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『日本書紀』中の「百済本記」記事
奈良市 飯田満麿
思うところがあり、「古田史学検索資料」CDから、『日本書紀』中の「百済本記」記事を選び出した。その結果、継体紀に四項目四ヶ所。欽明紀に九項目十四ヶ所の記事を見つけた。それらは継体三年(五〇九)から欽明十七年(五五六)の歴史記事であった。
理解を容易にするため、当該期間の百済関連等、主要歴史事実を下記に列記する。
○百済.任那関連主要歴史事実
武寧王即位 五〇一年
聖明王即位 五二三年
聖明王敗死 五五四年
任那滅亡 五六二年
百済滅亡 六六一年(義慈王)
六六四年(扶余豊璋)
高句麗滅亡 六六八年
『日本書紀』中の「百済本記」記事の内容概説
『日本書紀』中の「百済本記」記事は冒頭に掲示した如く、継体紀及び欽明紀の十三項目の記事に十八回引用されている。これは『書紀』中に、引用されている外国史書中、最多数を占めている。この事実から「百済本記」は『書紀』編纂時、最も信頼された、又は重宝された外国文献だった事が伺える。その内容を要約すると以下の如くである。
継体紀
一) 三年紀(五〇九)対百済外交記事
二) 七年紀(五一三) 〃
三) 九年紀(五一五) 〃
四) 廿五年紀(五三一)高句麗内政問題及び日本天皇他崩薨問題
欽明紀
一) 三年紀(五四二)任那防衛問題
二) 五年紀(五四四) 〃
三) 五年紀(五四四) 〃
四) 五年紀(五四四)対百済外交問題
五) 六年紀(五四五)高句麗内政問題
六) 七年紀(五四六) 〃
七) 十一年紀(五五〇)対百済外交問題
八) 十一年紀(五五〇)対百済外交問題
九) 十七年紀(五五六) 〃
『百済本記』の史料根拠
「百済本記」は同様に『日本書紀』に記事を引用されている、「百済記」「百済新撰」と合わせて、「百済三書」と呼ばれる。原本は散逸して、この引用記事以外は何も残って居ない。通説によれば、これらの史料は『日本書紀』編纂時に、亡命百済人が、特に編纂したものとされている。この通説にはいささかの疑念がある。百済の亡命者が大量に発生したのは歴史事実からして、百済が、唐・新羅の連合軍の猛攻の前に、敢へなく潰え、国王義慈とその一族が虜囚の辱めを受けた、六六一年以降である。その際バラバラに我が国に持ち込まれた、百済関係資料が約六十年を経て、「百済三書」に編纂し直されたと言うのは出来すぎた話である。その間誰が何処に史料を保管して居たのだろうか?
言い伝えによれば百済はBC十八年から存在した。漢の楽浪郡の滅亡以降、近肖古王の時、独立した三六四年からでも、義慈王で一九代を数える歴とした東アジアの大国だ。歴代王の本紀が存在して当然である。祖国の滅亡に際し、倭国亡命を企てた、百済の遺臣達が帯同した最も重要な品々は、百済王の玉璽と歴代王本紀(「百済三書」)だった可能性が高い。保護者は勿論倭国王朝(九州王朝)、これらは宮廷書庫の奥深くに格納されたに違いない。この際の玉璽の行方を推測すれば、倭国に人質だった豊璋が百済王を称し、倭国の救援のもと、白村江に弔い合戦を企てた際の敗戦で、海の藻屑と消え去った可能性が極めて高い。
一方、百済歴代王本紀の方は「壬申大乱」の後、実権を握った天武天皇の命で、近畿天皇家の所有に帰した可能性が最も高い。『日本書紀』天武十年(六八二)七月十七日条の、「帝紀及び上古の諸事校定」記事はこの事実の反映と考えられる。
「百済本記」記事の史料価値と信憑性
漢の楽浪郡治下にあった朝鮮半島に、高句麗・百済・新羅が出現したと言い伝えられる紀元前三七年以降、九三五年の統一新羅の滅亡までを記録して、今日朝鮮半島の正史と認識されて居る史書は『三国史記』である。この歴史書は、高麗王朝一七代仁宗の命により、金富軾の編纂で、一一四五年に成立公布された。成立の約千二百年前からの千年間の記録を網羅して居るわけだから、当然その底本が複数存在した筈だが、今日ではそれが何だったかに就いては推則するしか手段がない(文末追記参照)。
この様にその史料根拠に多少の疑念が存在するものの、今「百済本記」の記事を校閲する事が可能な史料が他に皆無なので、対応する記事を同書中に探し求めた。調べてみると『三国史記』では「任那」関連記事は皆無、「倭国」関連外交記事も殆ど収録されていない。まるで『日本書紀』を傍らに置いて、その関連記事を総て割愛したかの如くである。只一ヶ所「百済本紀」五五〇年条に欽明紀七)八)と合致すると思われる記事が存在するのみである。しかし百済にとっては当面の宿敵、高句麗の国内情勢記事ならば、「高句麗本紀」に対応記事が存在するに違いないと照合を試みた。「百済本記」の高句麗国内記事とは、継体紀四)及び欽明紀五)六)である。前者の記事は高句麗.安蔵王の弑逆を記す重大記事(五三一)で、後者は高句麗王の後継を巡る、外戚重臣間の大内乱事件(五四五年〜五四六年)を記している。しかしながら『三国史記』「高句麗本紀」には、この重大事件が両方とも一切記されていない。
この事実は何を物語っているのか?想像を巡らせれば、この様な事象は次の三つの場合に惹起される。これを列記すると下記の如くである。
一) 元々架空の事実を百済側が捏造したもので、高句麗側原史料に記載されていなかった。
二) 事件は実在したが、高句麗側の意図で隠蔽され、原史料に記載されていなかった。
三) 高句麗側原史料には事実として記載されていたが『三国史記』の編集方針で採録されなかった。(例えば中国史書に無記載の場合)
これ等を検証してみる。一)の場合百済側から見て、当面の敵国の架空国内事情を記載する、価値はい極めて乏しい。従ってこの項は除外される。二)に関しては、倫理上余り評価出来ない国内事情を、隠蔽したい心情は人間性の弱点として納得出来る部分もあるが、歴史書は歴代王の正当性を主張するもので在ってみれば、完全な隠蔽は返って不利で、むしろ事実を美化する形で記載するのではなかろうか。従ってこの場合の可能性も高くないと判断される。三)の場合は最も蓋然性が高い。この事は『三国史記』「高句麗本紀」に、或る弑逆事件が明記されている事で論証される。高句麗第廿七代栄留王.廿五年紀(六四二年)に重臣蓋蘇文が同年十月栄留王を弑したと明記されている。この事実は中国史書『旧唐書』巻三太宗紀下貞観十六年(六四二)条にも存在する。それだけでなく『日本書紀』皇極紀元年(六四二)条に高句麗大臣、伊梨柯須弥の栄留王弑逆事件が、高句麗使臣の報告として記載されている。これらの事実から『三国史記』編集者は、編集方針に合致すれば、半島内に惹起した反倫理的事実も敢えて記載する事をためらっていない。
以上の検証により「継体紀」「欽明紀」の「百済本記」引用文が『三国史記』に不記載の理由が二)又は三)の理由によることが推定できた。何れか一方に断定は出来ないが、高句麗国内に反倫理的複数の事件が存在したことは疑えない。
継体天皇崩御時期問題
前述の継体紀.四)の高句麗王弑逆記事に続いて下記の記事が存在する。
〈日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之、当廿五年矣。後勘校者、知之也。〉
上記の文面は、継体紀廿五年春二月条の「百済本記」引用文の一部である。〈高麗弑其王安〉の文章に続き、接続詞「又聞」を挟んで記されている。
『日本書紀』の編纂者は、国内伝承と思われる、或る本の記述(廿八年歳時甲寅崩)を捨て、「百済本記」の〈日本天皇及び太子皇子、倶崩薨〉記事を根拠として、継体天皇の崩御時期を二五年辛亥と定めた。恐らく編集方針の圧力に妥協した結果かもしれない、〈後勘校者、知之也〉の文末は編纂者の或る種の不満を匂わせている。
継体天皇の崩御記事に紛れて、ここの「百済本記」引用部分の重大性を見落としてはならない。「百済」にとって当面の敵国、「高句麗」の国内事情は、間諜乃至は内応者のもたらす、秘密情報によったものであったろう。しかし友邦「倭国」の国内情勢は正規の外交文書で入手出来た筈である。然るに友邦の首長の事件性を示唆する〈倶崩薨〉の記事を、敵国首長の弑逆記事と「又聞」を介し仄聞として、等分に扱うとは誠に意味深長である。恐らくこの二つの事件は、時を同じくして正規の政治情報の外で企図され、「百済」に甚大な影響を与えた事件だった可能性が高い。この両事件は辛亥年(五三一)年に惹起された。奇しくも倭国はこの年々号を改元した。今日「教到」年(五三一〜五三五)として知られているこの事実は、〈辛亥年、日本天皇及び太子皇子、倶崩薨〉と言う「百済本記」の記事の信憑性を更に高めるものと考えられる。
むすび
『日本書紀』中の「百済本記」記事を、抽出.分析する作業を通して、それが同時代史料として、高い信頼性を有する事実を知った。就中、継体紀.廿五年春二月条の下記の記事は重要な事実を示唆する。
〈取百済本記為文。其文云、太歳辛亥三月、軍進至于安羅、営乞城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。〉
この記事の後半は、「高句麗の安蔵王が臣下の反逆に遭って殺害された。それは辛亥年三月(五三一)であった。仄聞するところによれば、同じ頃日本でも天皇、太子皇子が共に臣下の反逆に遭って殺害された。」と理解できる。これは正に嘗て古田武彦氏が唱えた「継体の乱」所謂「磐井の乱」の事実を示す記事ではないだろうか?但し『日本書紀』によれば、その乱は継体廿二年(五二八)に惹起されたと記されて居る。今もし継体天皇崩御年を或る一書の記述通り、甲寅年(五三四)と信ずれば、崩御の三年前(五三一)に乱は起こったと推測出来る。人々はこれを牽強付会として、一笑に付すのだろうか?
後記
一) この論文は「古田史学の会」〇七年二月例会発表用に執筆した。同会〇六年十月例会に於ける、古賀達也氏の発言「『日本書紀』継体二五年条の「百済本記」記事の後半部分は、歴史事実として、重大な意味を秘めている可能性があり、検証作業が必要と考える。」に触発されて、論旨の骨格が形成されている。
二) 継体天皇崩御年、甲寅年説の合理性については、古田武彦氏がすでに、緻密な論証を提示されている。『失われた九州王朝』一九七九年、角川書店判にて確認。
三) 「崩薨」表現について、崩御と薨去の単なる合成語と認識していたが、例会当日、倭国と対等関係の百済史書に中国天子にのみ使われる、「崩」字が使用されているのは、『書紀』編纂者の恣意的「百済本記」本文改竄か?の指摘があった。卓説と考える。
○参考文献
一) 古田史学会検索資料CD
二) 全現代語訳『日本書紀』宇治谷孟 講談社学術文庫
三) 『三国史記』金富軾編 井上秀雄訳
平凡社
四) 『失われた九州王朝』古田武彦 角川書店
○追記
追記--a) 『三国史記』に採用された古書名(Wikipedia)による
『古記』『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』
追記--B) その他の百済関連史書の引注状況
『百済記』神功紀及び雄略紀に五ヶ所『百済新撰』雄略紀及び武烈紀に三ヶ所
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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