2007年12月 8日

古田史学会報

77号

日本書紀、
白村江以降に見られる
三十四年遡上り現象
 正木 裕

2古田・安川対談
『東日流外三郡誌』
と「福沢諭吉」
 大下隆司

九州古墳
文化の展開(抄)
 伊東義彰

装飾古墳に
描かれた文様
蕨手文について
 伊東義彰

九章算術の短里
 泥 憲和

6彦島物語IIー外伝I、
多紀理毘売と田心姫
(前編)
 西井健一郎

7 『 彩神 』第十一話
 シャクナゲの里2
 深津栄美

最後の九州年号
「大長」年号
の史料批判
 古賀達也

9書評
遣唐使・井真成の墓誌
 水野孝夫
 事務局便り

 

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私考・彦島物語 II 國譲り(前編)

私考・彦島物語II 多紀理毘売と田心姫(後編)  へ


私考・彦島物語IIー外伝I、胸形の三女神・多紀理媛(前)

多紀理毘売と田心姫(前編)

大阪市 西井健一郎

一、奥津島の多紀理毘売

1.三女神の誕生
 先稿「彦島物語?・国譲り」(会報No.七三)で、天照大神とスサノヲとの誓約で生まれた三女神の中の多紀理媛(記)を、娘高姫に国譲りするよう夫大国主に要求する母、天照大神?として紹介した。天照大神の功績として国譲りが語られるのであれば、多紀理媛も天照大神?として祭られるべきである。なのに、記紀はいつのまにか宗像の沖の島に坐す女神に変身させている。そこが不思議だ。
 そこで脇にそれて、なぜ多紀理媛が宗像三女神の一神となったのかを彦島史観から探索することにした。先稿では大国主系譜からの媛を考察したが、今回は、ウケヒの場面に載る彼女の名からその原像を探索する。
 多紀理媛の名は古事記にのみ出現し、ウケヒの場面と先述の大国主系譜に載る。ウケヒの場面では、天照大神?が建速須佐之男の剣を噛み砕き、“於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命。亦御名謂奥津嶋比賣命。次市寸嶋比賣命。亦御名狹依毘賣。次多岐都比賣命”と書く。多紀理媛を天照大神が生んだように描いている。
 続けて須佐之男が五男神を吹き出した後、これら三女神について“多紀理毘賣命者、坐胸形之奥津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。”と付記する。
 この記述は、三つの資料から合成されたとみる。第一は、多紀理媛は亦名を奥津嶋比賣というと記す源本(記が資料にした種本)があった。第二に、神代には胸形の地に奥津宮があったと伝えるものがあった。そして第三に記紀編纂時点には、筑前の宗像神社の祭神は三女神になっていたこと、である。それらの点を、わが史観から考察しよう。

2.胸形は速秋津の地である
 多紀理媛が坐した胸形・奥津嶋は、彦島史観からみれば、現・宗像の沖ノ島ではない。記が写した神代の胸形の地は、筑前の宗像とは違う。記の源本の云う胸形とは、読んで字の如く「胸肉の形状」から発した地名である。そこはニニギ降臨紀本文が“立於浮渚在平處、而膂宍(そしし)之空國(むなくに)、”と書き、第2一書が“而膂宍胸副(むなそう)國”と書く地である。その地は胸の肋骨の間にこびりつく肉のようにわずかな、海が迫った狭い平地の国なのだ。
 わが史観からいえば、この「胸(ムナ)」は空(ムナ)しいの「空」の置き換え字である。「空」も元はといえば空き巣などの訓のアキに当てられた漢字であり、それは両口が海に開いた港つまり開津の「開(ア)き」からの替え字である。この開津は速秋津とも書かれているから、“潮既太急”な速日国の関門海峡の別名である。
 一方、空は虚空と修飾されて虚空津彦のソラと訓まれている。さらに、空をカラと訓んだ可能性がある。とすれば、下関市の唐戸(からと)港は「空戸(アキの地のト、港)」の名残りかもしれない。
 また、空を空蝉(うつせみ)のようにウツと訓み、村の意の「志」をつけると「ウツシ」、つまり宇都志(顕)の国となることを、ご本人は半疑の西村秀己氏に教わった。顕国も速秋津の別名だったのだ。
 となると、スサノヲの御所の大神が葦原色許男に叫ぶ“意禮、為大國主神、亦為宇都志國玉神而、・・・”の並称した意味も明確になる。大国と宇都志国とは別の地域、大国主は豊浦郡の宇賀に宮を構えよとあるから大国は響灘沿岸の豊浦郡域を指し、宇都志国は下関市街地から彦島へかけての海峡沿岸部だった。さらに、「大己貴」も「オホと己(キ=宇都志国部分)との両地をウシハク女巫王」の意味になる。

 「己(キ・コ:屈曲した目印)」は、前稿で述べたように「已(イ:古代人が農具のスキに使った曲がった木を描いた文字)」の転字の可能性が高い。曲浦または来名戸を指す。記紀の神代巻の紀伊や倭が意味する区域は宇都志国域、下関市の海峡沿岸部である。現判断では、彦島を除く、大和町から下関港を経て壇の浦までの区域を想定している。その地域に多紀理媛の宮があったのだ。

 

二、竹志と筑紫

1.カマ・ドにある奥津宮
 次に、奥津嶋とは檍津嶋。イザナミを祀った阿波岐原の地ではないか、とも考えた。檍(あわき)の訓はオク、それに港の津がつき「オクツ」と訓みかえられた。それに「奥津」と当てたとみることもできる。だが、残念ながら、檍原は小戸の橘だから小瀬戸の中央部、奥津は次に述べるように海峡沿岸部で別地名のようだ。なお、橘は必ずしも立ち鼻(岬)の意とは限らず「キツ(己津)」、つまり彦島から己国へ渡る港との意の地名に当てられている可能性もある。
 奥津との地名は、記・大年神(オホトシは大戸主オホトヌシの略だろう)神譜の“生子、奥津日子神・次奥津比賣命、亦名大戸比賣、此者諸人以拝竈神者也。”にも見える。そこは小戸に対する大戸、つまり関門海峡に面す。この奥津島を記紀編者は宗像社の沖ノ島に翻案した。それが“坐胸形之奥津宮”である。
 さらに、奥津比賣は「カマ・ド」の神だから、魚のカマ(顎)のように鎌状になった水戸の神、小戸の出口の港の神である。地図から見れば小戸の両口とも岬が遮ぎるが、平地の砂嘴状の海峡側、下関旧駅のある大和町の地とみる。
 この砂嘴は、おそらく神武記紀にある佐士布都・高佐士野の地である。海士郷町(高の天アマの原バル=村)から見て差し向かいにあるから、サシの地名がついたのかもしれない。砂嘴(さし)の可能性もあるが、近代造語ではと疑うのでその仮説提案は留保する。

2.高の佐士野と五十鈴宮
 高(コウ、向。あるいは竹タカ、後述)の佐士野は、神武帝東征譚のモデルの一人、磐余彦が後妻の富登多多良伊須須岐比賣(ホト・タタラ・イ・ススキ・ヒメ)、亦名比賣多多良伊須氣余理比賣(ヒメタタラ・イスケヨリ・ヒメ)を見初めた土地である。
 彦島史観から媛名を読むと、富登はホトではなく布都フト、磐裂神の孫経津主の地、伊崎町の古名。多多良は踏鞴(ふいご)や鉱滓ではなく、「タタラ:基岩の露出したところ(広辞苑)」である。下関市役所のご教示では、大正から昭和にかけて埋め立てたため大和町と名付けられた同地は昔「沖の洲」と呼ばれ、砂州と岩礁がずらりと並んでいたという。長府沖の満珠・干珠の島まで見え、平家の軍船は彦島の今の平地部(老町周辺)の深い入り江に集結したといわれているそうだ。多紀理媛の祀られた奥津島は、この「沖の洲」のことだったのではないか。伊は前述の已イの国、須須岐は薄(すすき)ではなく、群がって生える草の意で「篠ささ」をいうとみる。私見では、少彦名命が漂着する出雲国(伊都国)の五十狭狭(イソ磯のササ。神代上紀一書)の地であり、天照大神を託された倭姫が最初に詣った菟田の筱幡(ササハタ。垂仁紀)の地である。となると、彼女の名は下関市の関門海峡沿岸の地名を連ねて、その地域をウシハイた(崇敬を集めた)媛なのだ。
 その媛の亦名を伊須氣余理比賣と書く。伊須気は伊須受(イスウケ=イスズ、五十鈴)の転字、余理は依であり、「イソ(五十)の鈴依姫」が原名だろう。それは彼女の役職名で、天孫降臨・記に“拝祭佐久久斯侶、伊須受能宮”とある宮の斎王だったのでは。その佐久久斯侶(サククシロ)は拆釧と当てられ、五十鈴にかかる枕詞という。彦島史観からは、裂後(サク・ウシロ)で「磐裂神の地、伊崎の裏側」の意とみる。なお、イスケヨリ姫は記では伊須須岐比賣の亦名だが、紀ではその妹で神武の息子綏靖帝の正妃名と載る。私見では紀が正しく、姉は大戸主の女王、妹は大戸の貴(むち)だったのでは。

3.神功皇后紀の五十鈴宮
 伊須受能宮=五十鈴宮とすれば、神功摂政前紀にその宮名が載る。亡き仲哀帝を諌めた神の名を尋ねる皇后に“乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。”とある。これから見ると、この時代の伊須受能宮の祭神は向津媛命である。「(イザナキの母の)橿城根の偉業を継いで伊都の祖先神となった、(海士郷から)離れた向の津に祭られている姫」との神名だ。なお、“神風伊勢國之百傳・・・”も原伝承は、「風神志那津比古を祭るシナの国の、五十(磯)の地の、百襲づたいに渡った逢県」の地だったとみる。
 この十四代仲哀帝期の向津媛を祭る五十鈴宮も、十一代垂仁帝が倭姫に鎮座させた五十鈴川の傍の宮と考えられる。なれば、そこは天孫降臨期に猿田彦が帰る“伊勢之狭長田五十鈴川上”(紀第1一書)と同地だろう。原伝承ではおそらく「イソの狭サ・灘ナダの五十鈴川」だったと読み、関門海峡が狭まる早鞆瀬戸は門司の古城山の対岸、ミモスソ町か壇ノ浦あたりに想定する。この伊須受宮や五十鈴宮の遷座と祭神の探索は別稿で展開する。となると、大和町の多紀理媛の奥津宮は、この向津媛の宮とは別地点の宮になる。

4.「多紀理」と「多祁理」
 その多紀理媛は、生存時には「タケリ」と呼ばれていた形跡がある。それが、神武記に載る多祁理宮との記載である。神武が東征の折、“亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。”と書く。その地を、紀は“至安藝國、居于埃宮”と書いている。
 記の「阿岐」・紀の「安藝」は広島県ではなく「アギト(顎)」のアギ。「カマ・ト」のカマと同意の同地である。魚の顎を「カマ」と呼ぶように、半月形に突出した地形を描写する。それが埋立て以前の大和町、そこに「タケリ」媛を祀る宮があった。

 この多祁理とは、奥津島(沖の洲)の多紀理媛のこととみた。だが、大国主神譜に載る同媛の子達の名には「高」がつく。だから、彼女の名称は地名「高」に女子名の語尾「理」をつけた「高理(タカリ)」が原名とみていた。しかし、この多祁理の例をみると、その高は本来「竹(タケ)」の地だった可能性が高い。建日のタケでもある。「多祁理」が「多気(ケ・キ)理」になり、「多紀理」に書き換えられたらしい。
 多祁は「竹」、その訓には「タカ」がある。広辞苑によると、タカ(竹)は「たけの古形。他の語に冠して複合語としてのみ用いる」とある。例えば、ニニギ紀第3一書に、“時以竹刀截其兒臍。其所棄竹刀、終成竹林。故號彼地曰竹屋。”の文がある。文庫本紀は「竹刀(アヲヒエ)」、「竹林(タカハラ)」、「竹屋(タカヤ)」と訓る。また、同第6一書の“到吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。”の竹嶋もタカシマと訓する。なお、長にもタケとの訓がある。
 また、ニニギの降臨ではしっこく“天降坐于竺紫日向之高千穂之久士布流(クシフル)多氣(タケ)”(記)とか、“天降於日向襲之高千穂峯(タケ)”(紀本文)とタケが出る。そのタケは、源本では峰ではなく「タケ(竹)」の地を指していたのかもしれない。

5.日向島の竹志
 だとすると、下関の彦島につく「筑紫」とは、多紀理の名にある村名タケから解ける。
 「タケ」の地名に「竹」、それに多芸志などの村を示す語尾「シ」をつけて、当初「竹志」と漢字に採られた。やがて竹は竺(ジク)に換えられ、「竺志ちくし」と書かれた。さらに後世、博多近郊の小字名から発し国名や九州の代名詞に使われていた(古賀達也氏)「筑紫」と、おそらく意図的に取り換えられた。結果、彦島伝承つまり同島出身者の英雄譚は、九州始発の日本国規模神話へと変身した。
 この竹の転字例は、天武紀十年七月条で新羅へ派遣された小錦下采女臣竹羅に見ることができる。彼の名は同十二年二月条では信濃へ都の地を探しに行く小錦下采女臣筑羅、朱鳥元年九月条では誄を奉ず直大肆采女朝臣竺羅と書き換えられている。
 一方、日向は日の国の向(コウ・ムカイ?)の地か。日は“肥國謂建日・向・日・豐・久士比泥別”(記)の「日い」である。下関市北部に内日(うつい)との地名が残る。
向は“然此二門、潮既太急。故還向於橘之小門”(紀)、前出“天疎向津媛命”(紀)に出る地名だ。記紀に記述はないが、彦島は「日の向いのむこう」と呼ばれていたのかもしれない。あるいは、「日(イの国に属する)子島」とのネーミングで、本州の大八島(オヤシマ、親島)に対していたのかも。
 目下、日向から彦島の名が生まれたか、ヒコシマと呼ばれていたから日向が当てられたのかは分らない。ただ、近畿王朝が「日向島の竹志」の前後を入れ換え、筑紫の日向と書き、発祥の地を宮崎県へミスリードした可能性は高い。
 さて、神武の時代には多紀理媛は本名の多祁理姫として小戸の出口、関門海峡に顎のように張り出した沖の洲に祭られていた。おそらく、その宮は伊須受宮とも呼ばれ、その斎王を磐余彦は正妃にした。その後、崇神・垂仁の時代に宮は移動し、仲哀の時代の五十鈴宮は向津媛を祀り、壇ノ浦近くとおぼしき磯の地にあった。そして現代、伊勢市に天照大神が祭られた五十鈴宮がある。
 少なくとも伊須受宮の祭神は天照大神?多紀理媛だろうと推測する。が、なぜ、その媛が宗像の沖の島の祭神になったのだろうか。後編では、紀に明記されない多紀理媛の影部分を探すことにより、その理由を探索しよう。
多紀理媛と田心姫(前編) 終
〔資料文献。後編も同じ〕
岩波文庫「古事記」・同「日本書紀」、「広辞苑」以上、岩波書店。「漢字源」学研。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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