2007年 4月10日

古田史学会報

79号

バルディビア探求の旅
倭人世界の南界を極める
 大下隆司

2洛中洛外日記より転載
 九州王朝と庚午年籍
 古賀達也

日本書紀の編纂
 と九州年号
三十四年の遡上分析
 正木 裕

4冨川ケイ子氏 
【武烈天皇紀における
「倭君」】を読んで
 永井正範

『日本書紀』中
の「百済本記」記事
 飯田満麿

6 彦島物語IIー外伝I
 胸形の三女神
 多紀理毘売
と田心姫(後編)
 西井健一郎

巣山古墳第七次調査
 現地説明会
 伊東義彰

 事務局便り

 

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九州王朝と筑後国府 古賀達也(会報76号)

藤原宮の出土木簡の考察 古賀達也(会報80号)


古田史学の会ホームページ「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載

九州王朝と庚午年籍

京都市 古賀達也


第百十八話 2007/02/04
評制文書の保存命令

 七〇〇年以前の九州王朝の行政単位だった「評」を『日本書紀』や『万葉集』が全て「郡」に書き換えて、九州王朝の存在の隠滅を計ったことは、古田先生が度々指摘されてきたところです。
 ところが、「評」を隠した大和朝廷が評制文書の保存を命じていたことをご存じでしょうか。それは「庚午年籍」と呼ばれている戸籍です。九州王朝の時代、庚午の年(六七〇年)に作られた戸籍ですが、当然、評の時代ですから、地名は○○評と記されていたはずです。この「庚午年籍」の永久保管を大和朝廷の大宝律令や養老律令で規定しているのです。その他の戸籍は三十年で廃棄すると定めていますが、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」だけは保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも「庚午年籍」を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。
 更に時代が下った承和六年(八三九)七月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、九世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがう
かがえます。
 『日本書紀』や『万葉集』で、あれほど評を隠して、郡に書き直した大和朝廷が、その一方で大量の評制文書「庚午年籍」の永久保管を命じ、少なくとも九世紀まで実行されていたことは、何とも不思議です。このように、歴史は時に単純な理屈だけではわりきれない現象が起こりますが、だからこそ歴史研究はやりがいがあるのかもしれません。

 

第百十九話 2007/02/09
九州の庚午年籍

 大量の評制文書である九州の庚午年籍に関する記事が『続日本紀』に記されています。次のようです。
 「秋七月丁酉、筑紫諸国の庚午籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」神亀四年(七二七)
 九州諸国の庚午年籍七七〇巻に官印を押したという記事ですが、この記事からわかることは、九州諸国の庚午年籍には大和朝廷の官印は七二七年まで押されていなかったという点です。逆に言えば、七二七年になってようやく大和朝廷は九州の庚午年籍を手に入れることができたということではないでしょうか。
 通常、戸籍には国印が押されていますから、この七七〇巻の筑紫諸国庚午籍には九州王朝時代の各地の国印は押されていたかもしれません。この記事では、国印ではなく官印を押したとありますから、別に大和朝廷の官庁の印を新たに押したのではないでしょうか。もっとも、国印も官印の一種と思われますから、断定はできませんが。
 ここからは想像ですが、九州王朝の最後の残存抵抗勢力が七七〇巻の庚午年籍を持っていて、それを大和朝廷が討伐し、この庚午年籍を七二七年に奪取したのかもしれません。もし、太宰府にあったのなら、もっと早く七〇一年に近い時期に入手できたと思われます。というのも、大和朝廷による筑前島郡川辺里の大寶二年(七〇二)戸籍が正倉院にあることから、この頃の筑前や太宰府は大和朝廷の支配下にあったと考えられるからです。
ちなみに、筑紫諸国以外の国々の庚午年籍に対する官印押印記事は『続日本紀』には見えませんから、この筑紫諸国の庚午年籍を手に入れて官印を押したという事実は、特筆すべき事件であると大和朝廷の史官たちには意識されていたのでしょうね。

 

 第百二十話 2007/02/11
九州王朝の造籍事業

 評制文書である庚午年籍は九州王朝により、白鳳十年(六七〇)に全国的規模で造籍されたようです。『続日本後紀』の承和六年(八三九)七月条に中務省が「左右京職五畿内七道諸国」に庚午年籍を書写して提出するよう命じています。承和十年(八四三)正月条でも再度書写と提出を諸国に命じていますので、庚午年籍が筑紫諸国だけではなく全国的規模で造籍されていたことがわかります。
 こうした史料状況から、白村江の敗戦後、天子の薩夜麻を捉えられていた九州王朝であるにもかかわらず、全国的な造籍が可能な支配力をまだ有していたことがうかがえます。
 このような九州王朝の造籍力は大和朝廷の時代の大寶二年造籍でも受け継がれたようで、「用紙・体裁・記載様式における西海道戸籍の高度の統一性」が研究者(宮本救氏)により指摘されています(『古代の日本9』角川書店)。こうした「西海道戸籍の高度の統一性」も、九州王朝説に立てば良く理解できるところです。
 通説では庚午年籍が全国的な戸籍としては初めてのものとされていますが、これが九州王朝にとって初めての造籍であったかどうかは、今のところ不明です。今後の研究課題と言えます。九州王朝説に立った造籍研究は前人未踏のテーマですが、どなたか挑戦されてみてはいかがでしょうか。

 

第百二十二話 2007/02/23
庚午年籍の保存命令

 今日も一日、花粉症に苦しみながら仕事をしました。洛北の山の杉花粉は半端じゃありません。かなりこたえます。というわけで、今夜は中島みゆきの「サーモン・ダンス」(アルバム『転生』収録)を聴いて、元気を取り戻しながらこの日記を書いています。
 「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というフレーズが大好きな曲です。昔、古田先生から聞いた話しですが、先生も中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書かれていたそうです。みゆきファンのわたしとしては、中島みゆきの曲を古田学派の応援歌に認定したいぐらいです。まあ、半分本気、半分冗談ですが。
 さて、このところ庚午年籍についての考察を続けてきましたが、もう少し論及したいと思います。九州王朝により六七〇年に造籍された庚午年籍は、大和朝廷に交代した後も、大宝律令などで永久保存が命令され、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられたことについては、既に述べてきたところです。
 七〇一年時点以降も全国的に庚午年籍が残っていたということは、この庚午年籍の永久保存を九州王朝も命じていたと考えざるを得ません。そうでなければ、神亀四年(七二七)になっても九州諸国の庚午年籍七七〇巻が残っていたとは考えにくいのではないでしょうか。
 このように考えると、庚午年籍は九州王朝にとっても特別に重要な戸籍であったことになります。それでは、なぜ特別に重要な戸籍だったのでしょうか。おそらくは、白村江敗戦以後の混乱した状況下で、氏族の再編成も含めて行われた造籍事業だったからではないでしょうか。これからの研究課題です。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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