オホトノヂは大戸日別国の祖神(神世7代の神々 中編 大戸之道(1) ) 記紀の神々の出自を探るV(1) (会報62号)
大年神と二人のスサノヲ(古田史学会報64号)
大年神(大戸主)はオホアナムチである
神世7代の神々 中編 大戸之道(2)
記紀の神々の出自を探るVの (2)
大阪市 西井健一郎
前回から神世7代中の大戸之道尊〔紀。記は意富斗能地神。以後、大戸之道(紀)の表記を主用〕の出自を記紀の中に探索している。記には大戸日別神なる神名が後出することから、古古代に今は消えた大戸日別国があり、その国の祖神であるとした。また、その地は後の穴門の国であろうと推測した。
今回は、大戸之道のことではないかと疑った大年神(記)の正体を考察し、大年神=大戸主=オホアナムチ〔記は大穴牟遅・紀は大己貴と記す〕であるとの推論を紹介する。
なお、記は岩波文庫30-001-1「古事記」(以後、文庫本・記と略す)、紀は岩波文庫30-004-1〜4「日本書紀(一)〜(四)」(以後、文庫本・紀と略す)に依拠している。
1.大戸之道と大年神とは同じ神?
風土記に大戸之道か大年神か、読みに迷う祭神「意保刀自」が載る。
出雲風土記・出雲郡・神社の条の、「御井の社(御井神社)。同じ社(同〔阿須伎〕社神魂‘意保刀自’神社)」である。(吉野裕訳「風土記」平凡社ライブラリー刊)
この「意保刀自」がオホト(の)ヂなのか、オホトシなのかが分らない。あぐねる間に、逆に意保刀自神から二つの神名が生まれた、つまり大戸之道と大年神とは元々同じ神だったと思えてきた。
大戸之道の「之」は上下を結ぶだけの助格詞である。それを省略するとオホト・ヂであり、大年(おおとし)とはシとヂだけの違いになる。当てられた漢字が違うために別人のようなイメージが与えられているが、発声上ではごく近い関係にある。
では、大戸之道=大年神かといえば、記の登場順から見て時代の異なる神である。大戸之道はイザナミ以前であるし、大年神はその息子スサノヲの児と書く。
とはいえ、大戸之道と大年神との間にはなんらかの関連がある。そこで大年神のWHO‘S WHOを試みたら、‘オホアナのムチ’の位を巡る当時の状況が浮かんできた。推論すると、大年神はその時代のオホアナムチだったことになる。それが大戸之道の実態解明に結びつく訳ではないが。
2.大年神は大戸主である
大年神については、記にのみ2か所にその神名が載る。八岐の大蛇退治の段の速須佐之男命の系図に“・・・、所生神名、謂八嶋士奴美。又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神。次宇迦之御魂神。”とあり、大国主神話の最終部に、唐突に“故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神。・・・”とその系図が載るだけの神ではある。
この神を、文庫本・記の補注は「年穀を掌る神」と記す。年という後世に当てられた文字にこだわっている。紀には、この神の記事は見当たらない。したがって注はない。
私見では、大年神とは大戸主の神である。
つまり大年はオホト・シ、「大戸(おほと)の主(ぬし)」の呼称が縮まったものである。大年神は、大戸之道が開き大戸日別神を祭る、大戸日別国の後世の王である。
これまで、大国主とか、豊国主とかの主(ぬし)の呼称には国名がつくものと思ってきた。が、紀にスサノヲの子のヤシマヂヌミは湯山主との呼称が載るから、大戸主の呼称もありうる。
大年神=大戸主とすると、説明に困る記事も載る。例えば、大年神の系図(記)の御年神・若年神である。従来のように、トシガミが基幹部で大・御・若が頭についたとの見方もある。しかし、御年の場合は「ミト・シ」で「水戸の主」、速秋津日子や櫛八玉の後継者である。また、若年は「若(わか)・戸の主」で、没落して戸の国だけの主になった時期の息子の呼称とすれば、「トヌシ」が「年」に置き換えられたものになる。であるからして、大年=大戸主説も成立可である。さらに記紀の記事からは、この大年神=大戸主がオホアナムチの位にいたと推定できる。
3.ヤシマジヌミは湯山主どまり
イザナキ・イザナミの子、スサノヲには3人の児があったと記は記す。第1図にあるように、大年神・宇迦之御魂(みたま)・八島士奴美(やしまじぬみ)である。
〔第1図、スサノヲの子供の系図(記)〕
大山津見 稲田宮主須賀之八耳神
│ │
神大市比売┬須佐之男 ーーー┬櫛名田比売
┌ーー┴ーー┐ │
大年神 宇迦之御魂神 八島士奴美
紀は、これら児達の職位について、3つの情報を載せる。
第1の情報は、オホアナムチにはスサノヲの息子がついたという記述である。
紀の本文は、スサノヲが八岐の大蛇を討ち助けた奇稲田媛と婚する場所を求め、清(すが)の地に到り、“乃相與遘合、而生兒大己貴(おほあなむち)神”と書く。だが、この本文にはその児の名前はない。「奇御戸に起こして八嶋篠(やしまじぬみ)を生む」と載せた一書を連続させることで、あたかも八嶋篠がその児であるように装う。しかし、八嶋篠は大己貴神ではない。なぜなら、その第1一書の後半と第2一書に、次のような記述が載るからだ。
第2の情報は第1一書の後半部の記事にある。
「すなわち稲田宮主簀狭之八箇耳が女子号(むすめな)は稲田媛を見そなわして、すなわち奇御戸(くみど)に起して生める児を、清(すが)の湯山主三名狭漏(みなさる)彦八嶋篠と号(なづ)く。一に云わく、清の繋名坂軽彦・・・。此の神の五世(いつよ)の孫は、即ち大国主神なり」である。
この記述は、稲田媛が生んだ児は清の湯山主の八嶋篠であり、大国主の位には彼ではなく5代後の子孫がやっと就任したと云う。そのことは記の八島士奴美の系図とも一致する。この八島士奴美とは、「八嶋篠(やしましの)の神(ミ)」だろう。
この第1一書の内容が本文より詳しいことから、稲田媛が生んだのは湯山主の八嶋篠が正しく、本文の奇稲田媛が大己貴を生んだという記述部分は誤報。さらに、八嶋篠が大己貴(紀)の位についたかもしれない可能性は、次の第3の情報で否定できる。
そこで、本文のスサノヲが大己貴の親であるとの部分だけは正しいとして話を進める。だから、第1情報は大己貴がスサノヲの児であること、第2の情報は八嶋篠こと八島士奴美は湯山主になっただけで、大国主にならなかったことになる。
4.オホアナムチには八嶋篠六世が
第3の情報は、続く第2一書に、「素戔嗚尊、(奇稲田媛を)妃(みめ)としたまいて、生ませたまへる児の六世の孫、是を大己貴命と曰す。大己貴、此をば於褒婀娜武智(おほあなむち)と云ふ」とあることだ。
ここではヤシマジヌミ6代目が大己貴につきましたと記している。それは八嶋篠が大国主にも大己貴にもなったことがない、との意味がこもる。
これらの証言について、文庫本・紀の補注は次のように述べる。
「(第1一書では)大国主神は、・・・八島篠の五世の孫とされている。第2一書では、大己貴命は素戔嗚尊と稲田姫との児の六世孫とある。ここに食い違いがある。おそらく、稲田姫の六世の孫ということで、第1一書と合うと判断したものであろうか。しかし、別に本文には、素戔嗚尊と稲田姫との間に大己貴神が生まれたとある」と。
補注は、大国主=大己貴説から離れられずにお困りのようだ。
5.大国主とオホアナムチとは別称号
以上の情報をまとめると、我流ではこうなる。
(1).オホアナムチの位についたのはスサノヲの児である。
(2).奇稲田媛との児ヤシマジヌミは湯山主どまり。その5代目の子孫がやっと大国主になれた。
(3).その大国主になった人物の児(ヤシマジヌミ六世)がオホアナムチの位についた。
(4). (2).と(3).からは、大国主とオホアナムチとは別の地位・称号であり、後者の位が上位にある。下位へ落ちたのなら、記載する筈がない。
別称号とする点に関し、記は大国主神の亦名として大穴牟遅神・葦原色許男・八千矛神・宇都志国魂と神名を並べる。それはそれらの神々の伝承が大国主神の名前で語られていますよの意味だから、大国主と大穴牟遅とは別人、別称号とすることを妨げない。また、それらは個人の一代限りの称号ではなく、代々継承されていたものだ。
(5). (1).と(2).からは、ヤシマジヌミの子孫がそれらの位につくまでの間、スサノヲの別の子とその子孫がついていたことになる。
その子とは誰か。記紀に第4の情報を求め、スサノヲの系図(第1図)を調べよう。
6.大国主は宇迦之御魂に、そして大年神は
スサノヲの時代、大国主に誰が指名されたかは、記の方に記述がある。それが第4の情報、スサノヲが娘須世理毘売の連れてきた葦原の色許男、記が大穴牟遅と書く男に叫ぶセリフである。
スサノヲは、彼の娘と駆け落ちする大穴牟遅を黄泉比良坂まで追っかけ、呼ばふ。「汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河瀬に追い払いて、おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘売を嫡妻(むかいひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴」と。
記のスサノヲの系図(第1図)には、その宇迦の地の神になったとおぼしき神名が載る。それが、宇迦之御魂神である。
紀にも“倉稲魂。此云宇介能美柁*磨(うかのみたま)”との名が載るが、介はケ(呉音)とも読めるから、彼は豊受大神と類似の神であり、宇迦之御魂とは別神である。
柁*は、手編に它。JIS第4水準ユニコード62D5
スサノヲの言葉「宇迦に宮を建て、大国主になれ」に基づけば、宇迦の地神との名を持つ宇迦之御魂神が当代の大国主の地位についた、と推定できる。過去に葦原の色許男と呼ばれた男が大国主になり、死後、宇迦之御魂と崇められたのだ。さらに、独断を加えるならば、記に載る大国主から始まる系図は彼の後裔のものである。その末裔、遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらし)の時代に、ヤシマジヌミの後裔にその位を奪われたのだ。
さて、スサノヲの次世代、ヤシマジヌミは湯山主で、宇迦之御魂が大国主である。とすれば、残るオホアナムチの位には誰がついていたか。
当然、このリストアップされた3人の息子の中で残った子、大年神=大戸主がオホアナムチの位についたと記紀からは読み取らざるをえない。そして、オホアナムチが大国主より上位、つまり支配していたことはこの大年神の系図(記)でわかる。次回詳述するが、伊怒比売との子達は支配下にあった諸国の首長名と見なされる。その一人に大国御魂神の名があり、この神は生存中、大国主と呼ばれていたと思われるからだ。
記紀の中で推理すると、そんな結論が出る。では、なぜヤシマジヌミはオホアナムチになれず、大年神がなったか。それは次回で考察する。
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これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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