2004年8月8日

古田史学会報

63号

1、理化学年代
と九州の遺跡
 内倉武久

2、ローマの二倍年暦
 古賀達也

3、「磐井の乱」
古田新見解について
 飯田満麿

4、沖縄新報 社説
新説を無視する歴史学界

5、大年神(大戸主)
はオホアナムチである
-- 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6、古田史学の会
・創立十周年
記念講演会に参加して
今井俊圀
仲村敦彦

7、創立十周年
 記念講演会ご挨拶
祝辞・報道

8、『十三の冥府』読後感
 大田斎二郎

9、鶴見岳は
天ノ香具山(続)

 水野孝夫

10、森嶋通夫氏に捧げる
 古田武彦

11、浦島伝説
 森茂夫

 事務局便り


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「磐井の乱」はなかった ロシア調査旅行報告と共に 古田武彦(『古代に真実を求めて』8集) へ


「磐井の乱」古田新見解について

奈良市 飯田満麿

始めに

 さる一月十七日「古田史学の会」新年講演会に於いて発表された、所謂「磐井の乱」に就いての古田氏の新見解について、いささかの疑問を感じたのでその事を記述する。
 古田氏は従来、所謂「磐井の乱」は、その本質は九州王朝の権威に対する、新興勢力近畿王家のクーデターであり、むしろ「継体の乱」と称すべき事件を、大義名分を巧みにすり替え、近畿王家の正史に取り込んだものと規定された。この見解は少なくとも「古田史学の会」内部では、肯定され定説化されて来た。ところが今回「磐井の乱」も「継体の乱」も「乱」そのものが無かったのではないかという画期的な見解が表明された。

 

古田武彦氏の新見解略述

 「記紀」に見られるこの記事そのものが後世の造作であり、この事件を伝える唯一の現地証言とされてきた「筑後国風土記」の記事も「記紀」に影響された造作である。その最たる証拠は、今日、磐井の墳墓として知られる「岩戸山古墳」の石人、石馬、その他の石像物の破壊の跡も生々しい現状に内在する。
 もし磐井がその後の九州王朝内で肯定されたにせよ否定されたにせよ、九州王朝側にとって名誉とは言えない六世紀の事件の痕跡が、今日まで放置されている真因が不可解である。もし石人、石馬、の破壊が六世紀前半の出来事でなく、七世紀後半「白村江の戦い」後に、我が国に進駐した唐の占領軍の行為と仮定すれば、この時期以後編纂されたと思われる「筑後国風土記」の上妻県周辺住民の多数に手足の重篤障碍が存在することや、「岩戸山古墳」そのものの放棄状態が説明可能になる。(文責 飯田)

 

古田氏の新見解に対する疑問

 所謂「磐井の乱」に対する今回の古田氏の新解釈は、少なくとも「岩戸山古墳」の現状「筑後国風土記」記事の理解に関しては、実に切れ味鋭い見解と感心した。「乱」そのものの持つ曖昧性はほぼ一掃されたと考える。しかし最後に一点どうしても拭えない疑問が残った。
 其れは苟も一国の正史として大方が認識している歴史書が、架空の事実を記載するのか?の一点である。内外の正史とされる歴史書は、何れも自己都合による歴史事実解釈に満ちあふれている「記紀」共に近畿天皇家の正統性誇示のために、大幅な他王朝記事の取り込みや、在るべき筈の事実割愛、その他事実の独自解釈は枚挙に暇がない。「古田史学の会」の活動はこの事そのものの解明であると規定して誤り無いものである。
 ひとたびこれを認めるなら、今日までのすべての努力は水泡に帰し、津田左右吉氏の地点まで後退することは誰にも留め得ぬ事態となる。曲がりなりにも「記紀両書」が今日まで伝えられたのは、根本に於いて其れが広義の史実に基づくものだからである。そうでなければ我々の祖先は、これを遙か昔に破棄、放擲していたに違いないのである。

 

飯田の推論

 日本書紀継体紀の末尾、継体天皇崩御の項に、以下の有名な一文が存在する。
 ─ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」これによって言うと辛亥の年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。─
 注─1)百済本記。百済記、百済新撰、と共に三逸史の一つ。「書紀」の資料として重要なもので、整然たる編年体で月次、日次、干支まで明記されている。
 注─2)上記は講談社学術文庫「日本書紀」上(宇治谷孟)より引用

 従来この記事は、「書紀」編纂者が解説しているように、単に継体崩御年の食い違いとして捉えられてきた。しかしながら「書紀」の記事、特に朝鮮半島関係記事は、九州王朝の事実として疑え、と言う古田史学の基本に立ち返って考えるとき、この日本天皇、皇太子、皇子全滅の伝聞は、その時の倭国の王者磐井の災難についての記事ではないのかと言う設問が浮かび上がる。
 この設問に基づき推論を進めれば、この時九州王朝内にクーデターが起こったと考えられる。一方の当事者は日本書紀にその名を留める葛子であろう。当時の近畿王家の主、男大迹王はその一党と共に協力者であったのではないか?。三国史紀に依れば、当時の百済王「聖王」は高句麗と激しく対立していた。日本書紀は継体の晩年近江毛野の任那防衛記事を詳述している。何れも倭国による半島出兵の具体記事を欠くが、倭国が有力な軍隊を百済に派遣していたとしても何の不思議もない。そうで在れば手薄になった本土防衛の任務で、近畿王家から少なからぬ手勢が派遣されたとしても無理ではない。
 この企ては成功した。その後九州王朝内では連続して年号が使用され、「白村江」まで安定した治世が保たれた形跡が強い点から、このクーデターの正統性は一般に認められたと思われる。継体が得たと書かれる糟屋の屯倉は論功行賞の一部かも知れない。又何かとその正統性を疑われる継体としては、その正統性を認知させる絶好の機会を捉えたのかも知ない。
 以上の論証から私は「磐井の乱」は無かったが「葛子の乱」は在ったと考える。何故磐井は暗殺されたか?この謎に答える史料は何も残っていない。そもそも今日までクーデターの存在すら知らされてこなかった、今想像を逞しくしてこの謎に挑戦を試みたい。
 磐井という人物は、今日九州王朝の制度として知られている元号の制定者である可能性がある。二中歴に明記される継体、善記、正和、年号はその年代から磐井の治世と目される。又岩戸山古墳の石造物に示されるように、司法制度の整備も試みたようである。つまり磐井は相当ラジカルな構造改革論者で在ったようだ。何れの時代も改革論者には、抵抗勢力は付き物だ。改革が正論であり、その勢いが強ければ強いほど抵抗も増大する。「葛子の乱」こそ其れが極点に達した証では無かろうか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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