纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない 古賀達也(会報96号)
纒向遺跡 第一六六次調査について
生駒市 伊東義彰
一、はじめに
昨年十一月十一日の朝日新聞朝刊一面に、「卑弥呼時代 最大の建物」「奈良纒向遺跡 邪馬台国の中枢か」「西の三棟と一直線配置」などの大きな見出しが躍り、纒向遺跡の第一六六次発掘調査の状況を報じていました。一面だけでなく他のページにも「畿内説 弾み?」「弱点補う待望の宮殿」「強大権力者の痕跡」「祭祀空間・居館・推測」「調査済み5%期待拡大」などの見出しで解説記事を載せ、さらには専門家による建物の想定復元図まで紹介して、この建物跡がいかに壮大な宮殿あったかなどを強調していました。景初三年銘鏡を含む三角縁神獣鏡まで動員して解説していますから、素直な人ならさしたる抵抗感もなく、邪馬台国は大和にあって、纒向に宮殿を営んでいた、と思い込んでしまいかねない内容になっています。
加えて、名だたる専門家までもが記事内容を肯定・後押しするような見解を述べていますから、邪馬台国=大和説は一般国民の間に着実に広がっていくのではないかと、危惧を感じざるを得ません。
以下に、各専門家の見解を要約してみました。
「邪馬台国を創った三〇カ国の王らが集まり、政治をした集会所のような建物かもしれない」(大阪府立弥生文化博物館長金関恕)、「建物があれだけ整然と東西の軸線に乗っているということは、まさに邪馬台国の王の宮室。今回は掘り当てた可能性が高い」(大阪府立近つ飛鳥博物館長白石太一郎)、「中軸線を東に延長すると神が鎮座する山とされる三輪山の北にある巻向山にいたり、巻向山を背にして宮殿が建つ。箸墓古墳の周濠に注ぐ水も巻向川の聖なる水。あの地こそ聖地だ」(奈良県立図書情報館長千田稔)、「土器片やゴミがほとんど出土しない。飛鳥時代の宮殿のような清浄な空間を思わせる」(桜井市教委調査担当主査橋本輝彦)、「これは祭祀空間ではないか。卑弥呼がいて鬼道(呪術)をしていてもおかしくない。政治的空間は少し離れたところにあったのでは」(兵庫県立考古博物館長石野博信)、「大型建物は居館と考えられ、纒向が王都である以上、あのあたりに卑弥呼がいたと考えるべきだろう。今回の建物で終わりではなく、さらに東側にも何らかの建物があるはずだ」(奈良県立橿原考古学研究所企画部長寺沢薫)。
以上が邪馬台国大和説に立つ専門家の見解です。これらの見解を異とする専門家は、
「今回の発見が王宮に当たるかどうかを決定するには、建物の規模だけでは決め手にならない。邪馬台国の所在地を決定するには、王の権威を象徴するような具体的な出土品が必要だ」(國學院大教授鈴木靖民)、「卑弥呼の宮殿とするには時期が違う。吉野ヶ里遺跡は環濠集落全域を発掘で明らかにし、3世紀の一つの首都の構造がある。纒向遺跡でそれを発掘するには長期間を要するだろうが、今後の継続調査に期待したい」(佐賀女子短大学長高島忠平)、「今回の発表は年代そのものに議論の余地がある。畿内説の研究者の土器の見方は一〇〇年ほど古く見る傾向がある。大きな建物跡は九州でも出ている。それだけでは邪馬台国に結びつかない。吉野ヶ里遺跡からは防衛用の柵列、楼観に当たると見られる遺構が出ている。纒向遺跡の柵は区画用であり防衛用ではない。柵と大きな建物遺跡が出たというだけで邪馬台国というのは飛躍した議論だ。纒向遺跡は四世紀頃のものだろう。今回の大型建物も宮殿ではないが大和朝廷の王族・大臣級の邸宅(居館)の可能性があり重要だ」(季刊邪馬台国編集長安本美典)などと述べています。
纒向遺跡から大型建物跡が出てきたからといって、それが卑弥呼の宮殿跡とどうして結びつくのか。邪馬台国大和説から見てもずいぶん乱暴な議論ではないでしょうか。邪馬台国九州説に立つ人が、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の都だと主張するのと同じ議論ではありませんか。
二、疑問点
1,大型建物の大きさ
大型建物は、南北四間(一九・二m)、東西二間(六・二m)、床面積一一九・〇m2以上の建物遺構ですが、調査の状況や建築学的な検討から東西も四間(一二・四m)であったとされ、床面積も二三八・〇八m2と計算されて、三世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇るものとなりました。しかし、東西四間とするには出土した遺構の西側にさらに二列の柱穴がなければならないのに、一つも見つかっていません。調査の状況や建築学的検討により、推定追加されたもので、それに基づいて国内最大の規模を誇るとされているのです。一つの柱穴も見つかっていないのに、納得しろといわれても素直に肯けるわけがないではありませんか。
出土した遺構通りのものならば、四間(一九・二m)と二間(六・二m)の細長い、おそらく切妻式の建物と思われますが、棟持柱(むねもちばしら)のないことや、床を支える束柱(つかはしら 径約一五cm)と思われる柱穴が規則正しく配置されているところから、屋根は棟持柱で支えたのではなく、束柱を除くすべての柱(径約三二cm)で支えたものと思われます。そうすると、使用された柱の太さや数、その間隔などから建物全体の強度に問題が生じるところから、実際には出土していない西側二列の柱列を想定し、幅も四間(一二・四m)に広げたわけで、想定復元図が入母屋式になったわけです。かくて、現在における弥生時代最大の規模を誇る建物となりました。
2,池上曽根遺跡の大型建物跡
弥生時代の大型建物遺構といえば、すぐ思いつくのが池上曽根遺跡の復元された大型建物でしょう。この遺構は、残っていた柱根の年輪年代により前一世紀の中頃に建てられたものとされており、今回の調査で検出された纒向遺跡の建物遺構が説明通り三世紀の前半頃のものとすると、約二〇〇年近く前のものということになります。この間に使用目的や建築技術の変化・進歩のあったことを考えると、両者を単純に比較するのは適当でないかもしれませんが、同じ弥生時代の範疇に入る典型的な特徴を備えた高床式建物でもありますので、一応検討してみたいと思います。
実は、纒向遺跡で検出された大型建物遺構と池上曽根遺跡の大型建物遺構の規模はほぼ同じなのです。池上曽根は東西桁行一〇間(一九・二m)、南北梁行一間(六・九m)ですから面積一三二・四八m2となり、検出された遺構だけの比較では纒向の一一九・〇四m2より少し大きくなります。
柱の数を見てみますと、纒向は束柱径約一五cm×一二本を加えて二七本、池上曽根は棟持柱六〇cm七〇cm×四本(独立二本、屋内二本)を加えて二六本です。纒向が一本多いのですが、主柱一五本の径が各々約三二cmであるのに、池上曽根は棟持柱以外(桁行一一本、径二二本)も全部六〇~七〇cmの柱が使われています。さらに棟(桁行一九・二m)を支える柱は、纒向を入母屋式の建物とすると径三二cm×三本(切妻式なら五本)、池上曽根(切妻式)は径六〇~七〇cm×四本で支えていたことになります。
纒向遺跡で検出された遺構だけでは、強度に不安が残る、といった意味が何となくおわかりいただけのではないかと思います。
3,その他の遺構
大型建物の西側六・四mのところに東西の中軸線を共有する小型の建物遺構が確認されています。東西面南端の両柱穴が失われていものの、南北の両近接棟持柱が検出されているので南北三間(約八m)、東西二間(五・三m)の規模を持つものとされています。伊勢神宮正殿と同じ神明造りで、切妻式の高床建物です。池上曽根遺跡の大型建物と同じような弥生時代の典型的な建築様式を備えています。昭和五三年の調査で、この小型建物のさらに西側五・二mのところに土間(高床式ではない)式のさらに小型の建物遺構が検出されています。この小型建物も東西の中軸線を意識して建てられているとされていますが、神殿や宮殿の一部というよりは、作業小屋か物置程度のものではないかという印象を受けました。
大型建物を含めた三つの大小の建物は、前回の第一六二次調査で検出された柱列穴(約一・四m間隔、柱の径約一〇cm)に囲まれていたとされています。建物群を囲み、外界との境界を形成する柵だというわけです。実際には大型建物を囲んでいたかどうか、またどのように囲んでいたかは今回の調査ではこの柱列の続きは検出されていないので不明です。外界との境界をなす柵は、支えとなる柱と柱の間に溝を掘って丸太を立て並べ、外からの視界を遮るのですが、その溝は検出されていません。柱の太さから見てあまり頑丈な柵とは思えませんので防御用ではなく、区画用の視界を遮るためのものではないかと思われます。
三、まとめ
1,検出されていない西側二列の柱があったと推定して、三世紀中頃までの建物としては国内最大の規模を誇る大型建物とされていますが、たとえそうであったとしても、邪馬台国や卑弥呼の宮殿と結びつくものは何もないではありませんか。
2,建物群が東西に軸を合わせた規格性を有し、中軸線を共有するからといって、卑弥呼の宮殿とどうつながるのでしょうか。
3,『魏志倭人伝』は、卑弥呼の宮殿について「宮室、樓観、城柵厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と厳重に防御されている様子を記しています。纒向遺跡で検出された柵の遺構は、視界を遮る程度のもののようですし、樓観の遺構はみつかっていません。纒向遺跡が『魏志倭人伝』の記すような卑弥呼の宮殿であるためにはさらに広大な規模を有するものでなければならず、現在の発掘調査段階で卑弥呼の宮殿に言及するのはあまりにも早急すぎるのではないかと思われます。
現在、『魏志倭人伝』の記述に最も近いと思われる遺構が吉野ヶ里遺跡にあります。「宮室、樓観、城柵」が厳かに設けられた遺構が検出されているのは周知の通りで、纒向遺跡の遺構を卑弥呼の宮殿跡云々というのは、吉野ヶ里遺跡よりも規模の大きな遺構が発見・確認されてからの話でしょう。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"