禅譲・放伐」論考 正木裕{会報100号)
「東国国司詔」の真実 正木裕(会報101号)
大化改新批判 古田武彦(『なかった』第5集)
九州王朝から近畿天皇家へ
「公地公民」と「昔在むかしの天皇」
川西市 正木 裕
一、「大化改新詔」と「公地公民」
『日本書紀(以下『書紀』)』の「大化改新」記事の信憑性については、所謂「通説」の立場からも疑義が唱えられ、今日、少なくとも諸々の改新詔には大化期のみならず後年の事績も含まれる事が確実とされる。九州王朝説では、単に「後年の事績」とするに止まらず、「大化改新」記事自体、「『書紀』編者によって、九州年号大化(六九五~七〇三)期における、九州王朝から近畿天皇家への権力移行に伴う様々な記事が、孝徳大化(六四五~六四九)期に移植されたもの」との考えが提起されている。
本稿では、こうした「九州年号大化移植説」に基づき、『書紀』大化二年(六四六)三月の「皇太子奏請」条は、九州年号大化期の、九州王朝から近畿天皇家への権力移譲と、九州王朝の支配する土地・人民を近畿天皇家の支配下に移す事を承認(容認)するものである事を述べる。
I 九州王朝説から見た「公地公民」
「大化改新」を象徴する事業は「公地公民」だが、その根幹をなす「班田収授」について、その発足は早くとも七世紀末で、本格的成立は七〇一年の大宝律令制定によると考えられている。また、改新後も豪族の田荘等の所有が認められた例も多く(注1)、更に「公地」となったはずの「口分田」が、律令施行の当時「私田・私地」と扱われていた事が分かっているなど、「公地公民」制の宣言は孝徳期ではなく、後代の事績であり、かつ、十分に実施されなかった疑いが濃い。
こうした疑義のある大化改新詔中の「公地公民」の実態について、九州王朝説の立場から、古田武彦氏は次の様に述べ、その時期を七〇一年以降に求められた。
■日本書紀は「七〇一」以前の(九州王朝関連の)領地と領民を一切「私地私民」とし、それに代わる「近畿天皇家側の天皇家や藤原氏たちの豪族」のものを「公地公民」としたのである。(注2)
これは、「大化改新の公地公民とは九州王朝の土地を近畿天皇家が奪取する事だった」と言う意味と解釈できよう。
また、「公地公民」制創設は『書紀』大化二年(六四六)正月の改新詔(其の一)に記されているが、古賀達也氏は、その直後の改新詔(其の二)(「初めて京師を脩め」以下)は、持統による建郡の詔勅であり、五〇年後の九州年号大化二年(六九六)から移された事を明らかにされた。(改新詔其の一・二は次の通り)(注3)
■大化二年(六四六)春正月甲子の朔に、賀正礼畢おはりて、即ち改新之詔を宣ひて曰はく、「其の一に曰はく、昔在むかしの天皇等の立てたまへる子代の民・処々の屯倉、及び別には臣・連・造・国造・村首の所有たもてる部曲かきの民、処処の田庄を罷めよ。仍りて食封を大夫より以上に賜ふこと、各差しな有らむ。降りて布帛きぬを以て、官人・百姓に賜ふこと差有らむ。又曰はく、大夫は民を治めしむる所なり。能く其の治を尽すときは、民頼む。故、其の禄を重くせむことは、民の為にする所以なり。其の二に曰はく、初めて京師を脩め畿内に国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置き、鈴契を造り。山河を定めよ。凡そ京には毎坊まちごとに長一人を置け。四坊に令うながし一人を置け。戸口を按かむがへ検め、姦*しく非しきを督し察することを掌れ。(略)凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には、並に国造の性識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて、大領・少領とし、強く幹いさおしく聡敏くして、書算に工なる者を主政・主帳とせよ。(略)凡そ畿内は東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭々波の合坂山より以来を、畿内国とす。(略)凡そ仕丁つかへのよほろは、旧の三十戸毎に一人せしを改めて、〈一人を以て廝に充つ。〉五十戸毎に一人〈一人を以て廝に充つ。〉以て諸司に充てよ。五十戸を以て、仕丁一人の糧に充てよ。一戸に庸布一丈二尺、庸米五斗。凡そ釆女は、郡の少領より以上の姉妹、及び子女の形容端正しき者を貢れ。〈従丁一人。従女二人。〉一百戸を以て釆女一人が糧に充てよ。庸布・庸米、皆仕丁に准へ」とのたまふ。
姦*は、[女二人に干]。姦の異体字。JIS第4水準ユニコード59E7
「公地公民」と改新詔(其の二)に記す郡創設、区域区分、税制等が密接に関連する事は明らかだから、古賀氏の考察に則れば改新詔(其の一)も、必然的に九州年号大化期から移されたものとなる。
私は、改新詔中の「宮(京)」は藤原京を指すこと、東国国司詔は九州王朝が任命していた国宰に対する近畿天皇家の詔である事等示し、古賀氏の指摘部分に止まらず、改新詔のほとんどが九州年号大化期から移された可能性が高いと述べてきた。(注4)
II 「公地公民」は近畿天皇家による九州王朝資産の奪取
九州年号大化期は七〇一年の律令制定や「倭国」から「日本」への国号変更など近畿天皇家による一元支配の確立時期を含んでいる。従って改新詔(其の一)が、その時期に近畿天皇家から発せられたとすれば、「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・処々の屯倉、及び別には臣・連・造・国造・村首の所有たもてる部曲かきの民、処処の田庄を罷めよ」との文言こそ、近畿天皇家による九州王朝からの資産奪取を示すものとなる。
そして、詔中で子代・屯倉を立てた「昔在の天皇」とは九州王朝の天子、すなわち「前王朝の天子」を意味する事となる。また、次に述べる大化二年(六四六)三月の皇太子(中大兄とされる)による、「子代・御名の入部」の奉献記事(「皇太子奏」)中の「昔在の天皇」も同様となろう。
「前王朝の天子の領地・領民支配を罷めさせた」と直截的に書かなかった理由は「近畿天皇家は遥か以前から倭国の支配者だった」という『書紀』の主張によるものだ。禅譲にせよ放伐にせよ、あるいは別の形態にせよ、別の王朝と天子から支配権を得たと記せば、近畿天皇家に先立つ王朝の存在と、そこからの譲位、或は簒奪によって支配権を得たと認める事となる。しかし『書紀』の立場・名分からは九州王朝とその天子の存在を否定、或は無視する必要があった。そのため「昔在の天皇」と書き、近畿天皇家自らの祖先の領地・領民や事績であるかのように装ったのだ。
二、大化二年の「皇太子奏請」条の真実
I 「皇太子奏請」に関する疑問
『書紀』大化二年三月には「皇太子奏請」条(後掲)として、中大兄が孝徳天皇に私地私民たる「子代入部、御名入部や屯倉」を奉献した記事がある。ただ、この条については献上された「子代・御名の入部」の意味や、膨大な入部・屯倉の数をどう説明するか、皇太子から天皇に献上する意義は何かといった疑問が提起され、また「現為明神御八嶋国天皇」といった用語や思想が当時のものかという時代のずれ等も指摘されている。(注5)
こうした疑問や時代のずれ等の矛盾は、「公地公民」に関する改新詔(其の一)や「皇太子奏請」は
(1). 出された時期は孝徳大化期ではなく九州年号大化期、
(2). その内容は、九州王朝の天子(皇太子)や皇族、その支配下の豪族の所有する、九州王朝のための入部(注6)・屯倉を近畿天皇家に奉献させる事、
(3). 「臣」とは中大兄ではなく、九州王朝の天子(或いは皇太子)の潤色、
と考えれば解明出来るのだ。
II 九州王朝説からの皇太子奏の解釈
以下、こうした考えに沿って皇太子奏を解釈してみよう。(注7)
■『書紀』大化二年(六四六)三月(略)壬午(二〇日)に、皇太子、使を使して奏請さしめて曰く、
【A(前文)】「昔在むかしの天皇等の世には、天下を混まろかし斉ひとしめて治めたまふ(「混斉天下而治」)。今に及逮びては、分れ離れて業を失う。<国の業を謂ふ。>天皇我が皇、万民を牧ふべき運みよに属りて、天も人も合応へて、厥の政惟新なり。是の故に、慶び尊びて、頂に戴きて伏奏す。【B(下問)】現為明神御八嶋国天皇あきつかみとやしまぐにしらすみこと、臣に問ひて曰はく、
【ア】「其れ群もろもろの臣・連及伴造・国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、
【イ】皇子等の私に有てる御名入部、
【ウ】皇祖大兄の御名入部、<彦人大兄を謂ふ。>及び其の屯倉、猶古代の如くにして、置かむや不や」(とのたまふ)。
この「皇太子」は中大兄とされるが、「天下を混し」めた天皇は『書紀』では「天武」以外にない(注8)。これを「昔在の天皇」と呼ぶなら時代が逆転している。また、孝徳を「現為明神御八嶋国天皇」と呼んでいるが、このような呼称は七世紀末か八世紀当初持統末か文武期に成立するもので、孝徳大化時代には合わない。
一方、これが九州年号大化期(六九五?)の記事なら当然何ら問題が無い。
では、その時期なら「皇太子」とは誰にあたるのだろうか。草壁皇子は持統三年(六八九)に薨去し、近畿天皇家の皇太子は不存在。九州年号大化二年薨去の高市皇子を皇太子に擬制したか、また立太子(九州年号大化三年二月)後、同年八月までの文武(軽皇子)を指す事となる。しかし、いずれも極めて短期間であるうえ、高市皇子は、あくまでも「太政大臣」であり、軽皇子は幼少であって下問の相手には相応しくない。
「下問」に対する「奉答」記事(後掲)では、皇太子が献上した入部五百二十四口とされる。これは、入部が「仕丁」の意味なら五〇戸で一人だから約二万五千戸分だ。また屯倉一百八十一所は、『古事記』『書紀』中に出現する具体名の記された「屯倉」は約六〇箇所だから、事実上全国規模にあたる。
こうした規模の入部・屯倉を保有するのは一国の天子でしかないだろう。従って、「皇太子」は九州王朝の天子(皇太子)の潤色だと考えるべきだ。そうすれば、【A(前文)】は九州王朝の「近畿天皇家の新たな支配の容認と服従の表明」となり、【B(下問)】は近畿天皇家の天皇の、九州王朝に対する「資産の帰属」についての下問となろう。
「子代」は、「大化の改新以前の皇室の私有民。天皇が皇子のために設置したものといわれるが、実体は未詳」(注7)等とされている。これを九州王朝説によって考えると、「九州王朝が過去から代々にわたって、自らに糧を貢納させ、あるいは賦役させる為に設けた土地(直轄地)と人民」となろう。あえて「土地(直轄地)」と言ったのは、「御名入部、及び其の屯倉」と記すところから「子代入部」に加え屯倉(ここでは「直轄地」としておく)に準じるものが付随していたと考えるからだ。
従って、【B(下問)】が近畿天皇家から九州王朝への下問と見れば、その内容は、
○「九州王朝が過去から代々に亘り、自らに糧を貢納させ、あるいは賦役させる為に各地の豪族に設けさせきた土地と人民、及び、現在の九州王朝の皇族が持つ人民、屯倉をそのままにすべきか、
となる。もちろん「皇祖大兄」は「彦人大兄」ではなく、九州王朝の天子の伯父に類する立場の人物となろう。そして、この下問は「すべきではない・返上する」との奉答を前提としたもので、事実「奉答」はそうした近畿天皇家の意思に沿う内容となっている。
【C(奉答)】(1)臣、即ち恭みて詔する所を承りて、奉答而曰さく、「天に双つの日無し。国に二つの王無し。是の故に、天下を兼并せて、万民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならなくのみ。
この奉答(2)の趣旨は、九州王朝として「近畿天皇家の一元支配を認めるからには、人民・資産の近畿天皇家への帰属を承諾する」旨の総論的意思表示と考えれば容易に理解できる。以下の奉答(2)はその具体策、具体的行為だ。
(2)別に入部及び所封(よさせ)る民を以て、仕丁に簡(えら)び充てむこと、前の処分に従はむ。自余以外は、私に駈役(つか)はむことを恐る。故、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献る」とまうす。
九州王朝側は具体的には、「入部五百二十四口、屯倉一百八十一所は天皇家に献上する」と回答した事となる。先述の通り、「入部五百二十四口、屯倉一百八十一所」は倭国ほぼ全土に及ぶ規模のものであり、その支配権を近畿天皇家に引き渡す内容だ。「前の処分」は明らかでないが、二年正月詔を指すとすれば、九州王朝に残された一定の地域(九州か)において、仕丁は五十戸に一人という基準に従い許された数となろう。
以上、冒頭に示した古田氏の論の趣旨通り、大化改新詔の「公地公民」を示すこれらの詔は、九州年号大化期において、近畿天皇家が九州王朝の資産を奪取したことを示すものとなる。
三、九州王朝の資産の「簒奪」と『書紀』の名分
「皇太子奏請」で、「天に双つの日無し。国に二つの王無し」と近畿天皇家の一元支配を認め、また子代や屯倉等の資産が自発的に献上された様に記述するのは、西村氏の主張の通り、近畿天皇家は九州王朝から「禅譲」を受けたという外観を装う為だったのだろう。
しかし『書紀』編者は、最終的には九州王朝からの「禅譲」との体裁はとらず、近畿天皇家内での「改新」による一元支配確立の宣言と記述したり、九州王朝からの献上ではなく、近畿天皇家に関係する「私地・私民」を「公地公民」とするため皇太子から天皇に献上されたものと偽装した。
「皇太子奏請」の種々の疑問・矛盾はこの無理な偽装・すり替えから発生しているのだ。
『書紀』編者は、九州年号大化期に行った九州王朝の資産の「簒奪」の過程を、孝徳大化期に移し、過去の九州王朝の天子を「昔在の天皇」と記し、あたかも近畿天皇家の祖先の天皇であるかの如く装い、現在(九州年号大化期)の九州王朝の天子(または皇太子)を中大兄と書き換え、総て近畿天皇家内の出来事と改変した。「近畿天皇家は遥か過去から一貫して倭国を統治してきた」ことを名分とする『書紀』編者としては、前王朝の存在を前提とする「禅譲」や「放伐」の痕跡は残してはならなかったからだ。
しかもこの時代移動によって、九州王朝が孝徳期(九州年号では命長・常色期)に施行した評制や国宰・評督などの統治制度や冠位の新設などの身分制度改革、さらにこうした集権体制確立に不可欠な難波宮建設も総て自らの事績にすり替える事が出来た。
こうして、『書紀』は九州王朝隠しを完成させたのだ。(注9)
本稿における「大化改新」の分析はここまでで留めるが、七世紀末から八世紀初頭に近畿天皇家に取って代わられるまで、九州王朝がわが国を統治してきたという「九州王朝説」に立って検討を進めれば、必ず「大化改新」の真実を明らかに出来るものと信じる。
(注1)詔中、「田庄を罷めよ」とある一方、書紀持統六年(六九二)に「飛鳥皇女田荘」が見えるなど、この詔の実効性や施行時期について疑問が提出されている。
■持統六年(六九二)八月己卯(十七日)に、飛鳥皇女の田荘に幸す。即日に宮に還りたまふ。
(注2)古田武彦「大化改新批判」(『なかった 真実の歴史学』第五号二〇〇八年六月ミネルヴァ書房)
(注3)古賀達也「大化二年改新詔の考察」(『古田史学会報』八九号二〇〇八年十二月)
(注4)拙稿「藤原宮と大化改新について I II III」(『古田史学会報』八七・八八・八九号二〇〇八年)
(注5)例えば、山尾幸久『大化改新の資料批判』第五章「皇太子奏請文の内容」二〇〇六年十月塙書房)、原秀三郎『日本古代国家史研究 大化改新論批判』(一九八〇年 東京大学出版会)
(注6)【入部】A皇子等の名を人民に入れて、部曲を立てる、B租税を徴収する、C特定の者に充てられた部、D子代や皇子等の御名に入れられた部、E地方から中央に上番(勤務につく)してくるトモ(伴・官人、後に部)等諸説あり(『大辞泉』松村明監修、小学館一九九五年)
(注7)詔の区切り方は前傾の山尾幸久『大化改新の資料批判』による
(注8)『書紀』天武十三年(六八四)十月に「作八色姓、以混天下萬姓」とある。但し、これは三四年遡上した常色四年(六五〇)の九州王朝による氏姓制度改革の可能性が高い。なぜなら天武(天渟中原瀛真人天皇)が自らを臣下の位である「真人(八色姓の最高位)」と位置づける氏姓改革を行うとは到底考え難いからだ。なお、これでも六四五年の大化改新とは年代が逆転している。
(注9)『常陸国風土記』や『神宮雑例集』、『書紀』その他の記述から、九州年号「常色(六四七~六五一)」期に九州王朝は全国的改革を実施した事が分かる。常色元年(六四七)には小郡宮を造営し「礼法」を定め、同時に「七色十三階冠」からなる位階制度を創設した。また六四九年頃には評制を施行し、「国宰・評督」をはじめとする官僚組織も整備された。また難波宮建造に着手して九州王朝としての集権体制を強化した。私はこれを「常色の改革」と呼ぶこととした。(「常色の宗教改革」古田史学会報八五号二〇〇八年四月)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"