2010年8月8日

古田史学会報

99号

1, 「公地公民」と
「 昔在の天皇」
 正木裕

2,記紀、私の楽しみ方
隠されていた和珥氏伝承
 西井健一郎

3,「天 の 原」はあった二
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

4,星の子1
  深津栄美

5,伊倉 十三
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

6,古田史学の会
第十六回
定期会員総会の報告
会計報告(ともに略)

7,穴埋めヨタ話4
 少童考
 西村

 

古田史学会報一覧

「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」 (会報97号) 西井健一郎
新羅本紀「阿麻來服」と倭天皇天智帝(会報100号) 西井健一郎


記紀、私の楽しみ方

隠されていた和珥氏伝承

大阪市 西井健一郎

一、有力氏族の一つ、ワニ氏

 記紀において、和珥(わに紀。記は丸邇。以後、出典に拘らない場合、ワニと表記)氏は天皇家に妃を送り込んできた古代の有力氏族の一つである。
 ワニ氏からの妃は、九代開化帝への意祁都比売(おけつひめ 記。紀は妣津媛)に始まり、十五代応神帝へは宮主矢河枝比売(記。紀は宮主宅媛)が送り込まれる。十八代反正帝には丸邇の許碁登(こごと)臣の娘・都怒(つの)郎女とその妹が妃となる。この妃を紀は大宅臣の祖・木事の娘・津野媛と書くから、大宅氏もワニ氏から出ている。私見では、大宅は意富(おほ)域の宅(やか)地区との地名、宅は前記の宮主宅媛の名が負うワニ氏の地だ。
 廿一代雄略帝は丸邇の佐都紀臣の娘・袁杼(おど)比売を求めに春日へ出でます(記)。となると、春日と小戸(おど)はワニ氏の支配圏であったことがわかり、遡って第二代綏靖帝の一書云の妃、春日県主大日諸の娘糸織媛、七代孝霊帝の一云の春日千乳早山香媛もワニ氏一族からの妃だ(紀)。
 不思議なことは、この有力そうなワニ臣と記す氏族の娘からは天皇位についた子供がいないことである。ただ、和珥臣日触使主の娘・宮主宅媛の子・菟道稚郎子(紀)が父・応神帝から天津日嗣に選ばれてはいる(記)。また、その一族内と疑うシキ(記は師木。紀は磯城)県主の祖の娘達は、初期の安寧・懿徳・孝昭の各帝を生む。
 さらに記紀を深読みすると、神武帝の親と記す鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命も、神武帝の息の綏靖(すいぜい)帝達もまたワニ氏の娘から生まれていた、と考えざるをえない。今稿はそれを話題にしたい。
 まず、ワニ氏とは何か。

二、ワニ・サヒ・スキの等式

 ワニ氏は天皇家の神祖と同様、古くから記紀の原伝承発生の地・下関市彦島に根付いていた氏族である。勿論、記紀の原話の殆どが彦島伝承とするわが彦島史観からの見方だが。
 ワニ氏に属する人には、春日氏とその流れの物部氏、大宅氏など記紀に同系と載る氏族の他に、スキとかサヒとかの地名を負う人物も含まれる。ワニ=サヒ=スキについて、岩波文庫・紀が神功紀五年三月条の「[金且 さひ]海の水門」への補注中に「草羅さわら城の草は、[金且 すき]の音のsapをうつしたもの。・・・。そしてsapはまた、農具のスキを意味するため、[金且 すき]の字で表したのである。しかし、サヒは農具のスキなどを表すとともに鰐をも意味した」と記す。
     [金且]は、金偏に且。JIS第三水準ユニコード924F

 サヒ=ワニなのは、太古のワニ氏がサヒ(狭日=サの国)との地域を支配していたからだ。記には、山幸彦・火遠理〔ほおり〕命を海神の元から送り返した一尋鮫を佐比持(さひもち)神という、とある。これは「サヒ(狭日=サの国)の牟遅(称号ムチ)」であったワニ氏の祖先が、ワニ氏族の王・豊玉彦の命で同命を故郷へ奉送したことを伝える話である。
 狭日とは狭い海峡である小戸の岸辺の地。神代、小戸こと彦島の小瀬戸を支配していたのがワニ氏族であり、紀・山幸第4一書では塩筒老翁に「海神の乗る駿馬は八尋鰐なり。是その鰭背をたて、橘の小戸にあり」と云わせている。ワニ氏はその昔イザナギがミソギをした橘の小戸を往来する船乗り族だったのだ。このワニ氏が乗り出した外海・響灘がサヒの海、彼等が利用した半島の港が新羅のサヒと呼ばれたのでは。彼等の航路は岡県主祖熊鰐が仲哀帝に云った穴門から(新羅の)向津野大済までの東門のこと。当然、この熊鰐もその名にあるようにワニ氏族の一人である。
 書紀では神武帝の兄・稲飯(いなひ)命が東征の途中、嵐に会い入水して鋤持(さひもち)神になった、と記す。が、記の稲氷命は神武記ではなく、神代巻末に妣(はは)国である海原へ入ったとある。原話では東征とは無関係に入水している。イナヒは稲日で、イナの地の首長。国譲りの舞台「伊那佐(イナ+サ)の小濱」(記)なる地名からみて、稲日と狭日は同地か、隣接していた。入水記事は稲日の首長がワニ氏のボス「狭日の牟遅」に初めて就いたという、いわばワニ族長(狭日の牟遅)の発祥譚で、親も鵜葺草葺不合命ではなく、もっと古い他神だったと思われる。となると、イザナキがスサノヲに「汝は海原を知らせ」といったとある話(記)が、ワニ氏発祥譚と関係があったのでは。
 一方、サヒに[金且 すき]をあてたため、狭日は「スキ」とも呼ばれた。日は国(国といっても縄文弥生のことだから、一集落や小字こあざ程度だろう)を意味する語尾とみているのに、さらに国の意の日を重ねたために訓み方を変えたと疑うのが崇神帝の娘で天照大神を祀った豊鍬入姫の名である(記)。ここの「入」は金正日(キムジョンイル)と同じ「イル(日)」であり、「鍬日(サヒ・ヒ)の豊の姫」との名ではなかったか。勿論、豊は大分県ではない。橘の豊日命(用明帝)の名が示すように、「小戸橘」域に在った地名である。
 したがって、五代孝昭紀にある帝の長子・天足彦国押命がワニ氏の始祖とする記述は嘘。記の天押帯日子命が(ワニ氏の一族である)春日臣の祖なりと載る方は不詳。彼の時からワニ氏から春日氏が派生した可能性もあるからだ。ただし、前述のように、遡る二代綏靖紀・妃の一書に春日県主大日諸が娘・糸織媛との記述が載る、さて。
 このように記紀には天皇とその神祖に絡んでワニ氏発の伝承が多く取り入れられている。だが、さらにワニ氏との明記がないワニ氏伝承も載るのだ。

三、稲日の羽の人、白戸の伝承

 記紀に隠されているワニ氏伝承の初現は、鮫が登場する稲羽の素兎神話(記)である。
 この鰐=鮫=鱶と同一視する話は現代にも残る。朝日新聞の声欄には「(昭和廿四年頃の中国山地のご実家では)正月のごちそうは地元でワニと呼ぶサメの刺し身。・・・」との広島市・永山氏の投書が載っていた(H廿二年四月七日朝刊)。黄泉から逃げた伊奘諾(いざなぎ)尊を追っかける“一云、泉津日狭女よもつひさめ”(紀)も、もとは「イツツ日のサメ」でワニ族の女戦士だったか。
 だから、素兎=白兎が騙したのはワニである。この原話は小戸の白日、“筑紫國謂白日別”(記)の人が航海氏族のワニ氏の人達を騙して、彦島の“隠伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別”から稲日の羽の地へ戻った事件とみる。
 白日別とは九州北部のことにも思える。だが、ここでも筑紫は竺志の換え字でもとは「タケ+シ(村の語尾)」だとの立場をとると、そこは彦島の「タカ(高・武・建)」域のことである。私見では、彦島の海士郷(あまのさと)町から老の山公園へつながる丘陵部とみる。
 ならば、白日別の地はそのタカ地域の、白肩津(神武記)や白坂活日姫(しらさかいくひひめ 景行紀元年三月)の名に残る「白」の地だ。後者の姫名は白坂が活日にあることを教える。神功紀には「活田長狭いくたながさ国」とあるから、活日(日も田も地名であることを示す語尾)は長くて狭い小戸の沿岸部にある。活はイケとも訓め、後述の神武帝の後妻・イスケヨリ比売の母方の祖父、三嶋の溝咋(いけくい記)の支配していた地だろう。というのは、欽明紀に溝辺直は敏達紀の池辺直氷田のこととある(岩波文庫・紀の注)から、溝はイケへのあて字。だから、溝咋の本姿は「イケの首長」なのだ。
 また、日代宮や山代の代(しろ)も、地名「白」の換え字かも。ならば景行帝の名・忍代別(紀)からみると忍(おし)域だ。忍山宿禰(景行紀)と忍山垂根(成務記)の娘名の頭には「弟」がつくから、そこはオト国とも記されている地(垂仁記)である。
 一方、出発地の“隠伎”は島根県の隠岐島ではなく記・国生みにある“隠伎之三子嶋”、こじつけだが「(瀛津おきの)ミツ(=御津)の子嶋」との地でなかったか。ただし、三津の碕(紀・国譲り)や御津の前〔さき〕(仁徳記)はあるが、ミツの子嶋との記載はない。このミツのコシマが三嶋溝咋の三嶋のこととすれば、安閑紀には「三嶋竹村屯倉」とあるから三嶋はタケ域に属する。なれば、亦名建日方別とある吉備の児嶋(記)と同地か。
 “隠伎”はまた、開化記の丸邇臣祖の日子国意祁都(ひこくにおけつ)命の名にある地名・意祁(おけ)の訛とみる。とすれば、そこもワニ氏域だ。とはいえ、意祁は熊鰐が県主を務めた岡の訛の可能性もあるし、隠伎も原称は隠支(オシ=忍)かもしれない。
 で、渡ってきた稻羽(いなば)は鳥取県ではなく、小戸の「稲日の羽」の地。神代にカグツチの配下の羽山津見が支配していた地、天に昇るスサノヲに玉を進む羽明玉の地だ。蛇足だが、隠岐島に近いのは出雲国(島根県)、伯耆国を越えて更に東の鳥取市周辺の因幡国からは遠い。
 これら人名が負う地名をもとに想像するに、彦島は白日の人が小戸を越すのに、船人のワニ氏の人達を騙して懲らしめられた話から生れたワニ氏伝承だろう。なお、白兎を助けた大国主がワニ族に報復した話はない。大国主性善説に利用した別神の伝承だったのでは。

四、神武帝の祖母はワニ

 記紀に隠されているワニ氏伝承の第二は、前出の山幸神話、海神・豊玉彦とその娘・豊玉姫である。子供が生れそうだと陸の山幸彦を訪れた妻の豊玉毘売は、八尋鰐になって神武帝の親と記す鵜葺草葺不合命を生む。それは媛がワニ氏族の娘であったことを教える。
 わが史観から解すと、天津日高日子・波限建・鵜葺草葺不合命(記)とは、「アマツ日のタケの王子」で「ウカ(宇迦)・ヤ(八)・フキ(吹)・アエズ(相津)」を支配する「ナグサのタケル(職位名)」との名称である。原伝承では、アマツ日は高天原がある海士郷町、そのタケ(高)出身の王子。支配地のウカは大国主が宮を建てた地、ヤは八十、八上比売の地。フキは風木津別之忍男(かざもつわけのおしを)神の風木(フキ)の地で、国譲りする大国主の父親の天之冬衣(ふゆきぬ)神(記)こと天之葺根(ふきね)神(紀)の地でもある。忍男とあるから、前出の「オチ(堕・弟)」国だ。アイヅは大毘古と子の建沼河別が往き遇う相津(崇神記)。垂仁記には尾張の相津と載るが、この尾張は高尾張邑、改号しての葛城(神武紀)のこと。勿論、わが史観からは、すべて小戸近在の地名である。
 おそらく、この原話はある時代の小戸の王、ナギサ(神武帝が誅した名草戸畔のいた名草邑。紀)のタケルを飾る彼の出生譚で、ニニギ尊の息・火遠理命の事績とは無関係だったのでは。ただ、ワニ一族内での祖裔の関係にはあったのだろう。

五、狭井河の伊須気余理比売

 そして第三が、神武帝の後妻で皇后・伊須気余理(いすけより)比売である。
 比売の正式名称(記)は富登多多良伊須須岐比売命、「フト(太=布都?)・タタラ(蹈鞴ふいごではなく、「基岩の露出した所」広辞苑。埋めたて前の大和町の岩礁列のことか)・イ(五十)の・ススキの姫」の意だ。ススキも地名で「薄」だが、萱のように根元から縦に広がる草の総称とみる。実は欽明紀に「笠縫皇女、更名狭田毛(さたけ)皇女」が載る。狭田毛は小竹で、神功皇后が忍熊王を攻める時に遷る小竹(しの)宮の地である。さらに、笠縫草が広辞苑に「スゲの古名」とあることから、笠縫だけでも菅や薄や篠竹のような笠の材料となる禾本科植物の美称だった可能性がある。となればこの小竹宮の地が、豊鍬入姫が天照大神を祭った倭の笠縫邑(崇神紀)かもしれない。勿論、倭は彦島の夜麻登(やまと)の地だ。私見では、この大物主とセヤダラ媛とから生まれたフトタタラ媛とイスケヨリ媛とは別時代の別人である。
 神武帝が夜這いに出かけたイスケヨリ比売の家は、「狭井河の上にありき」と記は書く。「狭韋さい」は山百合のことと原注にあるが、前出の「狭日」の訛とみる。比売の家は狭日、つまりワニ氏圏にあったのだから、彼女もまたワニ氏族の娘だったのだ。ならば、原名は「五十の[金且]依すきより媛」だったか。また、記・ウケヒには“市寸嶋(いちきしま)比賣命、亦御名謂狹依(さより)毘賣命”とあるから、狭依(さい)は市寸(しき)の嶋の地でもある。
 後にこのイスケヨリ媛は神武帝先妻の子・多芸志美々(たがいしみみ)の妻にもなる。そして、この夫が先夫との弟達を殺そうとしたので彼等に伝え、末弟・神沼河耳が義父・多芸志美々を誅し、第二代綏靖帝に就いた、と記は記す。
 これらイスケヨリ媛の子、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命は、大国主が妻問いをした媛達の地名を負う。兄二人は稲羽の八上比売とその子・御井神、弟は高志(タカ+シ)国の沼河比売の名である。記が大国主伝承に須勢理媛の他にこの二人の媛を入れたのは、綏靖帝のゆかりの地の来歴を伝えるためだろう。
 私見では、神武帝とタギシ耳とは何世代もの間がある。紀に“其庶兄手研耳(たぎしみみ)命、行年已長、久歴朝機”、つまり年長く政治を掌ってきたとあるから、実際は第二代天皇か、それ以後の神武帝の後継王だった筈。しかし、第二代天皇に彼を殺した神沼河耳命がなったとあるのは、神沼河耳から新血統が始まったことを暗示する。ひょっとすると、天の淳中原(ぬなかはら)を名乗る天武帝の経歴をも暗示するのかも。
 記紀の系譜では、天皇位に皇后の子がつくのが多いのは、記紀の編者が天皇位についた子供の母親を先代帝の嫡妻つまり皇后としたからだ。このルールからいえば、イスケヨリ媛は子連れでタギシ耳のところへ嫁に来た姫であり、タギシ耳を天皇と書けなかったため、神武帝の後妻(皇后)に造作した、と考えられる。 イスケヨリ媛は神武帝が戦い獲得し伝えてきた覇権をわが息子の手に収めさせた女傑である。その覇権とはおそらくヤマトの支配権、その倭とは倭者師木登美豊朝倉曙立王(垂仁記)の名にある古えの彦島の「シキ・トミ・トヨ・アサクラ」を含む一帯だ。
 紙数を超えたが、ひとつだけ。綏靖帝の子孫の天皇達に妃を送り込んだそのシキの県主の祖の人達もまた、ワニ氏族だった可能性がある。なぜなら、多紀理毘売の子・阿遅[金且 すき]高日子根(記・大国主神譜)を妹の高比売は「阿冶志貴しき高日子根の神ぞ」(記・天若日子)と謳うからだ。[金且]と志貴とは互換性がある地名、つまり同じ地区のようにみえる。
(終)
 〔依拠史料、岩波文庫「古事記」「日本書紀」〕

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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