2010年12月1日

古田史学会報

101号

1,白鳳年号をめぐって
 古田武彦

2,「漢代の音韻」と
 「日本漢音」
 古賀達也

3,「東国国司詔」
 の真実
 正木裕

4,「磐井の乱」を考える
 野田利郎

5,星の子2
  深津栄美

6,伊倉 十四
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

 

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伊倉1          10 11 12 13 14ーー天子宮は誰を祀るか

地名研究と古田史学 古賀達也(会報100号) へ

伊倉いくら 十四

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊 倉 六十七 “天子宮調査のヒョウタンから駒”
第二話『続日本紀』の八代正倉院

 前に、伊倉 三十三 “八代徳淵港の正倉院説と天子宮調査のお粗末な実態”として

 どうも根拠は小早川文書の記述のようであり、『肥後国誌』にも「徳淵川端ニアリ或説往古ノ正倉院・・・」という記述があるのです。当然ながら早々に官邸を飛び出し現場に向かいました。「かつて徳渕港に正倉院があった」という現場に到着するや、そこに密やかな春日神社があることが確認できます。言うまでもなく、春日大社とは藤原氏の一族繁栄の為に常陸の国から戦神(イクサガミ)を移したものですから、早くも様々な妄想が廻ります。当然ながらこれは別稿とします。
 文中の「官邸」は、日本初の河童共和国である八代の大統領宅の意味ですが、「常陸の国から戦神」も言うまでもなく鹿島神宮の祭神“健御賀豆智”タケミカヅチのことです(古川)。

 と、書きました。今回は、これまで投げ出していたこの雑文の続編となります。
 まず、この八代の正倉院の記述に気付いたのは、現八代市の北、旧鏡町の印鑰(インニャク)神社の掲示板に郡倉の話に併せて、「…八代郡では、他に平安末期、徳淵に「正倉院」があったと伝えられている。(小早川文書)…」と書かれていたからです(八代市の解説文については写真を見て下さい)。
 我々、九州王朝説を意識する者にとって、この八代の正倉院の話は、徳淵が、古来、大陸への重要な港であったことから考えても、一目、単なる地方(郡)や特定の寺社の倉と言ったものではないと思われます。
 天子宮の基礎調査も峠が見え始め、私の計画では、薩摩の加世田の天矢(矢石)神社数社と吉備の天子神社を残すまでとなりましたので、終われば八代の正倉院問題に戻ろうかと考えていると、小早川文書の確認もしないうちに、会員の秀島哲雄氏からメールが入りました。『続日本紀』に八代の正倉院に関する記述があるというのです。十日後、再び詳しい話が入りました。私信ながら公開すべき内容と判断しその部分を掲載します。
 
 『続日本紀』の神護景雲二年七月十九日に「太宰府言。肥後国八代郡正倉院北畔。蝦蟆蟆陳列廣可七丈。南向而去。乃千日暮。不知去虚處*。」と書かれている。ただし、千は下が左にはねている。川手書房新社の『日本歴史大辞典』は、「正倉院は倉庫のなかの最も主要なものをいい、正倉院はそうした主要倉庫のある一区画をさす。奈良時代の官庁寺院などは正倉院を付属するものが多かった。」と書かれている。肥後国八代郡正倉院もそんな官庁の正倉院の一つである。問題は、これが『続日本紀』に書かれていることである。肥後国八代郡正倉院の異変は当時の正徳天皇に報告されたから『続日本紀』に書かれているのである。
     處*は、処の代わりに必。

 秀島は『続日本紀』を読み通した。他の正倉院について記している箇所は見つからなかった。八代の正倉院が重要であったからこそ、その異変が天皇に報告されたて『続日本紀』に書かれたはずである。
 八代の正倉院が重要であった理由は、八代に朝廷があったからではなかろうか。

メール第二信(一部割愛)
 八代にも正倉院があったのかと驚いた。川手書房新社の『日本歴史大辞典』の正倉院の説明を読んでみた。説明は次のとおりである。
 正倉院は倉庫のなかの最も主要なものをいい、正倉院はそうした主要倉庫のある一区画をさす。奈良時代の官庁寺院などは正倉院を付属するものが多かった。大蔵省や諸国国府庁・東大寺・西大寺・法隆寺など正倉院のあったことは古記の教えるところである。しかしそれらの正倉院は全部なくなり、東大寺付属の正倉院のみが残ったため、正倉院といえば東大寺正倉院をさすようになり、さらにそれが東大寺から離れて皇室の所有になるに及び、まったく独立した名称として今日のごとく固有名詞化するに至った。

 正倉院はどこにでもあったのかと、がっかりした。しかし、『続日本紀』を読み通して、出くわした「正倉院」は八代のだけである。また、『続日本紀』に出ているということは、天皇に報告されていたということである。肥後国八代郡正倉院の異変は当時の称徳天皇に報告されるべきものだったのである。八代の正倉院が重要であったから、その異変が天皇に報告されて『続日本紀』に書かれたはずである。
 八代の正倉院が重要であった理由は何であろうか。八代に朝廷があった時もあることも考えられる。それ以外に一地方の正倉院の異変が天皇にまで報告される理由があるであろうか。

 『日本歴史大辞典』の「肥後国八代郡正倉院もそんな官庁の正倉院の一つである。」は根拠があるものには思えないのですが、唯の郡倉などと正倉院をごっちゃまぜにして、そんなものはいくらでもあったのだからどうでも良いという話なのでしょう。では、そんなに方々に正倉院があったという話を皆さんは聞かれた事がありますか?ただし、我々が考える九州王朝の本拠地と思える現久留米市の一角には正倉院があったとの記述がある古文書があるのですが、堂々と『久留米市史』に掲載されているのです。
 古田史学の会のホーム・ページ「新古代学の扉」所収の「古賀事務局長の洛中洛外日記第90話(二〇〇六年七月一六日)には、『筑後国正税帳』の証言 があります。
 さらに、古田史学の会会報に対して寄せられた古田武彦氏の論文があります。古田史学会報 二〇〇〇年二月一四日三六号 所収のミレニアム記念特別寄稿 「両京制」の成立です。
 最後に、現地の物理的問題を取り上げておきます。この正倉院のあった場所を旧春日神社辺りと推定されたのは八代市の某女性学芸員だったのですが、現地を見た印象として気になる事が一つだけありました。
 それは洪水の危険性でした。それは、現地が大河川の球磨川の支流(前川)に近過ぎる(新前川橋付近)のではという懸念でした。しかし、良く考えると理解できました。前川は江戸時代に新たに開削された言わば放水路であり、往古は干満により海水(実は大量の伏流水により塩分濃度が低いのですが)が上下するだけの湾奥地、徳淵の入江だったのです。事実、現在河童渡来記念碑のある辺りから上流左岸部は護岸が直線であることでも理解できます。このことに気付き、ここが最適の場所であったことが良く分かりました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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