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『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦
「帯方郡」の所在地 -- 倭人伝の記述する「帯方」の探求 野田利郎(会報104号)../kaiho104/kai10406.html
「帯方郡」の所在地
倭人伝の記述する「帯方」の探求
姫路市 野田利郎
はじめに
かつて、古田武彦氏は文献研究と考古学の成果の「関係の原則」を次のように述べられた。
「方法論上、文献研究者は考古学の成果とは一応無関係に、自己の論証を徹底しなければならぬ。そのような「自己徹底性」こそ、他なる考古学に対する誠実性を保持しぬく、唯一の道である。」(『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫、二七九頁)
わたしは素人であるが、この言葉を文献研究の目標としている。本稿は、倭人伝の記述内容から帯方郡の所在地を探求した報告である。
これまでの「邪馬台国論」は帯方郡治をソウル付近としているが、その根拠は主に東洋史に求め、倭人伝の記事との整合性が希薄であった。本論は次の倭人伝の記事を分析することから帯方郡治の所在地を考えた。
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓國を歴るに、乍ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪韓國に到る、七千餘里。」
「郡」から「狗邪韓國」までは七千余里である。「狗邪韓國」を釜山とすると、韓国の西北端から東南端への斜めに横断する陸行の距離は四千里と考えられるから、帯方の所在地は韓国西北端を海岸に循いて「三千里、北上した所」となる。この「三千里を北上した」距離を韓国の方四千里と同じ比率で考えると、黄海南道の港「海州」付近が該当する。「海州」は帯方郡治を「沙里院」とすると、その最短に位置する港である。
倭人伝の記事からは「帯方郡治」は「沙里院」であり、「倭への距離の起点」は「海州」付近となったが、皆様のご批判を願うものである。
考古学での帯方郡治
考古学上、帯方郡の郡治の場所には、主に二つの説がある。
その一つは、ソウル説である。ソウル郊外の漢江の流域を帯方郡治とする。『漢書』の「地理志」に帯水が西に流れて帯方で海に入るとの記述から、帯水を漢江と考えての説である。郡治址として漢江の河畔の風納洞が考えられている。ただ、楽浪郡からは中国式の墳墓が二千余基発見されているが、ソウル近郊では漢式の墳墓がないとの反論がある。
その二は、沙里院(しゃりいん)説である。大同江の下流に流れ込む載寧江(さいねいこう)の支流、瑞興江(ずいこうこう)を帯水と考え、その鳳山郡沙里院にある土城を帯方郡治とする。特に、土城の西北四~五キロメートルの古墳群から「帯方太守張撫夷(ちょうぶい)1,000[土専](せん)」と銘文のある[土専](瓦)が出土し、帯方太守の墓が判明した。しかし、一つの墓があるから、そこを郡治と断定できるかとの反論がある。
[土専]は、土編に専。JIS第3水準ユニコード587C
古田氏はソウル説を採用する。その理由に「帯方の地はソウル付近としながら、それは狭い意味ではなく、沙里院に帯方太守の墓があったといっても、太守は北京の近くの漁陽の出身だから、故郷を偲んで海の彼方を望む位置に墓を築いた可能性がある」と述べられる。しかし、「現在のソウル近辺だろうといわれていますが、はっきりした証拠はありません。」とも述べている。(『倭人伝を徹底して読む』朝日文庫、一四三頁から一四六頁)
楽浪の郡治は平城であるから、帯方郡治もソウルか沙里院かの、いずれかと思われるが、考古学上は混迷している。わたしは倭人伝の記事は、当時の帯方郡の位置を前提に記述されたと考え、倭人伝の内容から郡治を探すことにした。
幸いにも倭人伝には郡から狗邪韓國までを七千余里としている。つまり、この七千余里の内、韓国部分の行程が判明すると、残りは郡と韓国の間の距離となる。この二つの説のいずれが、その距離に合致するかを確認すれば、郡治の所在地は判明する。そこで、韓国の行程から、検討することにする。
韓国の行程
倭人伝には韓国の行程を「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」と記載されているが、この文についての古くからの解釈は、郡から狗邪韓國までを全て水行するとされてきた。たとえば、白鳥倉吉氏の見解を要約すると次のようである。
「この郡の所在地を那珂氏の説に従い、京幾道臨津江の江口として、ここから船で九州に至るは、先ず京幾、中清、全羅三道の西海岸を南方に沿い航行するから、文中に「乍南」とあるのはこの海路を示している。その後、船は全羅道西南の海角より方向を転じて東方に向い、「乍東」とあるのは全羅、慶尚二道の南岸に沿いて狗邪韓國にいたる。」とする。
この韓国をすべて水行する説に対して、古田氏は「乍南乍東」は「たちまち南、たちまち東」と小刻みにくりかえす熟語の慣用文形であり、また「歴韓國」を「韓国をけみする」であり、その意味は「つぎつぎに見る」と韓国内を陸行するとした。もし、韓国の西海岸と半島の南岸を「全水行」したならば、それだけで八千里近くなるから、全水行が成り立たないと述べられている。
わたしも古田氏の説の通りと考えて、韓国を陸行したと考える。仮に、全水行とすると郡と韓国までの距離が、韓国の西海岸の四千里に加算され、西海岸を水行する距離は四千里以上となる。その分、南海岸を東に向かう距離は短くなる。郡から七千里となる南海岸の地点は、西南端から三千里未満となる。その地点から対海国に向うと、「韓国の南岸」 ーー 「対海国」 ーー 「一大国」 ーー 「末盧國」の三区間は等距離と倭人伝には記載されていることに対して、極端に「韓国の南岸」 ーー 「対海国」の間が長くなるため、倭人伝の記述内容と反する。韓国の全水行説は距離の計算上から無理がある。
韓国陸行の里程
韓国を西北から南東へと斜め横断する場合には、中央部にある小白(ソペク)山脈が障害となるが、韓国の鉄道は古くから、天安 ーー 大田 ーー 金泉 ーー 大邱 ーー 釜山と斜めに横断していることから、地勢上、斜め横断はそれほど困難ではないと考えられる。
古田氏は、郡治をソウルとして、郡と狗邪韓國との間の距離を計算されている。「歴韓國乍南乍東」は南下・東行を小刻みにくりかえして、狗邪韓國にいたったのであるから「階段式」にて進むとして計算する。その方法は、韓国の斜め直線距離を四千里とし、西海岸と南海岸との正三角形を想定する。次に階段式の行程は縦方向と横方向の合計であるから、その計算結果、五千五百里が階段式に横断したときの距離となる。水行部分は残りの千五百里とされた。(前掲書の『「邪馬台国」はなかった』二九八頁から三〇〇頁を参照願いたい。)
古田氏は、倭への距離の起点を江華島付近の河口を想定されていると思われるが、河口とソウル間のことは計算されていない。
韓国陸行の里程を五千五百里とされる古田氏の計算は、斜め横断の短縮効果をゼロとする韓国の南北と東西の距離の合計であり、斜め横断の距離としては過大と思われる。
わたしは、陸行の里程は四千里と考える。それは、古田氏の見解にもあるが、地図上、韓国の西北端?狗邪韓國は西海岸と南海岸を、それぞれ一辺とする正三角形を形成するから、韓国の東南を斜めに横断する距離は四千里である。また、地図上の実測値では、牙山 ーー 釜山の直線距離は、約二百七十キロメートルと、短里に換算し、約三千六百里となる。これを道沿いに計測しても、牙山 ーー 天安 ーー 大田 ーー 金泉 ーー 大邱 ーー 釜山間は約三百五キロメートルと、短里換算で、約四千里となる。以上の結果と、三国志の東夷伝では各部族間の距離は全て、千里を単位としていることから、韓国陸行の里程を四千里と考えた。
以上の内容を、古田史学の会関西例会で発表したところ、倭人伝には「歴韓國乍南乍東」と記述されているから、階段状に計算された古田氏の距離が正しい解釈であり、四千里と考えるのは解釈上の誤りでないかと、ご指摘があった。貴重なご意見である。
そのため、わたしは倭人伝の距離の表記を次のように再考する機会を得ることができたのである。結論としては、文献解釈上も横断距離は四千里と考える。
倭人伝の距離表記
一般に、距離とは、ある区間の二点間の客観的な数値であるから、それを仮に「確定距離」と呼ぶことにする。例えば韓伝で「方可四千里」とされる韓国の一辺は、複雑な形態の西岸や南岸の海岸線を一度だけ測定して得た距離ではない。多くの経験(旅行、実測、比較など)の集積から四千里と認識されて、「確定距離」となったと思われる。それに対して一度の旅行で、その時に実際に移動した区間を測定した距離は「個別距離」と考えることができる。
では、倭人伝の距離はどちらであろうか。これまでの論者は、正始元年(二四三年)に魏使が旅行した行程の「個別距離」を倭人伝の距離と考えている。しかし、倭人伝の次の事例は「確定距離」となっている。
(イ)海峡の距離である「狗邪韓國」 ーー 「對海國」 ーー 「一大國」 ーー 末盧國」の三区間は百里を単位とする記事の中で、それぞれは千餘里とあるから、この三区間は等距離である。しかし、実際の航路は天候、風向、海流、船の操縦などの要素から決まるため、実測距離が同一となることは考え難い。等距離と記述されたのは、三区間を「確定距離」で表示したからと考える。
(ロ)対海国の「方可四百餘里」、一大国の「方可三百里」は、島の面積と島の半周の距離の基礎となる値である。しかし、島の行程の測定値から島の「方」の一辺を知ることができない。この「方」は面積から、算定された「確定距離」の数値である。
(ハ)陳寿が、倭国を「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし」と推定できたのは、倭人伝の距離が「確定距離」だからである。迂回や漂流などもある「個別距離」では、この推論はできない。
以上から、韓国の陸行も「確定距離」である。中国は前一〇八年に朝鮮半島に四郡を設置し、二〇五年頃より韓国を帯方郡の支配下とした。つまり、正始元年(二四三年)に魏使が韓国を旅行する以前に韓国の陸行は経験された行程であった。
これに対して、旅行紀の記事は魏使の目から見た状況が描写されている。たとえば次の通りである。
(イ)對海國は「土地は山險しく、深林多く、道路は禽鹿の徑の如し」とある。
(ロ)一大國も「竹木・叢林多く」と、その時の状況を述べている。
(ハ)末盧國は「草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深淺と無く、皆沈沒して之を取る。」と臨場感ある記述である。
このように、旅行紀はそのときの様子が記述される。「韓国を歴るに、乍ち南し、乍ち東し」も、その時の状況を描写している。そこで、古田氏は、当然、次のように考えられたのである。
『魏使は韓国をもって、倭国にいたるための、「単なる通過地」とみなしていたのではない。「中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞賛する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列」によって、韓人に対するデモンストレーションを行ないつつ、行進したものと思われる。』(前掲書『邪馬台国はなかった』二一六頁から二一七頁)
古田氏は魏使の行列の「南東の繰り返し」の行程である「個別距離」を計算して、五千五百里と算定された。しかし、陳寿は「確定距離」の七千里を基準として記載したので、古田氏の「個別距離」の結論とは異なる距離となったと思われる。韓国の陸行を四千里と考えることと、旅行紀の「歴韓國乍南乍東」とは矛盾しないと考える。
郡から韓国までの距離
韓国の陸行が四千里となると、郡から韓国までは三千里となる。いよいよ、ソウルと沙里院のそれぞれの位置から韓国までの距離を計算し、どちらが該当するかを検証することになる。しかし、その前に確認すべき事項がある。それは、どの地点を倭への距離の起点と考えるかである。
「従郡至倭」の郡とは帯方郡であり、これまでは距離の起点は郡治と考えられていた。しかし、清水淹氏の「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」(『なかった真実の歴史学』第六号)に「距離の起点は首都ではなく、直接統治地」との考察がある。したがって、本稿でも、倭への距離の起点を「郡治」とするのではなく、原文の「郡から倭にいたるには海岸にしたがいて水行し」から考え、「海岸」からの出発とし、つまり、「距離起点」を海に面した港と考えて、その港自身が郡治であるか否かは問わないことにした。
(イ)ソウル説の場合の距離起点となる港は、ソウルから漢江を北西に約六十キロメール下った河口の江華島付近の港と思われる。その江華島の港と韓国の西北端の牙山(あさん)の距離は、地図上で約百十六キロメートルと、倭人伝の里で千五百里となるから古田氏の計算結果と同じである。距離起点は三千里であるから近すぎるので、該当しないことになる。加えて、この行程ではソウル近郊から江華島の港へと目的地とは逆方向に進むことになる。むしろ、狗邪韓國へはソウルから陸行し、南下する方が近道である。江華島の付近の港から水行を開始する合理的な理由を見出すことができないから、ソウル説は不適と考えた。
(ロ)沙里院説を考えると、郡治の沙里院付近から海岸への短距離は真南にある「海州(かいしゅう)」の港が考えられる。「海州」から「牙山」までの距離は地図上で約二百十キロメートと短里に換算して約二千七百里となる。これは東夷伝では千里が単位であることから、三千里に合致する。また、「海州」 ーー 「牙山」間は京幾湾を横断しなければならないから、水行する目的に合致し、倭人伝の記載する内容に地形が一致する。沙里院説は距離、方向、水行の目的(京幾湾の横断)が倭人伝の内容に一致するのである。
結論
倭人伝の記載内容の結論は「海州」が倭への距離起点となった。まとめると次の結論となる。
(1)郡から倭への距離の起点は「沙里院」の南方にある港、「海州」付近である。
(2)「海州」から南へ、京幾湾を海岸沿いに三千里水行すると湾を横断できる。
(3)韓国に上陸し東南方向に四千余里陸行すると、その北岸の狗邪韓國に到着する。
(4)郡から狗邪韓國まで七千余里である。
なお、この結論により郡から狗邪韓國までを、すべて水行するとの説は根拠を失うことになった。なぜなら、郡 ーー 韓国が三千里、韓国の西海岸は四千里で、韓国の西南端までが七千里となり、「乍東」には移れないからである。
以上
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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