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隅田八幡伝来「人物画像鏡銘文」に就いて 飯田満麿(会報72号)
大野城太宰府口出土木材に就いて
奈良市 飯田満麿
事の起こり
去る四月十四日付け新聞全国各紙は、九州歴史資料館の研究成果として、次のような記事を掲載した。「同館が、一九八六年に実施した大野城発掘調査の際『太宰府口』城門で出土し、その後同館で保存していた木材を精査していたところ、昨年十月、その木材に三文字の漢字刻字が発見された。この木材は高野槙材、直径四十八cmの柱材、最外周年輪の年代は六四八年と断定された。従って柱の刻字としては、国内最古級と評価される。因みに刻まれた三文字は上から「孚」「石」「部」又は「都」と判読される。」
『日本書紀』によれば、大野城の築城は六六五年とされている。今回の発表が正確ならその時期が十七年遡る事となる。一見何の変哲もない事実の発表にしか見えないが、「白村江の海戦」を中に挟んでの十七年間の前後関係は、実に重大な問題を孕んでいる。当然のことながら、我が「古田史学の会」の内部は色めき立った。勿論その原動力は古賀事務局長であった。忽の間に関係資料を収集され、いくつかの問題点を摘出された。
私の所にもその事について問い合わせがあった。最初私に示された課題は、高野槙材の性質に就いてであったが、いつの間にか私も夢中になった。高野槙材の一般的性質調査に始まり、城門の形式、出土材の部位、刻字の意義、文章の意味と次第に関心が広がり、色々調べる内おぼろげながら一定の結論めいたものが見えてきた。古賀事務局長から再び連絡があったとき、その構想を伝えたところ、面白そうだから例会で発表したらと依頼され、五月二十日の例会時に公表することと為った。
例会発表内容の詳述
1 高野槙材の性質調査
高野槙はスギ科コウヤマキ属の常緑針葉樹で、日本固有の樹種。別名本槙、金松。本州中部以西、四国、九州、の山地に自生。高野山に特に多く、その呼び名を為した。樹形は素直な円錐形を為す。時に直径一.〇m~一.二m樹高二七m~二九mの大木も存在する。但し自生なので量的には多くない。
木目が詰まって美しく、耐水性に優れ、肌色の変化が少ない。現在でも、建築材、浴槽材、として好事家に珍重されている。嘗ては古墳の木棺にも利用され、朝鮮半島からも同材の木棺が出土している。(府中家具共同組合編『木材図鑑』による)
2 太宰府口城門の構造
現存遺跡には礎石式城門遺構が残存している。これだと最低でも四脚門又は六脚門であり出土木材の部位の確定に苦しい。幸い同遺跡の敷居下敷石に、掘っ立て柱式門柱の扉軸受け石が転用されていて、この門が一度以上建て直され、且つ当初は掘っ立て柱式双脚両開き門であったと確認された。因みに大野城には他に三カ所の城門が存在するが、何れも掘っ立て柱式双脚両開き門の遺跡を残しており、太宰府口門の原型確定を補強している。
以上の結果、出土木材は、初期城門掘っ立て柱の、残存埋め込み柱脚部材と判断される。(鏡山猛氏著「太宰府都城の研究」一九七一年 風間書房による)
3 出土材の伐採年
城門構造が双脚両開き門だとすれば、門柱は皮むき丸太のまま使用された可能性が極めて高い。何故ならこの形式では門扉の幅及び高さは、柱付き立地(袖壁木材)と敷居鴨居で規定されるから、門柱の直径は開口部を規定しない。総ての木材は最外周年輪の外に幅一cm程度の形成層を有している。年輪幅は一定ではないが、ほぼ二mm~四mmであるから、最外周年輪の外に、四mm以上の白太部分が在れば、其処が伐採年である。
この出土木材は六四八年以降に伐採され、その数年後には現地で城門の柱として埋め込まれ、その後何かの原因で門が倒壊した際に、奇跡的に土中に遺存し、今日真に貴重な歴史遺産として我々の眼前に出現した。
4 木材刻字の意義推測
建築部材としての木材に、文字を施す行為はごく一般的である。その場合は概ね墨書で、施工の際の部材位置等を示す大工符丁が大半である。希に見え隠れ部分への落書なども存在するが僅かである。しかし刻字となると、確かな人間の意志を反映して重い意味を持つ。二一世紀の今日でも、建設行為は多くの縁起行事を持っている。まず地鎮祭、定礎式、立柱式、上棟式。完工までこれだけの行事が存在する。勿論これらは施主の縁担ぎで、総て常に行われる訳ではないが、地鎮祭だけは、工事業者の事実上の義務として施行される。之は見栄や酔狂で行うのでなく、之をやらぬと職人が仕事に就かないからである。従って日本国中地鎮祭をしない工事は存在しない。事を始めるに当たって先ず、地の霊に祈りを捧げるという、民衆の原初的心情は古来よりの伝統である。此の観点からすれば、今回の刻字は先ず、魔除け、願掛け、地鎮の意味合いが最も強い。一方この城門を寄進した豪族の記念刻名の可能性も絶無とは言えない。
5 刻木文字の文意推定
今回、最も注目した文字は「孚」字である、この一見略字のような文字は、豊かな意味を有していた。(この項『大字典』一九六八年 第七四版 講談社による)
「孚」
〔音〕ふ (漢)(呉)共
〔訓一〕マコト(名) 訓義 偽り無し
〔訓二〕タマゴ(名) 訓義 鳥の卵、孵化、種、玉の採光
〔訓三〕ハグクム(動) 訓義 育む
〔字源〕
会意、爪と子の合字、鳥が卵を暖めるとき、常に爪で転がし一様に温める様。
〔応用〕
浮 孵 桴 艀 蜉 郛
〔熟語〕
孚尹 玉の光る貌。
孚化 雛をかえす。
孚甲 種子の殻。
孚休 まことによし。
孚佑 恵みあつきたすけ
孚育 はぐくむ。
孚乳 孚育に同じ。
孚信 まこと。
「孚」「石」「部」又は「都」三文字の組み合わせで、刻字の意義が豪族等の自己主張とすれば「浮」「石」「部」の組み合わせは有力である。太宰府から遠くない下関市に「浮石」地名が存在する。中国山地に含まれる地域で、高野槙材の産地の可能性は高い。しかしこの場合は「部」の説明が苦しい。一方この刻字を魔除け、願掛け、地鎮、の類と規定すると、「孚」字が織りなす幾つかの熟語が注目される。就中私は「孚佑」の二字に引きつけられた。『大字典』によればこの熟語は『書経』の一節を為していると記されている。曰わく「上天孚佑下民」(天は民に恵みあつき助けを与えたもう)この流れに乗れば、「孚」「石」「都」の組み合わせが有力となる。
但し「石」を「佑」又は「右」と解さねばならない。「石」字がやや右に偏っていること、人偏は木繊維の摩滅で消えやすいこと、等を勘案すればあり得ないことでない。「孚」「佑」「都」の組み合わせは「この都に恵みあつき助けを」という切実な願望が浮かび上がる。唐・新羅との外交上の圧力をまともに受けていた、当時の倭国の人々の緊張した心根が、切実に感じられる刻字と納得できる。以上私の論及が何処まで真実に迫っているか?会員各位の問題追及の一助にでも為れば甚だ幸いである。
平成一八年六月二日 脱稿
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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