七支刀鋳造論 伊東義彰(会報76号)
巣山古墳第七次調査現地説明会 伊東義彰((会報79号)
九州古墳文化の展開(抄) 伊東義彰(会報77号)
装飾古墳に描かれた文様(蕨手文について)(会報77号)
装飾古墳に描かれた文様
蕨手わらびて文について
生駒市 伊東義彰
九州の装飾古墳に描かれている文様には、円文(同心円文や鏡らしきものも含む)・連続三角文・蕨手(わらびて)文・対角線文・直弧文・鍵手文・梯子形文・双脚輪状文などの幾何学的文様類、馬・鳥・猪・蟾蜍(ひきがえる)・怪獣などの動物類、靫(ゆき)・盾・弓・矢・鞆・剣・大刀・短甲などの武器・武具類、船・箱・家・翳・刀子・高坏などの器物類、人物類などさまざまなものがあり、これらを巧みに組み合わせた装飾が施されています。
これらの文様のうち、円文と連続三角文がもっとも多く描かれており、葬送祭祀の文様として広く普及・使用されていたことを物語っています。
蕨手文が肥後の古墳から見つかっていないということと、その最古例が六世紀前半の、筑後川と水縄山地に挟まれた地域に築造された日ノ岡古墳であるということ、また、この地域とその延長線にあにある古墳を中心に見つかっているということは、蕨手文はこの地域を本拠地とする勢力が生み出し、継続して描いていった葬送祭祀の文様と考えられるのではないでしょうか。
日ノ岡古墳が築造された六世紀前半は、装飾古墳の王者と言われる王塚古墳よりも前であり、磐井の墓とされている岩戸山古墳が築造された時期と重なります。蕨手文を描く豪華な装飾古墳である日ノ岡古墳とその後に築造された王塚古墳が、石人・石馬の頂点を極めた岩戸山古墳と、磐井の反乱という大事件を中に挟んで何らかの関連があったのではないか、と考えるのは短絡過ぎるでしょうか。
ところが中には、双脚輪状文のように数ある装飾古墳のうち、四つの古墳にしか描かれていないものや、蕨手文のように特定の地域に集中して描かれているのではないか、と思える文様もあります。
装飾古墳に描かれている多種多様の文様は、そのほとんどが広い範囲に散在する古墳に使用されていて、一定の特徴のある地域に特定することは困難な状態ですが、一つ、蕨手文だけは、その描かれている地域に共通する特徴があるのではないかと考えられるのです。その蕨手文の初出例は、福岡県浮羽郡吉井町の若宮古墳群にある日ノ岡古墳とされています(蕨手文は蕨の芽に似た形状からつけられた名前で、何を図案化したものか、はっきりしたことはわかっていません)。
日ノ岡古墳(六世紀前半)は、月岡古墳(五世紀前半)、塚堂古墳(五世紀後半)とともに若宮古墳群を構成する古墳の一つで、月岡・塚堂の両古墳が九〇メートル級であるのに対して約七四メートルとやや下回るものの、福岡県における彩色による図文表現が施された最古例の古墳であり、彩色壁画系装飾古墳の中でも初期のものとされています。
石室の上半部を失っているものの、玄室奥壁は、石棚の下に大きな一枚石を置き、その周りに割石をつむ構造で、大石には大きな同心円文(径四八〜五九cm)を上下二段に三つずつ計六つ描き、その周囲に蕨手文と連続三角文を配しています。奥壁に数個の大きな同心円文を配した図柄はこの地域の他の古墳にもあり、その原型となったものとされています。
胴張形玄室の左右両壁は割石を積み上げて構成されており、連続三角文・同心円文・蕨手文を中心に、船らしいものや鳥らしいもの、靫・大刀・馬などが描かれていて、その描画範囲の広さは王塚古墳を凌ぐとさえ言われています。
日ノ岡古墳のある浮羽郡吉井町というのは、筑後川の上流、大分県との県境に近いところで、筑後川の南岸、水縄(みのう)山地の北麓になります。実はこの地域にたくさんある装飾古墳に混じって、蕨手文の描かれた古墳が四つあります。上流から塚花塚古墳(浮羽町)、重定(しげさだ)古墳(浮羽町)、日ノ岡古墳(吉井町)、珍敷塚(めずらしづか)古墳(吉井町)です。
少し下って久留米市に入ると鹿毛塚(かげつか)古墳、水縄山地西端部の八女(やめ)古墳群東群に属する丸山塚古墳、筑後川北岸になりますが佐賀県鳥栖市の田代太田(たしろおおた)古墳があり、筑後川流域と水縄山地の周辺に蕨手文を石室に描いた古墳が七つあることになります。これに、遠賀川上流域の王塚古墳(嘉穂郡桂川町 けいせんまち)を加えて、蕨手文を石室に描いた古墳は合計八つしかない、ということになります。何百とある装飾古墳の中で、蕨手文が描かれている古墳はわずか八つしかなく、そのうち七つが筑後川流域と水縄山地の周辺に集中しており、何故か肥後(熊本県)からは一つも見つかっていません。
これら八つの古墳の中で、最も古いとされているのが日ノ岡古墳であり、現時点では蕨手文が最初に描かれた古墳ではないかと考えられるのです。
蕨手文が描かれている古墳の分布を整理すると次のようになります。
蕨手文が肥後の古墳から見つかっていないということと、その最古例が六世紀前半の、筑後川と水縄山地に挟まれた地域に築造された日ノ岡古墳であるということ、また、この地域とその延長線にあにある古墳を中心に見つかっているということは、蕨手文はこの地域を本拠地と
する勢力が生み出し、継続して描いていった葬送祭祀の文様と考えられるのではないでしょうか。
日ノ岡古墳が築造された六世紀前半は、装飾古墳の王者と言われる王塚古墳よりも前であり、磐井の墓とされている岩戸山古墳が築造された時期と重なります。蕨手文を描く豪華な装飾古墳である日ノ岡古墳とその後に築造された王塚古墳が、石人・石馬の頂点を極めた岩戸山古墳と、磐井の反乱という大事件を中に挟んで何らかの関連があったのではないか、と考えるのは短絡過ぎるでしょうか。
蕨手文が描かれている壁画系装飾古墳
県 | 古墳 | 世紀 | 墳形 | 長径m | 描画場所(色) | その他の文様 |
福岡 | 日ノ岡 | 六前半 | 方円 | 74 | 奥壁・側壁 赤青黄緑 |
円・靫・盾・大刀・ |
福岡 | 王塚 | 六半 | 方円 | 86 | 石屋形・全面 赤黒白緑黄 |
双脚輪状文・騎馬・連三・ 円・靫・盾・大刀 |
福岡 | 塚花塚 | 六後半初 | 円 | 28 | 奥壁・側壁 赤緑 |
連三・円・靫・盾 |
福岡 | 丸山塚 | 六後半初 | 円 | 23 | 奥壁・袖石など 赤黒緑 |
対角線文・三角文 |
福岡 | 鹿毛塚 | 六後半 | 円 | 円文 | ||
佐賀 | 田代太田 | 六後半 | 円 | 36 | 奥壁・袖石など 赤緑黄 |
連三・円・騎馬・人物 ・舟盾・大刀? |
福岡 | 珍敷塚 | 六後半 | 円 | 奥壁?巨石 | 靫・人靫・人物・舟・鳥・円物・舟・鳥・円 | |
福岡 | 重定 | 六後半後 | 方円 | 80? | 奥壁・側壁 赤青 |
靫・鞆・円 |
同右、築造時期との関連
地域 | 六世紀前半 | 六世紀中ごろ | 六世紀後半 |
筑前 | 王塚(双脚輪状文) | ||
筑後 | 日ノ岡 | 塚花塚 丸山 鹿毛塚 珍敷塚 重定 | |
肥前 | 田代太田 |
(以上、『装飾古墳の世界 図録』国立民俗博物館編集・朝日新聞社を参考に筆者作成)
[註]上記古墳のうち、珍敷塚古墳と田代太田古墳の蕨手文については異論があります。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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