「磐井の乱」はなかった 古田武彦(『古代に真実を求めて』8集) へ
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「磐井の乱」を考える
『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈
姫路市 野田利郎
はじめに
『日本書紀』の継体記二十二年(五二八年)、大将軍物部大連麁鹿火が「遂に磐井を斬り、果して橿場を定むる」とある。また、『古事記』にも継体天皇記に、「物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、岩井を殺したまいき」と記されている。
この記事について、二〇〇四年に古田武彦氏は「磐井の乱」は虚構であると発表された。氏が虚構とされた「磐井の乱」とは主に次のようである。
まず、『日本書紀』の「磐井の乱」を、継体と麁鹿火が九州王朝の全領土を分割し占領する目的で起こした乱の成功譚と解釈された。このような筑紫の全面敗北が事実とすると、九州年号などは成立しなく、『記紀』の内容に疑念を持たれたが、『筑後国風土記』には磐井の乱の記事がある。しかし、『筑後国風土記』も、白村江の後、唐の軍隊が上妻の人々の手足を折った悲惨な暴力の伝承を磐井の乱と置き換えて編集された記録であるとされて、磐井の乱を虚構とされたのである。(1)
しかし、わたしは『日本書紀』の記事から、磐井の乱とは「筑紫と火の領地争い」であり、上妻の縣の人々は、火に加担して石像を破壊した加害者と考えた。そのことから、『筑後国風土記』を読むと「上妻の縣には、生まれながらに肢体不自由の人が多い。これは、上妻の人々が石人、石馬を破壊したための祟りである」と率直に解釈することができた。つまり、磐井の乱と九州王朝の存在は矛盾しないこととなった。
本稿は磐井の乱に関する、『日本書紀』と『筑後国風土記』の新しい解釈である。謹んで、ご批判を請うものである。
一『日本書紀』の「磐井の乱」の解釈
(一)『日本書紀』の「磐井の乱」の内容
継体天皇記に記載された「磐井の乱」は、次の通りである。下線は『書紀』の記事の内、『芸文類聚』の原文を参考に順序、人名・地名などを入れ替えて、書かれた部分である。(2)
記事全体を便宜的にA,B,C、Dに区分し、検討することにする。
A 二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑とくことんを為復し興建てて、任那に合せむとす。
是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆くことを謨りて、猶予して年を経。事の成り難きことを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密に貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩おそひ拠りて、使修職らず。外は海路を逢へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮りて、乱語し揚言して曰はく、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして俾が前に自伏はしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏へられて、中途にして淹滞りてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火あらかひ・許勢大臣男人等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩ひて、西の戎の地を有つ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉曰さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可」とのたまふ。
B 秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨、大連、惟茲の磐井率はず。汝徂きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝みて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎の奸猾なり。川の阻しきことを負みて庭(つかえまつ)らず。山の峻きに憑りて乱を称ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り驕りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰に室屋に及るまでに、帝を助りて罰つ。民を塗炭に拯ふこと、彼も此も一時なり。唯天の賛くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや。」とまうす。詔して曰はく、「良将の軍すること、恩を施して恵を推し、己を恕りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つ如し」とのたまふ。重詔して曰はく、「大将は民の司命なり。社稷の存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。
C 二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵相接げり。機を両つの陣の間に決めて、万死つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して橿場さかいを定む。
D 十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉を献りて、死罪贖はむことを求す。
(二)開戦前の領土分割案
記事Bで、継体は麁鹿火を九州に派遣する時、「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之」(長門より東をば朕制らむ。筑紫より西を汝制れ。)と領土分割案を示した。従来、この領土分割案は本州を継体が、九州を麁鹿火が領土とする案と解釈されてきた。しかし、この文を他の用法を適用すると、その場合には領土分割案も異なり、「磐井の乱」の理解に差異が生じることに気がついた。そこで、少し回りくどい説明となるが、「磐井の乱」を分析する前に「以東」「以西」の用法を明確にすることにする。
現代では「甲以東」とは「その地点から東。一般に、その地点を含んでいう。」(広辞苑)とある。いま、このような基準点甲が指示領域に含まれる用法を「包括型」と呼ぶことにする。(3)
包括型(甲以東)II→甲東
これに対して「甲 以東」を「その地点から東で、その地点を含まない場合」つまり、基準点甲が指示領域に含まれない用法を「除外型」とする。
除外型(甲以東)甲II→東
これまで、小学館本、岩波本の解釈でも、領土分割案に対して厳密な解釈が示されていない。ただ、山田宗睦氏は同氏訳の『日本書紀』で領土分割案の注書に「古田武彦がいうように、これは磐井の領土の分割案である。安芸(広島県)までが大和朝廷の領土」と述べられている。(4)おそらく「除外型」を適用しているのであろう。
しかし、「以東(方位)」についての『日本書紀』全体での用法を確認することが、領土分割案の解釈のために必要であるから、その用例を探すと、「磐井の乱」以外に二例を見つけることができた。
(1).天武天皇五年四月、「諸王緒臣被給封戸之税者、除以西国、相易給以東国」(諸王、緒臣に給された封戸の(田)税は、(京)以西の国をやめ、ふりかえて(京)以東の国に給されよ。)
訳は、前掲書の山田宗睦氏である。以西と以東を分かつのは京であるから、京を補っている。つまり「以西国」と「以東国」の両方に「京」があるため、京はそれぞれに含まれない「除外型」となる。
(2).天武天皇一四年七月、「東山道美濃以東、々海道伊勢以東諸国有位人等、並免課役。」
(東山道は美濃以東、東海道は伊勢以東の諸国の位をもつ人らは、みな課役を免じる。)
この文のみでは、美濃、伊勢が含まれるか、除外されるかは明確でない。しかし、この文は課役に関する文であり、除外型か包括型かのいずれを適用するかは、直ちに多くの人々に影響を与えるから、その用例が恣意的であるとは思えない。つまり(1).は税についての例であり、同一の天皇の治世下の税に関する用例は同じと考えると(2).も除外型の可能性が大きいが、不明である。
以上の例から(1).は除外型、(2).は不明である。『日本書紀』の用例の検証結果は除外型の例があることを確認する。
『日本書紀』に「除外型」の例があるが、これまでの説が採用している「包括型」を適用し、矛盾がないかを確認してみることにする。「包括型」では基準点は指示領域に含まれるから、「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之」の長門は東に、筑紫は西に含まれる。図示をすると次のようになる。
筑紫以西(麁鹿火) || 不明部分 || 長門以東(継体)
西←火 筑紫 || (壱岐、対馬、関門海峡を含む豊) || 長門 周防(石見)→ 東
関門海峡の西の九州側は豊の領土である。そして豊は筑紫の東である。壱岐、対馬は筑紫ではなく、筑紫の北である。したがって、豊、壱岐、対馬は、筑紫の西ではないから、「筑紫以西」には該当しないので不明部分とした。これに対して、筑紫が九州島全体の表記と主張する論者があったとしても、記事Aには「磐井、火・豊、二つの国に掩ひ拠りて、使修職らず。」とあり、磐井は九州島全体を領有していなく、火、豊は別の国と表現されているから、筑紫を九州島全体と考えることができない。
さらに、記事Aでは、この乱は近江毛野臣が率いる衆六万の兵が朝鮮半島に進出するのを磐井が妨げたので、それを除外するために開始したとある。肝心の関門海峡、壱岐、対馬がどちらにも属さない領土分割案となり、「包括型」での解釈が矛盾して、不適であることがわかる。 以上の考察から、記事B「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之」の「以東」「以西」は「除外型」と考える。
ただ、記事Bには、唐の『芸文類聚』の引用部分があるため、領土分割案の原文「闃*以内、寡人制之、闃*以外、将軍制之」が、いずれの型であるか念のため確認しておくことにする。闃*(げつ)とは門の間に立てる柱。二枚の扉を閉じ合わせるために立てた短い柱である。この文の「以内」「以外」の両方に闃*があるため、この以内は「闃*を除いた内側」であり、以外も「闃*を除いた外側」は明確である。つまり、原文も「除外型」である。
闃*は、門の中に杲。闃ではありません。
なお、原文と領土分割案の「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之」を比較すると原文の基準点は「?」の一ヶ所であるが、領土分割案は、「長門」と「筑紫」の二ヶ所であり、安易に原文に地名を挿入する手法ではなく、ある目的をもって判断されて作られた句であることもわかる。 ようやく、「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之」に「除外型」を適用し検討を行うことにする。図示すると次の通り、継体は長門を除き、周防(石見)をふくむ東を取り、麁鹿火(あらかい)は筑紫を除いて火をふくむ西を取る案であった。
(麁鹿火)筑紫以西 || (磐井) || 長門以東(継体)
西←火 || 筑紫、壱岐、対馬、豊、長門 || 周防(石見)→ 東
つまり、この乱は磐井の領土を東(周防)、西(火)の両面から奪い、磐井の勢力を長門、筑紫、豊、壱岐、対馬に限定する案であった。このことは次に述べる乱の目的にも合致している。
(三)乱の目的
「磐井の乱」の目的とはなんであったのであろうか。記事Bで継体が「咨、大連、惟茲の磐井率はず。汝徂きて征て」と、磐井の討伐を命令しているから、これが目的であろうか。
しかし、この乱は磐井を殺害することが目的ではないことは、Cの記事に「遂に磐井を斬りて、果して橿場を定む。」とあり、「遂に磐井を斬り」に続く文が「磐井の王朝を討伐した」でなく、大きくトーンを下げて、「果して橿場を定む。」とあることからも明らかである。「橿場(きょうえき)」とは国境であるが、「いずれの用例も、対立国もしくは敵対国の国境」と古田氏は説明する。(5) つまり、乱の目的は国の境を決すことにあった。このことは、すでに検討した「除外型」の適用による開戦前の領土分割案の結論とも合致する。
では、どの国との国境を定めたのであろうか。「遂に磐井を斬りて、果して橿場を定む。」とあるから、磐井との国境である。つまり筑紫と「火」の国境である。長門は筑紫と境が接していないので磐井との国境はなく、この説話でも長門方面での戦闘の記述は皆無である。
また、「遂に磐井を斬りて」とあるが、磐井の死は偶然と思われる。一般に、王朝の壊滅が目的でない場合には、その首都まで攻め入ることや、その総帥を斬る必要がないと考えられる。しかし、磐井の乱は国境の争いから、継体にとって願ってもない展開となり磐井を斬ることができた。
記事BとCに、中国の文献『芸文類聚』の引用が多くあるのは、「磐井の乱」を当初から継体の正規軍が磐井を壊滅させた戦争であると脚色した痕跡と思う。特に、記事Cの両軍が激戦を行った様子である「旗鼓相望。埃塵相接。決機両陣之間、不避万死之地。」は全文が引用文からなっていて、なんらの修正もなされていないのである。
(四)糟屋の屯倉
乱の終息にあたり、記事Dで「筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉を献りて、死罪贖はむことを求す。」とある。この文から葛子が拘束された様子は伺えない。しかも、磐井の乱では葛子以外の磐井に連なる親族、臣の動向の記述がないので、磐井の王朝一族が健在であったことが推定できる。記事Dがその証拠であり、十一月の磐井の死亡から、直ちに翌月十二月には磐井の王朝は葛子を筑紫君に推戴して、敵国への対応策を打ち出したのが、この文と考える。
「糟屋の屯倉」の所在地は不明であるが、糟屋が後の糟屋郡とすると、博多湾の東にある箱崎、香椎、和白、志賀島、及び、博多の東部の新宮、古賀などに連なる地域となり、その内にある屯倉となる。この屯倉が差し出された相手は麁鹿火ではない。このとき、麁鹿火は筑紫と「火」の境を決することに成功しているから、継体に差し出したと考えられる。 「大勝利」の対価として「糟屋の屯倉」の獲得は不均衡とされたが、継体の本州方面の戦闘や成果が記載されていない中で、博多湾付近の屯倉の獲得は継体にとって漁夫の利を得た、大成果と思われる。
(五)麁鹿火の進軍方向
この乱の戦場は唯一、記事C「大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と筑紫の御井郡に交戦ふ。」にある筑紫の御井郡である。この乱は「火」と筑紫との国境の争いであるから、「火」と筑紫との国境周辺でも抗争があったことが予想できるが『日本書紀』には、なにも書かれていない。
しかし、『筑後国風土記』には国境付近の出来事の記録がある。上妻の縣に官軍が来襲し磐井の墳墓の石人などを破壊したとの伝承である。
「上妻の縣」は、筑後国の南に位置し、東南辺は「火」の山鹿、玉名に接している。北辺は筑後国の生葉、竹野、山本、御井、三潴と境を分け、筑後国では、面積が最大の縣である。まさに、「火」と「筑紫」に挟まれた縣といえる。
麁鹿火の進軍した行程を考えると「火」から「上妻の縣」を通り、御井郡に至ったことが推定されるが、「火」と「上妻の縣」の間は全域が筑肥山地である。東から国見山(一〇一八m)、八方ヶ岳(一〇五二m)、酒呑童子山(一一八一m)、女岳(五九八m)があり、西に向かい低くなるが三〇〇mから五〇〇mの山々がこの間を阻んでいる。この筑肥山地を通り抜ける道が、その頃にあったのであろうか。
「上妻の縣」を流れる矢部川の支流、辺春川(へばるがわ)は筑肥山地の小栗峠(一八二・七m)付近から流れ出ている。一方、「火」の山鹿を流れる菊池川の支流、岩野川も小栗峠に至る。この辺春川から小栗峠を経て岩野川に沿った線は、現在では国道三号線となっているが、明治一七年に陸軍部測量局作成の地図にも、主要な道に分類されて記載されている。つまり川沿いで、峠も高くないこの道は、磐井の乱の頃でも通行が可能な山道であったと思われる。山間部の道は密かに進軍するには最適である。
「火」と筑紫の国境の争いが、突然に内陸部の御井郡での戦闘となったのは、この道を「火」の勢力が進み「上妻の縣」に密かに侵入して、そこを拠点に御井へと奇襲攻撃を行ったからではないだろうか。
(六)「磐井の乱」の概要
『日本書紀』の内容を以上のように理解した。まとめると、次のことが明確となったと考える。
( i ) 「火」と磐井との境界に関連した乱であった。
(ii ) 「火」と継体との間で、対「磐井」について協調の関係があった。
(iii) 継体と磐井の間では、直接、戦闘が行われたかは不明である。
この乱は、これまで九州王朝内部の権力構造が不明であった「火」と「筑紫」の関係が、磐井の乱を契機に露呈した事件と思われる。
二 『筑後国風土記』の解釈
(一)『筑後国風土記』の内容
『日本書紀』の磐井の乱は火と筑紫との領土争いであったから、その視点から『筑後国風土記』を検討する。全文を便宜的にA、B、C に区分して分析を行うことにする。
A 筑後の國の風土記に曰はく、上妻かみつやめ縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墳墓あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて
一つの別區あり。号けて衙頭がとうと曰ふ。衙頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏す。号して偸人と曰ふ。生きて猪を偸みき。仍りて罪を決するに擬す。側に石猪四頭有り。贓物と号す。贓物は盗物なり。彼の處も亦有石馬三疋、石殿三間、石蔵二間有り。
B 古老伝えて云ふ。雄大迹おほど天皇の世に当りて、筑紫君磐井、豪強暴虐、皇風に偃したがはず。平生の時、預め此の墓を造る。俄にはかにして官軍動發し、襲はんと欲するの間、勢、勝たざるを知り、独り自ら、豊前國上膳かみつみけの縣に遁れて、南山峻嶺の曲に終る。是に於て、官軍追ひ尋ねて蹤を失ふ。士の怒り未だ泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す、と。
C 古老伝へて云ふ。上妻縣に多く篤疾あるのは、蓋し茲に由る歟か。
(二)古田氏の解釈
『筑後国風土記』の分析を行うためには、古田氏のこれまでの解釈を確認する必要がある。古田氏の解釈は、初期の磐井の乱を肯定された時期と、その後に否定された時期に区分して、原文を要約した。
第一に、古田氏の初期の『筑後国風土記』の見解は、その著書『失われた九州王朝』に記述されている。主に、次のようである。
古田氏は風土記Cの「古老伝云、(a)上妻縣、多有篤疾、(b) 蓋由茲歟」の文章に注目された。この文の(a)のみを古老の伝とし、(b)を編者の推定とした。なぜなら、この風土記が編集された時点から考えると、磐井の乱とは一〇〇年以上の前のことであるから、そのような昔の戦乱での負傷者が、編集時点に生存している訳がなく、古老の言は過去形で理解した。つまり、「上妻縣、多有篤疾」とは、天皇家の軍は石人、石馬の手や頭を折っただけでなく、敗戦側の磐井の軍や住民への無残に荒れ狂い、辛うじて生き残った住民も障がい者となった。つまり、「住民の多数は障がい者で、まともの人間の方が少ない磐井滅亡の直後の悲惨な記憶」を古老が伝承し、それを編者が「磐井の乱によるか」と書いたとされた。(6)
第二に 古田氏は、 二〇〇四年に「磐井の乱はなかった」と発表され、磐井の乱の根拠の一つであった『筑後国風土記』の解釈も改定された。その内容を、同氏の講演記録『「磐井の乱」はなかった』から、要約すると次のようである。
風土記Bの「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す」が磐井の乱とすると、現在も破壊された石像があるは、乱後に葛子が修復しなかったことになり理解できない。実際に石像を壊したのは七世紀後半の唐の軍隊である。そのことを、風土記の編者は磐井のときに壊されたと、話をすり替えたと推定され、その上で、風土記の古老の言を解釈された。
風土記の現地の作者の原稿作成時点では、まだ、上妻の縣には唐の軍隊に手足を折られた多くの障がい者が生存していたので、「上妻縣に多く篤疾あるのは、蓋し茲に由るか。」と記載していたが、風土記の編者が唐軍の暴力行為を磐井の乱を原因とする内容に差し替えてしまったので、「蓋し茲に由るか。」が磐井の乱となり、その結果、二~三〇〇年前の乱の障がい者が、その後も生まれてくると云う、非論理的な文となっている。『風土記』に書いてあるからといって、証拠にはならないとされた。(7)
(三)わたしの「風土記」の解釈
わたしは、磐井の乱を「火」と筑紫の領土争いと考えるから、次の通りに『筑後国風土記』を解釈する。
第一に、風土記Bに、磐井は「平生の時、預め此の墓を造る。」とある。とすると、磐井はこの墳墓に眠っているのであろうか。言い換えると、葛子は磐井の乱で占拠された上妻の縣を直ちに磐井の勢力下に戻して、磐井の遺体を埋葬することができたのであろうか。否と思われるのである。
磐井の乱後、八女丘陵に「火」の伝統の装飾古墳が盛んに現れていることからも上妻の縣は乱後も「火」の勢力下にあったことが伺えるのである。すると、遺体は別の場所に葬られたと考えられる。 このことに関連する記事が風土記Bにある。磐井は「独り自ら、豊前國上膳の縣に遁れて、南山峻嶺の曲に終る。」とある。もし、磐井の遺体が岩戸山古墳に葬られたとしたら、その葬儀は当然に上妻の人々の知ることになるだろう。その事実を知った上で「南山峻嶺の曲に終る。」の伝承が葬儀の後にも残るのであろうか。わたしには、そのようには思えないのである。磐井は上妻の人々にとっては永遠に行方不明の人であったと考える。岩戸山古墳は未発掘であるから墳墓に遺体が埋葬されていることも、確認されていないのである。
結局、葛子は「磐井のいない」この古墳を放棄したのではないだろうか。それが、石人、石馬の石像を修復していない理由と考える。
第二に、古田氏は『筑後国風土記』を解釈されるとき、上妻の縣の人々を被害者に考えられている。初めは皇軍の被害者、次には唐軍の被害者である。
しかし、記事のBには「俄にはかにして官軍動發し、襲はんと欲するの間、勢、勝たざるを知り」とあり、奇襲攻撃を磐井は受けたのである。つまり、「火」の勢力は、なんらの前触れもなく上妻の縣を通り抜けて、御井への奇襲に成功したのである。このことから、わたしは事前に上妻の縣と「火」との間で協力関係が成立し、「火」は容易に上妻の縣を通り抜けて、一気に御井を攻撃できたと考える。 つまり、上妻の縣の人々は「火」の味方であり、石像を破壊した加害者と考える。風土記Bに「官軍追ひ尋ねて蹤を失ふ。士の怒り未だ泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す」と、ここに官軍とあるから加害者は継体の近畿軍と考えられてきたが、上妻の人々が官軍の味方をすると官軍と呼ばれることになる。
上妻の縣にある八女丘陵は東西約一〇数kmの間に、現在でも一五〇から三〇〇の古墳があると云われている。この古墳の構築を命じるのは筑紫の王族であり、その役を担うのは周辺の住民である。この人々の心情が、単純に磐井への忠誠心のみと考えることはできないのである。 なお、古田氏が云われる、唐軍が上妻の縣に来襲して暴力を行った可能性を否定はできないが、事実であるなら、岩戸山古墳の古墳本体への破壊や石人山古墳の家型石棺を粉砕する等、徹底した破壊が行われたと思われが、現状は上妻の縣の人々の蛮行程度の破壊である。
第三に、古田氏は上妻の人を被害者と考えておられるから、「篤疾」を常に、暴力による身体の障がいとされている。しかし、岩波大系の注には「篤疾」を「不具の類。戸令に両目盲・二支廃(両脚発育不完全、歩行不能)・癲狂などを篤疾としている」とある。つまり、「篤疾」の「篤」は「危篤きとく」の用例からも、外傷を原因するのではなく、遺伝や病気に関連する用語であり、「篤疾」は文字通り極めて重大な疾病と解釈する。この解釈が通例であり、外傷と解釈することが特異と考える。
その疾病の原因は「蓋由茲歟」とあり、「茲」が「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕すしたこと」に結びつくから、この因果関係は古代人の思想である「加害者一族に対する怨霊による祟り」と解釈した。
以上のことから、風土記Cの「古老伝云、上妻縣、多有篤疾、 蓋由茲歟」を、わたしは次のように訳した。
古老のお話では、上妻の縣に生まれながらに肢体不自由の人が多いのは、むかし、上妻の人々が磐井の墳墓の石人、石馬の手足を破壊したとの言い伝えがあるから、その祟りによるのではないだろうか。といわれる。
風土記Cの記事は、「火と筑紫の争い」があったこと、そのとき「上妻の縣は火に属した」ことの証拠である。
注
(1)古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房、二〇一〇年、二九六頁~三〇六頁、及び五二六頁~五三四頁の内容から意訳した。
(2)「日本書紀下」『日本古典文学大系』岩波書店、一九七七年、五四七頁(補注一七 ーー 二三)、三六頁(頭注一五)
(3)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、昭和五七年、三〇七頁~三〇九頁に、中国文では、「基準点が指示領域に入らない」と「以東」についての考察がある。
(4)山田宗睦訳『日本書紀』教育社、一九九二年、一七一頁。
(5)古田武彦『古代は輝いていたIII』朝日新聞社、昭和六〇年、二二頁に、「普通は国のさかい。辺境。国境といった意の用法が通例だ。」として、二つの用例を引用し、「いずれも、対立国もしくは敵対国の国境であって」と記し、ただし、「継体の直轄領域と従属領域とのさかいというようなケースでは、いささか不穏当、もしくは不適切だ。」と氏の見解を述べられている。
(6)古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房、二〇一〇年、三〇一頁から三〇六頁の内容を要約した。
(7)古田武彦『「磐井の乱」はなかった』(古田史学の会編『古代に真実を求めて』第八集、明石書店、二〇〇五年)を要約した。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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