2004年8月8日

古田史学会報

63号

1、理化学年代
と九州の遺跡
 内倉武久

2、ローマの二倍年暦
 古賀達也

3、「磐井の乱」
古田新見解について
 飯田満麿

4、沖縄新報 社説
新説を無視する歴史学界

5、大年神(大戸主)
はオホアナムチである
-- 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6、古田史学の会
・創立十周年
記念講演会に参加して
今井俊圀
仲村敦彦

7、創立十周年
 記念講演会ご挨拶
祝辞・報道

8、『十三の冥府』読後感
 大田斎二郎

9、鶴見岳は
天ノ香具山(続)

 水野孝夫

10、森嶋通夫氏に捧げる
 古田武彦

11、浦島伝説
 森茂夫

 事務局便り


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沖縄新報(2004年6月24日)社説

新説を無視する歴史学界

古田史学の会に出席して

始めに

 沖縄県那覇市在住会員の仲村致彦氏より、「沖縄新報」(六月二四日)が事務局より送られてきました。同紙「社説」に古田史学への賛意と古田史学を無視する歴史学界を厳しく批判する論調が掲載されていましたので、転載し、ご紹介します。
 編集部

社説

▼論戦回避因因循姑息
    牢固たる保守主義

 歴史学界はアカデミズムにおいて、ことのほか排他的かつ因循姑息その上牢固たる保守主義の荒野である。永き歳月に渡って築き上げられた「学説」「定説」、それらを取り巻く大潮流を死守するに甚だ熱心である。
 それ故に、己の足場を突き崩しかねない新説に対して、寛容ならざるどころか、論戦をも回避する。「論戦回避」なら御愛嬌の類として、微苦笑のテイに付して済ませるが、新説の存在を無視(無関心を装う姑息な手段でもって)する状(さま)は許せない。
 「師の説にななづみそ」とは、本居宣長の言葉だそうだが、日本古代史学界においては、管見するところその逆の為体(ていたらく)のように思われる。師説を承継し更に精細にすることに執心するあまり、その根底を揺るがすが如き異説・新説を拒否する。
 宣長の言葉は学問の王道を行く極めて真摯、かつ「科学的」な方法と思うが、現実の学説体系はそのような方法で築かれてきたとは、とても思えない。後生は先生の説を有難く受容し、講師は助教授に助教授は教授のイスに首尾よく辿りつくべしと忠勤を励む。
 かくして学界の権威は保たれる。学外の者、例えば論壇、マスコミ、官公の文教行政等々 ーーそれらは、右のいわゆる「アカデミズム」なるものに付和雷同。故にますます「権威者」なる者の声価は高まり、ここに「定説山脈」は守られ、われわれはそれらの“安定した楽(学の誤植にあらず)説”による教科書で育てられる。
 時あって「定説」の土台を揺るがすが如き有力な新説が誕生しても、右のような環境下にあっては、異端視されたまま、「学界の埒外」に放っておかれる。異端子されるまではまだ良い方で、論戦回避の後には無視黙視。ついには好事家の珍説扱いに付する粗暴野蛮に至っては、許されざる者の極北と言うべきであろう。
 ーー古田史学が誕生してすでに三十有余年。『邪馬壹国』で弧弧の声を上げ、〈三世紀に〉『「邪馬台国」はなかった』(昭和46年)で、日本古代史学界に激震を与えた古田武彦を待っていた運命は、実に右のような非科学的・非学問的な扱いの荒野に孤立の歩みを余儀なくされた。
 一時、幾たりかの「権威」が反応を示し、果敢なる挑戦を試みたけれども論戦をすればするほど、己の学説体系の足場が突き崩されていく恐怖におびえ、ついには沈黙。対古田論戦は学界においては一瞬の花火、サッと消え失せてしまった。例えあっさり消え去る花火でも、せめて隅田川の大花火ぐらいの華やかさを、われわれ古代史に関心を持つ者に観覧させてほしかったが・・・。
 日本古代統一王権は大和朝廷(近畿天皇家)一元論を否定、九州、東北王朝などの存在を明証(多元説)した古田史学について、本稿筆者に学殖なく、簡単な紹介も出来ない。が、「古田史学の会創立10周年大会・古代に真実を求めて“停滞を突き破る学問”6・6於大阪」に出席、ますますわが国の歴史学界が旧説墨守に懸命なるを痛感したことを、ここに読者各位に報告する。
 (なお、古田史学会は京都市上京区河原町通今出川下る、事務局・古賀達也氏 電話略)

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 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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