2008年 4月 8日

古田史学会報

85号

アガメムノン批判
冨川さんの反論に答えて
 古田武彦

2松本からの報告
古田武彦講演
学問の独立と
信州教育の未来

 松本郁子

常色の宗教改革
 正木裕

4インターネット異次元へ
「新・古代学の扉」を
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 横田幸男

5 伊倉4
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

前期難波宮は
九州王朝の副都
 古賀達也

 

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前期難波宮の考古学(1) ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也(会報102号)
「白鳳以来、朱雀以前」考 -- 『続日本紀』神亀元年、聖武詔報の新理解 古賀達也(会報86号)

白雉年間の難波副都建設と評制の創設について 正木裕(会報85号)


本会ホームページ「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載

前期難波宮は九州王朝の副都

京都市 古賀達也

第一五四話 2007/12/08
 難波宮跡に立つ

 先日、用事で大阪に行ったおり、難波宮跡に寄りました。難波宮跡にはいつでも行けるという気持ちから、今まで行ったことがなかったのですが、近年、どうしても行かなければならないという思いが強くなっていました。というのも、前期難波宮は九州王朝の副都であるという仮説を関西例会などで発表していたからです。
 九州王朝の宮殿である太宰府政庁と比較してもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、その当時の大和朝廷の宮殿様式や発展史と比較しても全く異質で、大規模です。この事実は大和朝廷一元史観では説明がつかず、通説でも困っているのです。
 また、『日本書紀』によれば白雉改元の儀式が難波宮で行われており、その完成にともない、九州年号は白雉と改元され、焼失した年には朱鳥と改元されていることも、難波宮と九州王朝との深い関係をうかがわせています。
 こうした事実や、『日本書紀』『万葉集』の中の不可解な記事が、前期難波宮九州王朝副都説によりうまく説明できることなどから、わたしはこの仮説に至りました。今回、難波宮跡に立って、この上町台地の地が、地勢や規模の面からも九州王朝副都にふさわしいものであることを確信できたのでした。

 

第一五九話 2008/02/05 
太宰府と前期難波宮

 前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの説に対して、難波宮からは九州の土器などの考古学的痕跡がないと、古田先生からご批判をいただいているのですが、一月十九日の新年講演会にて古田先生から興味深い話がありました。それは、太宰府の宮殿様式は中国の北朝系様式であるとする指摘です。すなわち、北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する太宰府「政庁跡」は北朝系の様式であるというものです。
 この指摘の意味するところは重大です。なぜなら北側に正殿を有し、その南側に朝堂院や京域がある難波宮もまた北朝系様式の宮殿となるからです。そうすると、前期難波宮にも天子がいたことになり、九州王朝説の立場からするならば、それは九州王朝の天子と見なさざるを得ないのです。
 そうではなく、『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝の天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
 太宰府と同様式の前期難波宮の遺構そのものが、最高の九州王朝の考古学的痕跡となるのではないでしょうか。やはり、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説と思われるのです。

 

第一六〇話 2008/02/09
天武の副都建設宣言

 今日の京都は朝から一日中雪が降り続き、とても寒い一日でした。そんなわけで、外出もしないで、午前中は韓国KBSテレビからの電話取材を受けただけで、午後はずっとカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立管弦楽団演奏のCD(一九八二年、ミュンヘン)、ベートーベンの7番を繰り返し聴いています。
 カルロス・クライバー指揮による7番は、勤務先の同僚のOさんのおすすめで購入したのですが、確かに力強くハイテンションのライブ演奏で、とても気に入っています。ちなみにOさんは彦根市のオーケストラでオーボエを吹いておられ、クラシックに造詣が深く、ノーベル賞学者の野依教授のお弟子さんでもあります。
 さて、前回に続き、難波宮のことについて触れたいと思います。『日本書紀』天武十二年条(六八三)に不思議な記事があります。
「又、詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先ず難波に都造らむと欲す。是をもって百寮の者、各往りて家地を請はれ。」

 必ず都を二つ三つ作れ。先ず難波に造れという詔勅ですが、この時既に難波には国内最大級の宮殿である前期難波宮が存在しているのに、矛盾しています。通説では難波宮の「増改築」と理解されていますが、ここでは明らかに建都の命令であり、「増改築」ではありません。
 この記事に一つの解明を与えたのが、本会会員の正木裕さんでした。『古田史学会報』八二号(2007/10)の「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」という論文で、この記事は天武の詔勅ではなく、三四年遡った六四九年の九州王朝による難波副都建設の詔勅を盗用したものとされたのでした。ちなみに、この三四年遡り現象は、持統紀の吉野詣でが三四年遡った白村江戦以前の九州王朝の記事の盗用であるとする、古田先生の研究を援用発展させたもので、説得力があります。
 前期難波宮は九州年号の白雉元年(六五二)に完成したと思われますが、その三年前に副都建設を命じた詔勅とすれば、時期的にぴったり一致します。もちろん、大和朝廷ではなく、九州王朝の詔勅です。このように、正木さんの研究からも前期難波宮九州王朝副都説は強く支持されることになりました。

 

第一六一話 2008/02/10
難波宮炎上と朱鳥改元

 『日本書紀』によれば前期難波宮は三五二年に完成しています。この年に九州年号は白雉と改元されているのですが、『日本書紀』ではその二年前の六五〇年に白雉改元記事が挿入されています。すなわち、九州年号と『日本書紀』では白雉が二年ずれているのです。もちろん、九州年号の六五二年白雉改元が史実ですが、そうするとこれは前期難波宮完成を記念した改元と考えられます。なぜなら、わたしの研究によれば太宰府建都を記念して九州年号は倭京(六一八)と改元された前例があるからです(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』五〇号、二〇〇二年六月)。同様に前期難波宮という副都建設を記念して改元するのは不思議とするにあたりません。
 さらに、前期難波宮は天武十五年(六八六)一月に原因不明の出火により炎上したとあるのですが、この年は九州年号の朱雀三年に相当し、火災後の七月には朱鳥と改元されます。これも偶然の改元ではなく、難波副都炎上を理由とした改元ではないでしょうか。従来から、九州年号の朱雀は二年間しか続いておらず(同三年に改元)、この時期の他の九州年号に比較して短期間であったことが不可解でした。しかし、難波副都炎上という突発的な凶事による改元と考えれば、この疑問がうまく説明できるのです。
 このように、前期難波宮は完成と滅亡の年のどちらも九州年号が改元されているのですが、この事実も前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。九州年号に基づいて『日本書紀』を読み直すと、様々な新発見があり、今後の研究が楽しみです。

 

第一六三話 2008/02/24
前期難波宮の名称

 通説では孝徳天皇が遷都した難波長柄豊碕宮が前期難波宮とされていますが、長柄の現在地は法円坂の難波宮跡ではなく、そのかなり北方に位置しており、あきらかに場所が異なります。このことを指摘されたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)です。そうすると、『日本書紀』大化元年条にある難波長柄豊碕宮への遷都記事は、前期難波宮ではないのではないか。わたしの前期難波宮九州王朝副都説からすれば、これは当然の帰結です。前期難波宮は孝徳の宮殿ではなく、九州王朝の副都とするのですから。
 それでは前期難波宮は何と呼ばれていたのでしょうか。それは、おそらく単に「難波宮」と呼ばれていたのではないでしょうか。九州王朝の首都太宰府と区別するにあたり、はるか遠くの近畿地方に位置する副都であれば、「難波宮」とよべば事足りるからです。太宰府と同じ筑前にあるのならば、より具体的な地名を付した宮名が必要ですが、近畿の難波であれば、「難波宮」で十分なのです。
 その証拠に、『日本書紀』でも「難波宮」だけの表記も散見されますし、前期難波宮焼失後、全く同じ場所に造られた後期難波宮も、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記され、難波長柄豊碕宮とはされていません。
 すなわち、難波宮は長柄とは別の場所にあるという事実は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に大変都合の良い事実なのです。西村さんのご指摘に感謝したいと思います。

 

第一六六話 2008/03/23
副都の定義

 わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生より「副都」の定義をはっきりさせるようにとの、ご指摘をいただきました。そこで、わたしがイメージしている「副都」について、考えを述べたいと思います。
 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には七世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構も在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。
 この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。
 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、七世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。

(補記)
 第一六三話「前期難波宮の名称」において、前期難波宮跡が長柄の豊碕の地とは異なることを西村秀己さんからご指摘いただいたことを紹介しましたが、古田先生も以前から同様の問題に気づいておられたとのこと。ここに明記しておきます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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