巣山古墳第七次調査現地説明会(会報79号)
七支刀鋳造論 伊東義彰(会報76号)
巣山古墳第七次調査現地説明会 伊東義彰((会報79号)
九州古墳文化の展開(抄) 伊東義彰(会報77号)
装飾古墳に描かれた文様(蕨手文について)(会報77号)
九州古墳文化の展開(抄)
生駒市 伊東義彰
古墳文化は畿内で起こり、それが大和政権の勢力範囲に広がっていった、と言うのが古墳文化の発生と広がりに関する現在の定説となっており、前方後円墳体制とか、三角縁神獣鏡配布説などが専門家の間で有力な地位を占めています。
この定説に従うと、古墳文化を形成するためのさまざまな要素は畿内で生まれ、畿内から各地へ広がっていったということになり、大和政権による日本列島支配が考古学的にも証明されている、と信じざるを得ないことになります。
この考え方に、最初に疑問を抱いたのは、奈良県橿原市の植山古墳から出土した阿蘇ピンク石製の石棺を調べているときでした。
植山古墳は六世紀末〜七世紀前半のもので、横穴式石室が二つあり、欽明天皇の墓ではないかとされている見瀬丸山古墳の近くにあるところから、推古天皇と竹田皇子の合葬墓ではないかと騒がれましたが、他の阿蘇ピンク石製石棺(破片も含む。以下同じ)を持つ古墳は五世紀後半から六世紀前半の間に集中していることがわかりました。植山古墳を除く阿蘇ピンク石製石棺は、出所不明のものを含めて十二(他に用途・時期不明のものが一つ)あり、その全てが五世紀後半〜六世紀前半の間の古墳に集中しているのです。石棺は全て刳抜式家形石棺とされています。
刳抜式家形石棺が古墳文化を形成する重要な要素の一つであることは今さら言うまでもないでしょう。ところが、二上山白石製の石棺が畿内に登場するのも五世紀後半からで、しかも、五世紀後半とされる古墳から発見された阿蘇ピンク石製石棺よりも早い時期の二上山製刳抜式家形石棺をともなう古墳が見つかっていないのです。これは一体、何を意味するのか。古墳文化を形成する重要な要素が本当に畿内で生まれ、大和政権の勢力範囲に広がっていったのか、を調べてみようと思った原点が此処にあります。
一、前方後円墳と埴輪
従来から、前方後円墳は大和で生まれ、大和政権の勢力範囲に広がっていったとされています。ところが、吉備地方では、楯築遺跡から前方後円墳の原型とも言うべき弥生墳丘墓が発見されていますが、奈良盆地では、前方後円墳の原型はおろか、その前身とも言うべき弥生墳丘墓すら発見されていません。ある日突然、前方後円墳が出現した、というような状況にあり、奈良盆地の弥生時代との繋がりが極めて希薄なのです。
そればかりか、九州の宮崎県西都原古墳群からは、弥生時代と古墳時代の過度期にあたる土器を伴う三世紀中ごろの古式前方後円墳(纏向型前方後円墳ーホタテ貝式前方後円墳)が発見され、前方後円墳は同時多発的に生まれたのではないか、とさえ考えられているのです。
これまた、古墳文化の重要な要素の一つである円筒埴輪についても、その起源が吉備の弥生墳丘墓を飾った特殊器台形土器にあることがわかってきました。特殊器台形土器から特殊器台形埴輪へ、そして円筒埴輪へと変遷した過程が判明しています。もちろん、奈良盆地の弥生文化には埴輪の前身になるような土器は生まれていません。此処にも奈良盆地の弥生文化とその後に生まれてきた古墳文化との繋がりが見つかっていないのです。
二、横穴式石室
横穴式石室は、一度しか埋葬することができない竪穴式石室と違って、追葬することができる石室です。四世紀後半から末にかけての時期に北部九州の玄界灘沿岸地域に現れた埋葬施設で、当初はその形態から竪穴系横口式石室(佐賀県松浦群浜谷町の谷口古墳、福岡市の鋤崎古墳・老司古墳など)と呼ばれるものでしたが、五世紀初頭には有明海沿岸地域を中心に肥後型横穴式石室(石障系横穴式石室)が出現し、後半には石屋形を備えた石室も現れます。
畿内を中心とした地域に横穴式石室が現れるのは五世紀末から六世紀初めごろですから九州よりも一〇〇年ほど後のことで、それまでは追葬することのできない竪穴式石室が用いられていました。
古墳文化の重要な要素の一つである横穴式石室が最初に出現したのは北部九州であって、畿内古墳文化の影響を受けて始まったものではありません。造られ始めた順番からすれば、九州から畿内へ伝わった文化だということになるのですが、一般的には、畿内の横穴式石室は九州の影響を受けて始まったものではなく、朝鮮半島の百済から直接取り入れたものだとされています。しかし、横穴式石室の基本とも言うべき「追葬」することができるという特徴は、先行する九州古墳文化の影響を受けたものと考えるのが最も常識的な見解でしょう。石棺のところでも述べますが、畿内には阿蘇溶結凝灰岩製の石棺が早くから持ち込まれており、特に阿蘇ピンク石製の刳抜式家形石棺は畿内の竪穴式石室にも横穴式石室にも用いられていますから、横穴式石室だけを百済から取り入れ、石棺は九州のものを用いたなどと言うのは、極めておかしな理屈になります。なお、朝鮮半島には刳抜式の石棺文化はありません。
三、石棺
畿内の石棺で最も古い時期に作られたものとして、当初、畿内中心勢力が持った前期古墳の棺形態の一つだとされ、古墳文化を構成する要素の多くが畿内を中心とした地域で成立し、地方へ伝播したのだろうとする考え方を生み出す原因になるほどの評価を得る資料となっていた安福寺在の割竹形石棺は、その石材が香川県に産出する「鷲の石」であることがわかり、その上、香川県で割竹形石棺が数多く見つかっていることから、この評価の高かった安福寺在の割竹形石棺は畿内で作られたものではなく、香川県から持ち込まれたものであることが判明しました。
また畿内ではいくつかの阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が見つかっており、これらは全て九州から持ち込まれたものです。
畿内で生まれた刳抜式家形石棺の祖形とされてきた大阪府藤井寺市の長持山古墳・唐櫃山古墳出土の舟形石棺はともに阿蘇溶結凝灰岩製であることがわかり、また、この時期に作られた九州の舟形石棺の特徴を備えていることから、畿内で作られた刳抜式家形石棺の祖形ではあり得ず、九州から持ち込まれたものであることが明らかになっています。
前述した阿蘇ピンク石製の刳抜式家形石棺ももちろん九州から持ち込まれたものです。それと前後して畿内に横穴式石室が造られるようになっり、その石室にも阿蘇ピンク石製の刳抜式家形石棺が用いられていることなどから、横穴式石室は百済から直接取り入れたとする一般論をすんなり受け容れることはできません。
二上山白石製の刳抜式家形石棺が阿蘇ピンク石製刳抜式家形石棺の後から現れていることなどを考え合わせると、石棺についても、畿内古墳文化がその生みの親でないことが明らかではないでしょうか。
四、装飾古墳
装飾古墳は今さら言を重ねるまでもなく、まさに九州古墳文化の華でしょう。 不知火海沿岸地域で石棺に線刻や浮き彫りを施すことから始まった装飾は、石障から石屋形、石室壁へと施され、彩色画へと発展しながら、熊本県、福岡県、佐賀県、大分県など中・北部九州へと広がっていきました。遠く関東地方や東北地方にも彩色壁画が伝わっています。言うまでもありませんが、畿内古墳文化の影響を全く受けていません。
奈良盆地で発見された高松塚古墳とキトラ古墳の壁画からは、九州の装飾古墳と違ってそこに生活する人々の息吹きをほとんど感じることができません。おそらく、大陸文化の模倣の作品と、生活の中から生まれ育ってきたものとの違いなのでしょう。
六世紀後半の九州の壁画系装飾古墳の中には、『隋書?国伝』(開皇二十年の遣使)に、「死者は斂むるに棺槨を以てし、・・・貴人は三年外に殯し、庶人は日をトして?む。葬に及んで屍を船上に置き、陸地にこれを牽くに、あるいは小?(小さな車)を以てす。」とある?国の葬送風習に合致するのではないかと思われる、船を描いたものがたくさんあります。中には棺らしき四角い箱状のものを乗せた船もあります。『隋書?国伝』のこの記事は、九州の壁画系装飾古墳に描かれているような葬送風習を記したものではないでしょうか。
五、石人・石馬
石人・石馬といわれる古墳の表飾石造物も九州で生まれ育った古墳文化の一つです。九州以外では鳥取県で一例しか発見されていませんから、これまた九州古墳文化独特のものです。もちろん、畿内古墳文化の影響を全く受けていません。
一般的には、土でつくる形象埴輪を身近に豊富にある石で作ったものに過ぎないとされており、石で作った形象埴輪だとされています。単に形象埴輪を素材の豊富な石で作ったに過ぎないなら、もっと早くから、また、もっと多くの古墳から発見されてもよさそうなものなのに、五世紀前半から作り始められており、三十数カ所の古墳・遺跡からしか発見されていません。
五世紀前半ごろの築造とされる福岡県八女郡広川町の石人山古墳や同三池郡高田町の石神山古墳の石人は、甲冑を身につけた等身大以上の大きさで、朱や青色が施されていたと言われていますから、一体(または二体)を後円部の目立つところに立てることにより、古墳の威厳を一層高める役割を果たしたことでしょう。土で作られた埴輪では、これら石人が発揮する堂々たる迫力や威厳を感じられないでしょう。
五世紀といえば、すぐ頭に浮かぶのが『宋書倭国伝』の「倭の五王」です。讃・珍・済・興・武の五人の倭王が、朝鮮半島の情勢を有利に展開すべく、約一世紀の長きにわたって南北朝時代の中国南朝へ使者を派遣し続けました。
このころ、中国南朝の皇帝や皇族の陵墓には、神門石刻といわれる石造物が飾られていました。石獣・石柱・石碑などです。倭国から派遣されてきた使者もこれらの石造物を見たでしょうし、あるいはそこで執り行われた祭祀に参列したかも知れません。帰国した使者がこれらの神門石刻について倭王に報告していたでしょうから、倭国の人たちも知っていたはずです。この神門石刻を倭王やその一族が取り入れたとしても何の不思議もないはずです。むしろ取り入れた方がごく自然です。
もちろん、九州の石人・石馬と中国の神門石刻とでは、その大きさや種類・製作技術などにおいて比較にならないほどの違いがあるのは当然です。当時の倭国は中国南朝の柵封体制下にあった東夷の一小国に過ぎませんから、南朝の皇帝や皇族の陵墓を飾る神門石刻と同じようなものを作れるわけがありません。倭国の古墳を飾る伝統的な埴輪を手本として、それでいては庭では表現できない迫力と威厳を備えた石造物を作ったのではないかと思われます。百年にもわたって使い
を送り続けたのですから何らかの南朝文化が伝わっているのが自然だ思われます。それが石人・石馬として現れたのではないでしょうか。このような刺激伝播、着想伝播とも言うべきものの一つとして石人・石馬が出現してもおかしくないと考えられます。
六、最後に
今まで見てきたように、九州には他の地域に先駆けて、あるいは他の地域には見られない独自の古墳文化が生まれ、育ち、栄えていたばかりではなく、畿内古墳文化にも大きな影響を与えていました。このような文化を生み、育てるためには、その母胎となる大きな政治勢力の存在が前提となります。その政治勢力こそが日本列島を代表する倭国、すなわち九州王朝ではなかったでしょうか。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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