2007年 4月10日

古田史学会報

79号

バルディビア探求の旅
倭人世界の南界を極める
 大下隆司

2洛中洛外日記より転載
 九州王朝と庚午年籍
 古賀達也

日本書紀の編纂
 と九州年号
三十四年の遡上分析
 正木 裕

4冨川ケイ子氏 
【武烈天皇紀における
「倭君」】を読んで
 永井正範

『日本書紀』中
の「百済本記」記事
 飯田満麿

6 彦島物語IIー外伝I
 胸形の三女神
 多紀理毘売
と田心姫(後編)
 西井健一郎

巣山古墳第七次調査
 現地説明会
 伊東義彰

 事務局便り

 

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私考・彦島物語II ・外伝1 多紀理毘売と田心姫(前編) へ
        ・外伝2 多紀理媛と伊勢神宮(1) へ


私考・彦島物語IIー外伝 胸形の三女神・多紀理媛

多紀理毘売と田心姫(後編)

大阪市 西井健一郎

三、書紀の田心姫

1.書で替わる紀の三女神名

 多紀理媛について考察している。先稿では、記の大国主の系譜と国譲り説話から、夫大国主の地位を二人の娘高姫に譲らせた天照大神II世としての姿を考察した。今稿では、多紀理媛がなぜ宗像三女神の沖ノ島主とされたのかを探索している。
 前編では、彦島伝承の「多紀理媛、坐胸形の奥津宮」を受けて、記編者が宗像沖の島へ翻訳したと推測した。しかし、原伝承では、胸形は空(むな)国、下関市関門海峡沿岸部をいい、奥津宮は現大和町、大正・昭和の埋立て以前の岩礁と砂州が顎(あざと)状に延びた「沖の洲」にあったと推測した。ただ、この多紀理媛の名は古事記のみで、書紀には出てこない。その不思議さもこの稿では探索したい。
 ご存知のように、紀のウケヒ三女神に「多紀理」との名はない。
 書紀本文では“號曰、田心(たこり)姫。次湍津(たぎつ)姫。次市杵嶋(いちきしま)姫。凡三女矣。”“此則筑紫胸肩君等所祭神是也”とある。
 第1一書では「瀛(おき)津嶋姫・湍津姫・田心姫」の順で載り、“令降於筑紫洲。因教之曰、汝三神、宜降居道中、奉助天孫、而為天孫所祭也。”とある。第2一書では、“號市杵嶋姫命、是居于遠瀛者也。・・・、號田心姫命、是居于中瀛者也。・・・、號湍津姫命、是居于海濱者也。”と書く。第3一書は“瀛津嶋姫命、亦名市杵嶋姫命。・・・、湍津姫命。・・・、田霧姫命”“即以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也”となる。
 紀の不思議は、記ののちに編纂されたのにかかわらず、最後の一書の田霧姫を除き、多紀理媛の名が出ないことだ。また、三神の順番と宮名も相違する。ただ、市杵島姫と湍津姫は記紀に共通出現するから、残る田心姫が多紀理媛に当ると推測されている。

 

2.田心姫は太己理媛

 なぜ、紀では多紀理媛を田心姫と書いたのか。
 田心姫を多紀理媛とする文庫本紀の補注は、「キとコという音は交替するから、田霧が古形だろう」と書く。記と紀の間の八年間に、替わるものだろうか。
 彦島史観からは、源本に「太己理」姫と書かれていたから、と解くことができる。大己貴でも使われた「己」は{漢}キだが、{呉}音ではコとある。文庫本紀は田心にタコリと訓する。記の編者がタキリと読んだ己を、紀の編者はコと読んだのだろうと。
 もし「太己理」とあったとしたら、それは大己貴と同じ「太(フト・布都の地)と己(キの国)の姫」の意を持つ。その示す地名は、前稿で紹介した富登多多良伊須須岐比賣の名が示す地域と同じである。太己理つまり田心姫は、多紀理とは別時代の女王ではないか。
 そう考えると、心は「コ」と訓むのか、との疑問がおきる。記紀の他所に載る「心」はココロと訓する。建内宿禰の親は「屋主忍男武雄心(おごころ)命、一云武猪心(いごころ)」(景行紀)である。孝昭紀“秋七月遷都於掖上。是謂池心(いけごころ)宮”も同じだ。おそらくこれらのココロは地名である。田心姫は本来、太心(ふとごころ)姫、多紀理の高とは別地の「布都の心の地の姫」ではないか。
 ならば、紀のウケヒにしか名の出ない田心姫は、本当に記の多紀理媛と同一人物だろうか。少なくとも大国主に国譲りを要求した天照IIとしての多紀理とは別神になろう。
 後続の紀がなぜ、記の多紀理や多祁理の表記を無視して、田心と書いたのだろう。私見では、記が多紀理を含む三女神の胸形説話を造作したからやむをえず田心姫を創作し、多紀理の名を消すことにした、とみる。
 紀は、多紀理の名を隠蔽する。名が載る大国主の神譜を記さない。娘の高姫は載るが母には触れず、味耜高彦根の妹で天稚彦の妻としか説明しない。それは母多紀理について名前も系図も説話も意図的に忌避したことを示す。国譲り説話群は、高皇産霊命と天照大神との名で押し通し、天照I以外の、天照II多紀理の存在を察知されることを忌避している。
 偏見すれば、紀はイザナキから生まれた天照大神、つまり対馬産と思われる天照Iに功績を収斂させ、天照II多紀理の存在を抹殺しようとしているのだ。


3.瀛津嶋姫は市杵嶋姫

 第二の不思議は、記が沖の島の祭神に誘導しようと「奥津嶋」媛と書く多紀理に対し、後発の紀が市杵嶋姫を瀛津嶋姫として再三にわたり記述することである。
 この市杵嶋姫について、文庫本紀の注には「(各一書を比較して)結局、瀛津嶋姫と同じか。但し、記では多紀理毘売が奥津島比売である」とある。瀛津嶋=奥津島とお考えだ。
 結論からいえば、後続稿で考察する市杵嶋姫が本来オキツの宮に祭られていた神だった。市杵嶋姫とは代々その宮でその地に君臨してきた女巫王(大己貴位)達の一般職位名称であり、同時にその宮には代々の市杵嶋姫が祀られていた、とみる。
 その女巫王の一人が多紀理だったかも。ただ、この推理は記が多紀理媛と市寸嶋媛とを、紀が田心姫と市杵嶋姫と併記し、別神として並置するから成立し難い。

 

4.奥津と邊津との神々

 多紀理や田心姫が昔からの三女神の一員かについて疑問符がついた。ならば、空国の地に古くから存在した女神は、市杵島姫と湍津姫の二神だけだったのでは。この二神は、記紀とその一書の三女神名の全てに載る。それは彼女達の身元がたしかだったため、造作不能だったことを示す。となるとその地域の社は元々、瀛津と辺津との二ヶ所、二神だけだったことになる。それを証するかのような記事が記には載る。
 オキツとヘツとだけのセット、それがミソギ場面の“次於投棄左手之手纏所成神名、奥疎神、次奥津那藝佐毘古、次奥津甲斐辨羅神。次於投棄右手之手纏所成神名、邊疎神、次邊津那藝佐毘古、次邊津甲斐辨羅神。”の神々である。中津の神はいない。
 これら黄泉から逃げ帰ったイザナキが棄てた物が成る神々は、イザナキが活躍した時期以前から存在した神々とみる。この時代の胸形あるいは小戸には、奥津と辺津との二ヶ所だけに神が坐(いま)している。時代が下り、女巫王の時代になり、祭神が替わり、瀛津は市杵島姫、辺津は湍津姫となったのでは。
 当時は日本海が表だから、奥津は裏、海峡側。“奥津比売命亦名大戸比売命”からも小戸の関門海峡側出口を指すとみる。辺津は表、波もたぎる響灘側だろう。これは胸形の地の場合であり、後世の宗像三社の配置とは別の話だ。

 

5.天照大神II・多紀理媛の行方

 では、多紀理とは何者だったか。記紀の記事をつないで、想像力を働かそう。
 記が奥津宮に坐す多紀理とも書くから、その宮の斎王か、巫女だった。その姫にスサノヲの子八島篠から五代目の孫である当代大国主が通い、高日子根と高姫とが生まれた。子の名からみて、妃になってから高(竹)の地の首長になったか。親をウケヒの天照大神に求めたことは、有力な氏族の娘ではなかったのだろう。

 先稿で述べたように、夫大国主に娘の高姫を大己貴(神ムスヒ)の地位につけることを要求するとともに、建甕槌など近隣の配下の武将を使って大国を実効支配していた事代主や建御名方を駆逐し、大国の支配者となった。
 その業績により、多祁理の宮が建てられ、その祭神として祭られた。その宮は瀛津宮とは別の宮、佐久久斯侶伊須受能宮がそれではなかったか。伊須受能宮は五十鈴宮となって、現在では伊勢神宮の内宮を指す。その真の祭神は天照大神、実は阿麻氏*(テ)留神ではなく、娘‘下照’姫の豊受(豊宇迦)大神とセットの‘天照’大神IIの多紀理媛なのだ。
氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10

 とはいえ、記はイザナギ・イザナミから生まれた天上を支配する大ヒルメのムチ(貴)を天照大神Iとした。結果、その席は埋まり、後代の多紀理を天照大神II?だとは書けなかった。やむをえず、縁のあった奥津宮の主とし、それまでの主、市杵島姫は中津宮を新設して移したのではないか。
 一方で、始めから多紀理の存在を無視し、ひっくるめて天照大神で通した紀は、原伝承どおり市杵島姫を瀛津嶋姫に戻すとともに、三女神の辻褄を合わせる田心姫を創出した。
 だったら、宗像の三女神というコンセプトは、いつ生まれたのだろう。

 

四、宗像神社縁起から

1.宗像神社造立の伝承
 では、宗像神社側にはどのように記録されているか。
 大阪市立中央図書館で見つけた、宝永六年貝原篤信撰「宗像三社縁起」の写本復刻版によれば、足利尊氏の頃、大破した宗像社を当時の大宮司、氏俊が興立し、その氏俊が旧事紀・古事記に基づき書いた宗像記により、三女神とその祭宮を決めたとある。祭神を三女神と決定したのは、わりと新しいことなのだ。この大宮司家は醍醐天皇の弟、清氏が延喜十四年(九一四)に勅により下向し始まった、とある。それ以前に、神代からの胸形氏やその系図・伝承は絶えていたらしい。
 宗像神社創建を伝える伝承としては、記紀を除くと、風土記逸文筑前「宗像郡」に載るという「西海道の風土記に曰く、宗像の大神、天より降りて埼門山(宗像郡の鐘ノ岬と注あり)に居る時、奥津宮の表(しるし)に青瓊の玉を置き、中津宮のしるしに八尺瓊の紫玉を置き、邊津宮のしるしには八咫の鏡を置き、この三つのしるしをご神体として三つの宮に納め置いてお隠れになった。よって身形郡という。後の人改めて宗像という。その大海命の子孫は、今の宗像朝臣等である(私訳)」(秋本吉郎氏校注『風土記』岩波書店刊)との文がある。なお、この西海風土記の存在には疑いがあり、宗像社記からの引用ではないかとの旨の注記がある。
 また、同本の注に身形郡の後に入るべき文として、“又曰(云)、天神之子有四柱。兄三柱神、教弟大海命曰、汝命者、為吾等三柱御身之像、而可居於此地。便一前居於奥宮、一前居於海中、一前居於深田村高尾山辺。故號曰身像郡云々。”との文を紹介している。ここでは、大海命の三人の兄の像を三ヶ所に祀ったから身像(みかた)郡という、とある。
 胸形の地に三または二女神が祭られていた頃、宗像または身像郡では珠や鏡、あるいは大海氏の祖先像が祭られていたらしいのだ。
 しかし、八世紀の記紀の編者は、宗像神社の三ヶ所に三女神が祭られていることを前提にして伝承(彦島周辺の)を集め、記述した。

2.質子に出た大海皇子の仮説
 となると突飛な仮説が立つ。それは、天武天皇と高市皇子の出自に配慮して、記紀の編者が宗像三女神を造作したとの仮説である。
 この親子について、三つの記述がある。第一は天武紀下二年二月条の系譜に“即帝位於飛鳥浄御原宮。立正妃為皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女為妃。生大來皇女與大津皇子。・・・。天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘、生高市皇子命。・・・”である。天武の初婚は額田姫王であり、続いて高市皇子を生む胸形君徳善の娘を納れる。これに先立つ舒明紀二年正月条に“立寶皇女為皇后。々生二男一女。一曰葛城皇子。二曰間人皇女。三曰大海皇子”、斎明紀六年正月条には“御船西征、始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時大田姫皇女、産女焉。仍名是女、曰大伯皇女。”とある。
 第二に、天武帝崩御のモガリの場面(天武紀下朱鳥元年九月条)で“是日、肇進奠即誄。第一大海宿禰アラ蒲、誄壬生事。”とあり、壬生とは皇子を養育することをいうと注にある。天武紀上即位前条には「大海人皇子」とあり、こちらの注にはこの名は養育にあたった乳母が大海氏であったことに由来するのであろうとある。大海は對海、対馬系とみる。
 第三は、高市皇子が太政大臣につく記事(持統紀四年七月条)、“庚辰、以皇子高市、為太政大臣。”である。同皇子は持統十年(六九七)に没した。古事記献進は七一二年だから、その編纂期に太政大臣職を務めていたといえよう。
 これら資料からどんな憶測ができるか、紹介しよう。

3.多紀理媛と阿麻氏*留神を入れ換えた天武帝
 大海皇子、後の天武帝は対馬系の名を保つ伊都都彦(穴戸)王統の王子である。穴戸で宗像の大海氏に育てられ、鏡王(火之[火玄]毘古の「カガのミ」の王か?)の娘額田姫王を正妃とし、更に胸形氏の娘を娶った。“天皇初娶鏡王女・・・”の初は、穴戸時代を指すとみる。百済戦役に関連して、近畿王朝に質子に出された。天智紀に大皇弟と記されるのは同帝の弟の意だろうが、彦島史観からは大国の帝の弟だったからともとれる。近畿朝では妃額田姫を天智帝に献上させられ、代わりに大田皇女を貰う。百済を支援する斎明帝の九州行きに同行し、途中、妃大田皇女が大来皇女を出産した。同妃を亡くした後は、後に持統天皇になる同妃妹菟野皇女を娶る。この他にも天智帝の娘達を納めたのは、血が同帝とは繋がっていなかったからでは。
[火玄は、火偏に玄。JIs第3水準ユニコード70AB

 天智帝の死の直前、吉野に逃げ、死後、同地を脱出し、三重県の朝明郡で“望拝天照太神”したとある。この天照大神は大国を獲た多紀理媛だったのか、対馬の日神、阿麻氏*留神だったのか。ここまでの歴代天皇が天照大神を拝したとの記事はない。天武帝には同大神に特別な思い入れがあったと思われる。崩御後、正妃が持統天皇となり、先に太政大臣になった草壁皇子が亡くなり、胸形君徳善の娘が生んだ高市皇子がその職についた。
 想像では、この天武帝と高市皇子の親子の影響で、彦島伝承とそこからの多紀理媛と対馬の天照大神Iとのすり替えが行われた、と思うのだが。
 多紀理毘売と田心姫の考察 終

〔依拠資料〕岩波文庫『古事記』『日本書紀(一)〜(四)』。他は文中に記載。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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