2004年8月8日

古田史学会報

63号

1、理化学年代
と九州の遺跡
 内倉武久

2、ローマの二倍年暦
 古賀達也

3、「磐井の乱」
古田新見解について
 飯田満麿

4、沖縄新報 社説
新説を無視する歴史学界

5、大年神(大戸主)
はオホアナムチである
-- 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6、古田史学の会
・創立十周年
記念講演会に参加して
今井俊圀
仲村敦彦

7、創立十周年
 記念講演会ご挨拶
祝辞・報道

8、『十三の冥府』読後感
 大田斎二郎

9、鶴見岳は
天ノ香具山(続)

 水野孝夫

10、森嶋通夫氏に捧げる
 古田武彦

 浦島伝説
 森茂夫

 事務局便り


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鶴見山は天ノ香具山(続)水野孝夫、『聖徳太子の虚像』ー道後来湯説の真実ー合田洋一著、『謡曲のなかの九州王朝』新庄智恵子著

「伊予の古代史正す」『聖徳太子の虚像』の著者 毎日新聞(9月25日)ひと 人 えひめ へ


鶴見岳は天ノ香具山(続)

奈良市 水野孝夫

 会報号六二号で『鶴見山神社由来記』を紹介した。その一部。

(前略)古来ノ伝ニ依ッテ、謹ミテ考ヘ奉ルニ、遠ツ御代、神伊邪那岐神、妹伊邪那美神、二柱嫁(とつ)ギ玉ヒテ国の八千島ヲ生ミ給ヒ、八百万(やほよろず)神ヲ生ミ給ヒテ、麻那弟子ニ、火結神ヲ生ミ給フ。
 此ノ時、伊邪那美神、御蕃登(みほと)ヲ焼キテ神去リ給ヒシカバ、伊邪那岐神怒リ、コレヲ斬リ給フ。 火結神ノ御体ヨリ成リ、天ノ香具山ヲ初メ、磐群木草海水ノ底ニ至ルマデ火ヲ含マヌモノナシ、ト。
 件(くだん)ノ伝ヲ以ッテ、山ノ霊ハ火結御霊(ほむすびのみたま)神ト知ラレタリ。

 上記は「火男火賣神社史」の執筆者・大野保治氏の書き下しを引用したのだが、正確な引用ではなかった。「神伊邪那岐神、妹伊邪那美神」「八千島」「麻那弟子」「火結神」などにもフリカナがあったのを省略したのである。例えば「八千島」には「やそしま」とフリカナされていて漢字と
適合せず、フリカナがなくても読めると考えた。
 このうち、「麻那弟子」にも「まなでし」のフリカナがあったのを、わたしが省略したのである。これが発端になった。
 論文は、多元・関東の会報「多元」に転載されることになったのだが、高田かつ子さんが、「麻那弟子」部分に疑問を持たれたのである。ここを「まなでし」と読んで「愛弟子」の意味に解し、それなら「愛弟子に、子を生む」とはおかしく、意味不明と考えられたようである。わたしは、この語は「末っ子」の意味と思うと説明した。関西では末っ子のことを「おとんぼ」というからである。高田さんは『古語辞典』を引いて見られたところ、祝詞「鎮火祭」(ひしづめのまつり)に例文があることが記載されていたのである。
 
 「麻奈弟子爾 火結神生給」(まなおとごに 火結神生み給い)
 
 大野氏は「戦前の国史教育を受けた人なら誰しも国生みの神話(記紀神話)を想起するだろう」と解説されていたが、記紀神話には「麻那弟子」「火結神」の用語はない。だから「由来記」は記紀神話よりはむしろ「祝詞・鎮火祭」に対応しているのである。
 そこで大野氏に質問のお手紙を差し上げ、『鶴見山神社由来記』についてもご教示を乞うたところ、「視力が弱っているので手紙は書けないが」とお断りの上、電話でお答えを頂いた。
1.『鶴見山神社由来記』が、記紀よりは祝詞に対応していることは、水野の言うとおりで、大野氏の調査不足であった。
2.『鶴見山神社由来記』は別府市の文化財報告に記載はされているが、個人の所有物である。所有者は、本年二月に九十歳で死去された。大野氏による神社史執筆にあたっても、文書拝見はできたがコピーは許されず、文書を所持していることも秘密にされている様子であった。現在遺産相続にはもめ事がある様子で、決着していない。
3.万葉集の天の香具山が、鶴見岳というのは、はじめてきいたが、有力な仮説と思う。しかし自分は専門でなく、よくわからぬ。仮説をたてるのは学問の最初であり、よいことだ。
4.最近、別府史談会の会長職を辞したが、会誌を一部、水野に贈る。
 こういう次第で、『鶴見山神社由来記』の原文を確認できないのだが、大野氏によって「火結神ノ御体ヨリ成リ、天ノ香具山ヲ初メ、」と読まれている部分は、「なに」が「火結神ノ御体ヨリ成リ、」なのかやや疑問を残すのに対して、「火結神ノ御体ヨリ成ル天ノ香具山ヲ初メ、」と読むのがハッキリしていると考える。火結神ことカグツチ神のお体そのものから成る「鶴見山」が「カグ山」と呼ばれるのは当然である。
 この地にのみ伝わる文献にある以上、「天ノ香具山=鶴見岳」はいよいよ確実になったと考える。但し鶴見岳でなく、由布岳である可能性は捨てきれないが。


新刊の紹介

聖徳太子の虚像

道後来湯説の真実

合田洋一著

 八世紀以降、二十一世紀の今日に至るまで、道後温泉の歴史を飾り、伊予国そして愛媛県の誇りでもあった「聖徳太子道後来湯説」は幻だった。“聖徳太子は道後には来ていなかった”のである。
 奈良時代(養老四年─七二〇)に完成をみた『日本書紀』は、“勝者の歴史書”として「万世一系・大和朝廷一元史観」を創出するために、敗者すなわち「失われた王朝」の天子が遺した事績を大和朝廷の厩戸皇子に“換骨奪胎”した。その皇子が後世、聖徳太子として崇められるいわれとなる。すなわち聖徳太子は、大政治家・大思想家として「作られた虚像」にすぎない。
 一方「失われた王朝」とは、大和朝廷成立(大寶元年─七〇一)以前の日本列島を代表する「九州王朝・倭国」であり、「温湯碑」に刻まれ来湯したとされる人物は、聖徳太子ならぬ歴史上抹殺された“日出ずる処の天子”九州王朝・倭国王多利思北孤だったのである。
 本書は、ほかに「熟田津」「久米評」「天山伝説」などにも論及し、伊予の古代史のゆがみを正す。併せて『伊予之二名洲考』を収録。著者は古田史学の会・全国世話人の合田洋一氏。
●定価一七八五円(本体一七〇〇円+税)
           創風社出版 刊
※購入希望者は著者まで代金を振り込まれると、送料無料で購入できます。
〔郵便振替口座〕合田洋一
     01650・0・37398

「伊予の古代史正す」『聖徳太子の虚像』の著者 毎日新聞(9月25日)ひと 人 えひめ へ


新刊の紹介

謡曲のなかの九州王朝

 新庄智恵子著

 謡曲のなかにいかに多くの「九州王朝」が語られていることかーーー。長年、古田史学に親しみ、それを土台として謡曲集二百番を読み終えた時の驚きは、記紀に描かれた古代史の常識を打ち破った。「鶴亀」「淡路」「弓八幡」などの謡曲を手がかりに、この国のはじまりを問う。


 これは会報の公開です。
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