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私考・彦島物語II 國譲り(前編) (後編)
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私考・彦島物語III 外伝
伊都々比古(前編)
垂仁紀に発見、穴門の国王
大阪市 西井健一郎
一、伊都都比古
1.記紀の神代巻は、 彦島伝承から生まれた
記紀神代の説話の多くは、山口県最西端の下関市とその北方豊浦郡を主舞台とする。その主役として活躍するのは、下関市は彦島出身の神々である。彦島は下関市街地から西へ関門海峡に突き出した半島だが、その間に小瀬戸海峡、記紀のいう橘の小戸が走り、本州から切離されて島になっている。そこは響灘と周防灘、つまり日本海と瀬戸内海をつなぐ海上交通の要所である。
なぜか、そこに伝えられていた同地の神々や王達の伝承、私称彦島伝承が近畿王朝に移り、造作され、古事記や日本書紀の神代巻を中心とする古えの部分に埋めこまれている。
記紀の神名や地名についての出自を記紀の中に求めた私には、そうとしか読み解けないのだ。おそらく、古事記の序にある彦島周辺の布都の地に出自をもつ太(オホの)臣、安萬呂が下関市稗田の地に阿禮(生あ れ)たのだろう稗田阿禮に口誦させたとの記事に関連があると思う。
2.長門国外の引島
その彦島について、興味をひく記述がある。
かって、この彦島、本州下関の地を筑紫日向と書くのは、九州の意の筑紫ではなく、日向(ヒコ)島が土筆の形をしていたからとの説を出して、冷笑を浴びた。明らかに彦島である地を指して、記紀が筑紫と書くのが不可解だったからだ。だが、古代の人達は同島を九州の一部としていたのではないか、と疑わせる記述をみた。仲哀紀五十迹手(いとて)説話の「引嶋」への注(岩波文庫本紀二)にである。
同注は、「下関市彦島か。類聚国史、天長七年(八三〇年)五月条に“長門国外(引カ)島一処為勅旨島”といい、・・・。吾妻鏡、文治元年二月条に“固門司関、以彦島定営”とある。引にはヒコフネ(引舟)・ヒコシロフなどヒコという例があるので、ここでもヒコシマと付訓する」と書く。彦島が勅旨による命令以外では触われなかった特別な島だったことを伝える。
だが、そこにある「長門国外」とは、どういう意味だろう。単に長門沖だけの意味だろうか。長門国には含まないとの意味にもとれる。吾妻鏡の記述も彦島を九州側の門司と一体に扱う。ならば古来、彦島は本州ではなくて、九州に属させられていたのかもしれない。だったら、筑紫(島)の日向(島)という表現も納得できる。ただ、神代巻には、門司や小倉と推察させる地名がない。先稿で九州とみたカグツチの地ですら、下関市内のようだ。
大和視点の国学者の方達は、記紀の神名や地名を奈良など近畿の地名で説明しようとする。その視点を彦島に移したのが私称「彦島史観」だ。それは、記紀の記事は彦島やその周辺域に存在した彦島伝承から発しているとの立場で読み解き、その情報源となった元の伝承を再現しようとする努力である。
この彦島史観を補全する記事、彦島出身の英雄達が作ってきた筈の穴門の王家の後継者、日本代表とも名乗る権力者が後代にも存在した記事を垂仁紀に見つけた。今稿はその記事を出発点として、「記紀のいう倭国とは」へ考察を進めよう。
3.ツヌガアラシトの証言
彦島出身の英雄達がかって覇をとなえた山口県の響灘沿岸域に、日本代表を自称する王がいた。その王の名は伊都都(いつつ)比古、紀のツヌガアラシトの来日譚に載る。
同来日譚は垂仁紀二年条の原注部分にある。私訳すると「前代崇神天皇の御世に、額に角が生えた人が船で越国の笥飯(けひ)浦についた。だから、その地を角鹿(つぬが)という。何者かと尋ねると、意富(おほ)加羅国王の子、都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)、亦の名于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と答えた。さらに、日本に聖皇あると聞き、帰化するためにきた。穴門へ着いたら、伊都都比古との名の人がいて、『おれがこの国の王である。おれを除いて他に王はいないから、よそへ行ってはならん』といった。しかし、その人品が王のように見えないので、そこを離れた。ただ道を知らなかったので、連島浦に留まった。そこから北海へ廻り、出雲国を経てここへ来た。その時に天皇が亡くなったので留まり、以後三年活目(いくめ)帝に仕えた」とある。
4.穴門国王、伊都都比古
注目はこの伊都都比古である。原文では、“到于穴門時、其國有人。名伊都々比古。謂臣曰、吾則是國王也。除吾復無二王。故勿往他處。”とある。穴門は長門、つまり山口県に日本の王を名乗る人物、伊都都比古がいたのだ。
アラシトはその王から脱し、連島浦に停泊したとある。連島はおそらく今の六連(むつれ)島、彦島の北西2キロ強にある島だろう。なれば、伊都都比古の王宮はその近く、下関市西部沿岸のどこかにあったことになる。なお、文庫本紀二は、“留連嶋浦”を「嶋浦シマジマウラウラに留連ツタヨいつつ」と訳す。
この伊都都比古が、彦島伝承が記紀にその存在を伝える穴門王家のその時の王である。本人が日本、といったかどうかはさだかではない。だが、この地方を代表する王だといったというからにはそうだったのだ。これまでこのセリフが無視されてきたのは、日本を代表する大王は大和にしかいなかったとの思いこみによる。磐井もそうだが、欽明紀三十一年条にも高麗の大使が越の国に漂着し、その地の郡司が王と偽ってその調(みつぎ)を取りこんだ事件が載る。知った帝が使いを派遣して回収するとともに、山代へ招き守護したとある。地方豪族が王を名乗り、横取りするのはよくある事のように書くからでもある。
伊都都比古は穴門西岸域に君臨してきたイザナキや大己貴以来続いている穴門王家、宋史外国伝日本国条の王年代紀に載る天御中主以来彦瀲まで、“凡二十三世、並都於筑紫日向宮”以降の同王位継承者の一人だろう。ただ、何代後の王かは未詳。崇神天皇の御世とはあるが、決め手はない。なお、年代紀が二十三世で切ったのは、神武東遷との整合性を保つためだ。ひょつとすると大海人皇子までの系図だったのでは、と夢想する。
彦島史観からは、その王「伊都都」とのネーミングとそのパターンに興味をもつ。
二、伊覩県主五十迹手
1.彦島に出迎えた五十迹手
穴門の王、伊都都比古によく似た名前を持つ首長が紀に載る。崇神帝から五代後、仲哀紀の五十迹手(いとて)である。
「(仲哀)天皇が筑紫へ来られたと聞き、筑紫の伊覩県主五十迹手は舟を飾って穴門の引島に出迎えた。その態度を見て、天皇は褒め、『伊蘇志』といった。だから、時の人は五十迹手(いとて)の本土を伊蘇国という。今の伊覩というのは訛ったものである」(仲哀紀八年正月条。私訳)とある。
この五十迹手の「十」をトと訓むと、「イトト」テと呼べる。十は「{呉}ジュウ、{漢}ジッ。とお・と」と漢和辞典にある。漢字を替えると、伊都都にあたる。しかも、その支配地は伊覩である。覩は睹({漢}ト、{呉}ツ。みる)の異字体、都と同系とある。その読みはトかツかは後に回し、伊都と当ててもおかしくない。
欽明紀二十三年七月是月条には、倭国造の手彦(てひこ)なる人物が載る。文庫本紀三の注には「手彦は他にみえず。倭国造は大和国大和(オホヤマト)郷の豪族・・・」とあるが。倭(国)には「手」との人名があったことになる。なれば、五十迹が伊都都と同じ地名であり、原称は「イトトのテ」だったか。イトトという形式を持つとすれば、伊都都比古の後裔か先祖の可能性がある。また、欽明期の手彦が倭国造なら、仲哀期の五十迹手はその先任者だろう。
とはいえ、五十はイソと訓む可能性が高い。山本五十六との名の海軍大将がいたように、現在、五十はイソと訓む。五十迹手もその支配地は、“時人號五十迹手之本土、曰伊蘇國。今謂伊覩者訛也”。昔はその地をイソと呼んでいた、とある。迹は{漢}セキ、{呉}シャクとあるから、その原称はイソのセキテだったかも。
2.伊蘇と熊曾
この伊覩の地については、文庫本紀二の訳者は当然、糸島半島説である。「釈紀十所引筑前風土記逸文、怡土郡条に“天皇於斯誉五十跡手曰、恪乎〈謂伊蘇志〉、五十跡手之本土、可謂恪勤国、今謂怡土郡訛也”」と注に書く。この記述は、紀を下敷きにして糸島半島へ引水したものだろう。だから、風土記著述の時点で、伊覩に「筑紫の」と付記したと推測する。もっとも、九州の風土記は九州王朝が編していたものとの説もある。この伊覩の怡土郡説は同王朝の手によるのかも。彦島伝承は一度、九州王朝に採取され、そこで誤読・牽強付会の造作がなされているかもしれない。
伊蘇は、彦島史観では熊曾と同地とみる。
この地名は、「イ地方の蘇(ソ。襲・曾)地区」との二段地名である。これは国生み記の“熊曾(襲)國謂建日別”、つまり「熊(ゆう)地方の曾(そ)地区は建日国の別称、または別れ」の熊曾と同じ表記法なのだ。地方名の熊が伊に代わったとみる。地名「襲」が一字で書かれた例は、景行紀十二年十二月条、“議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰、朕聞之、襲國有厚鹿文巡*(あつかやき)鹿文者。是兩人熊襲之渠帥者也。”にある。なお、曾と襲は層を成して重なる意が共通し、蘇は隙間がある様を伝える。仲哀紀八年条の神が“天皇何憂熊襲之不服。是膂宍之空國”と誨(オシ)える山際の貧地なのだ。
巡*は、巛の代わりに乍。JIS第3水準ユニコード8FEE
この熊が伊(倭)に替わるいきさつを伝えた伝承が倭建(ヤマトタケル)の熊曾建(クマソタケル)退治(景行記)説話になったとみる。伊が倭に書き替えられた理由は後編で述べる。熊曾建が、自分が名乗る国名(王位)を倭に取替え、倭建として小確命に捧げたことにより、熊曾の地は倭と呼ぶようになったとの地名変更伝承が、倭建名献上説話になった。であれば、伊蘇国は建日国の一部、熊野(ゆや)の近辺か同地になる。神生み記に“次生野神、名鹿屋野比賣神。亦名謂野椎神”とあるのは、熊野の野(や)の姫は鹿文(かや)を語尾につけていることに発している。襲の地でも人名の語尾は鹿文だから、ソとヤは同地の可能性がある。そこは、油谷湾に近い豊浦郡北部の地だろう。
3.伊都都比古より古い五十迹手村長
そのあたりからならば、丸木舟を飾って岸伝いに彦島まで来ることができる。博多や遠賀を飛び越えて、糸島半島から彦島まで来ることはありえない。そんな遠くまで穴戸御幸のニュースが素早く伝わるとは思えないし、出迎えに出る理由も考えられない。
この五十迹手は伊都都比古よりもずっと古い時代の人物である。
まず、その出迎えの方式、飾る位置こそ違え榊に鏡や剣を飾る方法は天岩戸時の天照サロンと同類である。古色蒼然としている。
また、伊都都比古は王と名乗ったが、五十迹手は村長扱いである。
昔はその地を「伊蘇志」といった、とある。イソシは仕事にいそしんで働けとの意である。だが、この語尾の「志」は、櫛八玉の多芸志にも使われている。当時の村落を示す語尾だろう。つまり、伊蘇村との意だ。また、神武紀の兄宇迦斯(エウカシ。先輩の宇迦の地の長)のように、部落長を示す語尾にも使われている。この語尾が使われたのは、伊都都比古よりずっと古い時代だろう。
さらに、五十迹手は他所から彦島へ来たとある。伊都都比古は彦島またはその近辺に宮をもったと考えられる。二人は本拠地を異にする。その呼称もイソのアトテまたはセキテでは。イトトで括ることは諦めざるをえない。
4.伊都都比古と磐筒神
五十迹手をイトトテと読み伊都都比古の先祖とする仮説は、成立が難しくなった。
そこで戻して、伊都都比古を文庫本紀二の訓通り、イツツ・ヒコと読んでみよう。すると似た名の神、磐筒神が浮かぶ。伊都都は磐筒(いわつつ)の転字だったのではないか。
磐筒神は、紀のカグツチを斬る場面と国譲りの交渉者を選ぶ場面に系譜が載る。前者を示せば、“其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石。而因化成神、號曰磐裂神、次根裂神。兒磐筒男神、次磐筒女神、兒經津(ふつ)主神。”(紀第7一書)とある。
また磐筒神はイザナキのミソギで成る底筒之男・中筒之男・上筒之男神(記)と同類の神という。神功皇后摂政前紀には神名を尋ねる皇后の問いに、“日向國橘小門之水底所居、而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。”と答えたとある。筒とは星ではなく、両口が海に開いた海峡の意。この三柱の神は彦島の小戸に出自を持つ。
磐筒神の親もまた小戸近辺にいた。磐裂はイ(わ)サキ、現在の下関市伊崎の地名に残る。そこは小戸を挟んで彦島の海士郷の対岸である。後裔の経津主もそこの出だろう。
また、皇后の三韓征伐に協力したとして、この三神が“我荒魂、令祭於穴門山田邑也。”(神功摂政前紀)といったとある。穴門に関係があるのだ。この山田邑の祠は、補注に「延喜神名式に長門国豊浦郡住吉坐荒御魂神社(今、下関市一の宮町、住吉神社)がある」と記すが、小戸からは遠い。後世に移されたものだろう。
以上、伊都都比古からの探索をすすめてきた。残念ながら、五十迹手には適用できなかったが、イツツあるいはイトトというネーミング・パターンは、一つの文化圏あるいは時代に特有な、共通するものとみたい。
その形式の名をもつ人物が後世の天皇紀に載る。例えば、崇神紀の倭迹迹日百襲姫である。後編では、この姫名を手始めに、より新しい歴史の中の彦島伝承を探索する。
使用文献(後編末尾に記載)
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