私考・彦島物語II 國譲り(後編) 西井健一郎(会報73号)
記紀、私の楽しみ方 隠されていた和珥氏伝承 西井健一郎(会報99号)
「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」
大阪市 西井健一郎
一、生き残ったのも地方伝承
記紀が七世紀以前の日本を伝える唯一のものであることは論を待たない。しかし、唯一のものが過去のすべてを伝えているとは限らない。そこが看過されてきている。
唯一である理由は、他の史書や伝承が権力によって淘汰されたからと聞く。もともと各地にはそれぞれ独自の神々の伝承や祖先の事績があった。が、それらは抹殺・消去され、権力を握った氏族が伝え来た自家譜のみが生き残った。残したものに他を取り込んできたとはとても考えられない。各地にあった伝承のひとつだけが、記紀に生れ変わったのだ。記紀が拠る原伝承はワン・オブ・ゼムであり、けっしてオール・イン・ワン(汎用品)ではない。そこには、豪華な副葬品をもつ九州の墳墓の主の伝説や巨大古墳を作らせた近畿の王の苦労の記述は見当たらない。それら遺跡の説明に記紀の記述は不適なのだ。
記紀とはある権力者の出身地の伝承や事績を書き直し(造作し)、ナショナルワイド化させた歴史物語である。その権力者とは天武帝、九州王朝か近畿王朝かを乗っ取り、「日本国」に国号を改めた天皇である。彼の後継者はその遺志を継ぎ、先稿「四人の倭建」で触れたように倭国号使用の古事記を廃し、新国号の日本書紀を発布し、唐朝をモデルに中央集権化を図った。古墳の分布からみて当時、九州王朝や近畿王朝など大国のほかに中小の独立王国が日本中に群立し、あるいは戦い、あるいは提携するとの戦国時代的の様相だったと推測する。各地の中小の古墳は中央政権の墓制令の下に造られたものではなく、北朝鮮の核のように、地方独立政権の意地を見せるため大勢力のそれを真似て造ったとみるからだ。
天武朝はそれら独歩群立していたサバエなす人達を日本国の名のもとに隷属させようとした。その道具が九州王朝史でも近畿王朝史でもない中立のローカル史譜から作った日本書紀。同書を与え、天武朝が指定する新祖先神の子孫になることを要求したのだ。つまり、記紀が記す神々に各地氏族の祖先神を入れ替えさせて、同じ神の子孫としての同族仲間意識(同じ国の民との意識)を植え付けようとした。それは明治政府が幕藩意識を破壊しようとして記紀を利用した目的と同じだ。もっとも後者は行き過ぎて、記紀の神々とその子孫を奉じない人達を仲間から排除し差別する風潮を生んだが。
この天武帝が記紀のもとにしたのが彼の出身地、下関市は彦島の小戸に残されていた史譜・伝承であるとするのが、私称・彦島史観である。その手がかりがイザナギ命だ。
二、祖神イザナギは彦島の小瀬戸にいた
まず、記紀はイザナギ氏族の史書である。
なぜなら、記紀の登場人物のルーツはイザナギ命に収斂する。天照大神でもイザナギから生れたように描かれる。ごく一部を除き、イザナギの先祖か後継者、その彼等に正反の係わり合いを持った人物しか登場しない。つまり、イザナキをルーツとする、というよりは彼の覇権を引き継ぐ人達の系譜と経歴が記紀の根幹をなす。それはイザナギの居た地を出自とする氏族に伝わっていた伝承が記紀のストリーの根幹を形成している、と言い換えることができる。
では、イザナキ尊はどこにいたか。
答は「橘の小戸」、黄泉から逃げ帰ったイザナギ命がミソギをしたと記す地である。
私はその「小戸」を下関市街地と彦島とを隔てている狭い海峡、今でも土地の人が「オド」と呼ぶ小瀬戸のこととする。だから、記紀のもと(つまり種本)になった原伝承はこの小戸近辺にいた氏族のものであったとの前提で記紀の記事を解する。記紀はそれら事績をあたかも全国各地のもののように描くが、源は穴戸彦島の伝承と受け止める。だから、小戸の頭につく「竺志日向」も伝承が生れた太古の彦島では、小戸の橘の周りの地域が「タケ志」の「ヒ(イ)・ムコ」と呼ばれていたとみる。竺志は九州、日向は宮崎県と受け取るのは、それが記紀編者の狙いではあるが、八世紀以降の知見に基づく解し方である。
とすれば、イザナギを祖神として仰ぐ氏族が存続してきたのは、あるいはルーツとしたのは小戸沿岸だった、といえる。ただし、それを最初に言ったのが私ではなく、三六代孝徳帝。帝はその白雉改元の詔で“我親神祖之所知穴戸國”と述べ賜わっている。
この視点に立てば、イザナギ氏族のさらなる祖神であったろう葦牙彦舅尊や神代七代神もまた、その地域に発した神である。そこで、今稿では、同地の初発神・葦牙彦舅尊をまず取り上げて、彦島史観の観点から考察したい。かって浅学の内に例会発表したテーマだが、それ以後得た知識も加え、改めてその原姿の探索を試みている。
なお、先に編纂された古事記の記述の方が原伝承の形を強く残すと考える。故に、記主・紀補で私論を進める。
三、彦島の初生神・ウマシアシカビヒコヂ神
イザナギの祖とは限らないが、その地域(彦島)の初祖神が葦牙彦舅尊(紀)と記される神だった。記には「宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)」とあるから、紀の神名もそう訓むのだろう。なお、記はその前に高天原に三神がなったと記す。が、それら神名を紀が第4一書で又書きしていることでもわかるように、イザナギ系氏族とは別氏族の初発神である。私見では、大海皇子の名にあるアマの方の祖神だ。
なぜアシカビヒコヂが初生神かといえば、この世の最初に発生したものはもやの中に浮かび始めた糸くずのようなものであり、そこから葦の芽のようなものが萌え出た、と記紀ともにあるからだ。この最初に生れた葦の芽のような地がイザナキ氏族を含む彼等の地・彦島の誕生譚であり、ともに最初の神「葦の神(カビ)」が生まれたとしたのだろう。
訶備(カビ)は神の訓みとみる。大国主に其后は“夜知富許能 迦微能美許登夜”と歌うし、アヂスキ高日子根を妹の高比売は“阿冶志貴多迦 比古泥能迦微曾也”と歌う(ともに記)。神代には「カビ」と発音していたようにみえる。
なぜ葦の神なのか。この地域の中心部が「アシ」と呼ばれていたから。その地の神だ。そこは葦原中国や葦浦とも、また足(足名椎)とも記される。というのは、これらの原伝承誕生時の地名は音だけだったから。また、狭い島内だから同地名の地が多在していたと思えない。従って、同じ音の地名は同じ地のものである。葦とあろうが足としようが、漢字導入以前の現地では「アシ」と呼ばれていた同一地なのだ。ついでに、このアシの地を彦島の本村町地区に想定する。ムリにこじつけると「誉田」だが手がかりなく、他の比定地との関連でそこにあたると考えた。なお、同地は後続巻では大中と記される地だろう。
とはいえ、イザナギの根拠地は葦原中国ではない。葦の芽に例えられた彦島の内でも僻地の小戸沿岸部の山裾の地だ。だから、葦牙彦舅は全彦島の祖神とみた。ミソギの地、小戸の「橘」は、「キツ」へのあて字である。 “天吉葛(アマのヨサツラと原訓あり)”(紀一書)を、字面どおり読んだ「クズ(葛=国栖)の住むアマのキツ」の地である。そこは神武帝と阿比良比売との次男・岐須耳(キスミミ)の名が負う地名の地だろう。
四、天照大神が欲した葦原中国
この葦の地を美称化したのが葦原中国である。記では主に天照大神の征服対象地として載る。天岩戸(記)には、“爾高天原皆暗、葦原中國悉闇”とあるから、高天原の眼下に葦原中国が広がっているように描かれている。そんな記憶が残っていたのだろう。
天照大神は丘陵部の氏族、記紀では高天原なる石窟の住民である。高天原はタケのアマのバル、バルは村の意の語尾で、その地名の名残りが彦島の海士郷(アマのサト)町であるとみる。その山間の、紀が石窟と記す住居にいた。なぜなら、大神はスサノヲの嫌がらせで「天石屋戸へ籠る」と書くからだ。その住居は伊都之尾羽張神の坐す“天安河河上之天石屋”(記)と同じである。この尾羽張神の地は後の高尾張邑。その邑は“身短而手足長。與侏儒相類”(紀)の人達の地であり、先稿に述べた倭建に討伐された蝦夷の地である。後に葛城と改号されたと、神武紀には載る。
その葦原の神、葦牙彦舅の原姿は「アシのクモ」と呼ばれた太古の首長である。それを推測させるのが紀の表記「葦牙彦舅」。注目は「牙」、記の創世譚の葦の芽を受けて草冠を省いた「牙」を使用したともみえる。だが、牙の漢音はガ、呉音はゲ(「漢字源」学研)、齧(ゲツ。意味はかむ)の代わりに用いたのでは、と疑う。もしそうであれば、紀の豊国主尊の亦名に豊組野(トヨクムの)尊と豊齧野(トヨカブの。訓は岩波文庫)尊が載り、記は同尊を豊雲野神と記すから、齧は雲の訛ったあて字との憶測ができる。称号「クモ」は宋史外国伝の日本王年代紀の二世王天村雲尊・三世八重雲尊に見られる太古の王の称号である。後代にはカグツチ等のツチ称号とくっつき、土蜘蛛となって蔑称化するが。
ただ、齧は「食い」の替え字の疑いもある。「クイ」も大山咋などにみる称号だ。須佐之男や月夜見尊の強奪を受ける淡の大気都比売(オホゲツヒメ)も「大(の地)の齧」だった可能性があり、「オホのクモ」より「オホのクイ」だったのでは、との期待を持つ。ただし、音読みすると「オホのキツ」媛とも読め、小戸橘出自の媛かもしれないのだが。
五、味師内宿禰はウツの人
では、頭についた「宇摩志(ウマシ)」とは。美称と注にあるが、地名だろう。なぜなら、記紀の後続巻にも登場するからだ。
その一つが孝元記の味師内宿禰の味師(ウマシ)である。建内宿禰と併記されているから、その地は「内」地域にあったと考えられる。この内の地域に味師(ウマシ)と建(タケ)の地区があったのだ。なお、建内宿禰も倭建と同様、「地名+称号」の職位名、何代にも亘り建内宿禰を名乗った人達がいる。内は、孝元帝后の内色許売(記)を紀は鬱色謎と写すから、ウツと呼ばれていた。となると、兄の釣針を失くし海辺にたたずむ火遠理命こと穂穂手見命こと山幸彦に塩椎神が「何に虚空津日高は泣き給う」(記)と呼びかける虚空も原伝承ではソラではなくウツの地、同命はこの虚空(ウツ)の地の王子だったことになる。神代巻も天皇巻にも同じ小地名が登場することが注目点。それは双方に同じ地からの伝承が用いられたからだ。その地は彦島、とみるのが彦島史観のゆえんである。
ウマシ=ウツとすれば、神武帝を速吸之門で出迎える珍彦(ウヅヒコ。紀。原伝承ではメズラ彦?)の地になろう。イザナギは粟門とこの速吸名門との潮が速いため、小戸の中間部の橘でみそぐ。アワ(粟・淡)とは大宣都比売の地で、大とは大戸日別神の大戸で大瀬戸、つまり関門海峡側の意の広域名だ。故に粟門は小戸の東出口。対の速吸門は西口の響灘側になる。魚釣りしながら待った曲浦もこの湾口だ。彦島伝承だとすると、そうなる。その近辺がウツであり、そのどこかにウマシの地あった。だから、ニギ速日つまり早潮が流れる小戸沿岸のハヤの国のネギ(職位名、禰宜。倭人伝に載る爾支は禰伎の偏がとれた形?)の息子がウマシのマジ(牟遅?)に就けた。母はヤソのシキのミカの姫だ。
味師内宿禰の母は尾張連祖の意富那毘の妹、葛城之高千那毘売とある。大国主と八上比売との子、御井神の例(記)から察して、太古は妻問い婚が一般的で、子供は母親が養育した。であれば、子供の名が負う地名は父親のではなく、母親の居住圏内の地名が用いられた例が多いのでは。ただ、息子の場合は他地を征服し、その地名を誇る場合があろう。
この理屈下では、味師内宿禰のウマシは母の高千那なる地の域内にある。そこはニニギ命の降臨した高千穂の近くだろう。高千は後続巻の高市である。そこには「穂」と「那」との地区があった。那の地の港が那津とすると、夏高津日神や夏之売神(記)、さらには夏羽(神功紀)や神夏磯媛(景行紀)にみる「夏」の地だ。夏羽の妹は田油津媛、私見では、仲哀紀にある岡浦に入る船を妨げる菟夫羅媛と同じ地名を負う媛であり、トブラ(葛城襲津彦の曾孫・都夫羅意美の地でもある)の地とは、略していえばやはり小戸の響灘口、曲浦付近の地である。
となると、ウマシは葦原中国とは別域。葦原中国に比定した本村町の北西隣の老町二丁目が推定地になる。なお、ウマシのシは伊蘇志や多芸志にもつく「集落」の意の語尾とみると基幹名は「ウマ」、後続巻に出る「厩坂」や「馬飼(ウマの峡)」の地だ。応神記の厩坂を作らされた蝦夷とは、前述の尾張邑の連中の可能性が高い。
語尾のヒコヂは泥(コヒヂ)のこととの注も見るが、大国主を須勢理毘売の日子遅と記し、豊玉毘売に比古遅のホホデミが歌を答えると記にはあるから、夫男神の意味だろう。ヒコヂが日子泥とあてうるのならば、それはご当地生れの王子に解せる
以上、わが史観からは、可美葦牙彦舅とは高天原(彦島海士郷町)の南部を取り巻くウツ(同老町西部)とアシ(同本村町)の地を支配していた太古の首長が神格化したものとみる。これが本来の彦島の主流氏族の祖神だ。小戸の僻地から発したイザナギがこれら氏族の子孫を制圧し、その地に覇を唱えたから以降の人達がイザナギをルーツに選んだのでは、と考えているのだが、さて。 〔依拠史料:岩波文庫「古事記」「日本書紀」〕
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"