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私考・彦島物語IIIー外伝
伊都々比古(後編)
倭迹迹日百襲姫と倭国の考察
大阪市 西井健一郎
三、倭迹迹日百襲姫
1.大物主と倭迹迹日百襲姫
前編では、垂仁紀ツヌガアラシト来日譚に載る伊都都比古を紹介した。穴門にいて日本国王と名乗った人物である。その名をイツツと訓むと、神代巻に出る磐筒神に近似する。恐らく、その後裔であろう。それは下関市彦島出身の英雄が太古の下関地方一帯に覇をとなえたとする、わが彦島史観を補全する情報だった。
さらに、この伊都都とは、ある文化圏の共通的ネーミング形式とみた。
例えば、天孫降臨紀に天稚彦(アメのワカヒコ)の弔いに来た味耜高彦根が“時此神容貌、正類天稚彦平生之儀”、つまり生前の稚彦の大国風装いと同じだっ
たため、集まった親族が稚彦が生き返ったと騒ぐシーンがある。これは種族ごとに衣装が異なる、逆にいえば、同じであれば同氏族であることを示している(西村氏教示)。それは名前のつけ方でも同じだろう。
その視点から、伊都都比古や五十迹手の名が「イトト」であったとしたら、同型同音ではないかと疑う姫が紀に載る。大物主の妻、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ)である。頭の倭迹迹は、前出の「イトト」と同じ形式だ。倭は「(1){呉・漢}ワ。(2){呉・漢}イ(ヰ)」とあるから伊の、迹(あと)は都の替え字とみれば、伊都都とも書ける。
紀は、この姫を孝霊天皇の娘と記す。そして、同帝から四代後の崇神紀九年九月条に、この姫は大物主の妻だったとの説話が載る。私訳すると、「夜にしか来ない夫に、姫は昼の姿を見せてほしいと頼む。朝にはお前の櫛函に入っているから、見ても驚くなという。姫がみると蛇の形だったので驚き、大声でさけぶ。約束を破られ恥をかいたと大物主は御諸山(大和の三輪山とする)へ帰る。恥じた倭迹迹日百襲姫はホトを箸でついて死に、その遺体を大市に葬った。その墓を箸墓と名付けた」とある。
別稿で述べるが、大物主は「オホ・ブツ(経津)」主の替え字とみる。物をフツとするのは、この姫が大市へ埋葬された、とあるからだ。文庫本紀一は、大市をオホチと訓み、注は櫻井市北部の大和国大市〈於保以智〉に比定する。しかし、市には四画でフツと訓する別字がある。私見では、この市はフツである。大市(オホ・フツ)、つまり大物主の本拠地へ埋めたのだ。
2.倭迹迹はイトト
この姫へ、文庫本紀一は「記に夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)。トトビは鳥飛び、モモは百、ソは十の意であろうか。・・・」と注記する。一方、その記の当て字から、倭はヤマと読むべきで、倭迹迹はヤマ・トトである説もある。その説だと倭国は邪馬国であり、山は倭国を意味する。だったら、山津見は倭国(博多政権)の授与した称号との推測も成り立つかも。
だが彦島史観からは、倭迹迹は伊都都と同じく「イトト」への当て字とみる。そこに日がつくのは太古の国名だから。建日や速日、宇都志日金拆命などと同じだ。伊都都国のモモソ姫との意味だろう。伊都都国は磐筒神の地。筒は小戸であり、親は磐裂神だから、下関市の伊崎近隣にあったとみる。倭迹迹日百襲姫の説話は、彦島伝承に出自をもつ。
百襲姫の名については、次のような屁理屈を展開することができる。
百は「『一+{音符}白』を合わせた字(合字)で、もと一百のこと。白はたんなる音符でしろいという意味とは関係ない」とある。しかし、白は「どんぐりの実を描いたもので、柏科の木の実の白い中身を示す。柏(はく このてかしわ)の原字」なのだ。一方、イザナキがミソギをした神聖な地、アワキハラ(檍原)の檍はモチのキであり、その木には橿との別字がある。檍原は橿原と転字され、橿がカシと訓まれて柏原になった、とみる。後出の建内宿禰の親(紀)武雄心命が祭祀のため九年間滞在した阿備柏原も、その始源はイザナミが葬られイザナキがミソギをした地、檍原だったと思われる。だから、百襲姫とはその柏原の祭祀者の地位を「襲」名した姫とも解せる。
3.百襲姫と吾田媛
モモソ姫が彦島近辺の女巫王だった様子は、大物主の話の前にある武埴安彦の謀反を予言した説話からうかがえる。
崇神帝の伯父、大彦は坂道で少女の歌を聞き、不思議に思って帝に報告する。その歌詞を聞いて、モモソ姫は“是武埴安彦、將謀反之表者也。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰、是倭國之物實、則反之。是以知有事焉。非早圖、必後之。”(崇仁紀十年九月・壬子条)といったとある。
坂の名を和珥(わに)坂と書く。和珥は神武紀に「和珥の坂下に居勢(こせ)の祝(はふり)が有り」とあり、その注に「和珥は大和国添上郡の地名。今天理市和珥。・・・」(文庫本紀一)とある。居勢(イセ?)の祝が祭っていたのは本当はどの神だったろう。ワニの地については、ホホデミ紀の一書に“海神所乘駿馬者、八尋鰐也。是堅其鰭背、而在橘之小戸。”との一節がある。この記事が地名説話だったとすると、「ワニ」の地は小戸の近くにあったと考えられる。
謀反を企てた武埴安彦の妻は吾田媛とあるから、曲浦(ワダのウラ)の出身者である。ホホデミ紀本文には、“火蘭降命、即吾田君小橋等之本祖也”とあるし、ご存知のように、神武記には神武が“故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比賣”ともある。彦(日向)島のアタにいたオバシ氏は記紀では有名人なのだ。
4.母の名は倭国香媛
彦島史観から訳すると、吾田媛は倭国の物を自地(曲浦)へ、つまり彦島勢力に返せと祈った。記では、波邇夜須毘古はイザナミの神生みで生まれている。だから、元は彦島伝承にあった神である。原称はワニ(和珥)のヤス(安)の日子だろう。吾田媛を悪者扱いするこの部分は彦島中心ではなく、穴門贔屓の書き方になっている。
当然、この倭国もイの国である。その視点でみると、モモソ姫の母は倭国香(ヤマトのクニカ)媛、亦名[糸瓦](はえ)某姉(いろね)とある。倭国香媛は「イの国の香」、かってイザナキがイザナミの屍を抱き流した涙に成った神、“坐香山之畝尾木本、名泣澤女神”の地、つまり太古にカグツチが支配していた地の姫との意になる。モモソ姫にとって母の出身地の香山を、吾田姫が奪おうとすることに憤ったのだろう。
[糸瓦](はえ)は、JIS第4水準、ユニコード7D5A
亦名中のハエは安寧記の“娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女、・・・”、同紀の“一書云、磯城縣主葉江女、・・・”のハエの地である。その葉江はおそらく、葉の渡しにある港だろう。葉(かしわ)の渡し(仁徳紀)については、別稿「湍津姫」で探索する。欠史八代各帝の系譜中の名前には、彦島周辺の地名で説明できるものが多数ある。
四、珍(うつ)彦
1.倭国造、珍彦
欠史八代帝以前の倭がイであれば、神武紀二年に珍彦ことウヅヒコが任じられた倭国造は「イの国造」だったことになる。
さらに、このウヅヒコは、建内宿禰の伯父ウヅヒコ(記)と同一人物だった可能性がある。となると、倭国は木国とも、紀国とも書かれている。
珍彦は速吸之門の曲浦で神武を待ちうけた国神である。海筋の案内人として“乃特賜名、為椎根津彦。此即倭直部始祖也”と神武紀其年十月条に載る。椎には「シヒ」との原訓がつくが、椎はツチ(己)で「ツチ・ネ(の)・ツ(港)のヒコ」だろう。そして、終盤の同即位後二年二月条は“以珍彦為倭國造。珍彦、此云、于?毘古。”と記す。
記にはウヅヒコとの名や倭国造任命の記述はないが、「速吸門に来たら亀の甲に乗って釣をしている人にあった。海筋を知るというので棹を出して舟に移し、“即賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。”」と書く。槁根津日子に、文庫本記はサオネツヒコと訓る。私見では槁はタカ(高)またはコウ(向)の替え字であり、多紀理姫の居た高の地を指す。
この倭国造ウヅヒコの名は、不思議なことに後代の天皇記紀に建内宿禰(たけうちすくね 記。紀は武内宿禰)の伯父・祖父として再登場する。
2.建内宿禰
建内宿禰は八代孝元記に、“(帝)、又娶内色許男(うつしこお)命之女、伊迦賀色許賣(いかがしこめ)命、生子、比古布都押之信(ヒコフツオシのマコト)命。・・・。比古布都押之信命、娶・・・葛城之高千那毘賣、生子、味師内(うましうち)宿禰。又娶木國造之祖、宇豆比古之妹、山下影日賣、生子、建内宿禰。此建内宿禰之子、并九。(以下、波多八代宿禰以下の子の名と子孫の氏姓が並ぶ)”とある。文庫本記は“并(アワセテ)九”に、「臣下である建内宿禰の系譜を帝紀の中に入れているのは異例である。これはその子孫が権勢をほしいままにしたからてあろう」と注する。
一方、紀では、まず孝元紀七年二月条に“妃伊香色謎(いかがしこめ)命、生彦太忍信(ヒコフツオシのマコト)命。・・・。彦太忍信命、是武内宿禰之祖父也。”とある。それから五代後の景行紀三年二月条に“卜幸于紀伊國、將祭祀神祇、而不吉。乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命、一云武猪心。令祭。爰屋主忍男武雄心命、詣之居于阿備柏原、而祭祀神祇。仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛、生武内宿禰。”と載る。紀では、ウヅヒコは母方の祖父になる。
3.イ国の王統を継いだ? 建内宿禰
この武内宿禰の補注(文庫本紀二)には、要約すると「記では成務・仲哀・応神・仁徳の四朝、紀では景行・成務・仲哀・神功・応神・仁徳の各朝にかけて存在し、三百歳に及ぶ活躍が伝えられている人物。景行・成務期は大臣・近侍の忠臣。仲哀・神功期では霊媒者・男覡。仁徳では長寿の人に描かれている。風土記に名がないためその実在性は薄く、七世紀前半以降に作られたものと考えられる。」とある。
ウヅヒコが建内宿禰の母の兄か(記)、祖父か(紀)はわからない。その祖先かどうかもだ。しかし、建内宿禰の系図が記紀に載ったことは、後裔が大和で権勢を誇ったこともあるが、彦島史観からは彼がイ国王家の血統を継ぐ者だったからでは、と疑う。それは大国主の系譜が天照大神家の系譜より詳しいことと同じ意味、そちらが当時の穴門か彦島の正統を継ぐ家系だった。その王統は一時北東部からの勢力に服属したが、その王が亡くなったので、残った当地出身の女巫王(神功)の覡の地位に戻ったようにみえる。
ここでの疑問は、ウヅヒコの肩書きが神武記には倭國造等之祖とあり、神武紀は倭直部始祖と倭國造とあることだ。さらに、後代の孝元記は木國造之祖、景行紀は紀直遠祖である。ウヅヒコも槁根津日子・珍彦・椎根津彦・宇豆比古・菟道彦との当て字が異なるから、同称異人だった可能性がないとはいえない。しかし、当て字を変え他人のようにみせかけるのも記紀の特技だから、同一人物として考察を進める。
同一人とすると、その肩書きにある地名、倭国・木国・紀国は同一地を意味している。別の地であれば、併記されている例がある筈だから。
4.「已(イ)」と「己(コ・キ)」
なぜ、地名表記に違いが生じたか。
それは、記紀以前の源本が編纂された最初の段階で、国名に「已」または「己」が使われていたからとみる。
「已」は「{呉・漢}イ。意味:(1)やめる、(2)すでに」であり、その象形は「古代人がすき(農具)に使った曲がった木を描いたもの。のち、耜の旁部のイ、以、儿の旁部L(=以)の三つの字体にわかれた」とある。
「己」は「{呉}コ、{漢}キ、おのれ。(1)おのれ、(2)つちのと、五行では土にあてる」、象形は「古代土器の模様の一部、屈曲して目立つ目印の形を描いたもの」とある。
伊都・磐・檍原など「イ」のつく地名が頻出する。太古の関門海峡の下関側の原初地名は「イ」の国ではなかったか。最初に地名を漢字に移した筆者は海峡の形を踏まえて、曲がった木の意をもつ「已(イ)」を当てたとみる。ただ、小瀬戸を橘の小戸と書く。イザナキ期には己津(きつ)の小戸だったかもしれず、ならば「己き」が先称だったかも。
その後、書写の際、「已」を「己」と誤写する源本も現われた。同じく曲り浦の形状は伝えている。この「己(コ・キ)」を転字して、「木」や「紀」を当てる二次源本ができた。さらに、近畿王朝に移って衆知の「紀伊」の国と翻訳した書も生まれた。
一方、原形の「已(い yi)」を、魏史倭人伝に因み、強引に「倭(ヰ、wei)」に置き換えた編者がいる。倭に置きかえたことで、近畿王朝の人達には「ヤマト」と読ませることができた。また、九州王朝の存在を知るひとには、倭人伝のいう倭国のことと思わせた。一石二鳥の替え字だったのだ。しかし、それはどちらでもない穴門王の建日の国のことだ。
ただし例会発表の際、「記紀の用字に、『倭』を『イ』音に当てた明らかな例は皆無」との指摘を西村秀巳氏から頂戴した。この倭(い)の仮説は目下、証するものに欠く。
5.紀の国は要再考察
景行紀の武内宿禰の親、屋主忍男武雄心命が祀りに出掛けた紀伊国阿備柏原も建日の地だろう。その阿備柏原が畝傍の橿原宮に化けた可能性については述べた。
倭国造珍彦の支配地もこの古えの建日の国だった。その孫か甥の建内宿禰の建はその出自を示す。内宿禰は味師内宿禰と共通するから、内大臣などの意の役職名とされる。
ただ「内」については、下関市北部に内日(うつい)の地名が残る。ウツ日の建地区出身とウツ日のウマシ地区出身との二人の宿禰だったともとれる。また、内をウツと訓む場合、それは大国主の亦名「宇都志」国玉のウツシから村語尾シ(前述)がとれた形とみれば、下照姫が神ムスヒとなった顕国のことになる。さらに、それらは布都(ふつ)の転字かもしれない。
イの国域は、当初、彦島を含む下関市の海峡沿岸にあり、後に同地の王者(例えば、磐余彦)の勢力拡大に伴い、北方の豊浦郡地域に拡大した。ウヅヒコが倭国造、当時はおそらく倭国主、になるころは下関市から豊浦郡一帯がイ国と呼ばれていたのではないか。
以上、記紀の古い説話の中にある「倭」・「木」、そして「紀または紀伊」の国は、初頭の源本では「已」国とあった可能性がある。となると、五十猛神のいた紀伊国や神武の熊野回航、もっと新しい仁徳紀にある磐之媛が御綱葉(みつなかしは)を採りに出た紀国熊野岬すらも、元「已」国のことではとの疑問が湧いてくるのだ。
彦島物語III外伝1 伊都都比古 終
〔使用文献、前編も同じ〕
古事記 倉野憲司氏校注『古事記』岩波文庫
日本書紀 坂本太郎氏他校注『日本書紀』岩波文庫
漢和辞典 藤堂明保氏他編『漢字源』学研
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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