2005年12月 8日

古田史学会報

71号

1宣言
新東方史学会設立
 古田武彦
会長に中島嶺雄氏
 事務局

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史
考察1
 藤本光幸

筑後風土記
の中の「山」
 西村秀己


壬申の乱に就いての考察
 飯田満麿

5私考・彦島物語 I 
筑紫日向の探索
 西井健一郎

6【転載】
『東かがわ市歴史民俗資料館友の会だより』第十九号
平成十七年度にあたって
 池田泰造

なにわ男の
「旅の恥はかき捨て」
 木村賢司

古層の神名
 古賀達也

『和田家資料3』
--藤本光幸さんを弔う
 古田武彦

10浦島太郎
の御子孫が講演
事務局便り

 

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私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索

大阪市 西井健一郎

一、筑紫日向の檍(あわき)原

 1.筑紫日向の小戸の地
 「筑紫日向」は、記紀の神代巻で最も重要な地域である。
 そこは神代の大イベント、イザナキ命のミソギの地、ニニギ命の降臨・埋葬の地だからだ。ホホデミ命やウガヤフキアエズ命の埋葬地や神武天皇の出発地も、筑紫はつかないが日向とあるから、同じ地域だろう。
 これまでの通釈では、その地を九州の一画とする。しかし、記紀の読み取り方によっては、それとは異なる解釈もできる。「筑紫日向」の地を、類書をみない独善的な読み方(以後「私見」という)で探索した。

 「筑紫日向」の地の特定に結びつく記述は、イザナキが黄泉から逃げかえりミソギする地名にある。記はそれを“到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也”と書く。紀には“則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而祓除焉。”(第6一書)とあり、さらに別の一書により詳しく“故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也。”(第10一書)と載る。
 ミソギの地、檍原は小戸の橘(立ち鼻=岬)の脇にあり、その小戸は潮(海流)の流れの強い粟門と速吸名門との二つの瀬戸を持つ海峡の近くにある、と読み取れる。
 後者の速吸名門については、神武紀に同地名が載る。東征に向かう神武天皇を珍彦が待つ部分、“天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神。名珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、”である。
 この記述は、速吸之門と曲浦(文庫本・紀はワダのウラと振る)が近隣にあることを示す。ただし、記には吉備の高島宮を出た後に速吸之門へさしかかるとある。私見では、厳の高島宮とあった伝承が、厳しいと読まれて吉備に置き換えられている。
 曲浦とは、曲がりくねった水路・港の表現である。その形状を持つ海峡の一つが、関門海峡だ。地図上、鉤の手に曲がる同海峡は二つの瀬戸を持つ。響灘側の大瀬戸と周防灘側の早鞆瀬戸である。さらに、下関と彦島の間には小瀬戸があり、響灘から海峡へと通じている。しかも、周辺の人々はこの小瀬戸を今でも「オド」と呼んでいるという。
 関門海峡は、記紀が記述する形状に合致する最有力候補地なのだ。ただ、この最西端とはいえ本州の地が、「筑紫日向」に含まれてしまう点が問題となろう。

 2.小戸橘のアワキ原
 次に「檍原」(紀)、「阿波岐」原(記)について探索しよう。
 アワギ原の原名は「アワキ(泡岐。岐は別れ道)のイバル」だろう。九州には、檍をイキと読む姓があり、また「村」をバル(原)と云う例が多いから、イバルと読んだ。
 この二段地名は、記の“其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也”から類推した。おそらく、伝承にはイザナミの墓は「イツとアワキの堺のイバ」とあった。後世、イツに出雲、アワキに伯伎(ハハキ)を当てたとみる。ただ、伯伎は白日(ハクヒ)かもしれない。その地を紀は“故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。”と書く。こちらは、熊野(ユヤ)の有馬(ユバ)へ葬ったと記す。ユバはイバの訛り、原称はイバルだろう。熊野は、素戔嗚尊の子、湯山主三名狭漏彦八嶋篠の名に残る湯山または湯山+八嶋の地であり、下関北部の古代地域名のひとつである。その呼称は現在、北方の油谷湾に残る。熊の曾の地は建日別と国生み記にある。熊も建日の地なのだ。
 イザナキが檍原でミソギしたのは、記紀がイザナミと書く女王(私見では、アワ出身だからアワを名に負う女王、沫那美こと青橿城根こと惶根尊である)の故郷、また葬られることになる地だったから。その地で前王の地位の継承を誓う儀式を行うために戻ったのだ。
 その檍原は、小瀬戸が岬(橘)で廻りこむ部分にあったと読む。現在の小瀬戸を曲げている彦島の山すそには「海士郷町」の地名が載る。また、その対岸には伊崎の地名がある。
 なら、下関を小戸で隔てる彦島に筑紫日向の小戸橘の檍原はあった、と仮比定ができる。
 だが、下関市の彦島へ「筑紫日向の」と形容がつくのはおかしい。そこは筑紫つまり九州ではなく、本州なのだから。筑紫は九州でなければならぬとする固定概念からは、仮比定が間違っていると見えよう。ただ、記紀を編纂した近畿王朝が九州方面の伝承として、筑紫日向をかぶせたとの逃げ方はできる。
 しかし、彦島の形状を記紀に探索すると、アワキの彦島仮説を成立させる記述が見つかる。そこで、ミソギの地は九州とするこれまでの呪縛を解いた後、その構築を試みる。

 3.記だけが書く、黄泉は出雲
 まず、ミソギをした地を九州内のようにミスリードしたのは、記である。
 イザナミの腐屍を見て黄泉から逃げ出したイザナキを屍についた雷群が追いかける説話で、記は黄泉が出雲にあったように記す。追跡を防ぐため、イザナキは黄泉比良坂を大石で塞き止める。記はその地を“其所黄泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。”と書く。出雲から逃げ帰ったのだから、ミソギの地は九州の筑紫日向だろうと思い込んでいた。
 しかし、黄泉からの逃げ口が出雲国伊賦夜坂と書くのは、記だけである。紀は本文を始め、一書も泉津を出雲と記した例はない。第6一書では、泉津平坂は地名でもないと記す。また、第9一書では、屍を見に“乃到殯斂(モガリ)之處” とあり、泉津でもない。黄泉国は出雲国にあるといっているは記だけで、後から出た書紀は否定しているのだ。
 カグツチは「香ガ(の)ツチ」だった。彼の支配地、香山でイザナミは死んだ。イザナミの屍を抱いて流したイザナキの涙が“於御涙所成神、坐香山之畝尾木本、名泣澤女神。”(記)とあるからだ。神生み、つまり征服に失敗して殺されたのだ。記はその後、比婆(イバル)に葬ったと続けるから、死ぬと黄泉に行くという別の伝承を付加したことがわかる。他に、死んで黄泉へ去ると書かれた神の例もない。イザナミは香の地で死に、そこでのモガリの後、檍原に葬られたとみる。

 4.山津見と雷(イがツチ)は古代称号
 そのモガリの地、香山は北九州市域にあったとみる。イザナキが斬ったカグツチの屍についた山津見群の頭字が、北九州市の洞海湾周辺に散らばる地名と比定できなくもないからだ。これらの山津見群は、カグツチに称号を授かった彼の直配下だった。
 モガリの地からイザナキが逃げたのは、女巫王イザナミの覡(ゲキ。男の巫女)として垂仁紀にみるようにそこに生殉葬されかけたからだろう。その振るまいに屍についた雷群が納得せず追いかけたのだ。雷群はイザナミ配下の広域首長群である。頭の形容から、大雷は大国の「イがツチ」位のボス、火雷は火国の同ボスとみる。同例では、ニニギに国を譲る事勝国勝長狭も、事は異の転字で「イが(ツ)チ・国が(ツ)チ」と称している。
 これらイザナミの雷(イカズチ)群とその一員カグツチの「ツチまたはチ」、及びカグツチにつく山津見の「ツミまたはミ」とは、神霊や神の語尾称号とされる。だが、元は双方とも太古の首長位の称号だろう。この時代、チがミより上位なのだ。
 彼等に追われたイザナキは、海峡の神々の助け得て故郷へ帰る。海峡を渡ったことを示すのが紀一書に載る“時伊奘諾尊、乃投其杖曰、自此以還、雷不敢來。是謂岐神。此本號曰來名戸之祖神焉。〔私訳:その時イザナキ、杖を投げて『ここまで帰ってくれば、雷どももあえて追っては来るまい』といった。これ(杖)をフナトの神という。元は、クナトの祖先神といっていた〕”との文である。この岐神は記に衝立船戸神と書かれているから、「舟で渡る瀬戸の神」の意だろう。その原名は来名戸であり、それは「(曲り)クネる(瀬)戸」の形状からきている。吸名門も、来名戸を訛った「キュナト」に当てた地名だろう。また、風神志那都比古も級長津彦とも書くから、キュナツ(来名津)彦から転じている。
 “自此以還、雷不敢來”には、関門海峡を渡ってホッとした気分が伝わる。渡った後、彦島の小戸の檍原でミソぐ。九州から本州へ逃げ帰ったのだ。

 5.淡洲は彦島の地
 そのミソギをする檍原のある島、彦島には別名がある。それが淡洲または淡島・粟島だ。小戸の檍(アワキ)は「泡岐(泡の枝道)」であり、その泡が上品に淡に換えられた。淡(アワ)の地が、曲浦にあることを記すのが、神功皇后摂政前紀三月条である。
 皇后が神懸りして神名を尋ねると、その一柱が“幡萩穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。〔私訳:幡に似た萩の花穂の地が我を出だした。小戸のアタ(曲浦)の節(瘤・継ぎ目)の淡郡(アワのコオリ)にいる神だ〕”と答える。私見では、この神は沫那美、またはその子イザナキである。
 この小戸にある淡郡は、国生み記の“次生淡嶋。是亦不入子之例”、“生子、淡道之穂之狭別嶋”の淡の地である。子之例(タグイ)とは征服地を指す。だから前者は、出身地の淡島は征服地の数には入れないといっている。淡嶋が自地であることは、紀一書が“先以淡路洲・淡洲為胞”と書くからわかる。淡の地はおそらく沫那美が胞(エナ、胎児を包む膜)となって、イザナキを育てた地なのだ。
 後者の淡道とは、「泡の道」の意である。ミソギを望むイザナキが“潮既太急”と云った泡立つ潮流の海峡を指す。海峡が太古、道とだけいわれた様子はイザナキの投げ捨てた持ち物から生まれた神名をみればわかる。そこには、道敷大神・道之長乳歯神・道俣神(以上、記)、長道磐神・道敷神・道返大神(以上、紀)が載る。その海峡に穂先のように突き出したのが神代巻のいう淡の路の洲である。それは地図から見て、やはり彦島だろう。

 

二、「土筆(つくし)の彦島」

 1.彦島はスペード型
 では、この淡嶋・淡洲こと彦島の形状は、神代巻にどのように記述されているか。
 第一は、先の“淡道之穂之狭別嶋”である。穂先が狭く別れた形とある。
 第二はイザナキが目にして云ったという、神武紀の“昔伊奘諾尊目此國曰、日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國”の磯輪上(シワカミの)秀眞(ホツマ)国である。私訳すると、「リング状に取り巻く磯の上にある穂爪(ホツマ、穂先)の国」といっている。
 第三も前出“幡萩穂出吾也”の幡萩穂だ。幡のように垂れた萩の花穂と形容する。
 となると、どれも淡嶋はスペード型をしていることを伝えている。
 だったら、その島の形は、つくしんぼの頭(穂先)の形ともいえよう。
 つまり、本州にある檍原への「つくし」は、国名の筑紫あるいは九州内の意ではない。単に「ツクシ(土筆)あるいはチクシの」という島の形状の形容詞なのである。ネイティブな土筆の呼称に後世、上品に九州の国名に使われていた「筑紫」の漢字をあてたのだ。
 土筆の語源は、明らかではない。平安期に「ツクヅクシ」と載り、ツクシとして登場するのは明治期になってからとある(堀井令以知氏編『語源大辞典』東京堂出版刊)。しかし、それ以前、土筆がツクシと呼ばれていたことはありえないとの否定はしていない。土筆を地から突き出た串と見立て、大昔から「チ・クシ」と呼んでいた可能性の方が高い。

 2.では、日向とは
 土筆の形をしたとの意で「ツクシ(筑紫)」が使われていたとすると、日向は彦島の「ヒコ」への当て字である可能性が生まれる。つまり、「ツクシの形をしたヒコ」島が、上品に「筑紫日向」と書き換えられていたとの見方である。
 そもそもヒコ島とは、「ヒ(火・日)地域の子島」だったとも推測できる。私見では、国生み記に載る“肥國謂建日向日豐久士比泥別”の肥国は、熊本県ではない。それは太古、ヒと称した地域であり、その地名は火のカグツチや火のニニギの神名に残る。“肥國謂”は、「ヒの国は、建日・向・日・豐ともいい、串(櫛)日と同じ(同根の)地である」と私訳する。一字の日はイであり、下関市の北方の内日(ウツイ)との地名に、豊は同じく豊浦郡との地名に残る。そのヒの国の小島との呼び名が彦島になったのではないか。
 他方、ヒコのコは、小ではなく、コウ(向)と称した地があったとも考えられる。前出の“故還向於橘之小門…”の「向へ還えり」とか、神功紀の“名、撞賢木
嚴之御魂天疎向津媛命”の向津から、「向」と当てた地があった形跡が残る。向は、北側に排気口つけた家の形という。関門海峡の北出口にふさわしい当て字ではある。

 3.隣の竹の子島は
 彦島が「日の向」島とすると、その北端にある竹の子島も「建日の国の小島」だったのでは。建(タケ)はケンと訓まれて顕に転じ、「うつし」と読みかえられている。“為大國主神、亦為宇都志國玉神”と駆け落ちする大穴牟遅に叫ぶ(記)から、宇都志國は大国である。大国も建日・向などと同じ地、下関+豊浦郡の別時代・別種族による呼称なのだ。
 竹の子島は、竹に太竹の意の「竺」を、子(シ)には「紫」を当てると、「竺紫(チクシ)」になる。また、シを多芸志・伊蘇志と同じ地名語尾とみて、「竺志」の地だったか。だから、竺紫とは竹の子島のことで、彦島と併せて筑紫日向と表現されたとみることもできる。だが、彦島の迫町の迫は、“筑紫國謂白日別”の白(ハク)が転じたものとする私見からは、ツクシは彦島であって竹の子島ではない。
 更に、志を地名語尾とすれば、ツクシは「月志」と書ける。月は月読命の月であり、壱岐島を意味する。記には、イザナキが“詔月讀命、汝命者、所知夜之食國矣、事依也”とある。オス国は押国・忍日国であり、顕宗紀三年二月条には月神がおれを奉れといったので、“奉以歌荒巣田。壹伎縣主先祖押見宿禰侍祠”とある。オスは壱岐の主の姓なのだ。かってイバル(檍原)と呼ばれた壱岐勢力の侵駐村が後世、「ツク・シ(月の村)」に変った可能性も考えられる。
 一方、タケ(竹・建)との地名は、多紀理媛のタキにつながる。多紀は多気とも書け、峯が当てられたとの妄想も可能。となると、ニニギの降臨の“天降坐于竺紫日向之高千穂之久士布流多氣”との記の表現は、「土筆の形をしたヒコ島の、背高い茅の穂のように突き出して串日国に触れる(接触している)タケの地」にいなさい、の意味となろう。
 さらに、高と向とを同称同地とみるともっと面白い発想が湧く。それが高天原である。
 高をコと読む例は、天津日高日子番能邇邇芸命(記)の名にみられる。本来この神名は天津日(対馬の)・高日子(高の地の王子)である。だが、文庫本(記)は日高日子(ヒコヒコ)と振るから、高はコとも読むのだろう。
 高を彦島に当て、天をあま(海士)、原をバル(里・郷)と読む。それは前出の彦島の海士郷町そのままなのである。別稿に譲るが、高の地は阿遅〜高日子や高比売の親多紀理毘売の支配地とみる。そこは国譲りを要求する天照大神や高御産巣日の地でもある。
 一方、日向の高千穂が彦島の島内とすると、ニニギの“久之、天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。因葬筑紫日向可愛、此云埃、之山陵”(紀)とホホデミの“後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵”とある陵も彦島にあることになる。彦島には江の浦町の地名が載るから、天津日・高日子のニニギの「エ(可愛・埃)」の山陵の地はそのあたりかも。ただ、“伊豫國謂愛比賣”の愛は、エでなくアイ。伊與(イト)のアイ島とは小倉北区の藍島だろう。

 4.彦島は、創世譚の葦牙である
 最後にもう一度、創世時初現の国神、葦牙彦舅神を再考したい。それは彦島の創生譚とつながるからである。彦舅の彦は、彦島の彦らしいのだ。
 記紀神代巻の創世譚を、要を得た紀第2一書で私訳すると「古の国稚オサなく地稚い時には、譬えて云えば膏が浮いて漂っているような状態だった。時がたち、国の中に物が生まれた。形は葦の芽のようなものだった。この芽のようなものに成ったのが、可美葦牙彦舅尊である」とある。記紀の創世譚が語っているのは、実は彦島の誕生伝説らしい。葦牙と書く葦の芽は、同じ穂の形と形容される彦島を意味する。まず世の最初に彦島が生まれ、その島に葦牙彦舅が初現の神として出現したと告げていたのだ。
 しかし、神はもと人である。神と敬う人を他と区別するのは個人姓名よりも、職位名である方が多い。例えば、我々は全村退避を決断した傑人を三宅村や山古志村の村長として識別・記憶する。太古の神名もふつうは、地名+(生存時の)地位称号からなる。
 彦舅は神名からみて、「葦の国の牙地区の日向島の」爺(ヂ)だろう。牙は鉤の手が二つ「」型に組み合わさる意だ。それは蜻蛉のトナメとも形容された関門海峡の両側の陸地を表す。イの国の海峡に面するヒコの地のボスとの称号が神名に転じている。

 5.神代巻は彦島史
 となると、記紀の神代巻に語られているのは、彦島の歴史としかいいようがなくなる。
実は、関門海峡の北側、下関市の西部に「稗田」という地名が載る。空想すれば、稗田阿礼はその地の出身で、そもそも彦島伝承の語り部だったのではないか。
 なぜ、彼が太の安萬侶に連れてこられたかといえば、この地が近畿王朝の開祖神武天皇の出身地との言い伝えがあったからだ。神武天皇は磐余彦の名をもつ。イワレつまり磐裂の出身だ。磐裂はイワサキとも読める。そこは海士の郷の対岸、現在の伊崎だろう。
 さらに、天皇は高千穂の宮で東征を図る。また“坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比賣、生子多藝志美美命、・・・”とある。彦島にいた時に曲浦近辺の豪族の娘を娶っている。つまり磐余彦はこの近辺の若者だったのだ。そして、長子は、国譲り承諾後の神ムスヒに捧げる魚を櫛八玉が焼いた、イツの多芸志の地のミミ職なのだ。
 ただし、このイワレ彦が近畿王朝の開祖とは限らない。津田左右吉氏が語られたという「近畿王朝による記紀の造作」により、イワレ彦と呼ばれた王の伝承が同じ磐余彦の名を持つ神武天皇の事績に取りこまれたかもしれないからである。
 最後に、続日本紀の孝徳天皇白雉元年二月条の白雉と改元する勅の中に「今、我が親神祖の知らす穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。・・・」との文言が載ることを付言して終えたい。
           彦島物語 I 終
〔使用文献〕
古事記 倉野憲司氏校注『古事記』岩波文庫30-001-1
日本書紀 坂本太郎氏他校注『日本書紀』岩波文庫30-004-1〜4
漢和辞典 藤堂明保氏他編『漢字源』学研
地図二万五千分の一『下関』国土地理院


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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