2005年12月 8日

古田史学会報

71号

1宣言
新東方史学会設立
 古田武彦
会長に中島嶺雄氏
 事務局

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史
考察1
 藤本光幸

筑後風土記
の中の「山」
 西村秀己


壬申の乱に就いての考察
 飯田満麿

5私考・彦島物語 I 
筑紫日向の探索
 西井健一郎

6【転載】
『東かがわ市歴史民俗資料館友の会だより』第十九号
平成十七年度にあたって
 池田泰造

なにわ男の
「旅の恥はかき捨て」
 木村賢司

古層の神名
 古賀達也

『和田家資料3』
--藤本光幸さんを弔う
 古田武彦

10浦島太郎
の御子孫が講演
事務局便り

 

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削偽定実の真相 -- 古事記序文の史料批判 西村秀己(会報68号)../kaihou68/kai06802.html

 

筑後風土記の中の「山」 西村秀己(会報71号) ../kaihou71/kai07103.html


筑後風土記の中の「山」

向日市 西村秀己

 去る九月十七日(東京)及び二十四日(京都)において、新東方史学会発足の為の古田武彦講演会が行われた。筆者は残念ながら仕事の都合上これを聴講することが出来なかった。ところが、筆者の不在に気が付かれたのであろうか、十月十二日古田氏は筆者をご自宅にお呼び戴き、講演のエッセンスを筆者ただ一人の為にお話下された。この古田ファン羨望の幸運は筆者が古田氏と同じ向日市物集女町に住まうという為だけの恩恵なのであるが、不肖の自称弟子として古田氏には改めて深く御礼申し上げる。(もっとも、筆者が古田氏の至近に居を構えるのは決して偶然ではない。これは筆者の転居歴をご確認戴ければ明らかである)
 さて、未だに文書化されているわけではないので、ここで古田氏のお話の内容に言及することは出来ないのだが、講演会のタイトル上でいえば『「女王新発見」日本列島側の倭人伝』をお聞きしている内に浮かんだ思い付きを申し上げたい。
 古田ファンには周知の文書であるが、釈日本紀が引用する中に次の一文がある。

 二.公望案。筑後國風土記云。筑後國者。本与筑前國合為一國。昔此両國之間。山有峻狭坂。
 
 この後に有名な甕依姫が登場するのであるが、筆者が掲げた中には、実は全く不要の一字があるのにお気づきだろうか。それは「山有峻狭坂」の内の「山」である。従来はこれを自然地形としての「山」と読んでいた。しかし「峻狭坂」が存在するのは「山」でしか有り得ない。つまり、この「山」が自然地形を表しているならば、これが無くとも意味は通じることになる。では、この「山」が自然地形以外を表している可能性はあるのだろうか。勿論、ある。それは卑弥呼の都する「邪馬」国である。おいおい、卑弥呼の都したのは「邪馬壹国」ではないのかという方には再確認戴きたい。
 すなわち、卑弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対し、倭国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭国」の名称なのである。(『「邪馬台国」はなかった』第六章新しい課題)
 古田氏も当初からこう言及されている。すなわち、対外的にはともかく国内的には「邪馬壹国」はなかった、のである。卑弥呼の都したのは「邪馬」国であり、これを日本的に表記するとすれば「山」国である。とするならば、甕依姫の活躍する「山」の語は単なる自然地形ではなく、政治的名称であると考えるほうが相応しいのではあるまいか。この「山」は天孫降臨直後の「山幸」の「山」であり、白村江当時の「サチヤマ」の「山」と考えられ、これが正しければ千年近い歴史を持つ政治的名称なのである。
 さて、ここで更なる(無謀な)仮説を提起したい。それは「倭」をどう読むか、というものである。筆者はかつて『日本書紀の「倭」について』(「古田史学会報」No.四二・『古代に真実を求めて』第四集)で「倭」の大部分は「ヤマト」と読むことは出来ない旨を論じた。だが当該拙稿では、敢えて「倭」の本来の読み方には触れなかった。あまり確信がなかった為であり、その自信のなさは今も変わるところがない。しかし、五年間考え続けても筆者の中では他の仮説が出てこないので、これを機会に申し上げる次第である。諸賢のご批判を仰ぎたい。
 八世紀以降、日本を「ヤマト」と称するのは、「ヤマト」に日本の都があったからである。(この定説には異見がある。「ヤマト」に都があったのはたかだか一世紀に過ぎない。その後千年以上都は「ヤマシロ」にあった。では何故九世紀以降日本を「ヤマシロ」と呼ばないのだろうか)従って、「倭」の都は筑紫にあったのだから、「倭」は「チクシ」と読むべきである。これが古田氏のお考えである。魅力的な説である。ただ、残念ながら史料根拠がない。
 先に申し上げた如く、少なくとも千年近く「倭」の首都は「ヤマ」にあった。従って、「倭」を「ヤマ」と読むことも可能ではあるまいか。その史料根拠はたったひとつだけだが存在する。それはあまりにも有名な大和朝廷サイドの女性の名前である。その女性は、日本書紀では「倭迹迹日百襲姫」と表記され通常「ヤマトトトヒモモソヒメ」と読まれている。そして古事記では「夜麻登登母母曾毘売」と表記される。読みは当然「ヤマトトモモソヒメ」である。つまり日本書紀は古事記に比して「ト」がひとつと「ヒ」が多い。(残念ながら「ヒ」の多い理由は未だに考え付かないのだが)これは日本書紀の「倭」を「ヤマト」と読むためであり、「倭」を「ヤマ」と読めば少なくとも「ト」の問題は解決するのである。
 すなわち、日本書紀では奈良県を意味する「ヤマト」を「倭迹」と表記していることになる。また万葉集で「ヤマト」を表すにもっとも多いのは「山跡」である。「迹」は「跡」と同義だ。ならば「倭」=「山」という解釈も可能なのでないだろうか。
 では「倭迹」或いは「山跡」の意味は何であろうか。それは大和朝廷が九州王朝の後裔であるからに他ならない。つまり、「ヤマト」に都を置いたから日本を「ヤマト」と称したのではなく、大和朝廷が「倭迹」或いは「山跡」だったから、それが都した所を「ヤマト」と呼んだのではあるまいか。そしてそれが九世紀以降でも日本を「ヤマシロ」と呼ばなかった理由ではないだろうか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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