伊倉1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14ーー天子宮は誰を祀るか
伊倉いくら 十三
天子宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉六十一
“大己貴神社(福岡県筑前町大神神社)”
伊倉 五十四 “薩摩吹上浜は神様の見本市”において、薩摩の大汝牟遅(オオナムチ)神社について、「・・・もちろん、福岡県筑前町(旧三輪町)にも大汝牟遅(大神)神社があることはあるのですが、とりあえず奇妙な印象を受けます。・・・」としました。
もちろん、天子宮と考えているなどという訳ではありませんが、多少気になる事があるため、筑前の大己貴神社についてふれておきます。
まず、この大己貴神社は旧三輪町と言っても旧甘木市との境界に数百メートルという近い場所にあります。詳しくは調べていませんが、もしかしたら社叢林を含む境内地は直接甘木市に接しているかも知れません。
この筑前町は旧朝倉町、旧三輪町によって成立したもので、隣接する朝倉市も旧甘木市、旧朝倉町、旧杷木町の合併に成立しています。
必ずしもふれる必要はないでしょうが、この地は古代史に関して多少物議をかもした土地でした。それは、邪馬台国甘木説(安本美典)なるものがあるからです。
古田史学による反論というよりも、古田武彦氏による精密な論証とその後の幾多の発見などにより十分な論証がされ、さらに魅力的な研究が新たな展開を見せている中では、邪馬台国東遷説、三角縁神獣鏡国産説、九州・大和の地名の対応、天皇十年交替説・・・といった色あせた説について今さら深入りするつもりはありません。
ただ、九州・大和の地名の対応にしても、地元に住み多少とも古代史に通じている者ならば誰でも気付く程度の単純な地名の対応によって大和朝廷が東遷した根拠としたものであり、所詮、形を変えた大和朝廷一元史観でしかないという印象を払拭できません。
邪馬台国九州説のようでありながら、その実、九州を大和朝廷の故郷として描いた言わば“良いとこ取り”の形を変えた一元史観でしかないのです。
では、この大己貴神社と薩摩吹上町の大汝牟遅(オオナムチ)神社とは如何なる関係にあるのでしょうか。これについては、社伝や神社誌など詳細な検討が必要になるでしょうが、一応は大和朝廷による隼人征服に際して南下したものと考えています。
もちろん、今のところ決め手となるようなものはなく、多少関係がありそうに思えるのは、三輪町の大己貴神社の前を流れる草場川の数キロ下流の当時の波際線と思える場所に大字吹上という地名が拾え、吹上神社があることぐらいです。私にはこの二つの吹上地名は関係があるようにも思えるのですが今のところたあいもない直感程度のものです。
ただし、吹上町の大汝牟遅(オオナムチ)神社の宮司と話していた中で、私は「吹上の方は背後に本来の神体であるはずの背後の社叢林がないので、甘木の隣町の三輪町の大己貴神社が移されているのではないか」と申し上げたところ、後日、電話があり「社殿の向きが同じ南向きであるということは、奈良ではなく北を、つまり甘木の方を向いているのではないか」とおっしゃったのです。私もこれは否定できないと思いました。もしも、奈良から持ち込まれたのであれば、当然、社殿は西向き、つまり遥拝殿としては東向きでなければならないはずで、どう考えても南向き(北向き)は奇妙に思うのです。さらに踏み込めば、吹上町の大汝牟遅神社も甘木の大己貴神社と同じ北に位置する何らかの神体を拝むためのものではなかったのかと考えるのです。
伊倉六十二
“小永吉の天子神社”地元郷土誌家の資料から
二〇〇八年二月九~一一日に掛けて、再び吹上げ浜に向かいました。前回が一月一二~一四日でしたから、何とも早いペースです。往復六〇〇キロ、調査による移動を加えれば七五〇キロ近くにもなる訳で、まずは、大遠征になるでしょう。当然ながら、現地に協力者がなければ、移動だけに時間を取られて、なかなか効率の良い調査はできないのですが、今回は非常に幸運でした。
古老と呼ぶにはあまりにも元気な郷土史研究家五人にお会いできたからでした。
大汝牟遅神社の宮司はまだ六十代かと思いましたが、お一人は昭和十六年から佐世保の海軍工廠で戦艦武蔵の艤装に携ったという旧軍属で、「永吉郷にあった神社」という小冊子を作っておられました(武蔵は三菱長崎で進水し佐世保で船体艤装を施しています)。
お一人は、「“ははじょさあ”と久多島神社」という冊子を作成されていた旧薩摩郷士の家柄の八十八歳で、現役兵としてシンガポールからジャワに転戦されたとの話。さらにお一人は、吹上町の隣、日吉町吉利の方でしたが満鉄で運転されておられたところを、いわゆる関東軍の南方転用により臨時召集を受けた(関東軍はフィリピンでの決戦のために主力を南方に移動させ、その穴を現地の古参兵やその他で埋めています)旧国鉄マンで、今も歴史研究会で活躍中という方でした。こちらも立派なリポートをお書きになっています。
このほか、「永吉郷にあった神社」「“ははじょさあ”と久多島神社」を編集された地元郷土史研究会の研究者からもデジタルデータを頂くなど大助かりでした。
これらのおかげで非常に効率良く調査が進められましたが、薩摩の吹上浜は長寿の人が多く、それ以外の方々も元気な人が多いという印象を受けました。
今回は、天司神社(天矢塚)の話に入る前に、再度、小永吉の天子神社について旧軍属で「永吉郷にあった神社」をお書きになった七呂一一氏が書かれたものをそのまま掲載する事にします。
一一.天子神社
所在=小永石字木佐貫 祭神〓山祇(原文のツクリは氏の下に一)神やまつちのかみ「大山積見神」おおやまつみのかみ(山の神)小永吉の氏子社(?)
永吉郷土史(中巻)『?御神体二体があって、1は山の神という山祇(やまつつみ)神を祝ったものであろう。1は天子さあと云って詳らかでない。』
明和8年、竹下笹衛門・伊佐郡と書かれた陶器がある由。境内の石灯籠に、宝暦8年、畿野と刻されているが、これは天昌寺等にある仁王像を江戸時代に寄進した畿野氏と同一人物であろう。
(附)幾野さま
この「幾野さま」について、吹上郷土史(中巻)は次のように記述しています。小永吉の天子神社や梅天寺に灯篭を、浜田宇堂園の阿弥陀堂に仏像を寄進している「幾野」という人は、どのような生い立ちの人か。「中略」
伝えるところによれば八代将軍徳川吉宗に関係のあった人と云われ、「中略」?永吉に帰郷されて、久多島神社・梅天寺(「天昌寺」の間違い?)諏訪神社・八幡神社に仁王像を寄進されたと伝えられている。・・・「後略」
( )内は筆者七呂氏の注記
幾野氏は大奥から下がられた方とも聞いています。
また、この天子神社は元は永吉の山奥に置かれていた。現在、天子神社のそばにある奥神社の前にあるK電器の工場は横山さんという土地の有力者が誘致されたもので、この横山家は江戸の中期、金沢の前田家の家老職を勤めていた方が下向した家であるそうです。ネット上でも前田家に横山姓の家老がいたことは確認できます。
伊倉六十三
“鹿児島県日置市吉利の天司神社「天司塚」”
薩摩の吹上浜、鹿児島県日置市吹上町永吉小永吉に天子神社があることは既に書いていますが、小永吉の北隣りに吉利という町があります。ここに天司という集落があり、天司神社と呼ばれるものがあると教えて頂いたのは、「永吉郷にあった神社」を書かれた七呂一一さんでした。既に九十歳に近いのですが、驚くばかりの健脚で頭脳明晰なご老人でした。軍歴をお尋ねすると、佐世保の海軍工廠にお勤めの旧海軍軍属だったそうですが、二〇〇八年二月の連休を利用して現地に入り、多くの場所を案内して頂きました。
さて、旧国道から少し入った丘陵地にある天司という集落に入りました。この天司という名称は通称名に過ぎず単なる集落名に過ぎません。しかし、お会いする人々が平然と「天司で天子さんに一番詳しいのは誰だろうか・・・?」など言われるのを聞いていると、確かに天司という名の集落が息づいていることが確認できました。
この天司は四十戸ほどの比較的大きな集落ですが、この丘陵地を下った低地で米を作り牧畜などを行なってきたようです。
しばらく集落を歩いていると、天司○○工業と書かれたトラックなどを見つけると妙に嬉しくなってしまったのですが、七呂さんのご案内を受けると、僅かに車一台が通れる狭い道路の傍らに高さ五メートルほどの小山が現れました。
階段を上ると十畳ほどの平らな地面があり、正面には二本の石柱が突き刺さり、手前右手には阿弥陀仏としか見えない蓮に乗った天子像が安置されている祠がありました。
しかし、榊が供えられていることを見るとやはり仏様ではないようです。
案内して頂いている七呂さんも健脚ですが、次々と現れる八十歳代のご老人のお話によると、「祝儀の場合は良いが葬儀の列はここを通る事を避けた・・・」「子供の頃はお祭りが行なわれていてご馳走を食べていた・・・」「祠は良いが石柱のあるところは子供は入るなと言われていた・・・」といった話が拾えました。
どうやら、天司神社と呼ぶか塚と呼ぶかについては決めようもありませんでしたが、鳥居もないのですから塚が正しいのかも知れません。ともあれ、外屋敷家ほか十戸ほどの家で講を作り管理されて来たようです。しかし、行政も無理に道を広げようとはしないし、土建業者も土を削ろうとしない・・・そうで、なぜか、取扱いに注意が要されているような印象を受けてなりません。天司が集落の通称名としてのみ通用し、どうも、天子を天司と呼び変えた(なぜなら手前の祠は天子様と呼ばれているのですから)形跡もあり、世を、権力を憚ったと見えるのです。
伊倉六十四
“地元郷土史家資料に見る吉利の天司神社「天司塚」”
薩摩は日置市日吉町吉利の天司神社(天司塚)に関する「天司塚」というリポートがあります。日置市吹上町の郷土史家原 時重氏によるものですが、お許しを得ましたので、原文そのままで掲載させて頂きます。
天矢塚
吉利天司集落の二石煉瓦工場から吉野集落へ通ずる道を、およそ二〇〇メートル行くと、右側に天矢丘という雑木の生えた小高い丘がある。十数段の階段を上がると、丘の頂上は平らになっており、右側に天子像が、その突き当たりに細長い石を突き刺したような恰好の「天矢塚」がある。
この天矢塚については次のような伝説がある。ニニギノミコトが高千穂に降り、どこか安住の地はないかと各地を旅した後、野間岬に到着された。
野間岳に登って北部を見渡されると、誠に絶景で、ミコトは、「朝日のたださす国、夕日の日照る国」と感嘆され、吾田に移り笠沙の宮を建てることにされた。
その後、地方平定にあたって所望の地へ一矢を射て、矢が射返されれば反意があり、返ってこなければ反意がないとして進んだという。
ある時、吉利の天矢丘に、どこからか「ヒュー」と一本の矢が飛んできた。
その付近の人は大変驚いた。東西南北どっちから飛んできたのか、誰が射ったのか全くわからない。また、ミコトに反意を持った人がいようとも思われない。
結局、これはきっと天から神様が射られた矢に違いない。我々の生活にどこか神様にさわるところがあるのではないだろうか、恐ろしいことだということになって、その矢の落ちた所に矢を祭り自分たちの生活を自粛したという。
その矢が腐ると、そこに矢のような長い石を置いて祭り、天矢塚といったという。
付近の人々は、この伝説のままにここを神聖な地として境内の掃除やお祭の時は履物を脱いで、はだしで入り、葬式の行列は天矢塚の前は通らないしきたりになっていて、今も遠回りして墓地へ行く風習を固く守り続けている。
※ 笠狭宮
神話によると、ニニキノミコトは、舞敷野(加世田)に笠狭宮を建てたが、交通の便利が良く、海の幸にも恵まれ、又、外戚大山祀神の本拠にも近いこの宮原(加世田益山)に移った。そこで、ニニキノミコトの子である彦火火出見尊ら三兄弟は、ここで成長されたのではなかろうか。 宮原は海抜三〇メートル程度の台地で、近くに海や川があり、平野も広く「朝日の直刺す国、夕日の日照る国:甚よき所;」という古事記の文章にあっているようである。
以上歴史のふる里加世田より抜粋。
今のところ、この天司(天矢)塚が肥後を中心として濃厚に分布する天子宮と同起源のものかどうかを確認する手段はありません。当然ながら、確たる資料が存在以上、分からないものを分かったように書く訳には行かないのです。
一方、祟りを恐れてか現地は触られることなく原形を保っているようです。しかし、仮に現物を見たとしてもこれといって鳥居や社殿がある訳ではありません。もちろん、学術的な発掘調査が行なわれれば多くのものを語ってくれる可能性があります。将来南九州自動車道といったものがこの地を通らないとも限らないからです。
一方、鳥居や社殿がないとしても、確たる天子神社がいくつも残る人吉盆地にも、同じく鳥居や社殿がないものの、多くの天子地名(通称名)、字名(行政地名)が存在する事を確認してきましたので、むしろ天司という地名そのものが重要であるようにも思えます。
ただし、天司塚があったから天司という集落名が付いたのか、天司集落にあったら天司塚と呼ばれるようになったのかさえも分かりません。いずれにせよ、天司という集落名にはただならぬものを感じます。さらに、仮に仏像としか見えないとしても、天子さまという祠がある以上、原形は天司ではなく天子であり集落名も天子であったと思うのです。
伊倉六十五
“さらなる展開、天矢神社、矢石塚”
地元郷土史家の原氏による論文「天司塚」はご紹介しましたが、確かに吉利の天司塚には二本の細長い石が突き刺さった奇妙なもの(御神体)があり、子供は近寄ってはならぬものとされていました。
さて、この日置市日吉町吉利の天司塚に特徴的な地面に突き刺さった石塚が、さらに南の南さつま市金峰町一帯にいくつかあるのです。仮に矢を天とくっつければ、天矢(テンシ)と読めないこともありません。これについても原氏のリポートがありますのでお読みください。ここまで来ると、これを筑前から肥後を中心に分布する天子宮とは言えないようにも思えるのですが、どうやら薩摩半島の調査もここまでが限界かと思うものです。
これが、薩摩という辺境であるための言わば異族による異習と思えるのですが、これも全く見当が付きません。
伊倉六十六
“天子宮調査のヒョウタンから駒”
第一話新たな大宮姫伝承の発見
数えればこの二年の間に六度、薩摩、大隅に入っています。本リポートも、その延長上書かかれているのですが、まずは、薩摩の吹上浜で発見した天子宮の背後地を把握するために気になる神社を一通り見て周ることにしました。それでも漏れはあるもので、吹上町の久多島神社までは足を延ばしませんでした。ところが、地元の郷土史家からこれについてもご教授をお受けしていると、この神社が天智天皇の妃の下向にまつわるものであるとの話が飛び出して来ました。
今のところ、この伝承は天子宮との関係を見出せませんが、九州王朝説にとっては非常に重要なテーマであることから、ここで取上げる事にします。
まず、非常に簡略化した話をすると、天智天皇の妃が下向する途中、吹上浜の沖合の久多島辺りで死産し、それをウツロ船に入れて流したところ、始めは吉利に流れ着いたのですが、再び流され、最後には永吉川の河口近くに流れ着いた。それを祀ったのが久多島神社であると言うのです。この死産の話は私も始めて聞いたのですが、天智天皇の妃の薩摩への下向という話は鹿児島県内のいたるところで拾うことができます。
一般的には全く問題にもされない地方伝承に過ぎませんが、この話は薩摩、大隅全域に色濃く残るもので、大宮姫伝承と言われるものです。これについては、古田武彦氏によって開かれた九州王朝説を市民レベルで研究する市民団体、古田史学の会の現事務局長である古賀達也氏が二十年前に書かれた「最後の九州王朝」“鹿児島県「大宮姫伝説」の分析”そのものであり、インターネットで「新古代学の扉」を読んで頂きたいと思います。
市民の古代 第一〇集 一九八八年 市民の古代研究会編 特集2よみがえる古伝承(所収)
ここでは、久多島神社固有の部分の話をお知らせしたいと思います。
“大宮姫伝承の久多島神社版”
一般的な大宮姫伝承との近似性については古賀達也論文を読まれるとして、ここでは、吹上町の久多島神社固有の伝承を簡単に説明しておきたいと思います。 吹上町永吉に川久保という集落があります。この一角に“ははじょさま”という祠があります。これは月野さんというお宅の庭の一角にあるのですが、久多島と久多島神社を結ぶ線上にあり、この場所を選んで祠が置かれているのです。
月野家などに伝わる伝承によると、天智天皇の妃が死産した皇子の乳母(ははじょ)が立ち寄り往時を偲んだそうです。久多島神社があるため、新たに祠が置かれたことが良く分かりませんが、この祠のある土地が月野邸に隣接しており、今日でも故田中万吉という人の名義で、その田中家は昭和四十年頃まで代々久多島への祭礼を続けてきた一族だと言うのです。
詳しくは、月野規明さんがお書きになった「“ははじょさあ”と久多島神社」を全文掲載しておきますので、読んで下さい。
“ははじょさあ”と久多島神社
平成一六年二月 川久保 月野 規明
1,月野家と「ははじょさあ」
私宅の屋敷内に、ははじょさあ「母女様?」という石製の祠があり、久多島神社の祭神、天智天皇の皇子の母「柳櫛姫」の墓と聞いています。この祠は、久多島神社から沖の久多島を一直線に目前に見渡せる小高い丘の上にあり、神社まで直線で一、五?ぐらいでしょうか、丘の前は、昔から視界をさえぎることのないように木立などは切り払ってありました。
祠は、私どもの父が竹之内家から分家してこの家を建てたとき、祖父から「おまえの家の氏神にせよ。」と言われたと伝えられています。明治三八年(一九〇五)から管理していると聞いており、毎年、正月にシベをきり、月の一日と一五日には米と焼酎をあげ、花は枯らさないように心がけています。昭和五二年に丘が崩れましたので欠けてた石の祠を復元し、土手は石を積上げました。
祠のある丘は、田中万吉名義になっています。田中万吉なる人が何方なのか知りませんが、想像するに、私の家が譲り受ける前の所有者で、名義を変更しないまま現在に至っているのではないかと思います。
かって増田逸彦氏から聞いたところによると、田中氏は永吉で最も古い一族で、久多島神社と関わりのある氏族ではないかと思います。(参考:天昌尋常高等小学校編「永吉郷土史」)
柳櫛姫が流産した皇子を久多島神社にお祭りしたとき、田中氏を始めとする住民たちが姫の悲しみを思い、神社の見える丘に墓をこしらえたのではないでしょうか。そして、万吉氏はその子孫に当たる人ではないかと思います。
2,吹上郷土史(中巻)「吹上町教育委員会編・昭和四四年刊」二九六ページ
「ははじょさあ」川久保月野規明氏の宅地に「ははじょさあ」とよばれる石碑がある。久多島と久多島神社の点を直線にした箇所になっている由。
伝説によると、昔天智天皇の妃であった柳櫛姫がお産みになった皇子の乳母(ははじょ)さあが此の地を通られ、碑のある場所で久多島神社を眺められ、往時をしのばれたという。
3,永吉郷土史「天昌尋常高等小学校編・昭和一三年頃刊?」六ページ
久多島縁起(伝説)
海岸を西方に去ること約三里(約一二キロ)沖の久多島と称する小島あり、周囲凡そ一〇町(約一キロ)なり之其の昔天智天皇の妃枚聞岳の麓に下向のとき海上にて皇女誕生ありて、捨てられしに忽ち大岩湧出す。故に其の皇女を崇めしと云う。・・・。(1)
又曰く、天智天皇の妃枚聞岳の麓に下向のとき海上にて皇女誕生あり、之を流し捨てられしに始め吉利の濱に漂流したりしを住民いみきらいて沖に流し放つ。やがて永吉に漂着す。上草田なる田中某等哀れみて之を拾う。後之を久多島に祭ると。・・・(2) ・・・(略)・・・開聞神社の祭神に関する俗伝中類似のものあれば参考のために・・・。 天智天皇の妃数多くありし中に薩摩国より上がり来られし柳櫛姫とて容色絶世の妃あり。天皇殊の他之を愛し給う。他の妃並びに其の付き人達之を嫉視し如何にもして柳櫛姫をしりぞけんと悪計を考え居たりしが妃の常に足袋をはきて未だ一度も素足を見たることなきを奇禍として天皇に「妃は里方悪しき業病を有するなれば常に足袋をはけるなり。」と訴う。姫は堪りかねて暇を乞う。天皇せん術もあらせられず之を許し給う。姫海路瀬戸内より西九州を通りて薩摩の海に浮かぶ。沖にて髪にさし給える櫛を取りて海に入れ給う。流れて久見崎に達す、時人此処に柳櫛神社を立つ。姫はやがて開聞の麓につき給う。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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