2005年12月 8日

古田史学会報

71号

1宣言
新東方史学会設立
 古田武彦
会長に中島嶺雄氏
 事務局

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史
考察1
 藤本光幸

筑後風土記
の中の「山」
 西村秀己


壬申の乱に就いての考察
 飯田満麿

5私考・彦島物語 I 
筑紫日向の探索
 西井健一郎

6【転載】
『東かがわ市歴史民俗資料館友の会だより』第十九号
平成十七年度にあたって
 池田泰造

なにわ男の
「旅の恥はかき捨て」
 木村賢司

古層の神名
 古賀達也

『和田家資料3』
--藤本光幸さんを弔う
 古田武彦

10浦島太郎
の御子孫が講演
事務局便り

 

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日本の神像と月神の雑話 木村賢司(会報70号)

「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで 木村賢司 (会報72号)


なにわ男の「旅の恥はかき捨て」

豊中市 木村賢司

 この九月十六日から二六日までシルクロード旅をした。中国は6度目である。この旅が中国最後の旅かと思う。私は生涯に5度中国旅行をしたいと思っていた。〇一年四月に古田先生と行く「中国古代史の旅」をしたので、一応目標は達成していたのであるが、あれは特別であり、シルクロードはどうしても、と思っていた。グローバルという旅行会社が「シルクロード列車の旅十一日間」を発表したので、同行仲間を求めたところ、史学仲間の田村映二さんが応じてくれてご一緒できた。古希までには、と思っていたので大満足である。田村さんに感謝、感謝である。
 いつものように、旅はビデオとカメラにたっぷり納めたので、これからも、何度でも思い出を楽しむことができる。でも、この旅も多くの失敗と恥をかいた。旅の恥はかき捨て、思い出しても恥ずかしいが、あえて、恥も楽しい思い出にする。そこで「古代史知ったかぶりの恥」をいくつか披露するので笑ってください。

 

日本の銀銭

 西安のホテル会議室でシルクロード講座があった。西域に出発する前に予備知識を、との旅行会社の配慮である。講師は陝西歴史博物館の王世平先生でシルクロード専門の教授。天皇陛下の説明案内役も務めた著名な方である。
 上手な通訳で内容がよく理解できた。日本との関連では、正倉院の螺鈿の琵琶と和同開珎の銀銭の話であった。私は和同開珎に銀銭があることなど、全く知らなかった。古田先生のように話に熱がはいり、質問時間にくいこんだ。私はいくつか質問したいと思っていたが、やむを得ず一問だけをした。
 「和同開珎の銀銭が西安から出土したとの話しですが、日本で和同開珎の銅銭はよく知っていますが、銀銭の出土の話しを聞いたことがない。西安のどこで、いつ、出土したのでしょうか。その銀銭は今どこにあって、私共でも見せてもらえるのでしょうか。先生は和銅開宝と云われましたが、日本では一般に和銅かいちん、と呼ばれています。開宝と開ちんとどう違うのでしょうか。」
 先生は噛んで含めるように丁寧に答えてくれた。
 「一九七〇年に西安市の南郊何家村から5枚出土。内一枚は陝西歴史博物館で誰でも見られます。和同開珎は七〇八年日本で自然銅が発見献上されたので、年号を「和銅」と改定して、唐の貨幣制度を見習い「和同開珎」の銅銭と銀銭を作った。
 銀も少し出たので銀銭も作ったが、流通は短期間で停止されたので、日本でも出土は少ない。‘七〇年西安で出土した時、中日の考古学者で大変話題になった。
日本で(和銅かいちん)と呼ばれていること、それはそれでよい。(正しい)」
 西域から西安に戻った最終日に、陝西歴史博物館で銀銭を見ることができた。
帰国して成田に着くと、早速水野さんに銀銭のこと電話報告。水野さんは銀銭の存在を先刻承知であった。またしても、知らぬは・・・・・であった。
 私は九州王朝の銀銭が近畿王朝に交代した時流通を阻止され、文字を消した無紋銀銭となり、それがわずかに日本の一部で出土している。と耳学問で理解していた。近畿王朝が銀銭を作っていたこと、思いもしてなかった。富本銀銭もひょっとしてあり得るのだろうか。
*「和同開珎」銀銭見たよ、西安で。

 

曲尺とハサミ

 トルファンで玄奘三蔵ゆかりの高昌故城を巡ったあと、アスタナ古墳群を見学した。古墳敷地に入ったところに、上身は人間で下身は蛇の二人の神様、下身が絡まった伏義と女〜の像があった。伏義が手に持っているのが曲尺で女〜が手に持っているのが「ハサミ」であった。私は例により大きな声で旦那は大工で奥さんは家で裁縫か仲が良いな・・・・・と云った。皆に笑われたが、シルクロードは二度目で今回は奥さんと娘さんをつれて参加された方が、そーと寄ってきてハサミでなくコンパスですよ、と教えてくれた。言われて、そんな話どこかで聞いたな・・・とすぐ気づいた。でも、まあここではハサミにしておきましょう。と強弁。
 それから、三日後、万里の長城の西の端の関所である嘉峪関を見学後に魏晋壁画墓を訪ねた。墓の中の見学はカメラ、ビデオ禁止、レンガに画かれた絵は面白かった。特に女主人がお化粧している場面は、侍女が大きな鏡を後ろから後ろ髪を映し、女主人が小さな鏡で自分の前でそれを映して、自分の後ろ髪を見ている絵は興味あった。壁画墓の出土品陳列館で大小の鏡を展示していた。ここも、カメラ、ビデオ禁止であったが、この鏡だけは写させてほしい、と無理に頼み込み、無言の許可を得て写した。さらに、この陳列館でも上身人間、下身蛇で二体のからまった神様絵を見た。でも、二体共に男神のように見えた。変に思ったが今回は黙って眺めた。
 そして、さらに二日後、天水というところで麦積山石窟を見学後に伏義廟を参拝した。私はてっきり、あの蛇神様と思っていたが、ここの神様(伏義)には足がある。手に持っているのは陰陽を表す円盤である。中国案内人に思わず、「これは伏義ではないでしょう。」と言ってしまった。「これが、中国人の始祖といわれる伏義です。この神様は陰陽を定め、中国最初の文字(八卦文字)を造られました。現在では道教の神様です。」
 中国は広い。神様も所変われば・・・かも知れない。これまでの五度の中国旅行では伏義の話を聞いたことがない。どうも、伏義、女〜は西王母と共に、西安より西、西域の神様のように思う。私は「曲尺とハサミ」を持った、仲の好い夫婦蛇神様が好きである。
*西域の神様は、曲尺とハサミ(コンパス)を持って、九州造った夫婦蛇神。

 

明眸皓歯(めいぼうこうし)

 西安に戻って、最初に訪れた観光地は、玄宗と楊貴妃ゆかりの華清池である。華清池は三度目である。最初は天安門事件前の‘八五年、もう二〇年にもなる。当時の目玉は楊貴妃の入った浴槽である。特別に五円(兌換紙幣)を支払うと浴槽に入れた。今も土足で浴槽に入っている記念写真を持っている。現在は高い離れたところから、柵越しに眺めるだけである。中国のどこの観光地も、急速に整備がすすみ以前の素朴さが無くなってきている。ある意味で残念。
 今回、驚いたのは池の中に楊貴妃の裸の像が建っていたことである。水野さんとご一緒した‘92年時にはなかった。今は浴槽よりも観光一番の目玉になっていた。ところが私は、この楊貴妃の裸の像がまったく気に入らない。イメージ壊しである。
 西安の女性ベテランガイドが流暢な日本語でバスのなかで楊貴妃の容姿等について詳しく説明。また、現地でも像の前、毛沢東書(草書)の長恨歌碑や建物内に掲示されている長恨歌絵画の前でも説明があった。
 私はこの旅の出発直前まで「唐詩一万首の中の日本探し」関連で、白楽天の長恨歌、陳鴻の長恨歌伝や久遠の恋の物語、さらに、楽史の楊太真外伝を読んでいたので楊貴妃に関してはかなり詳しいと自負。ベテランガイドに向かって「楊貴妃の容姿でまだ言われていない肝心なことがありますよ」と云った。「何でしょうか」「それは明眸皓歯であったということです。いままで言われた白楽天等からの容姿は伝聞に基づくものです。白楽天は盛唐の楊貴妃と同時代の人ではなく中唐の人です。楊貴妃と同じ盛唐の詩人、杜甫が明眸皓歯であったと麗人行という詩で言っていますよ。杜甫は楊貴妃を実際に見ていると思いますよ」「麗人行ですか?」「そうです」
 そうはいったものの・・・・・、「麗人行」を口の中でそらんじたが明眸皓歯がでてこない。あれ麗人行ではないぞ・・・、「明眸皓歯、今はいずこにか在る」「血汚の遊魂は帰ることわず」ああ・・・「哀江頭」だ。
 ガイドにそーと近づき「麗人行ではなく哀江頭でした。麗人行は楊貴妃の姉さん達でした」と言い訳。「麗人行は姉さんたちですね、哀江頭でしたか」ガイドは麗人行を先刻承知であった様子。
 観光の最後、陜西歴史博物館で目のぱっちりした女性の壁画や俑があるとガイドは私を振り返り、この美人は? 私は即座に「明眸皓歯」。
 夕食は観劇晩餐、今日の「梨園の弟子達」が「霓裳羽衣の曲」を華やかに舞っていた。いずれも、明眸皓歯揃い。西安の夜をおおいに堪能。
 海外旅行時には、日本の美人画を持って行き、バスの運転手やガイドと別れるときに差し上げる。美人画はカレンダー上部の絵で入手はタダ。大湖望のプロパンガス業者が年末に持ってきてくれる。私はこのカレンダー美人が好きである。いつも同じ画家の絵である。貯めておき、海外旅行時に再活用する。今回も二四枚持参して配った。日中友好とお礼を兼ねたタダのサービスである。西安のガイドにも、もちろん差し上げた。「日本の明眸皓歯」と云って、よろこんで受け取ってくれた。
*楊貴妃は明眸皓歯であったはず。杜甫が言ったよ、ガイドさん。
         ‘〇五.十.十五.

 9/16成田〜北京経由西安。夕食は十六種類の餃子(徳発長)。9/17シルクロード講座、西の城門、ウルムチへ、夕食子羊の丸焼き料理。9/18天山山脈中腹の天池(西王母廟)、紅山公園、バザール、トルファンヘ、途中風力発電所、塩湖、ゴビ灘の名月。夕食後ウイグル族の民族舞踊。9/19高昌故城、アスタナ古墳、

火焔山、ベゼグリク千仏洞、カレーズ、交河故城、干しぶどう栽培農家、列車(ニューオリエントエクスプレス号)で敦煌へ。9/20陽関、狼煙台、鳴沙山、月牙泉。9/21莫高窟、敦煌市博物館。列車で嘉峪関へ9/22嘉峪関、懸壁長城、魏晋壁画墓、列車で蘭州へ。9/23劉家峡ダム、炳霊寺石窟、白塔山公園、天水へ。9/24麦積山石窟、伏義廟、西安へ。9/25華清池、始皇帝陵、兵馬俑、西陜歴史博物館、観劇。9/26 帰国。


 これは会報の公開です。

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