阿漕的仮説ーーさまよえる倭姫 (会報69号)
阿胡根の浦 水野孝夫 (会報76号)
泰澄と法連
奈良市 水野孝夫
八世紀初め頃、泰澄(たいちょう)という僧がいたという。「泰澄」でインターネット検索すると三万件を超える情報があり、百科事典・Wikipediaにも項目が立っている。福井県、石川県あたりを中心に、信仰があつい。
泰澄は白山、那谷寺などの開祖とされ、七一七年(養老元年)加賀国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得し、七二二年(養老六年)元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。七三七年(天平九年)に流行した疱瘡を収束させた功により大和尚位を賜ったと伝えられる(「伝記」)という。
ところが、この時期の歴史書『続日本紀』を検索しても一語も出てこない不思議な僧である。朝廷に対して功績があったのが史実なら、正史『続日本紀』が一言も触れない、などということがありうるだろうか、考えられない。またこの時期に越中守になった大伴家持や、越前國掾大伴宿祢池主も『万葉集』で全く触れていない。 僧徒が作り出した伝説上の人物なのだろうか。
『福井県史』には、古代編・第七章第三節に「泰澄と白山信仰」の項目があり、“白山信仰の開創者として、奈良時代に活躍したとされる泰澄については、諸本に種々の伝記が残されている。そのうち最古の成立とされ、泰澄の行状について最も具体的な内容の知られるのは『泰澄和尚伝記』である。この奥書によれば、天徳元年(九五七)のころ、三善清行の子で、白山で修行した経歴を有する天台宗の僧浄蔵の口授した内容を、その門人で大谷寺の寺院仏法興隆の根本の人とされる神興が筆記したものとされている。正中二年(一三二五)という最も古い書写の年紀を有するのが金沢文庫本の『泰澄和尚伝記』(『資料編』一)”とある。白山比[口羊]神社蔵の『白山記』にも伝記あり、写本成立一四三九、原本成立は一一六三年と考えられる。ほかにも『白山禅頂私記』『元享釈書』『源平盛衰記』『法華験記』『続古事談』などという文献に登場という。
[口羊]は、JIS第3水準ユニコード54A9
筆者が確認したことは、泰澄に関する記載は『続日本紀』『万葉集』にないこと、『源平盛衰記』には、「大徳・神融禅師」(巻四・涌泉寺喧嘩事)とあること、『白山記』、この大師の行動したとされる範囲には、十一面観音菩薩の信仰が多いこと、である。
筆者が泰澄に着目した動機を語ろう。それは『信貴山縁起絵巻』上巻を「他の寺の縁起を部分カットしたもの」と疑ったからである。
大阪府と奈良県の境の信貴山朝護孫子寺に国宝・『信貴山縁起絵巻』三巻がある。縁起絵巻としては初期のものとされる。縁起絵巻は、一般にはその寺社のご本尊の尊いことを説くのだが、信貴山縁起絵巻には、ご本尊は一切登場しない。うち、上巻のみは絵だけで文章がなく、中下巻は絵と文章が混在する。上巻は中・下巻に比べて巻物が短い。中・下巻の文章に近似する文章は『古本説話集』『宇治拾遺物語』にあり、上巻に相当する文章は絵と矛盾しないので、上巻の物語は『古本説話集』によって推定されている。あらすじは次のようである。
上巻「飛倉の巻」信濃生れの聖が東大寺で受戒し、その西南に見える山で修行する。ひとつの金の鉢があり、鉢だけが山崎にある長者のところへ常習的に托鉢に行く。あるとき、誰も布施を入れてくれず、鉢は倉庫に閉じ込められる。鉢が動き出し、倉庫ごと千石の米を鉢は山へ運ぶ。長者をはじめ人々は山へ追いかけてゆき返還を願う。聖は倉庫だけを山に留め、米は全部返す。鉢が先導して、米俵が連なって空を飛び、もとの屋敷へ戻る。
中巻「延喜加持の巻」延喜帝がご病気で、大和の信貴へ勅使が立つ。聖は山を動かないが加持祈祷は承知する。祈祷終れば剣護法という童形の神を派遣して知らせ、帝は病気が治る。帝から表彰とか寄付の沙汰があるが、聖は辞退する。
下巻「尼公の巻」信濃にいた命蓮の姉の尼が、弟を尋ねて東大寺に到着し、大仏のおかげで弟を信貴山に尋ねあて、再会する。
命蓮という僧は実在したようである。命蓮自身の署名をもつ『信貴山寺資材宝物帳』(九三七年)が存在し、後世の写本しかないが、内容が彼の自筆であることを疑う理由はなく、若い日に山に入り九三七年に六十余歳だったという。また『扶桑略記』『山隗(但し木ヘン)記』には、醍醐天皇病気のとき、信貴山寺・命蓮を呼び寄せ加持させたという記録がある。しかし天皇は一ヶ月ほど後に亡くなっており、表彰の沙汰などはなかったと思われる。
「天皇の病気を治した」という伝承は、いくつかの寺にある。例えば大阪府箕面の勝尾寺の伝承は「寺主が天皇の病気を治したので、はじめ勝王寺と号したが、のちに字を改めた」という。
筆者は、この上巻「飛倉の巻」に文章がない原因を「他寺の縁起の盗用」と仮説した。どこか他の寺で「鉢を飛ばして米を得た」説話がないか?。そんな話をふたつ見つけた(他にもあるようである)。福岡県・英彦山中興の祖とされる法蓮の説話(『彦山流記』)と、泰澄の伝記である。二人の説話には共通点がある。注(1)
法蓮(ほうれん)上人
八世紀初頭の宇佐八幡宮の有力な豊前の巫僧。八幡神宮寺の弥勤寺別当・法蓮の名で知られ、国東六郷満山の仏教開発者である。他方では九州最大の修験道場・彦山の中興の祖と仰がれる(「鎮西彦山縁起」元亀二〔一五七一〕年)。法蓮の史記は、「続日本紀」の大宝三(七〇三)年九月二五日に、その医術を褒賞されて豊前国の野四〇町を賜わっている。また養老五(七二一)年六月一二日には、沙門法蓮は、彦山修験者の禅行(山岳修行)集団の頭梁として統率し、しかも医術に精通して、治民の苦しみを済度し、宇佐君の姓を賜わっている。法蓮は、彦山の玉屋谷の般若窟に自ら一二年間も坐籠し、他の修験者らも彦山四九窟を寺として住まわせ、法修を導いた。法蓮の彦山修験行の主眼は、洞窟寺院に住し、密教を法修し、陰陽道による呪術医療にあった。そのため彦山行者が、朝鮮大陸に最も近かった筑紫から盛んに渡航して、密教呪術や神仙術、医術の新知識を得ていたことは必然であった。彦山草創(仏教公伝以前)のころからの渡来僧説を物語るものであろう。
このような背景から、役の行者の渡唐伝説が生まれたのであろうが、法蓮をはじめとする修験僧が、大陸を往来していたことはおよそ明白であろう。
泰澄(たいちょう)大師
「越の大徳」と称され、七~八世紀にかけて活躍した伝説的山岳修行僧。白山三山の霊験記、縁起記に登場する主役的な僧で、養老元(七一九)年、はじめ白山を開山したことで有名となり、元正天皇の病気治癒にあたり、また天平八(七三六)年の疫病流行を鎮めて大和尚位を授けられた。泰澄伝は種々あるが、正中二(一三二九)年の「泰澄和尚伝」が最古の文献だという。本書中の阿蘇山の伝承説話の項で、「越後の国の泰澄法師が、阿蘇神社に詣でて祈念加持していると九頭の竜が現われ、泰澄が怒って、畜竜の身を以って此の霊地を領せんや、と叱ると金色の千手観音が池上に現ず・・・・・」という一説話があるが、この話は、「元亨釈書」巻一八にある加賀白山明神垂迹の条によると、養老元年泰澄が白山にはじめて登り、池の辺りで念誦していると、池中から九頭竜の大蛇が出現した。そしてついに十一面観音像に現じたということが記されている。阿蘇中岳の噴火口を神霊池とし、九頭の竜と千手観音という説話は、全くの類似説である。阿蘇の三所権現と、白山の三所権現が同一系統の垂迹説であるからであろう。泰澄が止錫したという説がある九州の霊山は各地に多い。例えば古処山・求菩提山・珂蘇山・高隈山群。
簡単に云って、そっくりである。上記引用にはないが、「鉢を飛ばせて米を得た」弟子をもっていたことも共通する。僧は托鉢して食を乞うのが修行である。山寺にノウノウとしていて常習的に「鉢を飛ばせて米を得る」のが「偉い」僧であるはずはない。信貴山の命蓮はおかしいのである。泰澄の弟子の方の動機は「酷税の一部を奪取するのは正義」ふうに取れる(白山神社の分布は、前方後円墳の、また被差別部落の分布に従うという)。法蓮の弟子の方の動機は「彦山が雪に閉ざされ人煙絶え、やむをえず」である。しかし泰澄には生没年が伝えられているのに、法蓮にはない。ところが『続日本紀』に現われるのは法蓮の方である。大宝三年に表彰され、養老五年には宇佐君の姓を賜わっている。あきらかに実在の人物であるが、表彰の理由は「医術に勝れる」であって、こんな理由で表彰された人物は記紀にも続紀にも他にない。おまけにその後がはっきりしない。
(引用)法蓮 の三等以上の親に宇佐君を賜わったという記事で、長い間法蓮は宇佐氏の出身とされてきた。しかしそうであれば、「宇佐氏系図」に法蓮ほどの人物がなぜみえないのか。注(2)
明らかに法蓮は歴史上隠されてきた。現代でもなぜか避けられている。筆者は国史辞典・仏教人名辞典の類を調査したが、法蓮、泰澄についての記載状況は次の通りであった。(○印は記載あり)
奈良市に「法蓮町」という町名がある。平城宮跡と東大寺の中間を占める。奈良市が建てた「町名の由来」石碑によれば、「法蓮山興福院(こんぶいん)」との関係が示唆されている。興福院という寺院は遊園地・奈良ドリームランドに近く、一帯は丘陵になっている。法蓮は奈良へ来て、表彰を受け、奈良にも寺院等を賜ったのかも知れぬ。
聖武天皇の大仏建立に当って、宇佐から八幡宮が東大寺に招聘され、現在も手向山八幡宮として祭られている。七六九年に道鏡を天皇に付けよとの八幡神の託宣があったという事件があり、宇佐八幡宮の神託を確認することになる。なぜ天皇選びに、伊勢神宮ではなくて、宇佐の神託を伺うのだろうか。九州王朝説の皆さんは感じるところがあるに違いない。
結論:泰澄の事跡というのは法蓮の事跡の変形である。実在したのは法蓮であり、泰澄は架空である。法蓮は九州王朝系の重要人物だった。しかし法蓮を顕彰することははばかられた。いまはここまでに止めたい。
なお、法蓮を「九州王朝最後の君主」だったとした人がいたことを付記する注(3)。
(注)
(1) http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-seijin.html#anchor403089に要約された二人の説話(『九州の山と伝説』、天本孝志著、葦書房、一九九四年)
(2) 篠川 賢『国造制の成立と展開』 中野幡能『八幡信仰』
(3) 大久保一郎『九州王朝と宇佐八幡宮』西日本文化出版一九九二
書名 | 発行所 | 初版発行年 | 泰澄 |
法蓮 |
国史大辞典 | 吉川弘文館 | 昭和62 | ○ |
× |
新編日本史辞典 | 東京創元社 | 平成 2 | × |
× |
日本歴史大辞典 | 河出書房新社 | 昭和55 | ○ |
× |
日本歴史人物辞典 | 朝日新聞社 | 1994 | ○ |
× |
日本歴史人名辞典 | 名著刊行会 | 昭和48 | ○ |
× |
国書人名辞典 | 岩波書店 | 1996 | × |
× |
日本佛家人名辞書 | 東京美術 | 明治36 | ○ |
○ |
岩波仏教辞典 | 岩波書店 | 1989 | × |
× |
日本名僧辞典 | 東京堂出版 | 昭和51 | × |
× |
日本仏教史辞典 | 東京堂出版 | 昭和54 | ○ |
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修験道辞典 | 東京堂出版 | 昭和61 | ○ |
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これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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