『和田家資料3』
藤本光幸さんを弔う
古田武彦
一
藤本光幸さんの訃報に接し、わたしは呆然とした。信ぜられぬ思いだった。念願の『和田家資料3』の刊行を目前にひかえ、心明るい日々を送っておられることと思っていたからだ。
だが、それを「意外とせぬ」心の準備も、もしかすると、出来ていたかもしれない。なぜなら、近年、聴力の劣化がすすみ、わたしがお電話して、いったんは電話口に出られても、「聞こえん。代ってくれ。」と言って、奥さんなど、家の人に代られる。そういう事態がつづいて、すでにかなり経っていたからである。
けれども、それと同時に、昨年から「もう、和田家文書刊行の準備がすむ。あと半年ぐらいだ。」とか、「もう、全部できた。」といった、うれしい情報も次々と寄せられていた。
藤本さんの場合、その手法は“古典的”だった。一字々々、読解して、御自分の原稿用紙に写してゆかれるのである。だから、「原文」(明治写本)がうまく“読めない”ときには、当然“頓挫”する。そして、他の個所と比べ、調べ抜く。やっと読める。一字すすむ。おそらくそういった試行錯誤の連続だったことであろう。遅々とした歩み、しかし屈せぬ作業、それらを朝に夕に継続しつづけて、今日の「写し終わり」に至られたものであろう。「東北人らしい、ねばり」とも言いえようが、しかし、他の、どの東北人にもなしえなかった偉業、それを見事になしとげて、この世を去られたのである。
先に「刊行を目前にひかえ」と書いたけれども、それは同時に、「ここまでやれば、あとはもう。」という充足感もまた、心の奥底にはあったものと、わたしには察せられる。
お知らせいただいた、妹の竹田侑子さんによると、晩御飯を機嫌よく食べ終わり、そのあと、不意に斃れられた。平成十七年十月二十一日、午後八時三分、病院に運ばれて永眠されたという。七十五歳。人間の本懐である。
今年末から来年に出版される予定の『和田家資料3』及び『和田家資料4』は、東日流外三郡誌の性格を知る上で、必須にして不可欠の文献である。なぜなら、秋田孝季自身が、東日流外三郡誌成立の経緯やその内容の思想性、史料としての本質を「評す」巻々が含まれているからである。「北斗抄」だ。このような「重大史料」も“見ぬ”ままに、「偽作説」に“奔る”人々に対して、わたしには「哀れ」としか言いようがない。この、未刊の数多くの史料群(今回の「北斗抄」以外にも、多数)を見た上で、ゆっくりと、存分に「偽作説」でも、何でも、展開されたら、いかが。 ーーわたしはそう思う。(妹の竹田侑子さんが今後、兄上の志を継続される。)
“日本人は、せっかち。”との「世評」を、何も、こちらから“裏書き”する必要はないであろう。
二
わたしの手もとにも、「北斗抄」がある。昭和薬科大学在任の頃、和田喜八郎氏が次々と送付してこられ、研究室にあったコピーでコピーしたものである。
今、見ると、その表紙にわたしの字で
「北斗抄 壹 1995 5・22高田」
とある。あまりにも膨大な全体量のため、わたし一人の手に負えず、高田かつ子さんの御助力をえて、コピーしていただいたしるしだ。その高田さんも、今年の五月、亡くなられた。
「 注 言
此の書は史實なれども 世襲に支障ありて科(とが)を」招く恐(おそれ)あり依て門外不出」他見無用とすへし」然るに記述大事なれは」能く保つことを子殊(「細」か)に」固く護らむは継主』代々の掟と心得可(こころうべし)」真實の史は一つにして」二つあるべからず依て」永代に遺し置くものなり」是ら北斗の正統史」とならむ日まで密と」して襲権(しゅうけん)に忍ぶべし
寛政五年 四月
秋 田 孝 季」
《 」は行かえ。 』は、紙かえ。()は古田》
これが冒頭におかれた、秋田孝季の「自序」である。筆跡は、和田末吉の長男、長作だ。彼は和田喜八郎氏の祖父。末吉の“手伝い”として、多くの和田家文書(明治写本)の書写者となっている。
右の中にも、「誤写」と見られる部分がある。「子殊」 はその一つ。「是ら」も、或は「是等」かもしれない。このような「誤写」部分もまた、「真作、判定」そして「明治写本、成立」の研究史上、貴重なのである。
「北斗抄」の本文は、次の「丑寅日本國神」と題する「文政二年八月十日、浅利元清」の文書の書写からはじまっている。今回、これを熟読すると、思いがけぬ「発見」があった。日本列島の歴史の一端、それこそ「真実」が、この「浅利元清」なる人物によって“語られ”ているのである。
かって(たとえば、コピー当時)、わたしはこれをあたかも「放言」のように“読み流して”いたのである。
「古来吾が丑寅日本國神の発祥の地は西山靼(さんたん)のシユメイル國なり」
の一節からはじまる。「西山靼」は、シベリア中央部か。そこに、中近東の「シュメール国」の淵源があり、そこは同時に、わが国の神の「発祥」の地だというのである。本当に“途方もない”説だ。だが、今のわたしにはこれを“途方もない”として、一笑に付することができなくなっている。なぜなら、信州(長野県)から出土した縄文土器が、ドイツのビール・ジョッキそのままの形をしていたからである。あの“持ち手”がちゃんとついているのだ。ゲルマン民族は中央アジアから西遷し、今のヨーロッパに至った。その故地(出発地)は、シベリアのバイカル湖付近だという(関西学院大学のヴィダー・ダヴィド助教授による)。
信州の野尻湖出土の旧石器がシベリアの旧石器と同一系列であったことは、著名だ。この旧石器は当然「シベリアからの(人間による)伝播」である。とすると、あの(一見、異様な)「縄文カップ」(の元をなす、おそらく“皮カップ”)もまた、同系列の伝播。そのように見なすことは、果たして不当だろうか。ヨーロッパのゲルマンと日本列島の縄文人とは、意外にも(或は、当然にも)はるかなる「同源」の人なのである。
願わくは『和田家資料3』以降のご支援をいただき、深く「人間の口」で言い拡めていただきたい。それが最高の供養、そして未来の日本のための貴重な礎石である。
〈注〉
東筑摩郡三夜塚遺跡出土(松本市、竹内文雄氏所蔵)Daily Times, June 2004 p.60
ーー二〇〇五・十一月二十三日ーー
これは会報の公開です。
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