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巣山古墳第七次調査現地説明会 伊東義彰((会報79号)../kaihou79/kai07907.html巣山古墳第七次調査現地説明会 伊東義彰事務局便り
巣山古墳第七次調査現地説明会
生駒市 伊東義彰
現地 広陵町大字三吉、馬見古墳群 中央群
日時 平成十九年一月二十七日(土)午後一時
調査機関 広陵町教育委員会
巣山古墳は、奈良盆地西部に出現する最大級(墳丘長二二〇メートル)の前方後円墳で、古墳時代前期末葉(四世紀末〜五世紀初め)の築造とされており、平成十五年の島状遺跡の発見・調査(第三・四次調査)や、平成十八年の舟形・木棺蓋などの木製品の発見(第五次調査)はまだ、記憶に新しいところです。
馬見古墳群中央群には、巣山古墳の南に位置する墳丘長二〇〇メートル余の新木山古墳(五世紀前半:陵墓参考地)があり、南群とされる南方(大和高田市)には巣山古墳と同じ頃に築造されたと思われる築山古墳(陵墓参考地)があります。北群とされている北方には川西町唐院の、大量の車輪石・鍬形石・石釧などが出土した島の山古墳(墳丘長一九五メートル:五世紀前半)、河合町川合の大塚山古墳(墳丘長一九三メートル:五世紀中葉)などがあります。
奈良盆地にある大型前方後円墳の多くは天皇陵や陵墓参考地に治定されていて発掘調査どころか専門家による立ち入りさえ禁じられていますが、巣山古墳は治定を外れた数少ない大型前方後円墳の一つです。全面的・集中的な徹底した発掘調査により、天皇陵や陵墓参考地に治定されている大型前方後円墳の実態を推測できる資料を提供してくれるのではないでしょうか。
現地説明会に参加し、新たに発見された木材を見ていささか物足りない思いにとらわれたのは私一人ではないと思います。
今回の第七次調査では、出島(島状遺跡)と墳丘の渡り土手の葺石に段差が見つかり、出島遺構が試行錯誤の上、造り出されたことが判明したそうですが、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(墳丘長一八八メートル:四世紀末ごろ)にも水鳥形埴輪を配する島があり、これを真似したものなのでしょうか。
今回発見された周濠北東隅から出土した木製品は、第五次調査で出土した木製品のすぐそばで見つかったところからこれに関連する部材ではないかと推測されています。ただし、そう言われれば、そうかな、としか見えない数点の木材片を前にして、いささか物足りない思いにとらわれた次第です。第五次調査で発見された舟形木材を見ていなかったら納得できないレベルの木材でした。現地説明会資料も、この木製品から「喪船」の実態を明らかにすることはできない、としています。今回のものも、第五次調査出土のものも外堤の葺石裾に沿って出土するところから、意図的に埋められたと考えられます。
おもしろいことに、出島遺構が周濠の帯水面から現れていれば周濠の水位は極めて低かった(周濠底から五〇cmぐらい?)と考えられ、「喪船」が棺を載せて周濠に浮かぶ姿は想像できない、としています。そして現地説明会資料は、『隋書イ妥国伝』に「貴人は三年外に殯し(中略)葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小輿*(しょうよ)をもってす」とあるように、殯の場から葬地までの葬送儀礼に使用されたと考えられ、葬送儀礼後に解体されて周濠の北東隅に埋められたと考えたほうが妥当であろう。と結んでいます。
さて問題は、ここで何故、『隋書イ妥国伝』が引き合いに出されているのか、ということです。
単純にこの記述を、「隋」の頃の倭国(イ妥国)の葬送儀礼を記したものと考えると、巣山古墳が築造された時期(四世紀末〜五世紀初めごろ)との間に、実に約二〇〇年の時間の開きがあることになります。したがってこの記述を引き合いに使うためには、この間、船に屍を乗せて陸地を牽いていく葬送儀礼が続いていたという前提がなければなりません。すなわち、四世紀の末ごろから飛鳥時代(聖徳太子の時代)まで、この葬送儀礼が続いていなければ、『隋書イ妥国伝』を引き合いに出すのは不適当ではないかと思われます。
では、飛鳥時代の奈良盆地にこのような葬送習俗があったという記録や、それらしき考古遺物資料などがあるかというと、皆無です。
第五次調査時の説明会資料やマスメディアの解説によると、文献資料として『隋書イ妥国伝』の当該記述のほかに、『日本書紀』の国生み神話に出てくる「天磐[木豫]樟船あまのいはくすぶね」、『古事記』の神功皇后記「押熊王の反乱」に出てくる「喪船」が取り上げられていましたが、ともに巣山古墳の築造期よりも前か、または近い頃のもので、飛鳥時代とはおよそかけ離れた時期のものです。
[輿/車](よ)は、輿の同字で輿の下に車。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
[木豫]JIS第4水準ユニコード6AF2
また考古資料としては、天理市の東殿塚古墳(墳丘長一八五メートル:四世紀後半〜五世紀初め)出土の埴輪に線刻された船の絵(外洋船と思われる)、唐古池採集の船の線刻埴輪(四世紀末ごろ)、九州壁画系装飾古墳の船の絵(日ノ岡古墳、五郎丸古墳、田代太田古墳、取り船塚古墳など六世紀前半?同末)などが取り上げられていましたが、このうち中国の「隋」の時代に重なるのは九州の壁画系装飾古墳の船の絵だけで、その他は約二〇〇年前の巣山古墳とあまり変わらない時期のものです。
これら文献・考古資料のうち、「隋」の時代前後のものは考古資料の「九州の壁画系装飾古墳」の絵だけであり、船に棺と思われる方形の箱を載せたものもありますから、「死者は斂(おさ)むるに棺槨(かんかく)を以てし」に当てはまり、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地にこれを牽くにあるいは小輿*を以てす。」に、内容的にももっとも近いのではないかと思われます。
以上のように見てくると『隋書イ妥国伝』は、「隋」のころに九州で行われていた葬送習俗を記述した可能性が大きいと言わざるを得ず、五世紀前後の奈良盆地での葬送習俗を記述したものではないと言えるのではないでしょうか。
最後に、『隋書イ妥国伝』よりも古い時代に書かれた中国の歴史書を調べてみました。「葬に及んで屍を船上に置き、陸地にこれを牽くにあるいは小輿*(しょうよ)を以てす。」というイ妥国の葬送習俗が古い時代の倭国に関する記録を参考にして書かれたかも知れないからです。
『魏志倭人伝』『後漢書東夷伝』『宋書倭国伝』『南斉書』『梁書』『晋書』などを調べてみましたところ、上記葬送習俗を記録にとどめている歴史書は見あたりませんでした。どうやら古い時代の記録を参考にして『隋書イ妥国伝』に取り上げたものではなさそうです。やはり「隋」の頃、イ妥国、すなわち九州で行われていた葬送習俗を記したものと見るべきで、古墳時代前期末葉の巣山古墳の引き合いに出すのは不適当ではないかと思われます。
事務局便り
▼バルディビア調査旅行から古田先生は多大な成果と共に無事帰国された。その一端を六月十七日会員総会記念講演会にて、スペイン語通訳として随行された大下事務局次長がプロジェクターを使って報告される。
▼『古代に真実を求めて』十集が発行された。二〇〇六年度賛助会員にはサービスとして発送します。
▼七七号から連載されている正木さんの「日本書紀三四年遡り現象」という仮説は、書紀編纂時の九州王朝史書盗用の分析手法として注目される。更なる展開を期待したい。
▼新年度となりました。会費の納入をお願いいたします。不明の点があれば、事務局まで御一報下さい。
▼団塊の世代の入会が続いている。「二〇〇七年問題」は本会にとっては飛躍のチャンスかもしれない。周りの人にも、是非、入会をおすすめ下さい。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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