用したのかということです。それには一応の推測が可能です。すなわち、「大化の改新(詔勅)」の5年間を孝徳紀にはめ込みたかった。この可能性です。次の九州年号群を見て下さい。
常色 元(丁未)~五 647─651
白雉 元(壬子)~九 652─660
白鳳 元(辛酉)~二三661─683
朱雀 元(甲申)~二 684─685
朱鳥 元(丙戌)~九 686─694
大化 元(乙未)~六 695─700
これは『二中歴』から九州年号の後期部分を抜粋し、西暦等を付記したものです。このように年号は時間軸を表す「記号」として連続していなければ意味がありません。この点からも『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」の三年号の現れ方は異常だったのです。
この九州年号に「大化」があることに着目して下さい。『日本書紀』にも「大化」(六四五~六四九)がありますが、既に述べてきましたように、「九州年号」が正しく、『日本書紀』が誤っていた、あるいは盗用していたという事実から見ると、ここでも九州年号の「大化」が『日本書紀』に五十年ずらして盗用されていると考えるほかありません。
そして、わざわざ五十年もずらして盗用した理由は、「大化」という年号だけを盗用したかったなどとは考えられず、『日本書紀』の大化年間に散りばめられている、いわゆる「大化の改新(詔勅)」を年号の「大化」と一緒に盗用したとしか考えられないのではないでしょうか。少なくともその可能性が最も大きいと思います。このことから、結論は次のようです。七世紀末に九州王朝が発した「大化の詔勅」を大和朝廷は自らが発したものとして歴史を造作した。これです。そうでなければ、九州年号の大化を五十年も遡らせて、自らの史書『日本書紀』に盗用する必要など全くないのですから。従来から、古代史学会で論争となってきた「大化の改新」の史実性についても、こうした「九州王朝の詔勅からの盗用」という新たな視点により、有効な解決がなされると思われます。
第八四話 2006/06/14
「大化五子年」土器の証言
第八三話で九州年号にも大化があり、しかも『日本書紀』の大化(六四五~六四九年)とは異なり、七世紀末(六九五~七〇〇年)であることを紹介しました。そして、『日本書紀』は九州年号の大化を五十年遡らせて盗用したものと結論づけました。日本古代史学界からは無視されていますが、実はこのことを裏づける金石文が既に出土しているのです。茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵している「大化五子年」土器がそれです。
わたしは古田先生らと共に、一九九三年に見せていただいたのですが、同土器は高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
「大化五子年
二月十日」
と線刻されています。
この土器は江戸時代天保九年(一八三八)春に冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土したもので、大化年号が彫られていたことから出土当時から注目され、色川三中著『野中の清水』(嘉永年間〈一八四八~一八五四〉の記録)や清宮秀堅著『下総旧事考』(弘化二年〈一八四五〉の自序あり、刊行は一九〇五年)などに紹介されています。また、当時の領主も当土器を見に来たとのこと。冨山家には、その時領主のおかかえ絵師による同土器が描かれた掛軸がありました(絵師の号は南海)。
その掛軸の絵や『野中の清水』の絵にもはっきりと「大化五子年二月十日」と記されていますが、現在では「子」の字が故意による摩耗でほとんど見えなくなっていました。おそらくこれは『日本書紀』の大化五年(六四九)の干支「己酉」と異なるため、それを不審として削られたものと思われます。
『二中歴』では大化六年(七〇〇)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が一年ずれています。おそらく、この土器には干支が一年ずれた暦法が採用されたためと考えられますが、詳しくは拙論「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」(『古代に真実を求めて』第二集)を御覧下さい。
一方、『日本書紀』の大化年間には全く子の年はありません。従って、この土器の大化五子年は七世紀末の六九九年のことと考えざるを得ず、九州年号の大化を証明する貴重な同時代金石文となるのです。しかも、地元の土器専門家によって、七世紀後半から八世紀前半に属すると鑑定されており、六九九年はこの鑑定のど真ん中に位置しています。なお、この土器は煮炊きに使用された後、骨蔵器に転用された痕跡があるとのことで、刻された「大化五子年二月十日」とは命日か埋葬日のことと推定されます。
このように「大化五子年」土器は、九州年号の大化が存在したという真実を証言しているのです。同土器の存在は、地元の考古学者により専門誌で報告されているにもかかわらず、古代史学界は無視しています。大和朝廷一元史観の学者の、九州年号や九州王朝を認めたくないという気持ちは分からないではありませんが、何とも非学問的でアンフェアな態度と言わざるを得ません。
第八五話 2006/06/15
「白鳳壬申」骨蔵器の証言
第八三話に掲載した七世紀後半部分の九州年号を御覧になって、白鳳年間が他と比べて異常に長いことに気づかれたと思います。実はこの点も九州年号真作の論理性が現れているところです。そのことについて述べたいと思います。
九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れています。
「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮織*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(七三七)
織*は、身編に織。糸編無し。
稱*は、人編に稱。禾偏無し。
このように、近畿天皇家の公文書にも九州年号が使用されていたのです。特に聖武天皇の詔報に使用されている点など、九州年号真作説の大きな証拠と言えます。通説では、この白鳳を『日本書紀』の白雉が後に言いかえられたとしていますが、これも無茶な主張です。そして何よりも、白鳳年号の金石文が江戸時代に出土していたのです。
江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されています。
「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺
博多湾岸から出土した「白鳳壬申」(六七二年)と記された骨蔵器の記事です。残念ながらこの骨蔵器はその後行方不明になっています。なお、この『筑前国続風土記附録』は筑前黒田藩公認の地誌で、信頼性の高い史料です。
これでも、大和朝廷一元史観の人々は、「九州年号はなかった。九州王朝もなかった。」と言い張るつもりでしょうか。少しは科学的で学問的な思考をしていただきたいものです。
これは会報の公開です。
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