2004年8月8日

古田史学会報

63号

理化学年代
と九州の遺跡
 内倉武久

2、ローマの二倍年暦
 古賀達也

3、「磐井の乱」
古田新見解について
 飯田満麿

4、沖縄新報 社説
新説を無視する歴史学界

5、大年神(大戸主)
はオホアナムチである
ー記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6、古田史学の会
・創立十周年
記念講演会に参加して
今井俊圀
仲村敦彦

7、創立十周年
 記念講演会ご挨拶
祝辞・報道

8、『十三の冥府』読後感
 大田斎二郎

9、鶴見岳は
天ノ香具山(続)

 水野孝夫

10、森嶋通夫氏に捧げる
 古田武彦

 浦島伝説
 森茂夫

 事務局便り


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理化学年代と九州の遺跡

内倉武久

 昨年五月、国立歴史民俗博物館(歴博)は、放射性炭素(14C)による年代測定の結果、九州の弥生時代の始まりは定説より約五〇〇年さかのぼり、紀元前八〇〇年ごろである、と発表した。拙著「太宰府は日本の首都だった」で世間に問うたことの一部を、考古学界が認めざるをえなくなったわけで、大変喜ばしいことであった。
 しかし、問題はむしろこれからである。理化学的年代測定の結果、弥生時代の初めは通説とは違っていた。では、弥生時代の中期、後期、そしていわゆる「古墳時代」の考古学界の年代観は実体と合致しているのか、ということである。拙著で指摘しているように、これが、やはり違っていた、ということになると、現在の考古学、古代史学の定説、あるいは通説はほとんど崩壊することになる。大局的に言えば、唯一生き残れるのは古田説だけということになる。歴博があえて測定結果の発表を「弥生時代草創期」にしぼった意図もそこにあると感じている。

 

放射性炭素による年代測定

 14Cによる年代測定とはどんなものなのか、簡単にみてみよう。一九五〇年に米国の物理化学者ウィラード・リビーが開発して発表した測定法である。14Cは宇宙線によってごく微量作られる炭素の同位体で、地球規模で同じ濃度である。一定の割合でβ線を放出してその量が約五七三〇年で半減する。木材、人体などあらゆる動植物の体に取り込まれて、体内は地上の空気と同じ%の炭素濃度になる。どの年代にどんな炭素濃度であったかを調べておけば、測定時の残存量で死んだ年代がわかるという仕組みだ。
 判定用の基礎的なデータ(リビー値)は、その後の測定機材の発達と研究でかなり変更されたが、現在は異論はない。さらに最近は、AMS法といって加速器にかけて炭素粒子を直接数えられる方法が開発されて、きわめて正確な年代値が得られるようになった。名古屋大学の測定センターは「プラスマイナス十年程度まではいける」とし、測定用の資料も耳かき一杯程度でOKという。測定可能な資料が木材3種類と限られる年輪年代測定法とくらべて、有機物すべてが測定可能であり、きわめて有用な測定法である。

 

考古学界の反発

 しかし、考古学界、特に九州の考古学界人の多くは歴博の発表以後も、まだ14Cなど理化学的な年代測定を年代判定のよすがにしようとしていない。さらにこれまでに実施された測定結果にも否定的である。東北でも同じょうな状態たいらしく、先日行った某博物館の担当者は、あれこれ否定的な意見を述べた後、当方の質問に答えられなくなり、言葉に窮して「予算がないので実施していない」と言っていた。
 これはまったくの逃げ口上にすぎないと思われる。なぜなら、たとえば14Cの測定費用は一件につき五万円前後であり、正確な年代判定という遺跡調査の最も基本的で重要な点をつかめることを考えれば安いものだからである。本音は自らがつくってきた古代史のわく組が崩壊するのを恐れているからであろうと思わざるをえない。

 

仮定を基礎

 現在、大多数の考古学研究者が年代判定のよすがにしているのは、土器形式の編年や出土遺物の年代観である。この方法が正確さに欠けることは言うまでもない。土器についていえば、同じ土器は全国ほぼ同じ時期に作られたとか、形の違う土器でも同じ場所から出たら全く同じ時に作られ、使われたとみなしてしまう。また、日本列島の土器作りの先進地は畿内であるとの思い込みで各地の年代を推定するなど検証作業抜きの、いわば仮定や思い込みが判定の基礎になっている部分が多いのである。
 各地で土器の編年表が作られているが、これはあくまでもごく限られた地域についての土器形式の変化と新古の順をしるした相対的なものであり、絶対年代は各地でそれぞれ客観性のある理化学的な年代判定を実施しなければ正確な年代はつかみ得ないのである。同じ土器でも、地域が違えば作られた年代が違うことは、世界の常識である。中国の例では、日本の縄文時代にあたる古い土器では一二〇〇年ほども年代差がある。日本でも同様であることは先の弥生草創期の検証作業で確かめられたのである。
 土器以外の遺物の年代想定も同様で、仮定や思い込みを基礎にしている部分が多い。たとえば朝鮮半島はあらゆる面で日本列島より先進地であったというテーゼである。この考え方も、古代のメインの交通路は海と川であったことを忘れた見方であり、一〇〇%正しいとはいえない。中国文化は日本列島経由で半島に持ち込まれたケースも考えなければならないのである。魏志韓伝によれば、朝鮮半島の南部沿岸地域は邪馬壹国の領域だったことも考慮されなければならない。


水城の築造は三、四世紀から

 北部九州について、これまで実施された理化学的年代測定をみてみよう。まず、太宰府の防衛を目的にした巨大な構築物である水城についてである。日本書紀には

「天智天皇三年(六六四年)に大堤を築きて水を貯めしむ。名づけて水城という」

と記載されている。
 水城の堤の下には地盤固め用の木の枝「敷きソダ」が幾重にも施されている。九州歴史資料館が一昨年、この木の枝の14C測定をした。場所は水城を貫く三笠川の東側である。結果は上層部が六六〇年、中層が四三〇年、下層が二四〇年であった。私は、「水城が築かれたのは書紀の記載より古い。早ければ五世紀中ごろには完成していただろう。書紀の記載は、大和政権が支配権を奪取した後、手を入れて自らが造ったと偽った」と考えていたので、一応納得のいく測定結果ではあった。書紀の記載が真実を言っていないことが科学的に証明されたのである。
 しかし、実際は私が考えていた以上に古い時期、三世紀中ごろにはすでに築造されていた可能性が高まったのである。文献的に言えば邪馬壹国の女王卑弥呼の時代である。前原市の雷山千如寺の縁起に、

「神功皇后の時、韃虜が来襲。水火雷電神が水城を築き、若干を漂没させた」

と記されている。問題はあるが、この伝承さえも裏書する可能性を示したのである。
九州歴史資料館はこの測定結果について「書紀の記載の正しさが証明された。水城は六六四年前後にはじめて築造されたことがわかった。古い測定データは水城とは関係がない」という公式見解であった。もちろん、九歴は当初、敷きソダにこんなに時期差があることは予想していなかった。従来の見解ではおさまりがつかなくなったために考えだした「見解」である。古い敷きソダが水城以外の別の何かを造るためのものだったという証拠は何もない。
 興味を引くのは、九州大学の故坂田武彦氏が実施した水城の下部に数個設置された巨大な木樋の14C測定値である。木樋は雷山千如寺の縁起に伝えられているように、一気に水を排出して敵を「漂い溺れさせる」ための施設であろうと思われる。木樋の測定値は敷きソダの中層測定値と同じ四三〇年であった。また、福岡市の鴻臚館跡のトイレから見つかった最も古い木片の測定値も同じく四三〇年だったのだ。
 これらの遺跡はこれまで、すべて七世紀後半に造られたことにされていた遺跡である。14C年代測定値から導き出されるのは、水城が築造され始めたのは三世紀からで、太宰府と周辺の諸施設が整えられたのは五世紀の後半の「倭の五王」の時代であったということではないだろうか。

 

見直しを迫ろう

 畿内以外の地域の現在の考古学的年代観が事実とまったく違っているだろうということは、他の14C測定値からもうかがえる。九州のいくつかを紹介しよう。(埋蔵文化財研究会編「考古学と実年代」より)
(1).福岡県朝倉町の火葬墓遺跡・大迫遺跡炭。()内は考古学的判定
 二三号火葬墓(九世紀初頭)六九〇年
 二四号同(八世紀後半)五九〇年
(2).同町の製鉄関連遺跡・外之隈遺跡住居址炭(六世紀後半)一九〇年
(3).同県北九州市の埴輪窯・潤崎遺跡炭(六世紀末から七世紀初頭)三一〇年
(4).佐賀県唐津市・神田中村遺跡炭化材
 地層(弥生後期)紀元前六七〇年
 土壙(土師器入り、古墳前期)紀元前九五〇年
 (測定値には測定誤差の可能性をあらわす「プラスマイナス何年」がついているが、中心値に近づくほど可能性が高まるのでカットしている)

 大迫遺跡の測定値は、九州では隋書にいう「タリシヒコ(タリシホクコ)」の時代から(仏教の教義に基づく)火葬が行われていたことと、当地の八、九世紀と思われていた須恵器は実は一五〇年前後古いものであったことを示す。
 外之隈遺跡は、製鉄が少なくとも弥生から始まっていたこと、潤崎遺跡は古墳時代が九州では畿内より二〇〇年以上早く始まっていたことを暗示する。神田中村遺跡は、古墳時代の陶器とされる土師器が実は紀元前から作られていたことを示す。


まとめ

 土器や遺物による年代判定はあくまで推定や仮定の上にたった判定であり、年代判定は世界的に認められた14Cなど理化学的な判定で行うべきである。遺跡の現地見学会や遺跡訪問、関係機関への電話などでの問い合わせなどの折には、声を大にして理化学的年代測定を実施して公表するよう迫ろう。それが古代史の真実を知るもっとも早い道である。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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