九州古墳文化の独自性 -- 横穴式石室の変遷 伊東義彰(会報第70号)
巣山古墳第七次調査現地説明会(会報75号)
七支刀鋳造論 伊東義彰(会報76号)
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巣山古墳(第5次調査)出土木製品
生駒市 伊東義彰
平成十八年三月二十三日の朝刊(朝日新聞)に「古代に舟の野辺送り」「浮かぶ神話の世界」などの見出しで、「舟形木製品」や「木棺の蓋」などが、奈良県広陵町の巣山古墳から出土したと大きく報じていました。また、三月四日(土)に広陵町の町役場で出土品の一般公開が行われましたので、見学に出かけました。現場説明会や一般公開・見学会などでいつも苦労するのが駐車場ですが、この日は土曜日でもあり、役場の駐車場を開放していたので助かりました。開始時間よりも小一時間早めに着いたにもかかわらず、すでに百人を超す行列ができていました。
巣山古墳は墳丘長二二〇メートルの大型前方後円墳で、奈良県広陵町大字三吉近辺に広がる馬見古墳群(中央群)の中でも最大級の古墳であり、古墳時代前期末葉(四世紀末ごろ)の築造とされています。この中央群には巣山古墳のすぐ南に墳丘長二〇〇メートル余の新木山古墳(五世紀前半:陵墓参考地)があり、南群とされている南方には巣山古墳と同じごろに築造されたと思われる墳丘長二一〇メートルの築山古墳(大和高田市築山:陵墓参考地)があり、遠く南方に離れた御所市室には宮山古墳(墳丘長二三八メートル:五世紀前半)もあります。さらに北群とされている北方には、川西町唐院の島の山古墳(墳丘長一九五メートル:五世紀前半)、河合町川合の大塚山古墳(墳丘長一九三メートル:五世紀中葉)などの大型前方後円墳があり、これら一連の大型古墳は、大和政権の中枢部から離れていることもあって、奈良盆地南西部の大豪族葛城氏の墳墓ではないかとされています。
巣山古墳からは今回の発見の他、発掘調査のたびごとに新しい発見があり、中でも平成十五年の第三・四次調査で前方部西側の周濠から島状遺構が出土したことは、まだ記憶に新しいところです(大阪府藤井寺市の津堂城山古墳からも同様のものが見つかっています)。
巣山古墳 第5次調査概要
I 出土位置と出土状況
木製品は墳丘北東角から周濠北東隅まで周濠を横断するトレンチから出土。周濠北東隅には葺石が約二m施され、木製品は葺石裾付近に集中して出土した。木棺は裏返った状態でで周濠底から出土し、舟形木製品や建築部材は有機質土内から出土している。
II 木製品の概要
*木棺・・・長持形木棺の蓋(約二分の一)。材質はクスノキ。現存長約2.1m、幅約78cm、厚さ約25cm。復元長約4m、最大幅約1m(縄掛突起を含む)
復元すると側面に各二ヶ所の縄掛け突起がつく。中央が高くなり、両端は平たくなる。上面には、円文ー格子文ー直弧文が重複して彫られている。表面に赤色塗料が塗られていたらしい。
*舟形木製品・・・全長約3.7m、幅45cm、厚さ5cm。材質はスギ。複元長8.2m。おそらく両端が反り上がって舟形を作る。いろいろな部材を繋ぎ合わせたと思われる切り込みや小孔がある。表面には円文と帯文が彫刻されている。円文は方形区画の中に縦線で鏡を吊したように表現されている。装飾古墳の中に同様の文様がある。赤色顔料の痕跡がある。
*その他・・・三角形材、木隅、笠形木製品、建築部材など。
III 木製品の意義
木棺は埋葬施設から取りだしたものとは考えられない。この地点で出土した木製品は全て同時期のものと考えられ、全て削られたり割られたりしていることから破砕祭祀が行われていると見られる。出土した木製品は全体の一割程度と考えられる。各部材を復元して、これが組み合わされていたと考えると、舟形の上に長持形木棺が乗り、これが修羅に載せられていたと復元できる。このイメージ作りには、文献には日本書紀・古事記・隋書倭国伝などの記載が参考になり、考古資料からは天理市東殿塚古墳の埴輪の線刻、唐古池採集舟の線刻埴輪、大阪府三ツ塚古墳の修羅、装飾古墳の舟の絵や文様が参考になる。
以上が一般公開時に配付された資料をまとめたもの(一部削除・配置変更)です。資料にはこの他、巣山古墳調査位置図や木棺と舟の復元予想図(イメージ復元:河上案))が描かれていました。
資料「III、木製品の意義」の中で、イメージ作りの参考とされている資料について若干検討してみたいと思います。
文献資料
(1) 『日本書紀』
「神代上第四段一書第十」伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生み神話: 「次ぎに蛭児を生む。巳に三歳になるまで、脚猶し立たず。故、天磐?樟船に載せて、風の順に放ち棄つ。」
(2) 『古事記』
神功皇后の「忍熊王の反逆」: 「是に息長帯日売命、倭に還り上ります時、人の心疑はしきに因りて、喪船を一つ具へて、御子を其の喪船に載せて、先ず「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏さしめたまひき。」
(3) 『隋書倭国伝』(隋書イ妥国伝)
開皇二十年(六〇〇)の遣使:
「死者は斂むるに棺槨を以てし、・・・貴人は三年外に殯し、庶人は日をトして埋*む。葬に及んで屍を船上に置き、陸地にこれを牽くに、あるいは小輿*(よ)を以てす。」
埋*の同義語。病だれの中に夾。夾の下に土。JIS第3水準ユニコード761E
輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。
考古資料
(1) 東殿塚古墳(墳丘長一八五メートル:四世紀後半~五世紀初め頃:天理市)の埴輪の線刻
鰭付楕円筒埴輪の表側(墳丘の外側を向いている面)に二つ、裏側(墳丘に向いている面)に一つ、計三つの船が線刻されており、表側の下段に線刻されている船は、両端(舳先と艫)が大きくせり上がり、前後に二つの屋形、風になびく旗、傘などが描かれ、舳先には鳥がとまっています。被葬者の魂を死者の国に運ぶ船を描いたものとされていますが、片側の舷側に七本の櫂と大きな舵があるところを見ると外洋船ではないかと思われます。
(2) 三つ塚古墳(仲津媛陵の三つの陪塚:大阪府藤井寺市)の修羅
応神天皇皇后仲津媛陵の陪塚とされる八島塚古墳と中山古墳の間の掘から大小二つ出土(地下二m)。大修羅は長さ九m弱、幅二m弱で、百トン近くの巨石を運搬できるとされ、一緒に出土した土器から七世紀のものではないかとされています。
(3) 装飾古墳の船の絵・文様
船の絵や文様が石室内に彩色画として描かれているのは九州の装飾古墳です。五郎山古墳、珍敷塚古墳、弁慶が穴古墳、田代太田古墳、鳥船塚古墳などたくさんあり、中には長方形の箱(棺?)を乗せたものや舳先などに鳥のとまっているものもあります。ただし、九州のこれらの装飾古墳は六世紀後半のものばかりで、巣山古墳の時代のものにはありません。
(4) 唐古池採集の舟の線刻埴輪
唐古池採集と伝えられたものを一九三七年頃に京大が報告書に載せたもの。個人蔵で実物は見ることができない由。東殿塚古墳の埴輪線刻に似た絵で、準構造船・外洋船の感じで、四世紀末ごろのもの(広陵町文化財保存センターと田原本町文化財保護課の話)。
以上、資料に記載されている内容を見てきましたが、新聞の論調や専門家の談話などを見ると、今回の調査による出土遺物と隋書イ妥国伝とのつながりを強調しているかに見受けられます。
日本書紀や古事記の記述はともかくとして、隋書イ妥国伝とのつながりについて若干考えてみました。
隋書が記述する葬送儀礼の習俗は、六世紀から七世紀にかけてのものだと思われますから、巣山古墳の築造時期とは二〇〇年ほどの開きがあり、記紀の記述も年代に大きな開きがあります。文献にせよ考古資料にせよ、畿内地方の六世紀~七世紀にかけてのものは修羅を除いて何もありません。修羅は五世紀~八世紀ごろまで使われていたそうですから、それが七世紀に使われていたという物証以外の証明にはなりません。
ところが、彩色画として古墳の石室内に船が描かれているのは九州だけであり、しかも六世紀後半のものが多いわけですから、隋書イ妥国伝に記述する葬送儀礼の習俗と時期的に合っているのです。六世紀~七世紀にかけての船と関連する葬送儀礼の習俗を考古遺物の中に残しているのは九州の装飾古墳であって、畿内やその周辺には残っていないということです。畿内の古墳から船の埴輪が出土するものの、五世紀代のものが多く、そのころの習俗が隋書の記述の対象になったものとは思えません。隋書が記述する葬送儀礼の習俗は、九州で行われていたのではないでしょうか。九州に圧倒的に多い舟形石棺も時期こそ違え、つながりを考えさせられる一つの資料になるのではないかと思われます。
古墳の墳丘や堤は周濠を掘った土を盛り上げて造ります。当然、墳丘は水を湛えたかなり広い濠に囲まれることになり、墳丘へ行くためには船や筏が必要になります。巣山古墳から舟形の木製品が出土したとしても別段のことはないのではないでしょうか。
平成十八年三月三十日
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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